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2024年2月12日無原罪聖母の騎士会霊的講話3:マリア様がわたしたちの母であるということの結論:尊敬、愛

2024年02月28日 | お説教・霊的講話

2024年2月12日無原罪聖母の騎士会霊的講話3(ファイファー神父様)

アリストテレスによると、軍隊の一番大切なポイントというのは、兵士たちがその指揮官と一致しているということです。

ところでわたしたちの指揮官は、マリア様です、無原罪の御孕(やど)りです。そしてマリア様とわたしたちは一致していますが、その理由はマリア様がわたしたちの母親であるからです。

ですからこの今日いまのお話の内容は、マリア様がわたしたちの母であるということの結果、具体的にいったい何が、どういうことが起こっているのか、ということを黙想します。

【尊敬】
まずマリア様がわたしたちの母親であるということの最初の結論は、天主の十戒の第4戒、つまり母親に対する親に対する尊敬です。

このマリア様にはどのような尊敬がなされているかということは聖書を見るとわかります。大天使聖ガブリエルは、マリア様の前で頭を下げ、そして聖寵に満ち満ちているお方、と申し上げました。

また聖ルカによると、イエズス様が御降誕されたときには、天が開いて天の天使たちが、贖い主がお生まれになったことを賛美して、そして、このベトレヘムの貧しい家族に尊敬を払いました。

また、それのみならず、天使だけでなく、羊飼いたちもそして東の国の博士たちも、マリア様の前に行って、お生まれになった王の前に跪いて礼拝しますが、もちろんこの王をわたしたちに産んでくだったお母様であるマリア様の前にも、特別の尊敬を払いました。

でもこの尊敬というのはたんなる尊敬ではなくて、宗教に基づく宗教的な尊敬で、つまり天主に向けられた尊敬の一部でした。

なぜかというと、この母と子どもに対する尊敬というのは、天主がこの子どもを送られたのであり、天主がその子供を産むようにこの母親を送ったのであって、天主がわたしたちの救いのためにこの子どもを送ったのであって、わたしたちの霊魂のために天主がこの子どもを送ったのだから、この子どもと母親に対する尊敬というのは、究極には天主に向かうものであって、天主に対する尊敬にたどり着くからです。

そこで、ところがプロテスタントの異端者の人たちは、カトリック信者がマリア様の前で跪いて尊敬を表すと、服を引き裂いて、「あー、スキャンダルだ!」「冒涜だ」「偶像崇拝だ」といいます。でも、プロテスタントは、天主とマリア様を引き離そうとしているからです。

しかし、マリア様をもしもわたしたちが尊敬するとしたら、それは実はマリア様が私たちにキリストをもたらしてくださったからです。それ以外の何物も理由はありません。ですからこのキリストをわたしたちにもたらしてくださったマリア様こそ、すべての代々はわたしを幸せなものと呼ぶだろう、とおっしゃった通りに、幸せなものと呼んでいるのです。

また“めでたし”も同じです。「御身は女のうちにて祝せられ、またご胎内の御子イエズスも祝せられ給う。」マリア様は祝せられたイエズス様をくださったからこそ、祝せられたといわれます。

【愛】
第一は、マリア様の母であるということの第一の結果は、わたしたちが宗教的な天主にかかわる尊敬をマリア様に捧げるということですけども、第二は愛です。まず母と子どもの間には愛があります。

この母と子どもの間の愛は、特に、マリア様の汚れなき御心が持っているイエズス様の聖心に対する愛、そしてイエズスの聖心が持っているマリア様への愛、これ以上のものはありません。特に、イエズス様は、マリア様との愛は愛で一致しているので、このすべての玄義を神秘をマリア様と分かち合いました。

聖ピオ十世教皇様は、無原罪の御孕(やど)りに関する回勅の中で、こう仰っています。「天主の御子がマリア様によってご托身した時に、新しい超自然の秩序、新しい超自然の世界がはじまった、と。そして救われる人は、すべてこの新しい秩序に、この世界に組み込まれなければならない。」

でも、この新しい超自然の秩序、新しい世界は、まずその最初は、二人のみこころ――イエズス様の聖心とマリア様の汚れなき御心――の愛の中で、確立しました。この愛がはじめとなって、この新しい世界の秩序が確立しました。

では、もしもわたしたちがその新しい秩序の中に入り込むにはどうしたらよいでしょうか。愛さなければなりません。もちろん天主はわたしたちを愛してくださって、その愛のおかげで洗礼を受けることができました。ですからそのお返しのためにも、その愛を返さなければなりません。ではだれを愛するのですか? 天主を、そして、イエズス・キリストとマリア様を愛さなければなりません。ですからプロテスタントのいうように、イエズス様だけを愛してマリア様を愛さないということはできないのです。なぜかというと、互いに愛するみこころは一致していて、もう分かちがたく離れがたくひとつになっているからです。愛は一つにまとめますが、誤謬は分裂させます。

ですから、わたしたちは、イエズス様とマリア様が互いに愛しあったように、わたしたちも愛さなければなりません。このわたしたちの宗教は、ここに基礎を持っています。では、どうしてわたしたちがそんなことができるのでしょう。なぜかというと、わたしたちは聖霊を受けていて、それで霊に導かれた者として「アッバ!父よ!」と呼ぶことができるからです。わたしたちは天主の子どもたちとなったからです。ちょうどマリア様を聖霊の陰がおおったように、聖霊がわたしたちに宿って天主を「父よ!」と呼ばせてくれるようになったからです。そしてその聖霊によってわたしたちは愛することができるようになるのです。

わたしたちがこどもである、養子である、ということをよく考えると、どれほど感謝しなければならないでしょうか。なぜかというと、聖パウロは「わたしたちが相続人となった」といいます。子どもとなったということは、つまり相続人となったということです。つまりイエズス・キリストにおいてのすべての富の財産が、天の宝が、わたしたちのものとなるということであるからです。つまり、「子どものなかでも二級のこどもとか三級の子どもとかがあり、本物の子どもはここにいるからこの子だけは特別だけれども、あとはもうどうでもよい」というのではないんです。そうではなくて、天主と全く同じ権利を持つ、すべての権利をわたしたちが同等に持つ、それが現実なんです。ですから、たとえこの地上で、病気とか辛いこととか悲しいこととか…があったとしても、それは大したことではありません。なぜかというと、この短い生涯の後に、永遠の現実が、わたしたちに待っているからです。ものすごい富を、相続することになっているからです。ですから、わたしたちは子どもとして、天主を愛さなければなりません。その現実を愛さなければなりません。

