Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

来たる灰の水曜日(2月22日)と天皇誕生日(2月23日)には、北海道青少年会館 Compass での聖伝のミサに愛する兄弟姉妹の皆様をご招待いたします。

2023年02月20日 | 聖伝のミサの予定

アヴェ・マリア・インマクラータ!

カトリック札幌司教区におられる愛する兄弟姉妹の皆様、

来たる灰の水曜日(2月22日)とその翌日の天皇誕生日(2月23日)には、北海道青少年会館 Compass 会議室1にて、聖伝のミサが行われます。

愛する兄弟姉妹の皆様をご招待いたします。予約は必要ありません。どなたでも自由にご参加できます。
https://hs-compass.com/

2月22日(灰の水曜日)18:00より灰の儀式およびミサ聖祭
2月23日(灰の水曜日の後の木曜日)10:00よりミサ聖祭

【聖ピオ十世会とは】

聖ピオ十世会、SSPX (the Society of Saint Pius X)とは、1970年11月1日にスイスのフリブール教区においてローマ・カトリック教会の教会法に従って創立されたカトリック教会の修道会の一つです。創立以来、カトリック信者の要請に応える形で、全世界での使徒活動をますます拡大しています。

* 教皇フランシスコは聖ピオ十世会の司祭たちに適法に使徒職を果たす権能をお与えになっています。教皇は書簡「ミゼリコルディア・エト・ミゼラ」で、聖ピオ十世会の司祭たちが世界中ですべての信者のために告白の秘蹟を行う権限を持つと宣言されました。さらに教皇は聖ピオ十世会の婚姻の秘蹟が有効に執行するように全世界の司教たちに彼らの協力をお求めになられました。

* 聖ピオ十世会の司祭は、ラテン語でカトリック聖伝のミサ(Traditional Latin Mass)を捧げています。ミサの典文(Canon)の中では、教皇フランシスコの名前と当地の教区長の名前(札幌司教区ではベルナルド勝谷太治司教)を唱えます。教皇ベネディクト十六世は自発教書「スンモールム・ポンティフィクム」の中で、全てのカトリック司祭は聖伝のミサを捧げる権利を有していると宣言されました。何故なら、聖伝のミサは一度も廃止されたことがないからです。

「過去の人々にとって神聖だったものは、わたしたちにとっても神聖であり、偉大なものであり続けます。それが突然すべて禁じられることも、さらには有害なものと考えられることもありえません。わたしたちは皆、教会の信仰と祈りの中で成長してきた富を守り、それにふさわしい場を与えなければなりません。」(ベネディクト十六世)

* 聖ピオ十世会の司祭たちは、伝えられたままの純粋なカトリック教えをそのまま伝えようと全力を尽くしています。カトリック教会が、信じてきた全てのカトリックのドグマと信教(Credo)をそのまま変えずに信じ、信仰宣言しています。また同時にカトリック教会によって排斥された全ての異端に対して反対しています。過去から変わることなく伝えられた正統信仰こそ真理における一致を促進し、分裂を避けさせるものです。

* 聖ピオ十世会の司祭たちは、カトリック教会がそう信じ続けてきたように、特に御聖体における私たちの主イエズス・キリストの現存を深く信じています。また、カトリック教会以外には霊魂の救いがないと信じます。

*教皇庁教理省は「同会の聖職者は、教会法上の制裁から解放されている」(いかなる制裁も受けていない)と認めています。

* 聖ピオ十世会の司祭は、領域上(司教区)の法的身分(裁治権)も属人的裁治権も有しておりません。しかし必要の状況に置かれた信徒たちのために、教会法によって補足された法的身分(裁治権)を有しています。私たちの主イエズス・キリストは霊魂の救いと聖化のためにの通常で主要な手段として秘蹟を制定されました。カトリック教会は、必要とする人々が秘蹟(特に改悛の秘蹟)をいつでも受けることができることを欲しています。何故なら教会の最高の法は霊魂の救い(教会法1752条)だからです。

* カトリック教会は、教会法の規定(144条)によって、組織上の当局を通さずに法的身分(裁治権)を補足します。カトリック信者は、いつでも告解を必要とするとき、その判断と助言を信頼することができると思う司祭から改悛の秘蹟を受けることができます。しかもその司祭が通常のやり方で法的身分(裁治権)を有していなくてもそれができます。さらには、しかも教会法(1335条)の言葉によると「いかなる正当な理由でも」信徒がこれを求めるのであれば、聖職停止あるいは破門された司祭であってもこれができます。

【私たちは永遠の命のためにカトリック信仰をいただきました】

私たちは洗礼の時に、カトリック教会から信仰を求めました。何故なら正しい信仰が私たちに永遠の命を与えてくれるからです。信仰とは真理を信じることです。真理から一致が生まれます。

コロナ騒動で何年も秘跡を受けることができなかった愛する兄弟姉妹の方々、御聖体を信じ礼拝しながら跪いて口で拝領することができなかった方々、ロザリオを一緒に唱えることができなかった方々、信仰生活において半死半生の傷を負ったままそのまま助けを待っておられた方々、どうぞイエズス・キリストのもとにいらしてください。聖伝のミサに与ってください。キリストの御声は言います。「労苦する人、重荷を負う人は、すべて私のもとに来るがよい、私は、あなたたちを休ませよう」(マテオ11:28)と。「私の与えるパンは、世の生命のための私の肉である」(ヨハネ6:51)。

最後にルフェーブル大司教の言葉を引用します。

「私たちには教会の2000年の聖伝がついています。10年やそこらの新しい「公会議後の教会」ではありません。「公会議後の教会」とは、ベネリ司教が私たちに言ったことです。ベネリ司教は私たちに「公会議後の教会に従え」と要求しました。私は「公会議後の教会」など知りません。私の知っているのはカトリック教会だけです。」

「私たちは、この立場をしっかりと保たなければなりません。私たちの信仰のためであれば、何でも甘受しなければなりません。全ての苦しみを。あざけられ、破門され、叩かれ、迫害を受ける覚悟をして下さい。もしかしたら将来、政府が私たちを迫害するかもしれません。この可能性さえもあります。なぜなら、教会を崩壊させるのはフリーメーソンの業だからです。フリーメーソンはありとあらゆるところで命令を下しています。ですから、もし彼らが私たちにフリーメーソンの計画を危うくするほどの力があると見れば、政府が迫害を始めるでしょう。そうなれば、私たちはカタコンブの中に入りましょう。私たちはどこにでも行きましょう。しかし、私たちは信じ続けます。私たちは、私たちの信仰を捨てるつもりはありません。私たちは迫害を受けるでしょう。私たち以前にも、信仰のために多くの人々が迫害を受けました。私たちが1番最初だというわけではありません。しかし、少なくとも、私たちは、イエズス・キリストの信者であるということの名誉を、誉れをイエズス・キリストに捧げることが出来ます。主を捨てず、主を裏切らず、忠実であったという名誉です。これが私たちのしなければならないことです。確固としていることができるよに祈りましょう。」

「…聖母に祈りましょう。聖母のように、私たちの心にも一つの愛が、私たちの主イエズス・キリストに対する唯一の愛のみがありますように。私たちの心に深く刻まれている名前は、イエズス・キリスト以外ないことを。イエズス・キリストこそが天主であり、救い主であり、永遠の司祭、全てのものの王にして、主は今、天にましまし、この天では主のみ王なのです。天においてイエズス・キリスト以外王はいません。イエズス・キリストこそが、全ての天使、聖母、聖ヨゼフ、全ての選ばれたものの至福であり、私たちもこの至福、この誉れ、この栄光、この私たちの主の愛に参与することを望みます。私たちの知っているのは、イエズス・キリストのみであり、私たちは、私たちの主イエズス・キリスト以外誰をも知ることを望みません。」

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


聖ピオ十世会 カトリック聖伝のミサの報告 Traditional Latin Mass in Japan SSPX Japan

2023年02月19日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日、五旬節の主日に東京のミサに来られた方は、子供達も入れて合計122人でした。大阪では31人でした。

来たる2月22日は、灰の水曜日です。大小斎の日です。
修道院では午前7時から(ミサの前に)灰の式があります。
東京では入谷ホールで午後6時30分から灰の儀式とミサが行われます。
札幌でも聖伝のミサが午後6時から「北海道青少年会館 Compass 会議室1」であります。愛する兄弟姉妹の皆様のお越しを歓迎します。



【報告】
Dear Fathers:

Shown below are the number of attendees at the masses in Tokyo today. The total number of attendees at the masses in Tokyo today was 122 including children.

09:00 confirmation and mass
M: 37 (incl. 6 children)
F: 33 (incl. 8 children)
Total: 70 (incl. 14 children)

11:30 mass
M: 21 (incl. 2 children)
F: 33 (incl. 3 children)
Total: 54 (incl. 5 children)

Total of 2 masses (excl. 2 persons who participated in multiple masses)
M: 57 (incl. 8 children)
F: 65 (incl. 11 children)
Total: 122 (incl. 19 children)


ミサ聖祭とは何か?旧約の多くの前表がミサ聖祭を予告しています。特に四旬節の間、聖伝のミサに与ってください。このミサ聖祭から多くの恵みを受けてください。

2023年02月18日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2023年2月19日は五旬節の主日です。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「五旬節の主日の説教」の動画をご紹介いたします。

ダヴィドの子イエズス、私をおあわれみください!主よミサ聖祭の神秘を私たちが見えるようにしてください!

特に四旬節の間、聖伝のミサに与ってください。このミサ聖祭から多くの恵みを受けてください。

 

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

SSPX JAPAN聖ピオ十世会日本にチャンネル登録もお願いいたします。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父


ザンビア・カトリック司教団、いかなる状況下でも同性愛の行為を認めることはできないと発言

2023年02月18日 | プロライフ

カトリック司教団、いかなる状況下でも同性愛の行為を認めることはできないと発言

The Zambia Conference of Catholic Bishops says acts of homosexuality are contrary to the natural law and under no circumstances can they be approved.

