Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

聖ピオ十世会事務総長ル・ルー神父:私たちもイエズス様がお生まれになるべき馬小屋に近づく。イエズス様に近づくためには私たちの心も主のお生まれになった場所に似ているか同じでなければならない。

2023年02月24日 | お説教・霊的講話

2022年11月27日 東京 聖ピオ十世会事務総長ル・ルー神父 説教

まず、皆さんに、私の心からの言葉を申し上げるのを許してください。この日本の地にやってきて、そして天主様のお恵みの素晴らしさに感嘆することを許していただけたことに感謝しています。皆さんの歓迎、そして皆さんが私たちにくださった喜びと、そして天主の恵みの業、そのすべてに感謝いたします。ありがとうございます。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆様、私たちは待降節に入りました。待降節はラテン語で アドベントゥス(Adventus)と言います。アドベントゥスというのは、“来臨”“いらっしゃる”と言うということで、つまり天主の御言葉が私たちのもとにいらしたということです。しかも、私たちのもとに来るために私たちと同じ肉と霊魂とそして人間の本性をとって、私たちのもとに来られたのです。つまり、天主のみ言葉は、天と地の間の無限の距離を遙かに超えて、私たちのもとにいらっしゃった、ということです。それが、この待降節の意味です。

【私たちもイエズス様が生まれた場所に行く】

イエズス様は私たちを探して天から来られたのですが、私たちはただイエズス様だけに来ていただく、それだけでよいのでしょうか。そうではありません。私たちも、イエズス様のもとに行かなければなりません。イエズス様が私たちに「来て欲しい」と思っておられます。ですから、私たちのほうからもイエズス様がお生まれになるべき馬小屋に近づかなければなりません。そして、私たちは主に近づいて準備しなければなりません。それこそが私たちの求める待降節です。

聖パウロは、今日の書簡でこう言います。「目覚めておれ!」と。時はやってきた、ついにやってきたのです。聖グレゴリオは私たちに、つまり、私たちは目覚めてイエズス様のすぐ近くにいなければならないということを教えています。私達はどうやったらイエズス様の近くに行くことができるでしょうか。

ではイエズス様の近くに行くためには、イエズス様が一体どこにお生まれになっているかその場所を見てみることにします。

イエズス様が生まれた場所は、偶然たまたまその場所に生まれたということではありませんでした。永遠の昔から選ばれた場所でした。イエズス様はその場所を選択して、天からその場所を選ばれて、そこに降りて来られたのです。ですから、もしもイエズス様の近くに行こうとするなら、イエズス様が入りたいと思っている私たちの心も、その場所に似通っている、ぴったりと同じでなければなりません。

【イエズス様は貧しい洞窟にお生まれになった】

ではいったい、イエズス様は一体どこにお生まれになったのでしょうか。イエズス様は洞窟にお生まれになりました。一等地のよい場所などではなくて、貧しい洞窟でした。ですから、私たちの心も、洞窟に似ていなければなりません。

では洞窟というのは一体何でしょうか。洞窟には、私たちを驚かせるような特徴があります。まずその一つは、貧しいということです。悲惨な、もう手のつけられないほどの状態だということです。でも、イエズスさまは、まさにそれが貧しかったからこそそこを選んで、あえて選んで、お越しになりました。ですから私たちがもしも、「あぁ私があまりにも罪人だから…、私があまりにも不足しているから…、私があまりにも惨めだから…、私はこんなに悪いから…イエズス様はいらしてくれないだろう」というのは間違っています。まさにイエズス様は私たちが貧しいからこそ、私達がイエズス様を必要とすればするほど、私たちの心に来たいと思っておられるのです。

なぜかと言うと、イエズス様は私たちの力であり、私たちを豊かにさせる富であるからです。私たちにご自分をすべて与えよう、私たちを救おう、と思って来られるからです。ですから私たちにも、この貧しさからその不足やそのみすぼらしさから抜け出させて、富を与えて、ご自分で満たそうと思って来られるからです。ですから、私たちは何をしなければならないかと言うと、私たちが「イエズス様を必要とする」「イエズス様が欲しい」「イエズス様を必要とするほど貧しいものである」ということを認識することです、認めることです。

