Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

私たちは天主のコイン、天主のもの。天主によって鋳造されて、天主によって探し求められた貴重な高価なコイン。「天主のものは天主に返せ。」

2023年02月18日 | お説教・霊的講話

2022年11月6日 東京 小野田神父 説教

聖父と聖子と聖霊のみ名によりて、アーメン。

愛する兄妹姉妹の皆様、 今日福音でイエズス様は質問を受けました。
「 チェザルに貢(みつ)ぎを払うのは、いいことか。」
すると答えとしてイエズスはこう質問します 。
「貢ぎの金を見せよ。この像と銘とは誰のか。このコインには、誰の像が刻まれているのか。」
「ローマ皇帝チェザルです。」
「では、チェザルのものはチェザルに、天主のものは天主に返せ。」と命じられました。

この福音は、現代に生きる私たちにとって、一体どんな意味があるのでしょうか。今日は、それを一緒に黙想いたしましょう。

二つの意味があります。
一つは、私達は上長に対して何をしなければならないか、ということを教えています。
もう一つは、天主に対して私達はどうするべきか、を教えています。
今日は、特に天主に対する務めを黙想いたしましょう。天主のものを天主に返すということです。

天主のものとは、いったい何でしょうか。実はこのデナリオ銀貨には、ローマ皇帝の像が刻まれていました。ところで、よく考えてみると、私たち人間は天主の像と似姿に従って創造されました。

聖ヒラリオと言う司教は、こう言っています。私たち人間は言ってみれば、天主の硬貨、コインであって、天主のものだ。私たちの身体、私たちの霊魂、私たちの意志、私たち全ては、天主のものだ。天主の像が刻まれて鋳造されているからです、造られているからです。もしも、この天主のものであるものが、天主の目からなくなったら、どうなのでしょうか。お金がなくなった。実はイエズス様は似たような譬えを、聖ルカの福音でこう言っています。

ある婦人が銀貨10枚を持っていてその一枚をなくしたら、燈火(ともしび)をつけて、家を掃いて、大掃除をして、見つけ出すまで探さないはずがあるだろうか。それを見つけると、みんな喜んで、友人隣人を呼び集めて、「なくした銀貨を見つけたので私と一緒に喜んでください!」と言うだろう。私は言う、それと同じように、悔い改める一人の罪人のために、天主の天使たちは歓喜する。

イエズスは実は、なくなった銀貨のことを、私たちのことに譬えているのです。なぜかと言うと、銀貨には皇帝の像が刻まれているように、私たちの霊魂も天主の似姿と像が刻まれているからです。イエズス様にとって、とても大切な貴重な銀貨なのです。

では、私たちが天主様のコインに鋳造された天主様の似姿のあるコインであるなら、全てが天主から由来している、私たちの持っているすべては天主からのものだ、ということがわかります。では、天主のものを天主に返すというのは、どうしたらいいでしょうか。どういうことでしょうか。

つまり、天主を全てに超えてお愛しする、天主の御旨を果たす、天主のお望みのことを私たちがする、天主から造られたものとして天主様を創造主として認める、礼拝する、ということです。

ではそのためにはどうしたらいいでしょうか。

最高の手段が私たちには与えられています。それは今皆さんがなさっていることです。

ミサ聖祭に与ることです。特に、本当のカトリックの聖伝の使徒継承の聖なるミサ聖祭に与ることです。これほどこの地上で価値のある、私たちのすることのできる、最高の天主への礼拝はありえません。

なぜかと言うと、イエズス様は天主でありながら、三位一体の第二のペルソナでありながら、人間となって、人類を代表して、人類の名前で、私たちの名前で、御父に全く従順で、苦しみと、御血を全て流され、この十字架のいけにえ、つまりミサ聖祭を捧げたからです。

そこで、イエズス様の功徳は、私たちの功徳になるのです。ミサを通して私たちは、私たちのもの、人類のもの、イエズス・キリストの十字架の最も無限の価値を、罪の償いとして捧げることができます。唯一、三位一体の御心に適う有効な生贄、これがミサ聖祭です。今皆さんがこの目の前で与っている、これこそ、地上で最高の価値を持っています。これ以上良い行いを、人間はすることができません。

このミサ聖祭に与る最も素晴らしい方法は、ご聖体拝領をして、ふさわしい状態でご聖体拝領をして、イエズス様に自分を生贄として捧げて、一致させることです。

イエズス様は、人類の名前で私たちのためにいけにえとなりました。それに私たちも合わせて、私たちも、イエズス様とともにお捧げする、それが御聖体拝領です。そうすることによって、十字架でのご受難に私たちは本当に一致して捧げられることができます。いわば、イエズス様の十字架のふもとにマリア様と共にいて、そして、マリア様との目の前でイエズス様とともに捧げられた、と言えるようになるからです。

