【参考資料】ヴィガノ大司教の至聖なるマリアの御潔めの祝日についての説教
【解説】1962年の典礼法規の変更までについては、ルフェーブル大司教の学識ある判断によって、カトリック的であると受け入れることができた。聖ピオ十世会は、この1962年の典礼法規に従ってミサ聖祭を捧げ続けてきた。ヴィガノ大司教は誤解しているようだが、1962年のヨハネ二十三世の改革でも、まだ、御潔めの祝日は、御潔め(In purificatione B. Mariae Virginis)という名称をとどめている。
しかしそれ以後の典礼改革は、1970年の新しいミサに至る革命の段階であって、カトリック的な要素を急激に無くしている。1970年の新しいミサは、プロテスタントの牧師らと一緒に創られたものであり、オッタヴィアーニ枢機卿やバッチ枢機卿がパウロ六世に言ったように、「新しい司式はその全体といいまたその詳細といい、トレント公会議の第22総会で宣言されたミサに関するカトリック神学から目を見張るばかりに逸脱している。」…「聖伝からのこのように重大な逸脱を支持するような司牧上の理由は、たとえそれらの理由が仮に教義上考察した上で正しいものだと考えられたとしても【実際は教義上カトリック神学から逸脱している】、私たちには十分だとは思われない。」
従って、重大な神学上の理由、司牧上の理由により、カトリック信仰を守るために、聖ピオ十世会は新しいミサを拒否している。新しいミサを拒絶するあまり反動的になるヴィガノ大司教の気持ちは理解できるが、しかしピオ十二世教皇の行った典礼改革(1955年)やヨハネ二十三世の典礼改革(1962年)については、(たとえ残念な点があるにしろ、その当時全カトリック世界が受け入れたように)私たちは受け入れる。何故なら、典礼は有機的に発展してきているもので、キリストの花嫁であるカトリック教会が定めるものだからだ。ピオ十二世、ヨハネ二十三世の行った典礼改革は、たとえ残念な点があるにしろ、カトリックではないと言うことはできないからだ。言い換えると、パウロ六世が作った新しいミサのような断絶があるとは言い切れない。
2023年2月2日(木曜日)
Viganò Homily On the Feast of the Purification of Mary Most Holy
カルロ・マリア・ヴィガノ
LUMEN AD REVELATIONEM
啓示の光
Tu es qui restitues hæreditatem meam mihi.
御身こそ私に私の遺産を返したもうべき者なれ。(詩篇15篇5節)
「私の目は、もう主の救いを見た。その救いは万民のために備えられたもの」。この言葉によって、年老いたシメオンは、預言の成就に立ち会うことができ、古い法の規定に従って割礼を受けるために神殿に連れて来られた幼子のメシアを、その腕に抱くことができるという特権を与えてくださった主を讃美します。この短くも深遠な讃歌は、毎晩終課で繰り返されます。なぜなら、教会が毎日の終わりに唱えるこの祈りは、私たちの顔を私たちの主の方に向けさせて、私たちにこの世という追放の終わりの準備をさせるからです。
今日の祝日は、1962年の改革までは聖母の御潔めに捧げられたもので、したがって、紫色の祭服が示すように、悔悛的な性質をもつマリアの祝日でした。それはちょうど、すべてのユダヤ人の母親が出産後40日間受けなければならなかった潔めの儀式が悔悛的であったように(レビ12章2節)です。聖なる教会もまた、「ローマ儀式書」(Rituale Romanum)の中で、出産した母親に対する特別な祝福を保持しています。これは現在では使われなくなっていますが、その霊的な意味を回復させれば敬虔な実践となるでしょう。ヨルダン川での私たちの主の洗礼の儀式と同様に、御潔めの儀式も、無原罪の御宿りのおかげで最も清らかで罪がないため、至聖なるマリアには、厳密に言えば意味も効力もありませんでした。聖母は当時効力のあった律法に服従することにより、私たちが怒りの子【エフェゾ2章3節】であること、そして私たちの救い主が十字架上のご受難と死によって私たちのために獲得された無限の功徳という理由のみで、恩寵を受けるに値するということを忘れないように、宗教上の掟への従順の模範を示しておられるのです。
ロンカリ【教皇ヨハネ二十三世】の改革は、ピオ十二世のもとで聖週間の改革を行い、その後、モンティーニの典礼で〈典礼の体〉(corpus liturgicum)全体の改革を行った多くの専門家によってなされたもので、祝日の名称を「聖母の御潔め」から「私たちの主の神殿での奉献」に変更しました。その動機は、このお祝いをキリスト中心主義の光のもとに置くというもので、それ自体は合法であり、したがって教区司祭はこれを歓迎しました。実際には、1962年の改革の作者たちの目的は、〈聖週間の式次第改革版〉(Ordo Hebdomadæ Sanctæ instauratus)で始まった公会議の〈オヴァートンの窓〉を開けることでした。その言及できない目的とは、その理由で、将来の発展を損なわないように厳しく隠さなければならなかったのですが、親プロテスタントの様式で聖母と聖人たちへの崇敬を弱めることだったのです。そのことは、例えば、聖人周期の祝日の再分類から分かります。次に、私たちが理解することは、彼らの願望とは、無害で教理的に受け入れやすい変更を装って、典礼周期の中で私たちの主の中心性を強調するのではなく、エキュメニカルな対話の障害と考えられていた天主の御母を排除する口実として、主の中心性を利用することだった、ということです。こうして、革新主義者は、小さな段階を経ることで、至聖なるマリアの仲介および共贖という教理を、明確に否定することなく、忘れさせることに成功したのです。