【イエズス様は沈黙の洞窟にお生まれになった】

洞窟の第二の特徴は、とっても、そして最も大切な非常に大切なものであって、なかなか見いだせないあるものです。それは沈黙です。沈黙というのは、まずこの世の喧騒がないということです。この世がいつも出している動きやニュースやあるいはいろんな喧騒あるいは雑音がまったくなくて、そして沈黙を守っていることです。

そして沈黙を守るというのは、ただ雑音がないだけではなくて、さらに言えば、自分の心をまとめているということです。つまり、天主の御前で、自分が黙って口を閉ざして、その天主が何であるか一体どなたであるかということを感嘆して、それを見つめるということです。つまり天主を礼拝するということです。天主は天主であって、私たちと無限に離れておられる方です。ですから、私たちはその無限の天主の前でいったい何をするかというと、ただ口を閉ざして、心を一つにまとめて、その主を礼拝して、その主に眼差しを捧げる、礼拝を捧げるしかありません。この天主で心をいっぱいにする、これこそが洞窟に在る沈黙です。そして私たちの心もイエズス様のことだけでいっぱいにすること、この世の雑音すべてを心から追い出してイエズス様で満たすこと、これこそが私たちが洞窟となることです。

【イエズス様は掘られた洞窟にお生まれになった】

洞窟の第三の特徴は、洞窟は掘られているということです。洞窟はただ単に貧しいだけではありません。ただ単に沈黙があって、この世から離れているだけではありません。この洞窟は掘られているということです。ということは何かと言うと、もちろんこの貧しさ、そして沈黙と関係があります。

つまり、私たちの心も掘られていなければならないということですけれども、この掘られているということが何であるかというと、それは私たちが、心の中にイエズス様がいる場所がもっとありますように!と望むことです。

もしも私たちが富に満たされていてすべてに満足していたとしたら、イエズス様が来られたとしても救い主が来られたとしても、「関係ないよ」と言うかもしれません。しかし、私たちがイエズス様を必要とするなら、もっともっと必要とするなら、私たちはもっとイエズス様を欲しいと思うに違いありません。この「もっと欲しい!」と思うこと、それが「掘る」ということです。洞窟をもっともっと掘って、私たちの心からこの世のいらない物を全部捨てて、たくさん捨てて、そしてイエズス様のいる場所をもっと広げるということです。

よくあり得ることですが、私たちはあまりにも貧しいので、あぁもうだめだ、もう役に立たない、もう何でもないんだ、もうこんなに惨めだ、だからもうイエズス様も何もすることができない、などと失望してしまっている可能性があります。しかしそれは間違っています。イエズス様は、私たちを救いたいというものすごい愛の火に燃えています。その熱望に対応するような願いを私たちが持たなければなりません。それが心を掘るということです。

毎日毎日、もっともっとイエズス様に来てもらいたい、もっとイエズス様の場所を作りたい、もっともっと・・・。ですからクリスマスの間まで、御降誕の前まで、毎日毎日「イエズス様来てください」「イエズス様来てください」「イエズス様来てください」と願ってください。

クリスマスの日には、最後に、イエズス様に対する愛とものすごく激しい嵐のような熱情を持っているように、「来てください」「来てください」「来てください」と願って、そしてイエズス様に「私の全てを取ってください、私の場所はすべてイエズス様のものです」というようにしましょう。

ですから、私たちの心をもっともっと掘るために、この世の雑音を心から取って、そして想像を取り払って、そしてあるいは恐れも取り払って、また償いの業をして、苦業して、毎日祈りましょう。私たちがイエズス様の前でイエズス様のことを考える時間を奪ってしまうようなものを心から全部取って下さい。そしてイエズス様にお願いしなさい。「イエズス様、毎日私の心を私がイエズス様をますますお愛し求めるようにしてください。」「イエズス様のことをますます理解することができるようにしてください。」「私がイエズス様のことだけに関わるように、イエズス様のことだけに関心を持つようにしてください。」「私のイエズス様、イエズス様こそが私の宝であって、私の全てです。あなただけが私の全てです。」