2022年9月30日

ザンビア・カトリック司教協議会は、同性愛の行為は自然法に反しており、いかなる状況下でも承認されることはないと述べた。

ZCCB事務局長のフランシス・ムコサ神父は、聖伝は常に、同性愛の行為は、生命の贈り物のための性行為に閉ざされ、本物の愛情と性的補完関係から発生していないので、本質的に秩序正しくない、と宣言してきたと述べた。

ムコサ神父は、この観点から、教会は、同性愛の傾向を持つ者を含むすべての迷った子供たちが、天主と人の前で正しいことを行うことを学ぶことができるよう、適切な援助と同伴を提供するよう求められていると述べた。

ムコサ神父は、社会の多くの勢力が、人間の性についての天主の目的と計画に反する、一般的な性、特に同性愛についての見解を促進していると述べた。

"したがって、上記の教会の立場に矛盾するソーシャルメディア上に出回っていることは、彼ら独自の意見であり、カトリック司教のザンビア会議は関与していない"と彼は言った。

 


私たちは天主のコイン、天主のもの。天主によって鋳造されて、天主によって探し求められた貴重な高価なコイン。「天主のものは天主に返せ。」

2023年02月18日 | お説教・霊的講話

2022年11月6日 東京 小野田神父 説教

聖父と聖子と聖霊のみ名によりて、アーメン。

愛する兄妹姉妹の皆様、 今日福音でイエズス様は質問を受けました。
「 チェザルに貢(みつ)ぎを払うのは、いいことか。」
すると答えとしてイエズスはこう質問します 。
「貢ぎの金を見せよ。この像と銘とは誰のか。このコインには、誰の像が刻まれているのか。」
「ローマ皇帝チェザルです。」
「では、チェザルのものはチェザルに、天主のものは天主に返せ。」と命じられました。

この福音は、現代に生きる私たちにとって、一体どんな意味があるのでしょうか。今日は、それを一緒に黙想いたしましょう。

二つの意味があります。
一つは、私達は上長に対して何をしなければならないか、ということを教えています。
もう一つは、天主に対して私達はどうするべきか、を教えています。
今日は、特に天主に対する務めを黙想いたしましょう。天主のものを天主に返すということです。

天主のものとは、いったい何でしょうか。実はこのデナリオ銀貨には、ローマ皇帝の像が刻まれていました。ところで、よく考えてみると、私たち人間は天主の像と似姿に従って創造されました。

聖ヒラリオと言う司教は、こう言っています。私たち人間は言ってみれば、天主の硬貨、コインであって、天主のものだ。私たちの身体、私たちの霊魂、私たちの意志、私たち全ては、天主のものだ。天主の像が刻まれて鋳造されているからです、造られているからです。もしも、この天主のものであるものが、天主の目からなくなったら、どうなのでしょうか。お金がなくなった。実はイエズス様は似たような譬えを、聖ルカの福音でこう言っています。

ある婦人が銀貨10枚を持っていてその一枚をなくしたら、燈火(ともしび)をつけて、家を掃いて、大掃除をして、見つけ出すまで探さないはずがあるだろうか。それを見つけると、みんな喜んで、友人隣人を呼び集めて、「なくした銀貨を見つけたので私と一緒に喜んでください!」と言うだろう。私は言う、それと同じように、悔い改める一人の罪人のために、天主の天使たちは歓喜する。

イエズスは実は、なくなった銀貨のことを、私たちのことに譬えているのです。なぜかと言うと、銀貨には皇帝の像が刻まれているように、私たちの霊魂も天主の似姿と像が刻まれているからです。イエズス様にとって、とても大切な貴重な銀貨なのです。

では、私たちが天主様のコインに鋳造された天主様の似姿のあるコインであるなら、全てが天主から由来している、私たちの持っているすべては天主からのものだ、ということがわかります。では、天主のものを天主に返すというのは、どうしたらいいでしょうか。どういうことでしょうか。

つまり、天主を全てに超えてお愛しする、天主の御旨を果たす、天主のお望みのことを私たちがする、天主から造られたものとして天主様を創造主として認める、礼拝する、ということです。

ではそのためにはどうしたらいいでしょうか。

最高の手段が私たちには与えられています。それは今皆さんがなさっていることです。

ミサ聖祭に与ることです。特に、本当のカトリックの聖伝の使徒継承の聖なるミサ聖祭に与ることです。これほどこの地上で価値のある、私たちのすることのできる、最高の天主への礼拝はありえません。

なぜかと言うと、イエズス様は天主でありながら、三位一体の第二のペルソナでありながら、人間となって、人類を代表して、人類の名前で、私たちの名前で、御父に全く従順で、苦しみと、御血を全て流され、この十字架のいけにえ、つまりミサ聖祭を捧げたからです。

そこで、イエズス様の功徳は、私たちの功徳になるのです。ミサを通して私たちは、私たちのもの、人類のもの、イエズス・キリストの十字架の最も無限の価値を、罪の償いとして捧げることができます。唯一、三位一体の御心に適う有効な生贄、これがミサ聖祭です。今皆さんがこの目の前で与っている、これこそ、地上で最高の価値を持っています。これ以上良い行いを、人間はすることができません。

このミサ聖祭に与る最も素晴らしい方法は、ご聖体拝領をして、ふさわしい状態でご聖体拝領をして、イエズス様に自分を生贄として捧げて、一致させることです。

イエズス様は、人類の名前で私たちのためにいけにえとなりました。それに私たちも合わせて、私たちも、イエズス様とともにお捧げする、それが御聖体拝領です。そうすることによって、十字架でのご受難に私たちは本当に一致して捧げられることができます。いわば、イエズス様の十字架のふもとにマリア様と共にいて、そして、マリア様との目の前でイエズス様とともに捧げられた、と言えるようになるからです。

“聖体拝領する”ということは、どれほど素晴らしいことでしょうか。なぜかと言うと、御聖体はイエズス・キリスト様ご自身でありますから、私たちは全ての秘跡の源を受けることになります。すべての秘跡とお恵みを造った方を受けるからです。全ての聖寵が含まれています。あたかも、イエズス・キリストは、ご聖体は、太陽であるかのようです。燦然と輝いて、四方八方に光と熱を伝えます。天主であるイエズス様が私達の霊魂に来てくださるということは、つまり天国が私たちのもとに来るということです。

成聖の状態にある霊魂が、御聖体をふさわしく受けることができます。成聖の恩寵にある霊魂というのは、どれほど美しいことでしょうか。どれほど聖なる、神聖で天主の愛に満ちている霊魂であることでしょうか。もしも私たちが目で見ることができたら、そのあまりの美しさに、地上のすべてのダイヤモンド・サファイア・宝石・黄金をはるかに超えた美しさに、気絶してしまうほどでしょう。霊魂はイエズス様の愛と光で満ち満ちてイエズス様のいのちに生きている、これが成聖の恩寵です。

ですから、私たちはこの状態でのみ、イエズス様を受けることができます。うやうやしく跪いて、舌の上に、愛をこめて、礼拝しながら、創造主・贖い主・私たちを愛してくださる全てをくださった救い主を、受けることができます。私たちはいわば御聖櫃になります。生きている御聖櫃になります。私たちは今、マリア様のようになります。マリア様はイエズス様を御胎内に九ヶ月お運びになりました。

本当の宗教だけが、このような素晴らしい宝を持っています。そして真(まこと)の天主だけが、これほどの偉大な愛の宝を考えついて、私たちに与えてくださることができます。天主のものである私たち、天主のコインである私たちが、自分を全く生贄としてご聖体拝領しながら捧げる時、天主ご自身が私たちに報いとして既に私たちの霊魂に来られるのです。なんという素晴らしい愛の秘跡、愛の奇跡でしょう。

このようなご聖体拝領をすると、私たちはますますイエズス様のものとなりたくなります。そしてますますイエズス様の栄光のために働きたい、イエズス様のお望みのために働きたい、イエズス様の名誉のために、イエズス様の礼拝のために、働きたいと思います。

今日の九時の御ミサでは、管区長のサマーズ神父様が、私たちが天主のものを天主に捧げるその計りがあると言います。客観的にどれほど私たちが捧げているかを計ることができる、と。それは、私たちがミサに与って、そしてミサに与るための最高の場所を準備して、そして最高の聖歌を歌う。最高のミサでの奉仕をして、そして最高の美しい祭壇と美しい聖堂をお捧げして、最も素晴らしい場所に最高の場所にミサ聖祭を捧げて、そしてもしも私たちにその栄誉が与えられるならば、私たちのなかから最高の青少年たちが、男性も女性も最も優れた青少年たちが、天主様への奉仕のためにミサ聖祭のために霊魂の救いのために全く天主に捧げられる。これによって私たちはどれほど天主のものを天主に捧げているかが計られる、として私たちに励ましの言葉を与えてくださいました。

では最後に遷善の決心を立てましょう。私たちは天主のコイン、天主のものです。天主によって鋳造されて、天主によって探し求められ、イエズス・キリストがその世の光として私を探し出す、貴重な高価なコインです。

すべてを天主にお返しいたしましょう。天主にお返しすればするほど、私たちはますます多くを与えられます。天主はどれほど寛大であるか、私たちは想像もつきません。想像以上です。ミサ聖祭に与ることです。この貴重な聖伝のミサに与ることによって、天主にお返ししましょう、最高の賛美と感謝を。

この聖伝のミサは決して滅びることがあり得ません。カトリック教会の敵が、私たちの霊魂の敵が、この聖伝のミサを廃止させようと戦いを挑むかもしれません。決してイエズス・キリストは負けることがありません。この聖伝は、カトリックの本当のミサ聖祭は、最後に勝利します。凱旋します。これしかありえません。

実は一人の小学生の霊魂が、初聖体をしようと復活祭のころからずっと準備をしてきました。今日は初聖体をしてイエズス様を初めて自分の霊魂の中にお受けしてお愛しする、という日です。どうぞ皆さん、彼女のためにお祈りください。

私たちは天主の似姿の肖像に従って造られたので、そしてイエズス様の天主の御血によって贖われて、罪の赦しを得て、イエズス様の兄弟・友となって、成聖の恩寵の状態に生きるという栄光を受けています。よい御聖体拝領を致しましょう。イエズス様、私は今日すべてを御身にお返しいたします、お捧げいたします。

「この像と銘とは誰のものか」と、言い給うた。彼らは言う。「チェザルのものです」。それで彼らに言い給うた。「では、チェザルのものはチェザルに、天主のものは天主に返せ。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


【参考情報】ロシア、未成年者や成人へのLGBTプロパガンダを全面禁止

2023年02月18日 | お説教・霊的講話

【参考情報】ロシア、未成年者や成人へのLGBTプロパガンダを全面禁止

Russia enacts total ban on LGBT ‘propaganda’ for minors and adults

2013年に制定された従来の法律では、LGBTを支持する内容の禁止は、18歳未満の未成年者を対象とするだけだったが、新法では成人にも拡大された。

エヴァン・スタンボー

2022年12月5日(月曜日) 米東部標準時間午後2時46分

モスクワ(LifeSiteNews)―ロシアは、年齢に関係なくLGBTの「プロパガンダ」を完全に違法化し、その宣伝をすれば罰金で罰せられるようにした。

ロシア政府所有のタス通信によると、ウラジーミル・プーチン大統領は日曜日に、すべての年齢層における「非伝統的な性的関係、性別変更、小児性愛のプロパガンダ」を禁止する法律に署名した。