マリア様が母であるということの結果として愛がありますけれども、そのなぜ愛するかというその理由のさらに理由は、ただ単に相続人であるからだけではありません。つまり、わたしが相続人だから、チケットがここにあるから、そのお金をくれ、というのではなくて、実はわたしたちは、キリストの神秘体の一部に組み込まれるので、キリストはわたしたちをご自分の身体として愛されている。たとえばわたしたちが病気だとかいうときにはいつも、自分の身体を憎まずに自分の身体を大切にして、この病気を癒すようにしますが、それと同じように、わたしたちを自分の一部として愛されています。たとえば、結婚のときに聖パウロはこう言います。「夫よ、妻を愛せ。妻はお前の身体の一部だ。妻よ、夫に従え。夫はお前の頭(かしら)だ。一つの身体だ」というように、私たちはキリストの体の一部となったという非常にパーソナルな理由によって、愛されているので、わたしたちはキリストの身体を、神秘体を愛さなければなりません。

【貞潔を愛する】
もしもわたしたちがキリストの神秘体の一部であるとしたならば、天主が純潔を愛されるようにわたしたちも純潔を愛さなければなりません。不潔は、天主の神殿を汚します。ですから私たちの身体も、純潔のまま貞潔のまま守らなければなりません。天主は昨日も今日も将来も変わることがありません。天主はマリア様を童貞の母として愛されました。今日もその純潔を、貞潔を、天主は愛されています。でもいま現代は、非常に不潔の時代となって、しかもこの不潔を祝福しようと試みる教皇様さえいる時代になってしまいました。しかし天主は不潔を愛しません。聖パウロによると、不潔なものは天の国に入らない、と書いてあります。なぜかというと、不潔は神秘体の一部となることができないからです。また、「これは私の身体じゃない」と天主が拒否するからです。ですから、天の国に入ることはできません。もしもわたしたちが超自然の神秘体に組み込まれるのならば、その結果わたしたちは貞潔を、純潔をも守らなければなりません。

どれほど貞潔が重要かということを、ちょっと描写してみますと、童貞殉教者たちがそうです。殉教したというのは、まず信仰を守るため、そしてじぶんの身体の貞潔を守るために、彼女たちは、あるいは鼻を削がれ、あるいは目を引き抜かれ、あるいは胸を切りとられ、あるいはいろいろな拷問をうけて、身体は引き裂かれてボロボロになったにもかかわらず、そして宣伝のためには見た目にはもしかしたらそんなにきれいではないかもしれませんけれども、非常に美しい殉教童貞者です。ところでよくどっかの雑誌を飾るような女性は、もしかしたらお化粧もして綺麗な身体をしているかもしれませんけれども、しかし霊魂は不潔で、そして宣伝のためにはいいかもしれませんけれども、しかし永遠の命のためには何の益もありません。殉教者は、信仰の純潔のため、そして体の純潔のためにその命を落としました。

貞潔を守るために一番よいやり方は御聖体拝領です。よい、最も完全なやり方で、御聖体拝領をすることです。でもわたしたちは原罪を持っているので、わたしたちはどうしてもその貞潔を守ることができません。つまり不潔の臭いがします、ですから体に香水をつけて臭いを消すように、わたしたちの霊魂の臭いにおいを、香水をつけて消さなければなりません。そして霊的な香水というのがあります。それがマリア様です。マリア様は霊的にわたしたちといらっしゃるときに、わたしたちの臭いが取れてしまうからです。なぜかというと、例えばイエズス様はそのお生まれになったとき、あるいは最初の奇跡をされた時、あるいは十字架の下で、いろんな重要な時に必ずマリア様とともにおられたからです。それと同じようにわたしたちもマリア様と共にいる時に一番よいことができます。

【聖母と共に行う聖体拝領】
ですから、聖グリニョン・ド・モンフォールは、マリア様がなさったようにマリア様と一緒にマリア様の隣にいて御聖体拝領をするのが一番よい御聖体拝領ができるやり方だと言っています。ですからマリア様と一緒にミサに与り、マリア様と一緒に御聖体拝領に並んで跪いて、そしてマリア様と一緒に御聖体拝領をしてそしてマリア様と一緒に自分の席に戻る。そしてマリア様に「どうやってお祈りしたらよいですか?」と聞いてください。なぜかというと「私は ほんとうにこう頭がカラッカラでスカーッとまるで何もわかってないので…」と、マリア様に私の代わりにお願いしますと、マリア様に話しかけてください。マリア様と一緒に祈るのが最高の御聖体拝領ができるやり方だ、とグリニョン・ド・モンフォールは勧めています。

「御聖体拝領をマリア様と一緒にする」――この御聖体拝領は、わたしたちの全生涯のパターンでなければなりません。この御聖体拝領のように生活しなければなりません。イエズス様と一致して生活しなければなりません。わたしたちの霊的生活の目標であるべきです。ですから、もしも御聖体拝領をマリア様と共にするのならば、今度はミサの外でも、仕事をするにも朝起きるにもご飯を食べるにも、マリア様と一緒に起きてマリア様と一緒に仕事をしてマリア様と一緒にご飯を食べてマリア様と一緒になんでもする。これが「マリア様の聖なる御手の中で生きる」ということで、これこそがM.I.がその奉献を通して目標とすることです。

【イエズスは常に聖母と共に行った】
プロテスタントの人は、こう言うかもしれません。あるいはプロテスタントに影響されたカトリック信者は、こういうかも知れません。「あれっ、イエズス様はどこにもいるんじゃないですか。イエズス様と生活するのはとってもいいことだけれど、でも、なんでマリア様が必要なんですか。なぜマリア様が巻き込まれなければならないのですか。マリア様なしでもイエズス様と一緒にやることができるんじゃないですか。」