カトリック教徒は、聖母に〈特別崇敬〉(hyperdulia)という崇敬を捧げることは、天主の御稜威に捧げられるべき〈ラトリア〉(latria)の礼拝を損なうものではなく、むしろ御子が御母において奇跡を起こされ、最も崇高な御母を通して恩寵を与えてくださることをよく知っています。〈全能者が私に偉大なことをされたからです〉(quia fecit mihi magna qui potens est)。その反対に、異端者たちは聖母の名を挙げるだけでも恐怖を示します。なぜなら、聖母の謙遜と従順は、異端者たちの父であるサタンの高慢と不従順に対して、耐え難い侮辱を与えるものであるからです。そして、主がその無限の知恵において、汚れなき童貞がいにしえの蛇の頭を踏み砕くように望まれたのならば、なぜ私たちは――プロテスタントのように――主が十字架のふもとで母および代願者として私たちにお与えになった力ある仲介者を軽んじ、主と直接話をするふりをしなければならないのでしょうか? 〈エルザレムの栄光、イスラエルの喜び、われらの民の誉れ〉である聖母を軽視し、信頼していないように対応することで、主の御怒りを招くことにならないでしょうか?
これらの観察はさておき、この祝日の神秘を黙想してみましょう。この祝日には、真の宗教が迷信に勝利し、それまでの異教徒の祝日に代わって、ろうそくの祝福の典礼が行われます。教皇聖ジェラジオがこの祝日を制定しようと考えたのは、5世紀末のローマにはまだ偶像崇拝に行う人々がいて、松明を持って街を歩いていたためでした。そのため、〈世の光〉(Lux Mundi)であるキリストは、ご自分から異教徒に奪われた光の象徴を再び利用することになったのです。この意味で、聖アンセルモの神秘的解釈を思い起こすことは重要です。彼は、蜜蜂の作ったものである蝋はキリストの肉であり、内側にある芯はキリストの霊魂、上部に輝く炎はキリストの神性である、と述べています。肉、霊魂、神性。これらの要素の結合により、私たちの主は、人類のかしらとして私たちを贖われ、原罪と世の終わりまで人間が犯すすべての過ちの償いとして御父の御稜威(みいつ)にお捧げになった主の犠牲、人間にして天主であるお方の犠牲そのものの無限の価値のおかげで、アダムの無限の罪を償われたのです。
〈私の目は、もう主の救いを見た。その救いは万民のために備えられたもの〉(Quia viderunt oculi mei salutare tuum, quod parasti ante faciem omnium populorum)とシメオンは言います。救いはすべての民に拡大された出来事であり、「選ばれた民」とは異なり、キリスト教徒の民は人種によってではなく、養子相続によって区別されるのです。聖パウロが言うように、私たちが天主の子、天主の世継ぎ、キリストとともに世継ぎ(ローマ8章14-19節)とされるのは、実際には洗礼によってなのです。それはまた、詩篇作者が〈主は、私の遺産と私の杯の分け前〉(詩篇15篇5節)と歌うように、です。ですから、救いは〈万民のために〉用意され、すべての民は真の天主を知り、礼拝し、仕えるように召されているのです。〈もろもろの民よ、主をほめよ〉(Laudate Dominum omnes gentes、詩篇116篇1節)、〈王たちはみな、彼を拝み、異邦の民はみな、彼に仕える〉(et adorabunt eum omnes reges terrae; omnes gentes servient ei、詩篇71篇11節)。
〈異邦人を照らす啓示の光、み民イスラエルの栄光〉(Lumen ad revelationem gentium, et gloriam plebis tuæ Israël.)。異邦人を照らす啓示の光と、天主の民――聖なる教会――の栄光は密接に関連しています。宣教なしには啓示はなく、啓示なしには天のエルザレム、新しいイスラエルの栄光はありません。しかし、会堂がキリストの光を認識することに忠実でなかったことが、会堂の没落とその子らが散り散りになるのを引き起こしたとすれば、新しい永遠の契約のもとに生き、キリストにおいて新たに生まれ、キリストとともに復活しながら、天主が天主なる御子のご受難によって成し遂げられた救いを説かない人々の不名誉はどれほど大きいものでしょうか?