タス通信の記事によると、この禁止令には、書籍、映画、ソーシャルメディア、広告、従来のメディアを通じて広められ「プロパガンダ」が含まれる。ブルームバーグによると、新法に違反した個人には最高40万ルーブル(6,400ドル)の罰金、団体には最高500万ルーブル(79,900ドル)の罰金が科される可能性がある。

一方、外国人は、この法律に違反した場合、ロシア連邦から追放される可能性がある。

2013年に制定された従来の法律では、LGBTを支持する内容の禁止は、18歳未満の未成年者を対象とするだけだったが、新法では成人にも拡大された。

ロシアの議員たちは、6月に連邦議会下院に法案を提出し、7月には同上院に修正案を提出するなど、数カ月にわたってこの法律を検討していた。タス通信によれば、週末にプーチンが法案に署名したことで、下院はその記録をデータベースに登録した。

ウラジーミル・プーチンは長年、ロシアを退廃的な西洋に対抗する「伝統的価値観」の強固な擁護者として位置づけようとしてきた。

「私たちはここで、私たちの国で、ロシアで、母親と父親ではなく、『親1号、親2号、親3号』(彼らは完全に平静さを失っています!)にしたいですか?」。プーチンは9月30日、ウクライナの4地域がロシアに加盟したことを記念する演説で、こう問いかけた。

「私たちは、学校に、子どもたちが通い始めて間もない頃から、劣化と絶滅につながる倒錯を押し付けることを望みますか?」と彼は続けた。「私たちは、女性や男性とは別のある種の性別が存在するという考えを子どもたちの頭に叩き込み、性別適合手術を受けさせたいですか? それが、私たちが、わが国や子どもたちに望むことですか? これは、私たちにとって受け入れられないことです。私たちには、それとは違う私たち自身の未来があるのです」。


六旬節の福音:種まく人のたとえ。種は天主のみことばです。私の語ったことばこそ終わりの日にその人を裁くだろう。

2023年02月17日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2023年2月12日は六旬節の主日です。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「六旬節の主日の説教」の動画をご紹介いたします。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

SSPX JAPAN聖ピオ十世会日本にチャンネル登録もお願いいたします。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父


ヴィガノ大司教「異教の近代性は大洪水を『はるかに上回る悲惨な』鞭を準備している」

2023年02月16日 | カトリック・ニュースなど
ヴィガノ大司教「異教の近代性は大洪水を『はるかに上回る悲惨な』鞭を準備している」

真の箱舟、唯一の箱舟は、聖なる教会である。この箱舟は害を受けることなく洪水を通り抜け、最後には、乾いた土地を見つけて安息を得ることができる。この箱舟の外で救われるとか、自分で箱舟を作れば救われるとかと欺かれないようにしよう。

Abp. Viganò: Pagan modernity is preparing a scourge ‘far more disastrous’ than the Flood

「聖書と教父は、箱舟は聖なる教会の前表であり、そのおかげにより、選ばれた人々は、人類共同体の難破から自らを救うことができると教えています」。

2023年2月13日 米東部標準時間午前10時43分

(LifeSiteNews)―昨日、カルロ・マリア・ヴィガノ大司教は、厳粛な主日の説教(以下)を発表し、その中で、「私たちが目にする現代世界が沈み込んでいるほど深い、悪の深淵…」について考え、来る「鞭」、「古代の大洪水よりもはるかに悲惨な」ものからの避難所を、カトリック教会という救いの箱舟に見いだすようキリスト信者に助言しました。大司教は、偽物の箱舟に対して警告し、新世界秩序の計画を推進する人々を、タイタニック号で「酩酊してのんきに」踊っていた人々にたとえています。

大司教は、「私たちに真の箱舟に乗り込むよう呼びかけるべき人が、この恐ろしい大西洋横断船に乗り込んでおり、私たちには、彼が邪悪な者たちとともに天主の敵であるこの世の強者たちに乾杯しているのが見えるのです」と、教皇フランシスコの怠慢を指摘しています。それにもかかわらず、大司教は、真の救いの箱舟である教会の舵を「しっかりと」握っている舵取り人は、私たちの主イエズス・キリストであることを、キリスト信者に思い起こさせます。


VIRTUS IN INFIRMITATE PERFICITUR
恩寵の力は弱さのうちに完成される
カルロ・マリア・ヴィガノ大司教の六旬節の主日の説教


地上の人間の罪悪がはなはだしくなり、
その心に生まれる計画も、一日じゅう悪だけに向かっているのを主はご覧になった。
創世記6章5節

六旬節の主日、復活祭の準備のための苦行と断食の時に近づいています。すでに一週間前から典礼ではアレルヤ誦が沈黙し、ミサでは詠誦に取って代わられています。そして、このほとんど悔悛的な主日に、教会は、朝課の朗読によって、天主が反抗的な人類を大洪水で滅ぼし給い、ノアの家族だけを救い給うに至った罪についての考察に、私たちを招いています。

聖書は人間の邪悪さを語っています。人間の心の中のあらゆる欲望は常に悪以外の何物でもありませんでした。人類が、過去において、今日私たちが目にするような悪を行うことができたとは信じがたいところです。古代のどの文化の中にも、私たちが目にする現代世界が沈み込んでいるほど深い、悪の深淵はありませんでした。虐殺、暴力、戦争、倒錯、窃盗、強盗、屠殺、冒涜、汚聖は、個々の人間によってだけでなく、国家のトップが法律で押し付け、メディアが称揚し、教師や判事が奨励し、司祭が容認し承認さえしています。私たちはこう自問します。現代人が、天主に対して、仲間の人類に対して、被造物に対して、あらゆる行為をさせようとする邪悪さのゆえに、大洪水よりももっとひどい罰を受けるに値しないのか、と。また、「mysterium iniquitatis」(悪の神秘)の明らかな勝利を目にして、私たちの堕落し背教した世界で悪がどれほど広く、深く根付いているかを見て、天主の御稜威(みいつ)は人間のいとわしいものをどれほど長く容認されるのか、と。私たちはほとんど、次の主の約束を信じることは難しいと感じています。「私はもう、人間のゆえに地をのろうことはすまい、人間の心の企ては、幼いときから悪に傾いているからだ。私はもう二度と、すべての生き物をうち滅ぼすことはすまい」(創世記8章21節)。

私たちを混乱させるのは、私たちが、【天主の】沈黙のうちに自分自身と自分の苦難に委ねられているということよりも、現在の犯罪と罪が罰せられていないことが、それ自体で、永遠の御父が私たちに送ることがおできになる罰よりさらに途方もなく厳しい罰であるかもしれないという事実です。異教化した近代は野蛮に陥り、古代の大洪水よりもはるかに悲惨な天罰の鞭を、自らの手で準備しているのです。その鞭は、悪人ではなくむしろ善人、すなわち主とその聖なる法に忠実な人々を地表から一掃することができると信じられている、はるかに巨大な人類の破滅です。そして、彼らが沈められることになるであろう嵐雲が暗黒と脅威を伴って集まってくる間、現代の人々は、自分自身と自分の愛する人々を救おうと求めて自分自身の霊的箱舟を準備している人々を軽蔑し、実際、彼らがそれを完成に至らせるのを妨げるために、あらゆることをしているのです。

聖書と教父は、箱舟は聖なる教会の前表であり、そのおかげにより、選ばれた人々は、人類共同体の難破から自らを救うことができると教えています。

私たちは教会の献堂のための序誦で、こう歌います。「Hæc est arca quæ nos a mundi ereptos diluvio, in portum salutis inducit.」(これは、われらを世界の洪水から救い、救いの港に導く箱舟である)。しかし、救いの箱舟はどこにあるのでしょうか? 上に座す者たちの重みで沈む運命にある偽物と、どう見分ければいいのでしょうか? 悪人を救うために使われる一方で、舵取り人は善人の乗船を妨げ、さらには自分の子らさえも洪水から救い出すに値しない不法移民とみなして追い払っている模造物と、どう見分ければいいのでしょうか?

このような苦悩の思いは、今日、ペトロの玉座に座しているのが誰なのかと考えると、見当違いのことではありません。教会という箱舟は、実際に救われる資格のある人々だけは除いてそれ以外ならば誰でも歓迎したいように思えます。実際、逃げ出すべき洪水がないため、無用のように思われます。さらに悪いことには、天主の御怒りが引き起こすというよりは、人間の悪行が引き起こす巨大な洪水は、実は霊的な再生【霊的にもう一度生まれること】の瞬間であり、同時に、グレート・リセットの妄想的計画に従えば世界の人口を減らす機会であるともみなされているのです。ちょうどタイタニック号のように、乗組員や乗客が酩酊してのんきに踊っている間に、船は沈没させられる氷山に向かって全速力で進んでいます。この氷山は、自分たちは天主の正義から免れると信じている人々の高慢を示す、傲慢な記念碑です。私たちに真の箱舟に乗り込むよう呼びかけるべき人が、この恐ろしい大西洋横断船に乗り込んでおり、私たちには、この男が、邪悪な者たちとともに天主の敵であるこの世の強者たちに乾杯しているのが見えるのです。

しかし、一方で、このような人間的な考察により、私たちが絶望に陥り、生き残れるかを心配せざるを得ないとしても、他方では、真の救いの箱舟を認識することができます。なぜなら、その箱舟が、建てられたカルワリオ山の上に、そして、毎日私たちを待っている祭壇の神秘的なカルワリオの上に用意されているのを見ているからです。

私たちが信頼を置き、私たちを欺くはずのない人々によってさえも、私たちに別の箱舟が指し示されることは、ほとんど問題ではありませんし、箱舟を無用とみなし、その理由で私たちを馬鹿にしたり、私たちが気の狂ったかのように扱ったりする人々がいることも、ほとんど問題ではありません。差し迫った洪水を否定する人々がいて、その人自身が洪水の不敬な建築家であり、気候工学によって大気現象を制御することができるとまで愚かにも思い込んでいるとしても、ほとんど問題ではありません。

真の箱舟、唯一の箱舟が、聖なる教会であることを、私たちは知っています。そして、舵をしっかり握っておられる天主なる舵取り人である私たちの主のみ言葉によって、この箱舟は害を受けることなく洪水を通り抜け、最後には、乾いた土地を見つけて安息を得ることができると、私たちは信じています。このため、私たちは、この箱舟の外で救われるとか、自分で箱舟を作れば救われるとかと惑わされて、欺かれないようにしようと決心しています。

今日のミサの書簡の中で、聖パウロは、福音が教えている「種をまく人」のたとえの例に従って、天主のみ言葉をまく際に直面しなければならなかった試練を、すべて列挙しています。「しかし主は、『あなたには私の恩寵で足りる。恩寵の力は弱さのうちに完成されるからである』と答えられた」(コリント後書12章9節)。私たちの弱さを認識し、私たちの欠陥と無であることを自覚することによって、天主の御力は、私たちの謙遜と天主への信仰が大きければ大きいほど、さらに強く感じられるようになります。「Sufficit tibi gratia mea」(あなたには私の恩寵で足りる)。なぜなら、私たちは、恩寵によって、箱舟に避難所を見いだすに値する者とされるのであり、恩寵によって、大洪水の間そこに留まることができるのであり、恩寵によって、天国の港に到達することになるからです。