【世界で最初の洞窟:聖母】

世界で最初の洞窟は、マリアさまでした。なぜかと言うとマリア様こそが深い謙遜を持っていたからです。マリア様こそが、天主を必要とするということをよくご存知であり、そしてこの世が天主・イエズス・救い主を必要とすることをよく知っていたからです。マリア様こそが、沈黙のうちに生きておられ、礼拝のうちに生活しておられたからです。マリア様こそが、救い主を、愛熱を込めて求めていたからです。

マリア様の待降節は、九ヶ月続きました。マリア様はその間ご胎内にイエズス様をお宿しでした。そしてその間毎日毎日イエズス様の事を考えて、イエズス様がお越しになるのを心のうちに深めていました。そしてついに待降節が終わり、クリスマスの時にイエズス様をお生みになった時、ご自分の腕(かいな)に抱きしめた時にはどれほどの喜びがあったことでしょうか。ついに救い主がやって来られた!この世が、私とこの世が必要とする救い主が遂に来られた!と。マリア様は、常にその大きな待望に満ちておられていました。そしてそれを毎日日々大きく増加させておられていました。そしてついに、そのイエズス様をお抱きになられたマリアさまは、どれほどの喜びと感嘆と感激とを持たれたことでしょうか。

ですから私たちは、まず 第一の洞窟であるマリア様にお祈りしましょう。マリア様を真似するようにいたしましょう。マリア様の謙遜を真似して、私たちがあまりにも不足しているものであること、あまりにも貧しいものであるということを認識するようにいたしましょう。マリア様に倣って、沈黙を愛し、そしてお祈りをいたしましょう。マリア様に倣って、イエズス様を受けたいイエズス様に来て欲しいという願いが増加するように、私たちの心を掘りましょう。マリア様は私たちのモデルです。マリア様を通して私たちの主はお生まれになったので、マリア様を通して私たちもイエス様のところに行かなければなりません。またマリア様は私たちの母です。私たちがどのようにしてイエズス様に近づくか、ということを教えてくださる母です。ではマリア様にお祈りして、良い聖なる待降節を過ごすことにいたしましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


聖ピオ十世会総長パリャラーニ神父:聖となるとはイエズス・キリストとの友情を育て深めること。具体的にイエズスをよく知り愛し求め、イエズスを失うことを畏れ、イエズスへの愛に安らぐこと。

2023年02月24日 | お説教・霊的講話

2022年11月27日 東京 聖ピオ十世会総長パリャラーニ神父 説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

【挨拶】

東京を訪問してここでミサを捧げることができるのは、いつもとても大きな喜びです。

私は告白をしなければなりません。今から15年か20年前、私はシンガポールで働いていました。その時に小野田神父と一緒に夢を持っていました。その夢は東京に修道院を開設するという夢でした。しかしその当時は、私たちはその夢を実現するということが不幸にしてできませんでした。

私は、もしもできるならば日本語を勉強して、そして私の残る人生を皆さんと一緒にこの日本の地で過ごしたいと願っています。しかし天主様は、そのことを私に許してくださいませんでした。

しかし天主様が、それよりももっと良い事を皆さんのためにしてくださいました。それは東京に修道院を開設して、そして毎週主日に皆さんがミサに与ることができるようにしてくださったことです。それこそがもっとも大切なことであって、最も美しいことです。

私はここに、今日は別なもっと重要な理由のために来ています。(そのままを翻訳しますと)今日私はここに、小野田神父に感謝するために参りました。それは、もしも彼の熱心と忠実さがなければ、ここに修道院を作ることができなかったからです。

この神父は25年以上もの間、マニラからフィリピンから何度も旅をして、そしていろいろな国を訪問して、そして種(たね)を蒔きました。そしてその種が成長するのを長い間待って、そして今その実りができました。皆さんがその実りであって、この美しい共同体がその実りです。天主の御業というのは、最初はほんの少しの小さなところから始まりますけれども、後には大きな大木になります。