しかし、イエズス様は一人ではなにもなさらなかったんです。なにもなさりません。たとえば、イエズス様は三位一体の第二のペルソナで、常に、父と子と聖霊のその三位が働きます。そしてイエズス様は一人で人間になったのではありません。というか、バッと降りて来て人間になってババーンと降りてこられたのではなくて、マリア様のご胎内におられて、マリア様を通してわたしたちのところに人間としてお生まれになられて来られました。ですから、イエズス様はもしもわたしたちの霊魂を救うとしたら、一人でやるのではなくて、どうしてもマリア様とともにやるしかありません。

これが、イエズス様の「協力の法則」です。そして、すべてにおいて、わたしたちの協力を求めておられる、マリア様と一緒になされる、ということです。特に聖パウロは、ギリシャ語を作って、協力者と言う言葉を作って、イエズス様の協力者となるということを求めました。

聖パウロは、新しいギリシャ語の言葉を作り出して、共同行動者、共同に働く者、あるいは共同のパートナー、あるいは共同の身体を持つ者、という単語を作って、一緒にやるということを強調しますが、ではいったいマリア様はなんなんでしょうか。

では、もちろんわたしたちは、協力者、一緒に共同して働く者となりますが、ところでマリア様は、わたしたちの共同・協力のレベルをはるかに超えています。なぜかというと、マリア様は天主のすべての神秘に参与して、イエズス様と一緒にそれをおこなったからです。

マリア様が最も高いレベルにおいて協力してご一緒に働らかれた・人となった御言葉の御母となられた、ということなのですが、これはわたしたちM.I.にとってこのことを理解することが非常に大切なのですけれども、「マリア様は最も普遍的なレベルにまでその協力をなさった」ということです。わたしたちが協力するというのは、個別のところにおいてですけれども、マリア様はすべてにわたって普遍的な協力をイエズス様にされたということです。

【マリア様はわたしたちの協力を必要とする】
このことから導き出される結果は何かというと、このマリア様は絶対的に必ず必要条件として、この個別の協力者を必要とするということです。個別の働き手あるいは兵士たちを必要としていて、このことが天主の御摂理のご計画なんです。

では、マリア様はわたしたちの協力を必要とするというのは、いったいなぜなんでしょうか。そしてどのようにしようとしているのでしょうか。なぜかというと、これは天主の正義がこれを要求するわけです。なぜかというと、たとえば、もしもわたしたちの先祖のキリシタンが…おじいさん…立派な方でとても聖徳の高い方で、今は天国で栄冠を被っているとしたら、だからわたしたちはおじいさんがいるから何もしなくいいというのではなくて、もしもそのような偉大な祖先をもっているのならばわたしたちもそのような祖先のように行動しなければなりません。マリア様も、わたしたちのために貞潔を守ることはできません。もちろんマリア様が私たちのために、わたしたちが貞潔を守ることができるように、祈りそして助けることはできますけれども、マリア様はわたしのするべきことを代わりにしてくださることはできません。それはわたしたちがしなければなりません。ですから、私たちが協力することを必要とされているのです。

では私たちがやるべき協力とはなんでしょうか。わたしたちは何をすることができるでしょうか。それは、わたしたちが罪に対して戦うことです。コルベ神父様は、わたしたちは毎日わたしたちの罪をなるべく少なくするように、罪に対して罪を征服しなければならない、罪に打ち勝たなくてはならない、と言っていました。

ですから、私たちは、罪に対して戦って、罪の王国に対して戦いを挑んで、その罪の王国のテリトリーを小さくしなければなりません。私たちの霊魂にその戦いがあります。

もしも皆さんが親御さんであれば、子どもたちが今後罪を犯さないように、手伝ってあげなければなりません。

もしもみなさんが、お父さんお母さんでいらっしゃるならば、家庭という要塞を、敵に対して守らなければなりません。ですから、もしもこどもたちが罪の機会に自由にアクセスできたりするのならば、お父さんお母さんはつまり軍隊の指揮官として、作戦が失敗したということです。ですから携帯あるいはその他が、いったいどのように使われているかを、厳しくコントロールしなければなりません。

それは、もちろん簡単なことではありません。でも、目標があります。このような戦いをマリア様となさってください。もしかしたら、わたしたちは罪にたいして戦いを挑むがために、屈辱を受けるかしれません。辛い思いをするかもしれません。長い戦いをするかもしれません。でももしも、マリア様と共に行うならば、マリア様は私たちをサポートしてくれますし、マリア様はその戦いに報いを与えてくださいます。

また、自分の要塞を守る・家庭を守るという防御のみならず、攻撃も考えなければなりません。つまり、わたしたちの霊魂あるいは家庭のみならず、この世界において、マリア様の支配を確立させるということです。つまり政治においてあるいは病院あるいは間違った宗教を信じている人に対して、そのようなところからその間違いから真理へと、導き出してあげなければならないということです。これがM.I.の目標の一つでもあります。もちろんこれは難しい仕事ですけれども、マリア様と一緒にならばマリア様の助けを持っているならば、必ずこれはできます。

わたしたちは、M.I.の単純な義務を、よく実行するようにしましょう。M.I.の毎日の祈りを毎日唱えてください。もしもこれを暗記することができなかったら、おやつはないと思ってください。それから毎日不思議のメダイを身に着けてください。それができたら、そしてその次には、こんどは愛徳を持って、友だちにあるいは友達でないひとでもメダイを差し上げてください。そしてマリア様のもとに連れてきてあげてください。もちろん難しいケースがあります。でも難しいケースであればあるほど、それが回心した時には、天においてはマリア様にものすごい喜びがあることでしょう。

では、これで今回のお話はおわりますけれども、最後にM.I.の祈りを皆さんで唱えます。

三回このお祈りを唱えますけれども、まず最初に一回目は男性がこの祈りを唱えてください、二回目のお祈りは女性だけでこれを唱えてください、最後の三回目は男性も女性も声を合わせてこれを唱えて、これを終わります。

聖父と聖子と聖霊との御名において、アーメン。

(三回のM.I.の祈り)ああ原罪なくして宿り給いし聖マリアよ、御身に依り頼むわれらのために祈り給え。また御身に依り頼まざるすべての人々、特にフリーメイソン会員のため、また御身に委ねられ奉りしすべて人々のために祈り給え。