私たちの主が神殿で律法学士に会って聖書の意味を説明し、特に預言がご自身においてどのように成就したのかを示されたとき、会堂はまだ天主との契約に忠実でした。しかし主が天主を冒涜した、つまり自らを天主と宣言したとして、最高法院(サンヘドリン)からポンシオ・ピラトに告発され、その結果、死刑に処せられることになりますが、大司祭たちは信仰を否定し、メシアの到来によって、自分たちの名声を失うのではないかという恐怖で目がくらんだのです。ユダヤ人はメシアを、霊的な救い主とみなしていただけでなく、何よりも現世的、政治的な救い主とみなしていたからです。旧約の中にある真理は、宗教を時代や状況の都合に合わせようとする彼らの試みを否定し、イスラエルの最後の預言者たちから多くの厳しい戒めを受けていたのですが、彼らが背教したことで、彼らは、その真理を沈黙するに至りました。当時の宗教的権威によって無知なままにされていたユダヤの民は、自分たちの素朴な信仰がベトレヘムの町でメシアが誕生する時が来たと教えていたため、確かに困惑し、つまずきになりました。このため、レビ族という司祭階級全体が、皇帝ティトゥスによる神殿の破壊とともに散り散りになってしまいました。今日でも、会堂の子らは、礼拝の場所もなく、また犠牲を捧げるレビ人の系図を復元することもできずに、世界中に散らされているのです。それは、司祭の裏切りを原因とする、民族の悲惨な運命なのです!
しかし、主が役務者を裁かれる厳しさ――特に彼らが神聖な義務を怠り、信者を欺くとき――の証拠に直面したとしても、新約の聖職者たちは、自らの欠点や自らの不忠実を軽く考え、誤謬を宣べ伝え真理を否定したり沈黙を守ったりする人々の前で自らも沈黙を守ることをあまりにも軽く考えているように思えます。彼らの中には、同じ〈高慢〉(hybris)、つまり、天に逆らう同じ愚かな厚かましさが見られます。それは、〈報復〉(nemesis)――権威の濫用および高慢という致命的な罰を与える者――によって、容赦なく罰せられることになります。世俗や教会の役職に就いているこの世の専制君主たち、そして彼らに卑屈な敬意を払っている――流れに逆らうように見えたり、「硬直的」「原理主義者」「包括的でない」「分裂的」と指摘されたりすることを恐れて――人々は、このことをよく覚えておきなさい。また、権威を正当化している目的とは逆の目的のために権威を不正に利用して、自分たちが臣民らを支配できると信じている人々も、同様です。つまり〈罰せられずにいるものは全くないだろう〉(Nil inultum remanebit.)と。
ですから、天主への聖なる恐れを抱きつつ聖なるいけにえ【ミサ聖祭】に近づき、頻繁に告解を受けることによって自らを罪から清め、過ちを犯したならすぐ悔い改める心で「痛悔の祈り」を唱えましょう。自らを改め、天主の秘跡にふさわしくない者でなくなろうとする私たちの霊的な心構えが、聖体拝領において、黙想と熱意をもって、御聖体を迎える助けとなりますように。キリストの光が、この試練の時に私たちの心を照らし、愛徳で心を燃え立たせ、それによって今度は私たちが〈万民を照らす啓示の光〉となることができますように。私たちの人生が真の天主の子であることを日々証しするものとなり、詩篇作者とともに、〈主は、私の遺産と私の杯の分け前〉Dominus pars haereditatis meae, et calicis mei と叫ぶことができるようになりますように。
アーメン。
2023年2月2日
童貞聖マリアの御潔めの祝日に
In Purificatione Beatæ Mariæ Virginis
英語版 Viganò Homily On the Feast of the Purification of Mary Most Holy
イタリア語版 Lumen ad Revelationem. Omelia di Mons. Vigano nella Festa della Purificazione.