【教会はクリスマスまでの四週間、私たちをどのように準備させるのか?】

では今から、今日の待降節第1主日の テーマについて黙想しましょう。教会はなぜ、四週間、今からクリスマスの間まで、時を隔てて私たちを待たせるのでしょうか。それは、私たちを準備させるためです。待降、つまり待望する、待っている時を与えるわけです。では、どうやって準備をしたらよいでしょうか。どのようにして私たちを、クリスマスのために、良い状態にするべきでしょうか。

一番大切なのは、私たちが成聖に対する、私達が聖なるものになるという、大きな熱望を持つことです。では、この聖なるものになるという情熱・望み・欲望というのは、一体何でしょうか。それを今日皆さんと一緒に黙想します。

【成聖、聖となるとは?】

成聖、聖となるというのは、決して抽象的なあるいは哲学的な概念ではありません。またより良くなりたいという考えの頭の中だけの意向だけではありません。そうではなくて全く別のものです。

成聖というのは、イエズス・キリストとの友情のことです。もっと具体的な、イエズス様をよく知りたい、もっとよく知って、もっとよく愛する、ということにあります。

例えば具体的な例を挙げてみます。それは使徒達です。使徒たちは私たちの主の友でした。友人達でした。特にその特異な例は、聖ヨハネです。聖ヨハネは福音の中で、その書き物の中で、三度、同じことを言っています。「主が私にこの直接おっしゃったこと、目で見たこと、(それは)こうだ。」そして、この私たちの主イエズス・キリストとの友情を育てることが、まさに聖徳です。

【使徒聖ヨハネ:イエズスと出会い共に時を過ごす】

最初の出来事はこうでした。洗者聖ヨハネがイエズス様を指して、「見よ、天主の小羊だ。天主の小羊を見よ。」と言った時に、その時聖ヨハネは何も躊躇せずに、主の後をついて行きました。その後ろを歩いていて、特にアンドレアと一緒に歩きます。すると主は後ろを振り向いて、「いったい誰を探しているのか。何を求めているのか。」と尋ねます。すると聖ヨハネは答えます。「主よ、主よ、あなたはどこにお住みなのですか。」するとイエズス様は答えます。「来て、見に来なさい。」

それでイエズス様の後をついて行って、その日はイエズス様とともに一緒に過ごしました。イエズス様と話をしたり、イエズス様に質問したり、イエズス様の話に感嘆したり、そして時を一緒に過ごすと、あっという間に時間が過ぎていきました。

人が誰かを愛するようになると、その方と一緒にいるのがますます嬉しくなって、幸福であって、時が経つのが早くなります。そして人を愛すれば愛するほどますますよく知りたいと思って、そして知れば知るほどますます愛するようになります。これと同じようなことを、私たちもいたしましょう。私たちは主とともに一緒に時を過ごしましょう。

今日、私たちの主は、この祭壇の上にお降りになります。御聖体の聖変化の時に、お降りになります。そして私たちが家に帰った時も、主が共におられます。では、イエズス様のことをよく知るようにしてください。天主は人となって、私たちの家に住み給うて、そして私たちの友となりました、友人となりました。ですからこの友と時を一緒に過ごすようにしましょう。よくイエズス様のことを知り、お愛しし、そしてイエズス様のことをますます知ることができますように。これが、成聖が、聖なることが始まることであって、イエズス様との友情関係を完成させることであります。

【使徒聖ヨハネ:イエズスを失うことを恐れる】

愛というのは、私たちをして、愛する対象をもっと深く知りたいと、もっと近づきたいと、追及させます。それと同時に同じ愛は、私たちがその愛の対象を失ってしまう、ということを恐れさせます。同じ事が最後の晩餐の時にありました。

このうちの誰かが私を裏切るだろうと主が予告した時に、その時に聖ヨハネは、「えっ、それは一体誰ですか?いったい誰が裏切るのですか?」と聞きました。愛する方が裏切られるということを非常に恐れたのです。また、愛する方が悪く取り扱われる、それに相応しい取り扱いを受けない、ということを非常に恐れました。また同時に、自分がその愛する方を裏切ってしまうのではないか、悲しませてしまうのではないか、ということをも恐れました。