無原罪聖母の騎士会霊的講話2:聖母が使徒の元后であり、すべての人の元后であること

2024年02月28日 | お説教・霊的講話

2024年2月11日無原罪聖母の騎士会霊的講話2(ファイファー神父様)

【講話2】聖母が使徒の元后であり、すべての人の元后であること

たとえ聖伝の信者さんでなかったとしても、あるいはカトリック信者でなかったとしても、カトリックの精神をM.I.のお祈りによって教えてあげてください。
(神父様たちがお祈りのカードを信者の方々に配ってくださった。)

では、マリア様が使徒の元后すべての人の元后であることを、黙想いたしましょう。

マリア様の霊的な子どもたちはみな使徒たちでした。最初の子どもたちはみな使徒たちでした。洗者聖ヨハネも使徒だと考えることができます。

マリア様の御子であるキリストは父から使わされたものでした。そして使徒というのは、使わされた者という意味です。ですからイエズスさまもこうおっしゃいました。わたしが父から使わされたように、わたしもお前たちを使わす。そしてみなさんも、マリア様によって使わされた者たち、使徒たちとなります。

マリア様は、特に聖霊降臨の時に、特別の役割をしました。

聖ルカは、使徒行録の中で、聖霊降臨の時にこう描写しています。
「使徒たちは婦人たちと、そしてイエズスの御母マリアとともに、祈りに専念していた。」
ところで、イエズスの御母マリアという言葉を特別に出していますが、これがなぜかというと、マリア様が聖霊降臨の中でも特別な道具であったからです。

もちろん聖ペトロ、聖ヨハネ、そのほかの聖なる人たちもいましたが、マリア様が最も聖なる御方でした。教父たちは、ちょうど聖霊が降臨するために必要だった避雷針のように、聖霊の火がマリア様を避雷針として降りてきた、と言っています。

ところで、福音書を読むと、聖霊降臨には二つあります。一つはお告げの時に、聖務日課によると、「聖霊はマリア様の上に降ってマリア様を聖霊の力が覆った」とあります。そして聖霊が降って、マリア様を聖霊の陰が覆ったときに、マリア様を道具としてマリア様の身体を使って、イエズス・キリストの御体が形つくられました。ところで第二の聖霊降臨の時には、マリア様の祈りを通じて聖霊が降って、そしてマリア様の祈りを通じて聖霊の力によってキリストの神秘体が形つくられて、神秘体が生れ出ました。ですからマリア様は、聖霊降臨の特別の道具と言えます。

ところで、カトリック教会が生まれたときに何をしたかというと、まず聖ペトロが外に出て説教をして、そして4000人が洗礼を受けます。そしてそののちに使徒たちが世界中に行って、宣教使徒職を行うのですけれども、その背後にはマリア様の祈りがありました。

主を愛した聖ヨハネは、十字架のもとに立ち止まりました。聖ペトロも、復活後イエズスさまから尋ねられました「お前はわたしを愛するか」と。ペトロは答えます「はい私は愛します。」と。そして愛の使徒たちの元后がマリア様でした。また主を愛する人々は、主を愛するがゆえに、キリストを伝えますが、その主を愛する人々の女王・元后もマリア様です。

わたしたちが天主を愛すれば愛するほど、その愛は隣人に対する愛に及びます。そしてその隣人の救いを求めるようになります。ところでマリア様は、天主を最も最高に愛した方でした。ですからマリア様こそ、最も隣人のすべての人々の救いをお望みになられています。ところで、イエズス様が天国に挙げられたのちにマリア様は地上に残りました。マリア様のまわりには12人の使徒たちがいました。そして12人の使徒たちが宣教に生きそして説教をし、洗礼を授けるのですけれども、いったいマリア様はかれらのために何をすることができたのでしょうか。どうしてサポートすることができたでしょうか。マリア様はもちろん、もしも説教をしようとするとすれば、12使徒たちよりもどれほど上手い説教ができたことでしょう。また洗礼を授けたら、マリア様ほどうまく洗礼を授ける人はいなかったでしょう。しかしマリア様はそれらのことを一切なさらずに、12使徒たちの使徒職の心となって、そして聖寵のお恵みの道具となって、かれらのために祈っていました。そしてマリア様は教会の愛となって、愛の道具となって、そしてすべてのお恵みを自分のところに留めておくいわば倉庫のようになっていて、その倉庫から使徒たちがいろいろなお恵みを取りたいだけ取ることが、配りたいだけ配ることができるような、教会の愛になりました。マリア様のこころは、天主への愛に満ち満ちていたからです。

ところで、マリア様の活動は、祈りの活動・愛の活動であって、隠れた活動でした。家庭のお母さんが家の中にいながら偉大な業をするように、マリア様も隠れて愛の業をしました。M.I.の無原罪の聖母の騎士の後ろには、この愛の業があります。愛の業には、ふたつの要素があります。一つは、教会法に従った愛のあらわれであって、これが司祭やシスターたちをどこかに送る、司祭を派遣する、シスターたちを派遣する、修道会を派遣する、という教会の公式の法的な愛の業です。しかし、もう一つの愛の側面は、自発的に全く自由に、たとえば子供が、「僕司祭になりたい」、「お父さん私は司祭になりたい」、「自分をイエズス様にお捧げしたい」などというまったく自発的な愛の業です。

偉大な愛を持てば持つほど、より多くの偉大な愛の業をすることができます。たとえば聖ヨハネ・ユードという方は、フランスのとても偉大なマリア様への愛を持っている汚れなき御心への信心をもった方ですが、その聖ヨハネ・ユードは貧しい人にもあるいはフランスの王にも同じように説教し、そして多くの人々に感銘を与えました。あるいは、聖マリ・グリニョン・ド・モンフォールは、マリア様の最も偉大なマリア様のしもべとして説教をして活動された方です。愛を持てば持つほど、偉大な業をすることができます。いま現代に無いのが、この愛です。

ところでもう一つの側面を見てみます。マリア様に対する愛の使徒たちがいる一方、他方で異端者やセクトあるいはフリーメイソンとかの活動家も存在します。敵の活動家も存在します。かれらは非常に活動好きで非常に熱心で、普通の一般的なカトリック信者たちよりももっと熱心に働いているかもしれませんが、いったい彼らはどのような特徴を持っているでしょうか。

