Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

主キリストは何故古聖所に降り給うたのか? その理由

2022年04月19日 | お説教・霊的講話

キリストの古聖所への降下についての説教

ドモルネ神父様(2022年4月17日)

はじめに

聖金曜日に、私たちの主イエズス・キリストは、十字架上で亡くなられました。死とは、肉体から霊魂が分離することです。イエズスの御体は墓に納められ、その霊魂は、地獄の古聖所に降下されたのです。私たちは、使徒信経で、このように言います。「イエズスは、十字架につけられ、死して葬られ、古聖所に降りて三日目に、死者のうちよりよみがえり給う」。今日は、このイエズスの古聖所への降下についてお話しします。

1.「地獄」の概念

「地獄」とは、「黄泉の国」、つまり「この世より低く、下にある場所」という意味です。「地獄」という言葉は、死後、天主の至福直観と永遠の幸福を奪われたすべての霊魂がいる場所を意味します。聖パウロは、このような場所の存在について、たとえば、次の箇所で述べています。「イエズスの御名の前に、天にあるものも、地にあるものも、地の下にあるものも、みなひざをかがめ…る」(フィリッピ2章10節)。地獄が三つに分けられているのは、永遠の幸福を奪われた霊魂が、三つに分類されるからです。

まず、悪魔と呪われた者たちの地獄があります。ここは、大罪の状態で死んだ者が、永遠の罰を受ける場所です。主は、福音の中で、この場所についてこう述べておられます。「呪われた者よ、私から離れて、悪魔とその使いたちのために備えられた永遠の火に入れ」(マテオ25章41節)。

次に、煉獄があります。煉獄とは、成聖の恩寵の状態で死んだものの、自分の罪の償いを十分に果たしていなかった者が、苦しみによって清められる場所です。これらの霊魂は、天主の至福直観を許していただく前に、自らの償いを終えなければなりません。

最後に、古聖所があります。聖書の中では、「アブラハムのふところ」とも呼ばれる場所です。ここは、まさに、原罪に対する罰の場所です。原罪のため、霊魂は、天主を直接見て、永遠の幸福にあずかるという権利を失っています。十字架上のイエズスの犠牲によってのみ、この権利が、人間に返されるのです。ですから、イエズスのご受難と死の前には、誰も天国に入ることができませんでした。成聖の恩寵の状態で死んで、個人的な罪の償いを終えたすべての人々は、贖いの成就を、古聖所で待たなければなりませんでした。私たちが、「イエズスは古聖所に降りて」と言うのは、イエズスが古聖所にいるこれらの聖なる霊魂たちを訪ねに行かれた、という意味です。私たちの主は、悪魔のいる地獄や、煉獄に行かれたのではありません。

2.古聖所への降下の理由

イエズスは、ご自分の霊魂において、古聖所に降り給うたのです。イエズスは、自由に、つまり、そのような義務がなかったにもかかわらず、行かれたのです。むしろ、イエズスは、そこに行くことを望まれました。なぜでしょうか?

イエズスが古聖所に降り給うたのは、まず第一に、私たちの罪による罰を負って、最後までそれを償うためです。実際、預言者イザヤが、イエズスについてこう述べているようにです。「実に、彼は、私たちの労苦を背負い、私たちの苦しみを担った」(イザヤ53章4節)。また、聖トマスは、次のような注釈をしています。「人間は、自分の罪のために、肉体的に死に、地獄に落ちるという罰を受けた。それゆえ、キリストは、われわれを死から解放するために、肉体的に死ななければならなかったように、われわれ自身が地獄に落ちるのを防ぐために、自ら地獄に降ることを望まれたのである」(神学大全IIIa第52質問第1条)。

ですから、イエズスは、悪魔に対する完全な勝利をはっきりと示すために、地獄に降り給うたのです。聖トマスも、こう言っています。「誰かに対して完全に勝利するのは、戦場で相手を倒すことによるだけでなく、相手の本拠地に侵入し、相手をその王国の王位から退位させることにもよるのである」。イエズスにとっても、同じです。イエズスは、十字架上で悪魔を打ち負かされ、次に、地獄に降り給うことによって、サタンの王国に侵入されました。地獄が「サタンの王国」と呼ばれているのは、永遠の幸福から追放される場所であり、サタンはそのように追放された最初の者であったからです。

イエズスは、悪魔のいる地獄では、悪魔と呪われた者たちに、彼らすべてに対するイエズスの力を、恐ろしいほど実感させることによって、ご自分の勝利をはっきりと示されたのです。イエズスはまた、煉獄では、償いが終わり次第、天国に行けるという甘美な希望を、そこにいた霊魂たちに伝えることによって、ご自分の勝利をはっきりと示されたのです。最後に、イエズスは、古聖所においては、そこにいた義人の霊魂たちに、ご自分の受難の実りを直ちに適用することによって、ご自分の勝利をはっきりと示されたのです。イエズスは、ただちに、彼らに天主の喜びをあたえられたのです。それは、集会書にこう書かれているとおりでした。「私は、地の下のすべての場所を訪ね、眠っているすべての者を見、主に望むすべての者を照らす」(集会書24章45節)。だからこそ、イエズスは、良き盗賊に対して、まことにこう言うことがおできになったのです。「まことに私は言う。今日、あなたは、私とともに天国にいるであろう」(ルカ23章43節)。

結論

親愛なる信者の皆さん、イエズスの古聖所への降下は、復活祭の喜びの一部です。実際、古聖所への降下がはっきりと示しているのは、キリストの悪魔に対する完全な勝利と、最初の人間たちへの永遠の栄光という賜物です。「復活祭」とは、「過ぎ越し」という意味でもあります。