“聖体拝領する”ということは、どれほど素晴らしいことでしょうか。なぜかと言うと、御聖体はイエズス・キリスト様ご自身でありますから、私たちは全ての秘跡の源を受けることになります。すべての秘跡とお恵みを造った方を受けるからです。全ての聖寵が含まれています。あたかも、イエズス・キリストは、ご聖体は、太陽であるかのようです。燦然と輝いて、四方八方に光と熱を伝えます。天主であるイエズス様が私達の霊魂に来てくださるということは、つまり天国が私たちのもとに来るということです。

成聖の状態にある霊魂が、御聖体をふさわしく受けることができます。成聖の恩寵にある霊魂というのは、どれほど美しいことでしょうか。どれほど聖なる、神聖で天主の愛に満ちている霊魂であることでしょうか。もしも私たちが目で見ることができたら、そのあまりの美しさに、地上のすべてのダイヤモンド・サファイア・宝石・黄金をはるかに超えた美しさに、気絶してしまうほどでしょう。霊魂はイエズス様の愛と光で満ち満ちてイエズス様のいのちに生きている、これが成聖の恩寵です。

ですから、私たちはこの状態でのみ、イエズス様を受けることができます。うやうやしく跪いて、舌の上に、愛をこめて、礼拝しながら、創造主・贖い主・私たちを愛してくださる全てをくださった救い主を、受けることができます。私たちはいわば御聖櫃になります。生きている御聖櫃になります。私たちは今、マリア様のようになります。マリア様はイエズス様を御胎内に九ヶ月お運びになりました。

本当の宗教だけが、このような素晴らしい宝を持っています。そして真(まこと)の天主だけが、これほどの偉大な愛の宝を考えついて、私たちに与えてくださることができます。天主のものである私たち、天主のコインである私たちが、自分を全く生贄としてご聖体拝領しながら捧げる時、天主ご自身が私たちに報いとして既に私たちの霊魂に来られるのです。なんという素晴らしい愛の秘跡、愛の奇跡でしょう。

このようなご聖体拝領をすると、私たちはますますイエズス様のものとなりたくなります。そしてますますイエズス様の栄光のために働きたい、イエズス様のお望みのために働きたい、イエズス様の名誉のために、イエズス様の礼拝のために、働きたいと思います。

今日の九時の御ミサでは、管区長のサマーズ神父様が、私たちが天主のものを天主に捧げるその計りがあると言います。客観的にどれほど私たちが捧げているかを計ることができる、と。それは、私たちがミサに与って、そしてミサに与るための最高の場所を準備して、そして最高の聖歌を歌う。最高のミサでの奉仕をして、そして最高の美しい祭壇と美しい聖堂をお捧げして、最も素晴らしい場所に最高の場所にミサ聖祭を捧げて、そしてもしも私たちにその栄誉が与えられるならば、私たちのなかから最高の青少年たちが、男性も女性も最も優れた青少年たちが、天主様への奉仕のためにミサ聖祭のために霊魂の救いのために全く天主に捧げられる。これによって私たちはどれほど天主のものを天主に捧げているかが計られる、として私たちに励ましの言葉を与えてくださいました。

では最後に遷善の決心を立てましょう。私たちは天主のコイン、天主のものです。天主によって鋳造されて、天主によって探し求められ、イエズス・キリストがその世の光として私を探し出す、貴重な高価なコインです。

すべてを天主にお返しいたしましょう。天主にお返しすればするほど、私たちはますます多くを与えられます。天主はどれほど寛大であるか、私たちは想像もつきません。想像以上です。ミサ聖祭に与ることです。この貴重な聖伝のミサに与ることによって、天主にお返ししましょう、最高の賛美と感謝を。

この聖伝のミサは決して滅びることがあり得ません。カトリック教会の敵が、私たちの霊魂の敵が、この聖伝のミサを廃止させようと戦いを挑むかもしれません。決してイエズス・キリストは負けることがありません。この聖伝は、カトリックの本当のミサ聖祭は、最後に勝利します。凱旋します。これしかありえません。

実は一人の小学生の霊魂が、初聖体をしようと復活祭のころからずっと準備をしてきました。今日は初聖体をしてイエズス様を初めて自分の霊魂の中にお受けしてお愛しする、という日です。どうぞ皆さん、彼女のためにお祈りください。

私たちは天主の似姿の肖像に従って造られたので、そしてイエズス様の天主の御血によって贖われて、罪の赦しを得て、イエズス様の兄弟・友となって、成聖の恩寵の状態に生きるという栄光を受けています。よい御聖体拝領を致しましょう。イエズス様、私は今日すべてを御身にお返しいたします、お捧げいたします。

「この像と銘とは誰のものか」と、言い給うた。彼らは言う。「チェザルのものです」。それで彼らに言い給うた。「では、チェザルのものはチェザルに、天主のものは天主に返せ。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。



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