かれらの第一の特徴は、かれらが非常に人間的な手段に頼んでいる、ということです。例えばいろいろなメディアに依ったもの、あるいは強力な有事なコネがあるとか、あるいは優れたビジネスの戦術があって世界中に広がるようなビジネスの繋がり、あるいは心理学に基づいた作戦を立てている、など。

第二の特徴は、従順というものを憎んでいる、嫌っているということであって、権威に服従するということができない、あるいは軽蔑する、ということです。なぜかというと、自分の意志を否定することを、自分の意志を誰かに従わせるということができないからです。そのようなことは考えにもないし、そのような霊性もないし、そのようなつもりもないからです。ですからかれらは 自分たちで一つにまとまることができずにいろいろな分派に分かれて相互いに戦っています。

第三は、かれらは本当の祈りを無視している。もしかしたらビジネスの一部として祈りがあるかもしれませんけれども、使徒職のために絶対必要なエッセンシャルなものとしては祈りを信じていない。そうでなくて、かれらはむしろ人間的な手段を頼みにして、祈りが必ず必要だとは思いもしない、ということです。

第四は、十字架を恐れている、十字架を避けている、そして十字架の結果の屈辱・死を恐れている。キリストはもしかしたら十字架につけられてかつて亡くなったかもしれませんが、しかしだからといって私たちがそれに参与するとかそれを続けるとかということは考えもしないし、それへの愛もないし、それへの信頼もない。「十字架を恐れる」、これは非常に悪魔的であって、もしかしたら今現代カトリック信者もこれのその恐れがほとんどの人が持っています。

では「本当の使徒」の持つ愛というのは何でしょうか、どんな特徴があるのでしょうか。その「偽の使徒職」と、どのように違うでしょうか。見てみましょう。

本当の使徒職というのは、使徒職が何かということを理解することから始まりますが、使徒職とは何かというと、天主への愛です。愛であって、活動ではありません。ですから愛――イエズス・キリストへの愛――十字架につけられたイエズス・キリストへの愛が、大事になります。

十字架の力というのはイエズス様に対する愛、十字架に近寄る、イエズス様に似通ったものになる、これこそがマリア様のなさったことではないでしょうか。十字架のもとに佇まれて、そして苦しまれました。今日はルルドの祝日でありましたが、聖ベルナデッタがルルドのマリア様をご覧になったときに、マリア様のすぐ近くで何か大喧騒がありました、大きな騒ぎがありました。悪魔のような騒ぎだったのですけれども、そのとき、現れたマリア様はそのほうをゆっくりと眺めるとあっという間にこれがピタリと止まって、終わってしまいました。マリア様のただ一目が、すべてを終わらせました。悪魔の大喧騒も終わってしまいました。つまり、もしも皆さんが苦しんでおられるのなら、特にマリア様を愛するがために困難なことがあったり苦しんでいるのであるならば、マリア様はわたしたちのすぐそばにいるということです。

第二の特徴は、十字架に対する愛の結果、わたしたちはけんそんと屈辱をも愛するということです。マリア様がそうでした。マリア様は われは主のはしためなり、仰せのごとくわれになれかし。従順であってけんそんでありました。けんそんな人というのは、主の必要としていることをよく自覚している人でした。イエズス様御自身もそうでした。自分も死に至るまでの従順!十字架の死に至るまでご自分を従順にされました。

第三の特徴は、どんな手段よりも祈りこそが最も本質的で最も必要な手段であるということを確信しています。マリア様の使徒職は祈りの使徒職でした。無原罪の聖母の騎士会もこれを知っています。わたしたちにとってもっとも必要なのはこの祈りです。「原罪なくして宿り給いし聖マリア、御身により頼み奉る我らのために祈り給え。また、御身により頼まざるすべての人々、特にフリーメイソン会員のため、また 御身に委ねられ奉りしすべての人々のために祈り給え。」

第四の特徴は、教会の権威に喜んで服従して従順であるということ、ここに天主のみ旨を見るということです。マリア様はそうでした。天主のみ旨こそを、自分のやりたいことよりももっと優先させるということです。自分のことは一番最後に…です。聖ペトロがアンチオキアに教会の司教座を作ったときには、マリア様はそれに従いました。なぜかというと聖霊が教会において働いていることを知っているからです。

M.I.無原罪聖母の騎士会はマリア様の御心から生まれました。コルベ神父様はこれを軍隊と言いましたけれども、それをマリア様の御心から生まれたものとしてとらえました。マリア様の御心からうまれたこのM.I.は、キリストの神秘体の多くのメンバーやその自分の体の機能を良く果たすことにあります。眼が口になり、口が手になることではなくて、眼は眼として手は手として自分の身分上のつとめを良く果たすことによって、マリア様の使徒職を行うことにあります。

そうすることによって、マリアさまの愛とマリア様の精神によって生きることになります。たとえわたしたちが使徒でなかったとしても、わたしたちが誰かに積極的に論争したりする人でなかったとしても、わたしたちすべてが使徒的な精神を持たなければなりません。もしもそのような使徒的な精神がなければ何の役にもたちません。もしもでも、そのような使徒的な精神を持っているのならば、一般の家庭のお母さんでも、子どもを養っているお母さんでも、あるいは大工さんでも、あるいはどのような労働者でも、神秘体の働きすべてに信じられないほどの力を提供することができます。そのような精神を持って日常生活を送る人は、天主から私たちの心に多くの光を受けることになり、人々の心を回心させるのは、その紙きれのパンフレットあるいはチラシではなくて、心です。心は心からしか行きません。ですから霊的なものであって、神秘的な働きがなければ、人の心は回心することができません。でもマリア様は使徒の元后であり使徒職の元后でありすべてのこころの元后・女王であるので、マリア様の道具として使徒的な精神を持ってお捧げする一般の人たちはマリア様に多くの協力をすることになり、またマリア様の汚れなき御心からわたしたちに特別な光をいただいて、そしてわたしたちの周りに大きな影響を与えることができるようになります。