ですから、天主の恩寵を失わないようにしましょう。箱舟が私たちを待っている、天使のパンという霊魂のための栄養も見いだすことのできる箱舟が私たちを待っている、神秘の山に登りましょう。

アーメン。

2023年2月12日
Dominica in Sexagesima
六旬節の主日





私たちがこの地上で実際的に物理的に捧げる最も大きなものは、ミサ聖祭です。私たちをすべて捧げる最高の程度は若い青年男女が天主の奉仕のために人生を捧げることです。

2023年02月15日 | お説教・霊的講話

2022年11月6日主日 サマース管区長様 説教 東京

『チェザルのものはチェザルに、天主のものは天主に返せ。』

神父様、そして親愛なる信徒の皆様、
数年の後にここに戻ることができてとても嬉しく思います。

特に、新しく開設された修道院、暁の星修道院に来ることができて嬉しく思います。修道院は日本にとって特別のお恵みです。特に修道院には二人の司祭が常駐しており、そして毎日の朝のミサが昇る太陽とともに捧げられています。これは皆さんにとってそして日本に住むすべての人にとっての特別のお恵みです。

新しい修道院が開設されるというのは、私たちにとっていつも希望の徳を思い出させてくれます。
カトリック信仰を持っている私たちは、いつも希望に満ちていなければなりません。では、希望の徳とは何でしょうか。

希望の徳というのは、私たちが天主から完璧な至福、完璧な幸せに到達することができる、助けを得ること、そしてそれに必要な手段をすべて得られることができる、という信頼です、希望です。
ちょうど信仰と愛徳がそうであるように、希望の徳も洗礼を受けた時に私たちの霊魂に注がれます。
希望の徳は、私たちに自然を超越して、自然を超えるものを希望させます。

私達の天主なる救い主によって約束されたものを私達が受けるという希望に満たされていましょう。天主には不可能な事はありません。この希望の徳は、私たちに今日読んだ福音へと導いてくれます。

主は私たちに命じられました。チェザルにはチェザルに、つまり政府に為すべきことは政府に、そして天主に属するものは天主に返せ、と。

このチェザルに対する義務と天主に対する義務とでは、天主に対する義務が優位性を持っています、優先します。ですから、もしも権威が、当局が、真の天主を信じてはならない礼拝してはならないと言った時に、私たちは従うことができません。なぜかと言うと、私たちには天主に礼拝を捧げる義務があるからです。

私たちは天主に二つのものを捧げなければならない、ということを今日考えましょう。
もちろん私たちは天主にすべてをいただきました。全てをしなければなりませんが、そのうちの特に二つの最も本質的なことを申し上げます。

主は創造主であって、贖い主であって、私たちが持っているすべての良いもの・善の与え主です。
では、全てを受けた私たちは、どうやったら どのようにしたら 主に全てを返すことができるのでしょうか。

私たちのこの地上で持つとても貴重なものは私たちの命です。しかし天主は私たちの命を捧げることは、お望みになっていません。私たちの死を望んではおられません。しかし、創造の最初から人類は天主に命を維持させるもの、このたとえば食べ物などを捧げました。また、私たちのこの地上に生きる間、時間も天主への奉仕として捧げることができます。

個人的にも、あるいは家族でも、あるいは国家としても、これを捧げることができます。最も高いレベルのでは修道召命、天主に人生を捧げるということも可能です。生命を維持するもの、あるいは時間を捧げるということは、天主に捧げることができる最も高度のものです。

また、この私たちがこの地上で実際的に物理的に捧げる最も大きなものは、ミサ聖祭です。この地上で存在しうることができる最も価値のあるものは、私たちの主のカルヴァリオでのいけにえです。このいけにえは社会的な共同体によって捧げられます。私たち個人は、私たちの持っている最も良いものを、このミサ聖祭に捧げるために持参しなければなりません。ですから、ミサでの歌あるいは奉仕あるいは装飾などを、最高の物を捧げなければなりません。ミサのために最もふさわしい場所、あるいは立地条件が最高のものである必要があります。最も本質的なものは、私たちのペルソナの人格的な私たち自身をお捧げすることです。

この私たちをすべて捧げる最高の程度は、モデルは、先ほど申し上げたように、若い青年男女が天主の奉仕のために人生を捧げることです。

そこで私たちは、この二つの事、つまりミサ聖祭と召命について、真剣に考えなければなりません。特に私たちがこの二つの事によって、本当に客観的に天主のものを天主に捧げたかどうかを測る物差しとなります。

私たちは、時には痛みを感じながらも、私たちは天主に最高のものを捧げているだろうか、私たちはこれで満足しても良いのだろうか、まだすべきことはあるのではないか、と考えなければなりません。

日本に常駐している司祭には この二つのことについて、さらによくさせる義務があります。
この国に住む男性も女性も、この二つの事に関してもっとよくする義務があります。
祈りとそして感謝と、そして私たちの犠牲の心がますます寛大になるように、お祈りいたしましょう、この寛大さは天主から戴くことができます。

これら全てを、私たちは天主の御摂理に依存して天主の御摂理に従わなければなりません。
天主は、私たち人類の知恵、あるいは懸命さを使われます。あるいは時には人間の失敗やあるいは悪意さえも使われます。天主には使われることができないものは一切ありませんし、天主には全てがおできになります。

そこで、二人の司祭と、わたくし管区長も、前進するようにと今考えています。このミサ聖祭を捧げるにふさわしい場所が与えられるようにと、この特別の意向を持っています。

それは、私たちの主が御聖櫃のうちから統治して、そして命ずることができる、おおやけの開かれた場所のことです。全ての人が、大祝日そして平日にそして毎週主日に与ることができる場所です。私たちの力の及ぶ範囲で、ミサを捧げることができる最善の場所のことです。

私たちは理性を持っている被造物ですから、ミサを捧げる場所は私たちの家よりも美しくなければなりません。これはどの時代のカトリック信者も理解していたことです。カタコンベの迫害の時代が終わった後に、ローマの上流階級があるいは中流階級がしたことは、自分の家を天主に捧げて、それを教会に変えました。

特にこれは私たちに大きな教訓を与えてくれます、特に寛大であるという教えです。ミサに対する寛大さ、また召命に対する寛大さです。

主に、ただ最高の場所をお捧げするのみならず、私たちの持っている最高の青少年、最も優れた若い人々を、主の奉仕のためにお捧げいたしましょう。

この日本では100万人以上の方々が毎年亡くなっています。その亡くなる方のうち何人が、成聖の恩寵のうちに亡くなるのでしょうか。私たちの祖国、私たちの同胞を本当に愛徳で愛するために、私たちは何ができるでしょうか。

もしも日本の列車が正確に時間正しく早く運行したとしても、もしもその列車が永遠の滅びへと霊魂を運んでいるのであれば一体何の意味があるのでしょうか。

私たち自身の救い、たとえば司祭であれ平信徒であれ、私たち自身の救いは、他の霊魂達の救いに結びついています。もしも他の霊魂達を救うことができなければ、私たちにその責任が問われます。

ミサのいけにえ、そして召命のいけにえという二つのものを捧げることによって、私たちは多くの方の救霊のために貢献することができます。こうすることによって、私達は天主のものを天主に返すことができます。

マリア様に、そしてすべての聖人たちに、この二つの計画・この事業を助けてくださいますようにお祈りいたしましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によって、アーメン 。


イエズスは聖母があってからこそ、聖母が私たちの霊的な母となられて私たちを生み出すことができた。

2023年02月15日 | お説教・霊的講話

2022年11月5日(初土) 修道院 小野田神父 説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

サマーズ神父様、そして愛する兄弟姉妹の皆様、
今日は初土曜日のミサをしています。マリア様の汚れなき御心の信心を行いましょう。このミサのあとで御聖体降福式があります。

福音のなかでは、イエズス様はマリア様を指して聖ヨハネに向かって、「汝の母を見よ」とおっしゃいました。そしてマリア様に向かっては「汝の子を見よ」 Ecce mater tua. Ecce filius tuus. と言いました。

ポンシオ・ピラトは、イエズス様についてはこう言いました。Ecce homo. 「この人を見よ」つまり、その文脈では「お前たちの王を見よ」と。そしてこの王は、第二のエワを、私たちに母を与えてくださいました。マリア様です。このことはただ偶然起こったことではありません。世の最初から計画されていたことでした。

天主は、アダムとエワの時代から、アダムに助け手を与えようと思っていました。
アダムのわき腹からエワが生まれたように、そしてアダムというその一人から女なしにエワが生まれたように、マリア様という第二のエワから男無しに第二のアダムであるイエズス・キリストが生まれ、マリア様とイエズス様は第二のアダム・第二のエワとして愛する多くの人類を贖うために計画されていました。これはもちろん旧約時代、旧約聖書でいろいろ多くのところで預言されていました。 

アブラハムはサラがあったからこそ救いの民を作ることができましたし、またノアも、ノアの妻があったからこそその子供たちを救うことができました。

イエズス様もマリア様があってからこそ、マリア様が私たちの霊的な母となられて私たちを生み出すことができ、そして11月の1日に祝った諸聖人たちは、まさにマリア様の子どもとして天国にいます。

私たちも是非マリア様の御心にいて、マリア様を母として、そして天国に遂に生まれますように、今日汚れなき御心の信心を行いましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によって、アーメン。


ジョージ・ペル枢機卿:カトリック教会はこの「有害な悪夢」から自らを解放しなければならない

2023年02月14日 | カトリック・ニュースなど

故ジョージ・ペル枢機卿:カトリック教会はこの「有害な悪夢」から自らを解放しなければならない

The Catholic Church must free itself from this ‘toxic nightmare’

シノドスはなぜ、報いや罰といった死後の世界、死と審判、天国と地獄といった四つの最後のこと【四終】について沈黙しているのだろうか?