ですから私たちも、主を愛すれば愛するほど、主を失ってしまうことを恐れます。罪に対して戦いが起こります。イエズス様を愛するがために、罪によってイエズス様を失ってしまうことを、非常に恐れます。イエズス様を失ってしまうくらいだったら、むしろ自分の命さえも失ってしまうほうがいいとさえ思わされます。

【使徒聖ヨハネ:イエズスへの愛に安らぐ】

もう一つのエピソードがあります。それは聖ヨハネの心を、その霊魂がどのようなものであるかということを、私たちに明らかにしているエピソードです。これはイエズス様が復活された後(のち)のことでした。

復活された後にガリラヤ湖で、弟子たちは漁に出ていました。すると、湖のほとりに、どなたか誰かが立っていて、彼らを、弟子たちを、使徒たちのことを待っているように見えます。遠くなので誰もこれが誰なのかわかりませんでしたが、ただ一人、最初にたった一人だけ、それが誰か気がついた人がいます。それが聖ヨハネです。そして聖ペトロに言います、「主だ!」。すると、聖ペトロは主だと聞いて、すぐに舟から降りて、舟から水の中に入って、そしてイエズス様の方に泳いでいきます。ところが聖ヨハネは、もちろん泳ぎ方は知っていたのですけれども、船の中にとどまったままで、湖の中に飛び込もうとはしませんでした。

いったいなぜ行かなかったのでしょうか。いったいなぜ舟にとどまったのでしょうか。そして、なぜ聖ペトロは水の中に飛び込んでイエズス様の方に近寄ろうとしたのでしょうか。

なぜ聖ヨハネは舟に止まったのでしょうか。なぜかと言うと、聖ヨハネはすぐにイエズス様を認識することができたからです。それは、聖ヨハネの心があまりにも清かったからです。その心はイエズス様の聖なる御旨がいったい何なのか、そしてイエズス様のお人柄がどのような方だったのかということをとても深く知っていたからです。ですから、この深い愛に基づいていたので、常に聖ヨハネの心にはイエズス様が住んでいました。ですから、イエズス様が住んでいたということはイエズス様が、満ち満ちたその喜びと平和とその成聖が宿っていたということです。

それに反して、不純である、あるいは罪を犯したということは、イエズス様を見分ける事が出来なくなってしまいます。聖ペトロは、その代わりに水に飛び込んで、そしてイエズス様の元に近づいて、そして足、イエズス様の足元を抱きしめて、主に裏切ったことの赦しを請い求めなければなりませんでした。しかし聖ヨハネは違いました。すでに、霊的に、イエズス様に満ち満ち溢れていたからです。深い愛に溢れていたからです。イエズス・キリストの生命(いのち)に生きていたからです。

【使徒聖ヨハネは、私たちの生涯のプログラムの模範を示す】

これが私たちに教会が提案する待降節のプログラムです。美しいプログラムです。ところがこれは待降節のものだけではありません。私達が一生かけて追及するべきプログラムです。

愛、私たちの主を求めさせる愛、わたしたちの主を失うことを恐れさせる愛、また主の愛に休む愛、この三つの愛の結果を、私たちは実現させるようにいたしましょう。そのためには、マリア様にお祈りいたしましょう。マリア様は聖ヨハネよりもっとこれを実現された方でした。被造物の中で最も純粋に、イエズス様をお愛しした方であるからです。ですから、特にマリア様を通してお祈りしましょう。

最後にひとつだけ福音のことを、考察をつけ加えれば、福音ではイエズス様は世の終わりのことについて語られています。世の終わりには審判のためにイエス様が来られる、でもこの審判は何の基準で私達を裁かれるかというと、イエズス・キリストをどのように愛したか、愛さなかったか、ただそれだけで、この基準で、私たちは裁かれます。なぜかと言うと、罪というのはイエス様の愛を拒むことだからです。

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン。


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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