M.I.の無原罪聖母の騎士会の目的は、わたしたちをマリア様の道具として奉献することです。ただ、どのような道具かというと、使徒職の目的のために、その使徒職ということのために、道具として捧げることです。そしてこの使徒職ということは何かというと、すべての人々の回心のため、またすべての人々の聖化のため、そういう使徒職のためです。ちょうど告解の時に司祭が罪の赦しの祈りを唱えるときに、その中の一つに痛悔した人に対して「あなたが行うすべてのことはどのようなことであれすべてのことが罪の赦しのためになりますように」という祈りがありますが、それと同じように、わたしたちの行うすべてのことがマリア様の使徒職のために、回心と聖化のために役立ちますように、という意向で奉献して、捧げるのです。

四つの義務があります。一つは、わたしたちは、マリア様の道具として奉献することです、「わたし」を奉献すること。第二は、この奉献のしるしとして不思議のメダイを身に着けること。第三はわたしたちができる限りのことをマリア様の名誉のためにすること。たとえば私がいまから提案するのは、皆さんが更新の式のときに3つの不思議のメダイを皆さんにプレゼントしたいということです。このマリア様の名誉のための使徒職としてこの三つのメダイを使ってください。どうやって使うかというと、これは皆さんのボーイフレンドあるいはガールフレンドのためにプレゼントするのではなくて、そうではなくて、まずカトリック信者でない方がカトリック信仰をもってカトリック信者になることができるようにするために、これをさしあげてください。でもそれのためにはうまーくやらなければなりません。そしてもしもカトリック信者にこのメダイを挙げようとするときには、それはカトリック信者がM.I.無原罪聖母の騎士会に入会するために、差し上げてください。あげてください。どのようにするかというと、非常に簡単です。聖ピオ十世会に入会するのではなくて、聖母の騎士会に入会するのであって、これは、
「あなたはマリア様を愛していますか?」
「もちろん、マリア様を大好きです。」
「マリア様がすべての人が回心するのを望んでいるのを知っていますか?」
「もちろん、マリア様が お母さんが 回心するのを望んでいるのを知っています。」
「でもアリア様は、でも回心のためにあなたの助けが必要なんですけれども、あなたはマリアさまのために何かしてあげたいと思いませんか?」
「はい。なんでもしてあげたい。」
「じゃあM.I.に入ってください。M.I.の会員です。」
そうして、その人が会員になるときには、このようにここに連れてきて、会員の入会式をするようにしてください。そして会員になったら、皆さんこの会員になった方のフォローアップをされて、ちゃんと不思議のメダイを身に着けているかあるいはちゃんとこのM.I.のお祈りをしているかどうかを確かめて、もしもしていなかったらするように励ましてあげてください。もしも6人の人がM.I.になったらば、そして一日一回そのお祈りをするならば、マリア様に1分の祈りの武器をあたえることができるようになります。それが多くなればなるほど、マリア様にますます武器を与えることができます。大変力強いものとなります。

今から更新式あるいは入会式を、行います。入会式も更新式もまったく同じことをするのですけれども、入会されたいということのためには入会の請願書を、そして更新されたい方は皆さんのお名前とそして更新という文字を書いて、そして提出してください。そうするとそれを見てデーターのところに登録することできます。

M.I.のメンバーの方は、カルメル山のスカプラリオも持っていなければなりませんけれども、皆さんお持ちですか。

不思議のメダイはマリア様の兵士であるというしるしで、スカプラリオはマリア様の家に属する子どもであるというしるしです。M.I.に入る方は、自動的にマリア様の子どもとして、スカプラリオも身に着けてください。ではいまから更新式と入会式の準備をしますので、用紙を配ります。

 


無原罪聖母の騎士会霊的講話1:聖母マリア様がわたしたちの御母であることの理由:イエズスの御母、キリストの神秘体の御母

2024年02月28日 | お説教・霊的講話

2024年2月11日無原罪聖母の騎士会霊的講話1(ファイファー神父様)

【講話1:マリアは私たちの母】

わたしは日本に来てとてもうれしく思います。初めて日本にまいりました。子どもの頃日本の映画を見たことがあるのですけれども、来たことがありませんでした。日本語が話せなくて申し訳ございません。日本語を勉強するには長い時間がかかりそうです。

無原罪の聖母の騎士会、Militia Immaculatae、この霊的な戦いにおいて最も大切なのは、わたしたちの指揮者であるマリア様に一致していることです。

この指揮者であるマリア様は、わたしたちの御母であります。ですから、今のこのお話は「マリア様はわたしたちの母である」ということについて考察いたしましょう。なぜマリア様は私たちのお母様であって、それと軍隊とどういう関係があるのでしょうか。

マリア様がわたしたちの御母であるというのは、まずイエズス様を肉体的にお産みになったお母様であるからです。そしてそのイエズス様がこの世界にお生まれになられたその理由はたった一つであって、それは私の霊魂のそして皆さんの霊魂の救い主・贖い主となるためであった、ということです。

大天使聖ガブリエルはマリア様にこういいました。:「見よ、あなたは胎内に子を宿すだろう。そして、男の子を産むだろう。そして、この彼はいと高きものの子と呼ばれる。そしてそののちに、聖霊があなたの上に臨んで、そしていと高き者の力があなたを覆う。あなたから生まれる者は 聖なる者、天主の子と呼ばれる。」その“子ども”と言う言葉が、子を宿す、子を産む、天主の子と呼ばれる…などとその“子ども”という言葉が、(三回)出てきます。

あなたの胎内の子ども、そして、いと高き者の子・天主の子、その二つがあるのです。“あなたの子は聖なる者であって、そしてダビデの子であって、ヤコブの家を永遠に治める"という預言の言葉が出てきます。“この王国には終わりがない”とも言います。

ですから、王国のために来るのですけれども、イエズス様は征服するためにこの世に入りました。そしてその最初の勝利の者はマリア様でした。

イザヤはイエズス様についてたくさんのことを預言しているのですけれども、イザヤの預言によると「キリストの御前に常におきてがあって、そしてそのキリストの御手にはその報いがある」と。