司教たちは、天主の御名においてなすべきことがあることを、遅かれ早かれ必ず認識するだろう。

2023年1月11日

火曜日(1月10日)に亡くなる直前、ジョージ・ペル枢機卿は「ザ・スペクテーター」(The Spectator)【英国の週刊誌】のために以下に掲載するような記事を書き、バチカンが間もなく開催する「シノダリティーに関するシノドス」の計画を、「有害な悪夢」‘toxic nightmare’と糾弾した。今年と来年の二回に分けて開催されるシノドスによって作られる小冊子は、「ローマから送られた最も支離滅裂な文書の一つ」であるとペルは言う。「新マルクス主義のたわごとで表現されている」だけでなく、「使徒継承の聖伝を敵視し」、天主の御裁き、天国と地獄に対する信仰など、キリスト教の基本的教義を無視している。

このオーストラリア出身の枢機卿は、無罪になるまで、性的虐待の冤罪【えんざい:無実であったが断罪された】により母国で投獄されるという恐ろしい試練に耐えたが、勇気ある人物でなければ、どうにもならかったことだろう。この文章を書いたとき、彼は自分がすぐ死ぬことになろうとは思いもよらなかった。この文章が発表されたとき、教皇フランシスコとシノドス主催者たちの怒りに直面することを覚悟していた。現状では、彼の急死は、10月に開催されるシノドスの際、その言葉をさらに力強いものにするのかもしれない。(ダミアン・トンプソン)


カトリック教会はこの「有害な悪夢」から自らを解放しなければならない
ジョージ・ペル枢機卿

カトリックの司教シノドスは、現在、彼らが考える「天主の夢」であるシノダリティー【共歩性】の構築に忙しくしている。残念ながら、この天主の夢は、司教たちが公言する善い意向にもかかわらず、有害な悪夢となってしまっている。

司教たちは、世界各地で行われた「聞き取りと識別」という第一段階の議論についての説明を示す45ページの小冊子を作成したが、それは、これまでローマから送られた文書の中で、最も支離滅裂なものの一つである。

世界中のカトリック信者、特にアフリカとアジアのカトリック信者が増加していることを私たちは天主に感謝する一方で、ラテンアメリカでは状況は根本的に異なっており、世俗主義者だけでなくプロテスタントにも信者を奪われている。

皮肉なしに言うが、この文書のタイトルは「Enlarge the space of your tent」(日本語訳:あなたの天幕に場所を広く取りなさい)であり、そうする目的は、新しく洗礼を受けた人々、つまり悔い改めて、信じるようにとの呼びかけに応じた人々ではなく、耳を傾けることに十分関心を持つ人々なら誰であれ、もてなすことにある。参加者は、「誰も排除されない」ように、歓迎され、徹底的に包括的になるように勧められている。

このようなニューエイジの善意の寄せ集め、発露を、どう考えたらよいのだろうか?

この文書は、カトリック信者の参加者にさえ、諸国の民を弟子にすること(マテオ28章16-20節)、ましてや、よい折があろうとなかろうと救い主を宣べ伝えること(ティモテオ後書4章2節)を勧めてはいない。

すべての人、特に教師にとっての最初の仕事は、聖霊に耳を傾けることである。最新版の良き知らせ【福音】によると、教会のあり方としての「シノダリティー」は、定義すべきものではなく、ただ生きるべきものだという。それは、五つの創造的な緊張を中心に展開され、徹底的な包括性で始まり、参加方式での宣教へと向かい、「他の信者や善意の人々との共同責任」を実践する。戦争、大量虐殺、聖職者と信者の間のギャップといった困難な点も認識されているが、すべては活発な霊性によって持続可能だと司教たちは言う。

教会が主を中心として広がる天幕であるというイメージは、イザヤ書から来ている。そのポイントは、この広がる天幕が、人々の声を聞く、裁かない、排除しない場所であると強調することである。

そのため、天主の民には新しい戦略が必要で、それは、喧嘩や衝突ではなく、信者と未信者の区別を拒否する対話である、と書かれている。天主の民は、貧しい人々や大地の叫びを実際に聞かなければならないと主張している。

中絶、避妊、女性の司祭職への叙階、同性愛の活動については意見が分かれるため、一部の人々は、これらの問題については決定的な立場を確立したり提案したりすることはできないと感じている。このことは、一夫多妻制や離婚・再婚についても当てはまる。

しかし、この文書は、多くの司祭の積極的な貢献を認めながらも、女性の地位が劣っているという特別な問題や聖職者主義の危険性については明確である。

このようなニューエイジの善意の寄せ集め、発露を、どうしたらよいだろうか? この文書は、カトリックの信仰や新約の教えを要約したものではない。この文書は不完全で、使徒継承の聖伝に対して著しく敵意を持っており、新約を天主のみ言葉として信仰と道徳に関するすべての教えの規範であると認めているところはどこにもない。旧約は無視され、家父長制は否定され、十戒を含むモーゼの律法も認められていない。

まずは指摘できるところが2点ある。2023年と2024年にローマで開かれる二つの最終シノドスでは、道徳的な問題に関する教えを明確にする必要がある。報告者(Relator)(主筆兼管理者)のジャンクロード・オロリッシュ枢機卿が、性的な事柄に関する教会の基本的教えを、現代科学と矛盾するという理由で公に否定したためである。通常の時代であれば、このことは、彼が報告者を続けることが不適切であることを意味し、実際不可能だった。

シノドスは、司教たちが信仰と道徳に関する使徒継承の聖伝の奉仕者にして擁護者であるか、あるいは、司教たちが自分たちの識別力により、カトリックの教えの上にたつ主権【変更する力】を主張せざるを得ないとするのか、を選択しなければならない。司教たちは、司祭職や道徳のようなことについての基本的な教えが、多元主義的なリンボ――そこでは罪をレベルを下げて再定義する【多くが罪であるとはされない】ことを選択する者もいれば、ほとんどの人は【定義は】異なっていると敬意をもって同意する――に置かれうるのか【旧約の義人たちの霊魂がイエズス・キリストの贖いが完成するまで長い年月の間天国に行けずにリンボにとどまったように、基本的なカトリックの教えが明確な定義を与えられずにいることがありうるのか】を決定しなければならない。

「天幕を広げよ」は司教たちの失敗に気づいている

シノドスの外では、規律は緩んでいる。特に北欧では、司教が反抗する権利を主張した後でさえ、少数の司教たちは叱責されていない。一部の教区や修道団体では、同性愛行為を祝福するようなことについて、事実上の(de facto)多元主義がすでにより広く存在している。

教区司教は使徒の後継者であり、各教区の教師の頭であり、地域での自らの民の一致およびペトロの後継者である教皇を中心とする普遍的な一致の中心である。リヨンの聖イレネオの時代から、司教は、キリストの教え、使徒継承の聖伝に忠実であり続けることの保証人でもある。司教は統治者であり、時には裁判官であり、また、教師にして秘跡を執行する者でもあり、単なる壁の花やゴム印ではない。

「天幕を広げよ」は司教たちの失敗に気づいている。司教たちは、時に耳を貸さず、独裁的な傾向を持ち、聖職者主義的で個人主義的であるからだ。希望のしるし、効果的な指導力と協力のしるしもあるが、この文書は、ピラミッド型の権威モデルは破壊されるべきであり、真の権威は愛と奉仕から来るものであると述べている。聖職者に叙階されることではなく、洗礼の尊厳が強調されるべきであり、統治方式は位階的よりも、循環的で参加的であるべきだという。

すべてのカトリックのシノドス(および公会議)と、すべての正統なシノドスにおける主役は、司教たちだった。司牧的な取り組みが健全な教理の範囲内にとどまるように、このこと【シノドスにおける主役は司教たちであること】を、穏やかで協力的な方法のうちに、大陸のシノドスで主張し、実践すべきである。司教たちがそこに集まっているのは、単に、自分たちが見聞きしたことに、適正な手続きが踏まれていたかを検証して、障害なし(nihil obstat)【教会認可】を出すためではない。

平信徒、修道者、司祭、司教というシノドス参加者の誰に対しても、投票を許されず議案を提案できないと規定するシノドスなど、何の役にも立ちはしない。組織委員会の見解だけを教皇に伝え、決定したとおりに教皇が行うのならば、シノダリティーを濫用し、司教たちを脇に追いやることになる。このようなことは、聖書や聖伝によって正当化されるものではない。これは、適正な手続きではなく、操作される恐れがある。

このシノドスの結果については、圧倒的な差をもって、世界中の毎週礼拝に集まるカトリック信者は支持していない。また、教会の高位レベルでもあまり熱心ではない。この種の継続的な会議は分裂を深め、少し知っている者ならば、泥沼と善意を悪用することができる。私たちの中の元英国国教会信者は、深まる混乱、聖伝の道徳に対する攻撃、そして排除や疎外、アイデンティティー、周縁化、声なき者、LGBTQに関する新マルクス主義の専門用語の対話への挿入、また、キリスト教的な赦し、罪、犠牲、癒やし、贖いの概念の置き換えが行われていることを、正しく認識することができる。なぜ、報いや罰といった死後の世界、死と審判、天国と地獄といった四つの最後のこと【四終】について沈黙しているのだろうか?

これまでのところ、シノドスのやり方は、超越的なものを軽視し、実際には格下げし、聖霊への訴えをもってキリストの中心性を覆い隠し、特に参加者の間で憤慨を助長してきた。

作業文書は教導権の一部ではない。その文書は議論のための基礎の一つであり、天主の民全体、また特に教皇とともに、教皇のもとにいる司教たちによって判断されるべきものである。この作業文書は根本的な変更を必要とする。司教たちは、天主の御名においてなすべきことがあることを、遅かれ早かれ必ず認識するだろう。


手による聖体拝領についての説教:

2023年02月13日 | お説教・霊的講話

手による聖体拝領についての説教

ドモルネ神父

はじめに

教皇ベネディクト十六世以来、トリエント・ミサと新しいミサは同じものだと主張する人々がいます。彼らはまた、ご聖体を舌で受けるのも、手で受けるのも同じだと主張し、そのため、信者には、どちらの方法でご聖体を受けるかを選ぶ自由が与えられるべきだ、と教えています。この教えは誤りです。今日は、昔と現在の、手による聖体拝領のやり方について、お話しします。

1.教会の初期の数世紀における手による聖体拝領

教会の初期の数世紀、通常、ご聖体は手で受けていました。何人かの教父や、教会著者たちの証言から、私たちはこれを知っています。たとえば、エルザレムの聖チリロ(313-387年)は、こう書いています。「聖なる祭壇に行くときは、両手を伸ばしたり、指を開いたりして行ってはならず、むしろ、その手で王を受けるのであるから、左手を右手の玉座とし、『アーメン』と言いながら、手のくぼみにキリストの体を受けなさい」(第五秘跡伝授カテケージス、348年)。