もちろん、イエズス様のおきてが御前にあったというのは、つまり十字架のふもとにおいて死を迎えなければならないというおきてが御前にあったのであって、その報いというのは多くの霊魂たちを贖うという報いなのですけれども、しかしそのもっとも根本的なおきてと最も根本的な報いはすでにマリア様において成就されました。つまり、マリア様はイエズス様のおきてとして常に御前にあって、30年間マリア様のいう通りに(かれらに)イエズス様は従われたのであって、そしてマリア様は最初の贖いの実りとして――贖いの実りを先取りしたものとして――無原罪の御孕りとして――報いとしてできました。ですから、マリア様においてこのイザヤの預言が完璧に成就した、と言えます。

このマリア様が実は大勝利だったということは、サタンにとっては隠されていました。サタンはすでに負けたということを知りませんでした。しかしマリアさまにおいてイエズス様の贖いのすべての功徳が適応されていたので、その勝利は最初の勝利であって、完全な勝利であって、最終的な勝利でした。ですから、マリア様が今後お持ちになるすべての聖徳・愛徳、それらはすでにイエズス様の功徳によって贖われてきたものであって、そしてマリア様のその聖徳や愛徳その他すべての徳などは、わたしたち(に適応されるそ)の贖いの予告であります。

もしもわたしたちが洗礼を受けるならば、それはマリア様の無原罪の御孕りを真似することです。マリア様のような完璧なまったく罪のない者となりきることは――もしもできないかもしれませんが、しかしそれの真似を始めるわけです。またわたしたちが死後天国に行くことは、それはマリア様の被昇天を真似することです。それと同じように、わたしたちの霊魂の一人ひとりの悪魔に対する勝利あるいは贖いはマリア様の勝利の真似であって、イエズス様がマリア様の霊魂になさったことをわたしたちも真似するわけです。

マリア様はイエズス様の母でありわたしたちの母となりますが、それはただ主がそうだ!と定めたから自動的になったというだけではなく、マリア様がそのために協力されました。マリア様が信仰とそして自由意思と愛をもって、主の玄義にハイと答え、それに同意したからです。ですから、もしもわたしたちの母になるという時も、ただイエズス様がそうだと決められたのではなくて、マリア様の同意があったからこそ、母になることができました。

イエズス様は、わたしたちを贖ったのみならず、主が造ったすべての被造物を回復するためにも来られました。そのすべての天主の栄光とすべての御業をイエズス様が回復するのですけれども、それがマリア様のうちに最も完璧になされました。ですからマリア様は教会の母と言われていて、そのすべてのものを回復させる最も素晴らしい原型となっているからです。

マリア様が完璧にわたしたちの母となったのは、イエズス様がお生まれになったときです。なぜかというとイエズス・キリストとわたしたちはキリストの神秘体を作っているからです。イエズス様は神秘体の頭(かしら)であって、わたしたちはその体の一部です。でもマリア様は頭だけの怪物をお産みになったのではなくて、すべてのキリストの神秘体をお産みになったのですから、キリストの御母となるときにキリストと将来一致するべきわたしたちをもお産みになって、その母となりました。

聖マリ・グリニョン・ド・モンフォールは、多くの聖人たちの言葉を引用して、マリア様は頭(かしら)を産むと同時に体の肢体もいろいろな部分も産み出したのだから、マリア様の子どもであるということをしないで誰もキリストの神秘体の一員となることはできない、と言っています。

またマリア様は、イエズス様の御母となられたその瞬間にキリストの生涯のすべての神秘と一致して、それに協力しました。贖いのすべての業に協力しました。同意しました。それなので、イエズス様の勝ち取ったすべての功徳というのは、マリア様の協力とともに勝ち取ったものなのです。ですからマリア様がイエズス様と共にイエズス様に協力してこの地上に生きておられているあいだに積極的に協力したそのやりかたを、イエズス様はいま永遠のなかで21世紀のわたしたちにそれを適応させようとするのですけれども、マリア様も同時に1世紀にいたと同じように21世紀のわたしたちにも、積極的にそして臨在してわたしたちにそれを適用させようとしています。

マリア様がまたわたしたちの母であるというのは、苦しみの神秘の中においても明らかにされます。もちろんこの地上のお母さんたちは子供を産むときに陣痛の苦しみがありますが、イエズス様は私たちを贖うために極めて高い最高の程度の苦しみをわたしたちのために受けました。そして、マリア様も非常に高い程度の苦しみを、わたしたちの贖いに協力するために苦しみました。ところで聖パウロは、イエズス様が苦しんでいたその1世紀にはまだ生まれていなかった21世紀のわたしたちのことをさえも「キリストはわたしたちの罪のために苦しんだ」と言います。つまり、時間を超えて超越して、のちに来るわたしたちの罪のためにイエズス様は苦しんだとあるので、イエズス様の苦しみの神秘は時を超えているということがわかります。ですから、マリア様もわたしたちを聖寵に産み出すためにイエズス様と共に苦しんだといえます。ところで、キリストにふさわしい御母となるためにマリア様は無原罪の御孕りでなければなりませんでした。無原罪の御孕りになるためには、苦しみは全くありませんでした。キリストの御母となるためには苦しみは必要ではありませんでしたが、わたしたちの母となるためには、恐ろしい陣痛の苦しみをキリストとともに受けなければなりませんでした。

またマリア様は、わたしたちを代表しています。どういうことかというと、マリア様においてすべての旧約聖書と新約聖書の最も高い天主に対する愛が代表されています。たとえば、皆さんがキリストのためにやりたい・捧げたいと思われること、あるいは思わなければならないこと、あるいは聖ベルナルドあるいは聖ドミニコその他の聖人たちがキリストのためにしたこと、それらすべてはすでにマリア様において最も完全なやり方でなされています。つまりマリア様はすべての新約の聖人たち旧約の義人たちの代表であって、かれらがやったことを最も完璧な形でなされた代表と言えます。

このマリア様をご覧になると、マリア様は悲しげな御顔をしています。汚れなき御心は悲しみに満ちておられます。マリア様は天国にいるはずではないでしょうか。天主の栄光に、そして至福を楽しんでいらっしゃるはずではないでしょうか。なぜそんなに悲しそうな顔をしているのですか。なぜかというと、マリア様は私たちの永遠の救いのことを心配されているからです。なぜかというと、わたしたちが永遠の至福をいとも簡単に失うことができるからです。わたしたちがいとも簡単に大罪を犯してしまうことができるし、信仰を失ってしまうこともできるし、地獄に落ちてしまうことが簡単にできるからです。ですからマリア様は、わたしたちの救いのことを思って悲しげな御顔で心配をしているのです。