教会の初期の数世紀における手による聖体拝領の儀式は、今と同じではありませんでした。当時、信者は、聖体拝領の直前に、両手を洗わなければなりませんでした。信者は、ご聖体を受けるにあたって、腰をかがめました。司祭は、信者の右手にホスチアを置き、信者は、左手ではホスチアに触れることなく、それを口に持っていきました。教会の少なくとも一部の地方では、女性は、小さな白い布で手を覆わなければなりませんでした。ホスチアのかけらがひとつでも地面に落ちないように、細心の注意が払われました。エルザレムの聖チリロは、はっきりと、こう言っています。「何ひとつ、地面に落とさないように、気を付けなさい。あなたがかけらを落としてしまうならば、それは、あなたが自分の体の一部を失うのと同じである。もしも誰かが、あなたに金の粉を与えたとしたら、あなたは、自分がそのひとつでも失ってしまうことがないように、それを、大変注意深く、集めるのではないだろうか? それなら、金よりも、ダイヤモンドよりも、遙かに貴重なものについて、そのいかなるかけらさえも失うことがないように、あなたは、それよりずっと注意深くあるべきではないだろうか?」。

【参考】「手による聖体拝領は、ふさわしいやり方なのか?」

2.手による聖体拝領から舌による聖体拝領への変更

手による聖体拝領から舌による聖体拝領への変更は、9世紀に起こりました。これには、いくつかの理由がありました。第一の理由は、ホスチアのかけらが散乱する危険性を減らすためでした。第二の理由は、ご聖体に対する尊敬と崇敬の念を、より強く表すためでした。実際、舌でご聖体を受けることは、ホスチアにおけるイエズス・キリストの真の現存に対する信仰を、より直接的かつ明確に表現しています。第三の理由は、司祭の役割と使命を、明確に確認するためでした。実際、司祭から舌でご聖体を受けることは、司祭が天主と人の仲介者であり、ご聖体の唯一の役務者であることを、より直接的かつ明確に表現しています。

この、手による聖体拝領から舌による聖体拝領への変更は、聖霊の霊感のもとに行われた、典礼上の進歩でした。実際、この変更により、典礼は、カトリックの信仰を正確に表現し、信者が良い心構えで祈り、秘跡を受ける、という二つの目的を、よりよく達成することができるようになったのです。

3.第二バチカン公会議の典礼革命と手による聖体拝領への回帰

1969年5月29日、教皇パウロ六世の教令「メモリアーレ・ドミニ」によって、教会で再び、手による聖体拝領を行うことが許可されました。第二バチカン公会議の後に改革されたローマ典礼によれば、司祭、あるいは、シスターや平信徒でさえもが、ホスチアを拝領者の左手に置くこととされ、拝領者はそれを右手で取り、口に運ぶこととされています。このようにして手でご聖体を受ける方法は、教会の初期の数世紀に行われていたものとは相当異なっていることが、お分かりいただけると思います。

教皇パウロ六世が、再び手による聖体拝領を認めたのは、なぜだったのでしょうか? また、もっと一般的に言えば、教皇がミサの典礼を変更したのは、なぜだったのでしょうか? 教皇パウロ六世の親友だったジャン・ギトン氏は、1993年に、ラジオで、次のことを明かしました。「パウロ六世は、ミサの中で(…)カトリック的すぎるものを消すか、少なくとも修正するか、少なくとも緩和する、また、ミサをカルヴァン派の晩餐にあわせる、という、エキュメニカルな意向を表しました」。今行われているような手による聖体拝領は、ご聖体におけるイエズス・キリストの真の現存を信じないプロテスタントの異端とうまく付き合っていくために、導入されたのです。実際、プロテスタントは、ご聖体を単なるパンとみなしています。

4.現在の手による聖体拝領のやり方は誤っている

さて、こんな質問をしてみましょう。私たちは、第二バチカン公会議の後に改革されたローマ典礼に従って、手でご聖体を受けることができるでしょうか? 教会は、9世紀まで、手による聖体拝領を許していたのですから、今、このやり方を再開することはできないのでしょうか? 答えは、「できない」です。その理由は二つあります。

第一の理由は、教会の初期の数世紀に良かったことが、必ずしも今に最適とは限らないということです。聖霊の影響のもとで、教会は、典礼を改良してきました。何世紀にもわたって、教会は、カトリックの信仰を、より正確かつ完璧に表現し、特にご聖体における、私たちの主イエズス・キリストへの敬意と愛の表現を完成させてきました。教会の初期の数世紀の典礼上のやり方を、単にそれが古いものだという理由から再び使おうとすることは、教会における過去数世紀にわたる聖霊の働きを否定することになります。

第二バチカン公会議の改革された典礼に従った手による聖体拝領を拒否する第二の理由は、私たちの主イエズス・キリストに対して持つべき信仰と敬意を保持するためです。手による聖体拝領は、ご聖体におけるイエズス・キリストの真の現存に対する信仰を、舌による聖体拝領ほどにはよく表しておらず、そのため、そのようなやり方は信者の信仰を弱めてしまいます。手による聖体拝領は、まず、信者の不熱心さや無関心につながり、次に、信仰の喪失につながります。また、手による聖体拝領は、ホスチアのかけらが散乱することから、濫用や冒涜の機会を生み、ホスチアの盗難を促進してしまいます。このようなことを示す事実は、残念ながら、たくさんあるのです。

結論

親愛なる信者の皆さん、新しいミサにあずかるのも、トリエント・ミサにあずかるのも同じだと言う人々は、自分が間違っているのであり、皆さんを惑わせてしまっているのです。オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ枢機卿は、早くも1969年の時点で、ミサの新しい典礼を非難して、こう言っています。「ノブス・オルドは、その全体においても、またその詳細においても、ミサのカトリック神学から、目を見張るばかりに逸脱しています」。
【参考】オッタヴィアーニ・バッチ両枢機卿のパウロ6世教皇聖下への手紙

同様に、ご聖体を舌で受けるのも、手で受けるのも同じだと言う人々は、間違っているのであり、皆さんを惑わせてしまっているのです。カトリックの聖体拝領の方法は、舌で受けることであり、さらにできるならば、ひざまずいて受けることです。

今日、熱心な聖体拝領を行いましょう。そして、手による聖体拝領の際にご聖体に対して行われている冒涜に対する償いとして、この聖体拝領を捧げるよう、皆さんにお勧めします。


【参考情報】公会議はたった一本の糸にぶら下がっているだけである:ヴィガノ大司教による、リード、カヴァディーニ、ヒーリー、ワイナンディへの返答

2023年02月13日 | カトリック・ニュースなど

【参考情報】公会議はたった一本の糸にぶら下がっているだけである(危機に瀕している公会議):ヴィガノ大司教による、リード、カヴァディーニ、ヒーリー、ワイナンディへの返答

ここでの問題は、モンティーニ【パウロ六世】のミサを考案したファリザイ派的偽善を隠そうとして、祭服やグレゴリオ聖歌を使って、新しいミサを昔のミサのように「着飾らせる」ことではありません。第二奉献文(Prex eucharistica II)をやめたり、東を向いて(ad orientem)ミサを捧げたりすることでもありません。戦いは、トリエント・ミサにおける天主中心のビジョンと、第二バチカン公会議以後の偽のミサにおける人間中心のビジョンと間にある存在論的違いに関するものです。

2023年1月24日(火曜日)

THE ONE THREAD BY WHICH THE COUNCIL HANGS

カルロ・マリア・ヴィガノ

A response to Reid, Cavadini, Healy, and Weinandy

武装した軍勢が
聖所、城壁を汚しに立ち、
日々のいけにえを廃し、
そこに、荒廃のいとわしいものを立てる。

(ダニエル11章31節)

私は、「トラディティオーニス・クストーデス」(Traditionis Custodes)に関する現在進行中の論争と、リード(Reid)神父が、カヴァディーニ(Cavadini)、ヒーリー(Healy)、ワイナンディ(Weinandy)に反論するコメント(こちら)を興味深く読んできました。しかしそこでは、指摘された問題に対する解決策には至っていません。私はこの投稿で、現在の危機を脱する可能性のある方法を示したいと思います。

第二バチカン公会議は、教義的公会議ではなく、教理的な真理を定義する意向を持っていませんでした。第二バチカン公会議は、それ以前に教導権の不可謬の権威によって明確かつ曖昧さのない形で定義された教理を、間接的に、かつしばしば曖昧な形で、再確認するにとどまっていました。【それにもかかわらず】この公会議は、不当かつ強引に、「ザ」公会議、新しい「公会議の教会」の「スーパー教義」とみなされ、その行事【公会議】との関連で教会を定義するまでになったのです。公会議の文書には、典礼の領域で後に行われたことについての明確な言及はなく、典礼憲章「サクロサンクトゥム・コンチリウム」(Sacrosanctum Concilium)が成就したものだと見せかけられています。その一方で、いわゆる「改革」には多くの批判的な問題があり、このことは、公会議の教父たちの意志と公会議以前の典礼上の遺産に対する裏切りを表しています。

むしろ、私たちが自問すべきなのは、公会議が望んでいるものには思えない行為に、どのような価値を与えているか、ということです。このような行為を公会議と呼ぶことができるのか、ということです。つまり、「検邪聖省が長い時間をかけて詳細に策定した準備草案という公式の準備前提を超えて、その言及できない意向において破壊転覆的であることを見せている行為、さらには、すでに明らかになったように、教会が公会議を設立した目的とは正反対の目的のためにそれを利用しようという意向を持った人々が使う手段において悪意のあることを見せている行為」を、道徳的に「公会議」とみなすことができるかどうか、ということです。この準備前提は、公会議に由来する、あるいは公会議を参照する教会の他の行事や統治行為をも客観的に評価できるようにするために不可欠なものなのです。

説明させてください。私たちは、法が、それが生まれる法体系全体から切り離すことのできない、ある〈心〉(mens)、つまり、その正確な目的に基づいて公布されることを知っています。少なくともこれらは、教会の知恵がローマ帝国から獲得した法の基礎となるものです。立法者は、ある目的をもって法を公布し、〈その特定の目的のためにのみ〉適用されるように定式化します。したがって、立法者は、その対象者、目的、結果に関して、法を曖昧にしかねない、いかなる要素も回避するでしょう。公会議の招集は、教理、道徳、典礼、教会規律の特定の側面を定義するために、ローマ教皇の権威の下、教会の司教たちを荘厳に招集することを目的としています。しかし、それぞれの公会議が定義するものは、いかなる場合でも聖伝の範囲内になければならず、いかなる形でも不変の教導権に反することはできません。なぜなら、不変の教導権に反してしまうと、教会における権威を正当化する目的に反することになるからです。同じことが教皇にも当てはまり、教皇は、信仰において兄弟姉妹を強め、主が教皇に託された群れの小羊や羊を牧するという、自らの任務の範囲内において〈のみ〉、全教会に対して完全で、間になにも介さない、直接的な権能を持っているのです。