マリア様のことを考えるにおいて、聖霊の働きを見てみます。なぜかというと、聖霊の働きはわたしたちを聖化することであり、わたしたちの霊魂を聖なるものとすることです。ところで聖マリ・グリニョン・ド・モンフォールによると、天主の働きにはパターンがあって これを変えることはない、といいます。キリストは聖霊によってマリア様の胎内に形作られました。おなじように、わたしたちをキリストのようにキリストのものとして形成させるためには、聖霊の働きが必要です。その聖霊が働くのはマリア様の胎内だからです。キリストは聖霊によって、砂漠に導かれそこで断食をしました。また聖霊降臨の時にマリア様の祈りをもって聖霊は降臨しました。聖霊の働きのためにはいつもマリア様がいらっしゃるということを、マリア様によるということを、お望みだからです。それがパターンだからです。行動のパターンだからです。

イエズス様は御受難の前に「私はかれらのためにこれを捧げる……」と御父に祈られ、そしてマリア様は天国でキリストと一致してわたしたちの聖化のために祈っておられます。ところで皆さんが隣人のためにお祈りをされた時のことを思ってください。わたしたちが彼の回心のためにお祈りするというのにお祈りすればするほど実は回心どころかますますひどくなっているのを見ると、どれほど心が痛むでしょうか。あるいは彼が聖なるものとなるようにとお祈りしているにもかかわらず、全然そうでないのを見るとどれほど辛い思いをするでしょうか。マリア様も同じようにわたしたちのために、私たちの救いと聖化のためにお祈りされています。

聖霊は、マリア様の祈りとともにわたしたちの聖化をします。これは戦いの場所です。肉の欲望と霊の望みが対立しあっているからです。大きな巨大な戦いが行われています。

では、このものすごい恐ろしい戦いが続いているときに、わたしたちはどうすればよいでしょうか。ある態度はフランシスコ教皇様のようにわたしは罪人を祝福して罪に同意する――罪人に同意する、罪を祝福する、と言うべきでしょうか。それとも「ああ、あまりにも戦いが恐ろしいのでわたしには何もできない。いやっ、もうどうでもよい。なるようになればよい」というべきでしょうか。それとも、多くのカトリック信者はこのような態度をとっています…「私は関係ない!」。ところでわたしたちはそうではなくて、少数ですけれども、「いやっ、私はマリア様に協力したい。この霊魂の救いのために協力したい」と思うのでしょうか。

マリア様は、いったいどんなことをわたしたちにおっしゃるでしょうか。マリア様はこうおっしゃいます。「わたしの子どもたち、ああ息子よ、ああ娘よ、お前たちはまだこの母の心を、罪を犯し続けることによって剣で貫き続けるつもりなのですか? 無関心や罪や悪徳を続けて、わたしの心を傷つけ続けるのですか? 私に戦い続けるのですか?」

まだ日本ではそうではないかもしれませんが、しかし時は非常に近づいています。なぜかというと、あまりにもこの世界は悪徳に溺れているからです。ソーシャルメディアその他のものがわたしたちにあって、大罪を侵さないようにする唯一の手段は私たちが聖人となるしかありません。つまり御母であるマリア様を崇敬して、そして聖人になるしかありません。その時がもう来ています。

わたしたちがいま、ものすごい戦いの中に入っているということを、お判りでしょうか。もしもわたしたちがマリア様の子であるならば、マリア様を愛しているならば、それは何を意味するかというと、悪魔はわたしたちを憎むということです。もしもそうでないとしたら、ほんとにわたしたちはマリア様を愛しているのでしょうか。マリア様のように罪のない生活を心がけしているのでしょうか。わたしたちは天の遺産を受ける者であって、そのために戦っております。しかしその戦いのなかにいるということを、わたしたちがよく自覚しなければなりません。M.I.は無原罪の聖母の騎士会はそのことをわたしたちに思い出させて、そして勝利の希望を与えてその勝利の手段を与えてくれます。

わたしはフィリピンでこのMilitia Immaculatae 無原罪聖母の騎士会の指導司祭としてよくお話をするのですけれども、フィリピンの人たちは、一般には貧しい人たちが大部分です。でもそういう人たちに私はたぶん「あなたはおかあさんのために何かをしようと思いませんか。お母さんは皆さんの助けを必要としています。わたしたちのお母さんは多くの人の霊魂の救いを望んでいます。でも皆さんの協力が必要です。」するとフンフンといいます。いったい誰がお母さんからの助けてほしいというのにそれを断ることができるでしょうか。無原罪の聖母の騎士会の目的は二つあります。一つは、すべての霊魂、どのような人であったとしても、すべての人々の霊魂を救うことです。とくにフリーメイソンの霊魂たちを救おうとすることです。そしてもう一つの第二の目的・ゴール・目標は、どのような霊魂たちもそれがより聖なるものとなるようにその聖化のために尽くすということです。

マリア様の軍隊に入るにおいて一番大切なのは、マリア様のお望みのものとなるために自分を奉献することです。マリア様の目的のために奉献することです。そして、霊魂たちの救いと霊魂の聖化のために、道具となることです。ですから私たちが聖人になることを要求されているわけではありません。わたしたちに要求されていることは非常に単純なことであって、それはまず不思議のメダイを身に着けること、それから一日一回、少なくとも一回、全部で18秒しかかからないようなひとつのお祈りを唱えることです。でもこうすることによって、いま世界で約10億人いるといわれているカトリック信者、つまり戦闘の教会に属しているすべての人々が、もしもこれを自覚しているのだとしたら、その小さな協力が巨大な力となって、マリア様の勝利のために大きな貢献をなすことができます。無原罪の聖母の騎士会は、そのすべての人がわたしたちの母のために協力できるということを思い起こすことにあります。

では今から少し休息を入れて、次のお話は二時半からです。その間ここで黙想したり、あるいは外で軽いストレッチしたりして目を覚ますようになさって、次のお話を聞いてください。二回目のお話が終わりましたら、無原罪の聖母の騎士会の更新式あるいは入会式があります。それについてまた次のお話しで詳しく説明いたします。


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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