第二バチカン公会議までの教会の歴史において、ある公会議がそれ以前の公会議を〈事実上〉(de facto)取り消すということは決してありませんでしたし、「司牧的」公会議――第二バチカン公会議という孤語(ἅπαξ、hapax)――が20回の教義的公会議以上の権威を持つということもあり得ません。しかし、司教団の大多数の沈黙の中で、ヨハネ二十三世からベネディクト十六世までの5人のローマ教皇の承認のもとに、それは起こりました。この50年の永久革命の中で、どの教皇も第二バチカン公会議の「教導権」に疑問を呈したことはなく、あえてその異端的なテーゼを非難し、そのあいまいなテーゼを明確にすることはありませんでした。その反対に、パウロ六世以降のすべての教皇は、第二バチカン公会議とその実施を教皇在位中のプログラム上の支点とし、自分たちの持つ使徒由来の権威を公会議という〈絶対命令〉(diktats)に従属させ、拘束しました。彼らは、【公会議前の】前任者たちから明確に距離を置くことによって、またロンカリ【ヨハネ二十三世】からベルゴリオ【フランシスコ】に至るまで顕著な自己参照性によって、自分たちを前任者たちと区別してきました。彼らの「教導権」は第二バチカン公会議に始まって第二バチカン公会議に終わり、その後継者たちは、公会議を招集し、終結させ、適用したという事実のみで直前の前任者たちを聖人と宣言しています。神学用語もまた、公会議の文書の曖昧さに適応し、公会議以前には異端とみなされていたものを、定義された教理として採用するまでになりました。その例として、今日では当然のこと、賞賛すべきこととされている国家の無宗教主義や、アシジやアスタナの平和的エキュメニズム、また多くの委員会、司教たちのシノドス、ドイツ教会の「シノドスの道」などの議会主義について考えることができるかもしれません。

これらのことはすべて、ほとんど誰もが当然のことと思っている仮定から生じています。その仮定とは、第二バチカン公会議が公会議としての権威を主張することができ、その権威の前にして、信者はすべての判断を停止しなければならず、たとえ教義的形式ではなく「司牧的」形式であったとしても、聖なる牧者たちによって不可謬的に表明されたキリストのご意志に謙虚に頭を下げるとされている、というものです。しかし、そうではありません。なぜなら、聖なる牧者たちは、公会議を破壊転覆的に利用することを目的とした巨大な陰謀に欺かれているかもしれないからです。

第二バチカン公会議において世界レベルで起こったことは、1786年にピストイアのシノドスにおいて地域レベルで起こりました。このとき、スキピオーネ・デ・リッチ司教が教区のシノドスを招集して合法的に行使できた権限を、詐欺的に(in fraudem legis)、つまり教会のあらゆる法を主宰し指示する理(ratio)に反して行使したとして、ピオ六世が完全に無効と宣言しました。[1]なぜなら、教会における権威は、そのかしらである私たちの主に属するものであり、主は、聖伝の枠組みの中でのみ、ペトロとその正当な後継者に代理の形でその権威をお与えになっているからです。したがって、1789年にフランス王政に対してフリーメーソンが同様の方法で組織し、近代主義者のスーネンス枢機卿が公会議で実現したと賞賛した革命を押し付けるために、異端者の集会が教会の中で本当のクーデターを組織できたと仮定することは、不謹慎な仮説ではありません。このことは、教会に対するキリストによる天主の援助の確実性と矛盾しません。地獄の門が〈教会に勝てぬ〉(non prævalebunt)とは、紛争、迫害、背教がないことを約束するのではなく、〈地獄の門〉が小羊の花嫁に対して激しい戦いを仕掛ける際、キリストの教会の破壊に成功することはないことを保証するものなのです。教会は、永遠の大司祭【キリスト】が命じたとおりにとどまる限り、敗北することはありません。さらに、教皇の不可謬権に対する聖霊の特別な援助は、例えば司牧的公会議の教令を承認する場合のように、教皇に不可謬権を行使する意向がない場合、問題になることはありません。理論的な観点から言えば、公会議の〈破壊転覆的かつ悪意ある利用〉は可能です。また、聖書が語っている〈偽キリスト(pseudochristi)や偽預言者(pseudoprophetæ)〉(マルコ13章22節)は、公会議の教父たちのほとんどを含む選ばれた者たち自身を、そして彼らと共に多くの聖職者と信者さえをも、欺くことができるからです。

したがって、明らかなように、もし第二バチカン公会議が、異端の教理とプロテスタント化した典礼を押し付けるために、その権威と権威を持っていることとを不正に(fraudulently)利用した道具であったとすれば、遅かれ早かれ、聖なる正統な教皇が玉座に戻ることによって、ピストイアの偽公会議(Conciliabolo)のように、公会議を非合法、無効、存在せずと宣言して、この状況を解決することが期待できます。そして、もし改革された典礼が表現しているものが、第二バチカン公会議の中に含まれていた教義上の誤謬や教会論的アプローチ、〈簡潔に言えば〉(in nuce)、「公布された後になって初めて作者がその破壊的範囲を明らかにするつもりだった誤謬」であるのなら、ドン・アルクイン・リードが主張したいように、いかなる「司牧的」理由をもってしても、そのもっともらしくて曖昧で〈異端を助長する〉(favens hæresim)典礼、つまり天主の聖なる民への影響が完全に破壊的となったものを維持していくことを正当化することはできません。したがって、ノブス・オルド(Novus Ordo)とは、いかなる修正にも値せず、いかなる「改革の改革」にも値するものではありません。そうではなく、「カトリック典礼」に対してノブル・オルドが持つ救いがたい異質性の結果として、つまり「ノブス・オルドが、自らが唯一の表現であるとおこがましくも主張しているようなローマ典礼様式」に対する異質性、また「教会の不変の教理」に関する異質性の故に、ノブル・オルドはただ単に禁止して廃止するしかないものです。「聖パウロが主張するように、嘘には反論しなければなりませんが、その罠にはまった人々は、彼らを救い、彼らが失わないようにしなければなりません」とドン・アルクインは書いています。しかし、啓示された真理や、礼拝という最高の行為における至聖なる三位一体の名誉に害を与えてはなりません。なぜなら、司牧性を過度に重視すると、聖なる行為の中心に天主を置いて礼拝の沈黙の中で天主の御前にひれ伏すべきときに、その中心に人間を置くことになってしまうからです。

ベネディクト十六世が考案した〈連続性の解釈法〉(hermeneutic of continuity)の支持者を驚かせるかもしれませんが、トリエント・ミサを第二バチカン公会議に対する耐え難い脅威とみなすベルゴリオ【フランシスコ】は、今回だけは完全に正しいと私は信じています。なぜなら、そのトリエント・ミサは、同じローマ典礼の二つの形式の間で平和的に共存しようとする試みを否定するほどカトリック的であるからです。実際、アンブロジオ典礼、リヨン典礼、モサラベ典礼、そしてドミニコ会典礼や似た典礼の最小限の変形版といった古代の由緒ある典礼を限られた例外として、ローマ教会の唯一の声――〈一致して一つの声で賛美を言いながら〉(una voce dicentes)――を表さなければならない典礼に、〈通常形式の〉モンティーニ【パウロ六世】の形式と〈特別形式の〉トリエントの形式を考えることができるというのは不合理です。繰り返しますが、「トラディティオーニス・クストーデス」の著者は、聖ピオ五世のミサが完璧な祈りの表現であるカトリック教会の宗教に対して、ノブス・オルドが、「公会議の教会」の宗教という別の宗教の礼拝表現であることをよく知っているのです。ベルゴリオには、聖伝の系譜と第二バチカン公会議の系譜の間の不一致を解決しようという願望はありません。それどころか、カトリック教会に取って代わり、かろうじて(そして嫌々ながら)その名を保っている「公会議の教会」から、聖職者であれ信者であれ、聖伝のカトリック信者を排除するために、分断を挑発するという考えが働いているのです。サンタマルタ館が望む離教とは、ドイツの諸教区の異端的な〈シノドスの道〉の離教ではなく、ベルゴリオの挑発により、彼の宮廷のスキャンダルにより、その不謹慎で分裂的な宣言(こちらこちら)により、憤慨した聖伝のカトリック信者の離教なのです。これを得るために、ベルゴリオは、自分が無条件に支持している第二バチカン公会議が定めた原則を、極限にまで実行することをためらわないでしょう。つまり、ノブス・オルドを公会議後のローマ典礼の唯一の形式とみなし、公会議の教義的な構造とは完全に異質のものとして、古代のローマ典礼の挙行を一貫して廃止するでしょう。

そして、二つの異質な、実際には対立する教会論的ビジョンの間に和解の可能性がないことは、まさに真実であり、どんな反論もできません。一方が生き残って他方が屈服するか、一方が屈服して他方が生き残るかのどちらかです。ヴェトゥス・オルド【古いミサ】とノブス・オルド【新しいミサ】が共存するというキメラは、不可能で、人工的で、詐欺的です。なぜなら、使徒継承のミサで司式司祭が完璧に行うことは、その司祭に、教会が望むことを、自然に、そして不可謬的に行わせるからです。一方、改革されたミサで集会の座長が行うことは、たとえその中で聖なる犠牲が有効に実現されるとしても、ほとんど常に儀式自体によって認められた可変部分に影響されるからです。ですから、新しいミサの持つ公会議的な母体を構成しているのは、まさにこの点なのです。つまり流動性です。言い換えると完全に異なる「団体」の必要性にも適応できることです。つまり新しいミサは、全実体変化を信じて、定められたひざまずきでそれを表明する司祭によっても捧げられるし、また意味変化(transignification)【聖体の実体が変わるのではなく「意味」が変わるだけだという主張】しか信じないで信者の手にご聖体を授ける司祭によっても、捧げられるのです。

したがって、ごく近い将来、聖なる教会を解体し、「公会議前の【典礼を好む】」カトリック信者が集団で教会脱出を引き起こすために使徒的権威を濫用している人々が、古代のミサの挙行を制限するだけでなく、それを完全に禁止することを躊躇しないとしても、私は驚かないでしょう。なぜなら、その禁止には、真、善、美に対するセクト的憎悪が要約されており、これが、彼らの偶像である第二バチカン公会議の第一総会以来、近代主義者の陰謀を動かしてきたからです。忘れないでいただきたいのは、この狂信的で専制的なアプローチに矛盾しないように、トリエント・ミサはパウロ六世の「ミサーレ・ロマーヌム」(Missale Romanum)の公布によって実質的に(casually)廃止されたこと、また、そのミサを捧げ続けた人々は文字通り迫害され、追放され、失意のうちに死に追いやられ、新しい典礼様式の葬儀で葬られた――あたかも決定的に忘れ去られるべき過去に対して、みじめな勝利の封印をするかのように――ことです。また当時は、教会法の厳しさを制限する司牧的動機に誰も関心を持ちませんでした。それはちょうど今日、聖職者や信者が特に愛着を示す古代の典礼の挙行を認めるよう多くの司教を説得できる司牧的動機に誰も関心がないのと同じです。

ベネディクト十六世の融和的な試みは、〈古いミサの使用〉(Usus Antiquior)の自由化という一時的な効果においては賞賛に値しますが、まさに「スンモールム・ポンティフィクム」(Summorum Pontificum)のジンテーゼを、トリエントのテーゼとブニーニ【新しいミサを作った作者】のアンチテーゼに適用できるという幻想から生じたために、失敗する運命にありました。ヘーゲル思想に影響を受けたその哲学的ビジョンは、カトリックか否かという教会(そしてミサの)の本質のために成功しませんでした。教会やミサは、聖伝にしっかりと根を下ろすと同時に世俗化したメンタリティーの波に揺さぶられる、ということはあり得ないのです。

この理由で、使徒継承のミサ【聖伝のミサ】を、ドン・リードが「キリストの教会の一部であるその正当な複数性の表現」と考えているのを読んで、私は大いに落胆しています。なぜなら、声の複数性ということは、調和と金切り声の騒音が同時に存在することではなく、全体的な交響的統一の中で正当に表現されるものだからです。ここには、できるだけ早く明確にしなければならない誤解があります。その誤解は、"自分たちのために寛容さを求め、同時に、正反対の原則を持つ人々にも同じ寛容さを与えるような人々の臆病で平穏な反対意見"によって癒されるのではなく、それよりはむしろ、多分に、ミュラー枢機卿が最近の講演で正しく指摘したように、"教会のかしらであるキリストの意志に反して、神秘体を多国籍企業のように支配できると思い込んで、自分たちの意志を押しつけることができると考える人々の非寛容で苛立たしい行動"を直視することによって癒されることでしょう。

しかし、よく考えてみると、今日起こっていること、そして近い将来起こるであろうことは、過去に確立された前提の論理的帰結にほかなりません。多かれ少なかれゆっくりとした長い一連の何歩かの後の次の一歩であり、その一歩一歩については多くの人々に黙殺されてきており、その一歩一歩が脅迫によって受け入れられてきたのです。なぜなら、トリエント・ミサを習慣的に捧げながらも、時折ノブス・オルドを捧げ続ける人々――私が述べているのは、脅迫を受けた司祭のことではなく、自分で決めることができた司祭、選ぶ自由があった司祭のことです――はすでにその原則に屈し、どちらか一方を同等に、まるで――まさに――同じ典礼の特別形式と通常形式のように、捧げることを受け入れているからです。そして、このことは、パンデミックの脅威におびえて大多数の人々が黙って受け入れた、制限の押し付けや基本的権利の侵害を含む、世俗の領域において同様の手法で起こったことではないでしょうか? そのような状況下でも、動機は異なりますが、同様の目的で、市民は脅迫されてきたのです。「ワクチンを受けなければ、仕事も旅行もレストランにも行けないぞ」と。そして、これが権力の濫用であることを知りながら、どれだけの人が従ったのでしょうか? 合意形成の操作システムは、それを採用する人々が同じ敵の陣営からやって来て、同じ蛇【悪魔】に導かれているとき、まったく異なるものだと思いますか? クラウス・シュワブの世界経済フォーラムが考案した「グレート・リセット」計画は、ベルゴリオのセクトが設定したものとは異なる目的を持っていると思いますか? その脅迫は、健康についてのものではなく、むしろ教理的なものです。公会議の教会で権利を持つためには、第二バチカン公会議とノブス・オルド・ミサだけを受け入れるよう求められるでしょう。聖伝主義者は、「ワクチン反対派」と呼ばれる人々と同様に、狂信者の烙印を押されることになるでしょう。

ローマが世界のすべての教会で古代のミサを挙行することを禁止すれば、キリストの教会と公会議の教会という二人の主人に仕えるようなことができると信じていた人々は、彼ら以前の公会議の教父たちに起こったように、自分たちが欺かれていたことに気づくでしょう。その時点で、彼らは、避けることができると自分を欺いて信じていた選択をしなければならなくなります。それは、主に従うために不法な命令に背くか、さもなければ、天主の役務者としての義務を果たせないまま暴君の意志に頭を下げるかのどちらかを迫られるという選択です。自らの司祭職に忠実だったごく少数の兄弟の司祭――彼らが、詐欺と脅迫を予見していたという理由だけで、不従順あるいは融通の利かない者とされていた時――彼らを支援することを避けてきた者たちは、良心の糾明において、この選択のことを考えますように。

ここでの問題は、モンティーニ【パウロ六世】のミサを考案したファリザイ派的偽善を隠そうとして、祭服やグレゴリオ聖歌を使って、新しいミサを昔のミサのように「着飾らせる」ことではありません。第二奉献文(Prex eucharistica II)をやめたり、東を向いて(ad orientem)ミサを捧げたりすることでもありません。戦いは、トリエント・ミサにおける天主中心のビジョンと、第二バチカン公会議以後の偽のミサにおける人間中心のビジョンと間にある存在論的違いに関するものです。

これは、キリストとサタンの戦いにほかなりません。私たちの信仰の中心であり、天主なるご聖体の王が降り立ち給う玉座であり、汚れなき小羊のいけにえが血を流さない形で更新されるカルワリオである、ミサのための戦いなのです。ミサは、晩餐会でも、コンサートでも、奇抜さを誇示するためのショーでも、異端者のための説教壇でもありません。また、ミサは集会を開くための演壇でもありません。

それは戦いです。キリストに忠実な司祭たち、破門され離教者とみなされる司祭たちの地下活動において、霊的に強められる戦いです。他方では、それぞれの教会内では、改革された典礼とともに、不忠実、誤謬、偽善が勝利しています。そしてまた不在です。天主の不在、聖なる司祭の不在、善き忠実な霊魂の不在です。私がローマにおける聖ペトロの司教座の祝日の説教(こちら)で述べたように、椅子(カテドラ)と祭壇の間の一致の不在、つまり、牧者たちの神聖な権威と、キリストの模範に従って真っ先にゴルゴタに登り、群れのために自分を犠牲にする覚悟を持つという彼らの存在理由そのものの間の一致の不在です。自分の司祭職についてのこの神秘的なビジョンを拒否する者は誰でも、祭壇、犠牲、十字架だけから来る承認を得ることなしに、自分の権威を行使することに行き着くのです。

もしこういったことが、枢機卿会(Sacred College)と司教団の沈黙が目立つ中で、ベルゴリオが自分の圧倒的な力を主張するために望むことであるならば、ねがわくはベルゴリオが、主への愛と自分自身の霊魂の救いのために進んで戦おうと望んでいる多くの善き霊魂たちからの確固たる決定的な反対に直面することを知りますように。彼らは、教会と世界の運命にとって非常に恐ろしい瞬間において、反キリストが新世界秩序の指導者として現れるのを促進するかのように、永続する犠牲【聖伝のミサ】を取り消そうと望む人々に屈しないことを決意しているからです。

主が神殿での荒らす者【荒廃】のいとわしいものについて語られた福音の恐ろしい言葉(マテオ24章15節)の意味を、私たちはまもなく理解するでしょう。それは、ミサという宝が禁止され、祭壇がはぎ取られ、教会が閉鎖され、典礼の儀式が地下に潜るかのように追いやられるのを見るという、いとわしき恐怖です。これこそ荒らす者のいとわしいものです。つまり、使徒継承のミサ【聖伝のミサ】の終焉です。

304年1月21日、13歳のアグネスが殉教に至ったとき、信者や司祭の多くはディオクレティアヌスの迫害の下で信仰を棄てました。一人の少女が、処刑人の前での忠実と剛毅の模範として私たちに与えられたというのに、私たちは、公会議のセクトの排斥を恐れなければならないのでしょうか? 彼女の英雄的な忠実は、聖アンブロシウスと聖ダマススによって賞賛されました。私たちは、たとえふさわしくなくても、キリストに属していることを証しする試練に備えながら、将来、確実に教会の賞賛に値するようになれますように。

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ

2023年1月21日
Sanctæ Agnetis Virginis et Martyris
童貞殉教者聖アグネスの祝日

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[1]フランス革命の3年前、ピストイアのシノドスは、第二バチカン公会議で見られるような近代主義の誤謬を大きく先取りした異端的教理をいくつか打ち立てた。それは、「敬虔な信心への嫌悪」「恩寵の教理と予定説が何世紀にもわたる誤って解釈されてきたため古代の純粋さに戻るべきだという主張」「典礼での俗語の採用および大きな声で唱える多くの祈りの採用」「脇祭壇や祭壇での聖遺物や花の使用の禁止、聖書にない聖人像の禁止」「信者が聖体拝領をしないミサの合法性についての遠回しの否定」「聖変化の定義における不適切な用語の使用」です。ピオ六世はこれらの誤謬にこう応えています。「ペトロの声が沈黙し、その椅子の中で永遠に生き続け、司式し、求める者に信仰の真理を提供するようなことが決してありませんように」(聖クリュソロゴス、エウティケスへの手紙)。

英語版
https://remnantnewspaper.com/web/index.php/articles/item/6356-the-one-thread-by-which-the-council-hangs

イタリア語版
https://www.stilumcuriae.com/il-filo-a-cui-e-appeso-il-concilio-mons-vigano


聖ピオ十世会 カトリック聖伝のミサの報告 Traditional Latin Mass in Japan SSPX Japan

2023年02月12日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

六旬節の主日、いかがお過ごしでしょうか。今日東京のミサに来られた方は、子供達も入れて合計112人でした。大阪では30人でした。

愛する兄弟姉妹の皆様のしもべは只今、韓国におります。昨日はソウルでフェレー司教様が堅振の秘跡を授けてくださいました。22人が霊魂に刻印を受けて、キリストの兵士となりました。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】
Dear Fathers:

Shown below are the number of attendees at the masses in Tokyo today. The total number of attendees at the masses in Tokyo today was 112 including children.

09:00 confirmation and mass
M: 28 (incl. 5 children)
F: 31 (incl. 7 children)
Total: 59 (incl. 12 children)

11:30 mass
M: 23 (incl. 3 children)
F: 33 (incl. 3 children)
Total: 56 (incl. 6 children)

Total of 2 masses (excl. 3 persons who participated in multiple masses)
M: 49 (incl. 8 children)
F: 63 (incl. 10 children)
Total: 112 (incl. 18 children)


霊的講話(東京) 聖ピオ十世会フェレー司教様|カトリックの真の従順は必ず天主に対する 従順です。教皇の不可謬権の行使には4つの条件が 必要で救霊の事業ための権威なのです。

2023年02月11日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、今日はルルドの聖母のご出現ですね。

YouTubeでフェレー司教様による「霊的講話(東京)1月29日」の動画をご紹介いたします。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

SSPX JAPAN聖ピオ十世会日本にチャンネル登録もお願いいたします。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父

 


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】