復活祭は、私たちが、死から命へ、悪魔の奴隷の状態から天主の子としての自由へ、地獄に落ちるという悲しみから天主との一致という喜びへ、過ぎ越すことを祝う日です。これらはすべて、私たちの主イエズス・キリストと、童貞聖マリアのおかげなのです。

しかし、聖トマスの次の警告を覚えておきましょう。「キリストは罪人のために受難の苦しみを受け、地獄に降られたが、そこにいたすべての霊魂を解放されたのではなく、大罪のない者たちだけを解放されたのである。キリストは、大罪の状態で死んだ霊魂たちを、地獄に残されたのである」。ですから、すべての人がイエズス・キリストによって自動的に救われる、というプロテスタントの誤りによって、思い違いをしないようにしましょう。

私たちの主イエズスが、そのご復活の功徳によって、私たちが大罪を避け、常に主の友情のうちに生きるよう、霊的な戦いにおいて、私たちを強めてくださいますように。


福者シスター・エレナ・アイエロ(1895-1961)その5【参考文献】ビジョンから集められた預言

2022年04月19日 | カトリック・ニュースなど

福者シスター・エレナ・アイエロ(1895-1961)その1

福者シスター・エレナ・アイエロ(1895-1961)その2

福者シスター・エレナ・アイエロ(1895-1961)その3

福者シスター・エレナ・アイエロ(1895-1961)その4【参考文献】ビジョンから集められた預言

::::::::::::::

1956年12月8日 聖母の無原罪の御孕りの祝日

聖母:「今日、世界は私を誉め称えていますが、母なる私の御心は血を流しています。なぜなら、敵が私たちの入口に差し迫っているからです!人々は天主をあまりにも侮辱しすぎています!一日に犯される罪の数々を見せたとしたら、あなたは恐怖と悲しみのあまり死んでしまうでしょう!天主を最も悲しませる罪は、その聖徳の香りによって芳香を漂わせるべき霊魂たちの罪です。それどころか、彼らは(その罪深い生活によって)隣人たちを汚しているのです」。

「時代は悲しむべきものです。全世界が混乱に陥っています、なぜなら、この世は大洪水の時よりもいっそう悪くなっているからです!」

「すべては糸のように不安な緊張状態にあります:この糸が切れるとき、天主の正義は雷のように落ち、その恐ろしい浄化を実行するでしょう」。

シスター・エレナ:「イタリアはどうなるのでしょうか?」

聖母:「私の娘であるイタリアは辱められ、血で清められ、多くの苦しみを味わうでしょう。なぜなら、キリストの代理者の座があるこの愛すべき国には、あまりにも多くの罪があるからです。あなたは何が起こるか想像できないでしょう!この悲しい時代には、多くの苦悩と涙があるでしょう。大革命が起こり、街は血で赤く染まるでしょう」。

「教皇は多くの苦しみを受けるでしょう。その苦しみは、彼のこの地上での旅路を短くするほどの苦悶であるでしょう。彼の後継者は、嵐の中でその船を導くことになるでしょう。」

「しかしながら、不信心な者たちへの処罰は遅れないでしょう。その日は、今までで最も恐ろしい日となるでしょう!地は震い、人類は揺り動かされるでしょう!邪悪な者、頑なな者は、天主の正義のとてつもない厳しさの中に滅びるでしょう。」

「祈りと犠牲によって天主の元へと立ち戻り、私の汚れなき御心に確信をもって近づくよう、人々に勧告するために、すみやかに全世界にメッセージを送りなさい。私は天主の御母、正義の御母、罪人の御母であるため、私による執り成しが示されなければならないのです。祈りと犠牲によって、私の憐みは天主の正義の御手を押しとどめることができるでしょう。」

:::::::::::::
1958年9月15日 聖母の七つの御悲しみの祝日

聖母:「物質主義はかつてないほどこの地表に編制を広げています(...)もし、あなたが祈らなければ、私の娘であるイタリアは、ロシア軍に侵略されてしまうでしょう。」

::::::::::::::::::::::::

1959年3月27日 聖金曜日

聖母:「統治者も国民も、天主の光の外にあり、特にイタリアの人々は(...)キリスト教的な家庭はもはや存在していません。ローマは罰せられるでしょう。ロシアは地球全体を侵略し(...)聖ペトロ大聖堂のドームに赤い旗を立てるでしょう。」

:::::::::::::::::::::::::::

1960年8月22日 聖母の汚れなき御心の祝日

聖母:「天主の裁きの時は近く、それは恐ろしいものとなるでしょう!」

「かつてないほどの災いが地上に迫っており、様々の国が疫病、飢饉、大地震、恐ろしいハリケーンに襲われ、川や海が溢れ、破滅と死をもたらしています。」

「もし人々がこれらの災いの間、天主の憐みの警告を受け入れず、真にキリスト教的な生活によって天主のもとに立ち戻らないならば、東から西へと再び恐ろしい戦争が起こり、すべての武器を隠し持ったロシアがアメリカと戦い、ヨーロッパを蹂躙するでしょう。ライン川はスイスから血で染まっていき、死体と血で溢れかえるでしょう。イタリアでさえも大革命が起こり、教皇は多くの苦しみを味わうことになるでしょう。」

「多くの霊魂たちが私の愛によって獲得され、多くの罪人たちが母なる私の御心に戻ることができるように、私の汚れなき御心への信心を広めなさい。恐れてはなりません。私は、私の忠実な者たちと、私の差し迫った警告を受け入れるすべての者たちに、私の母としての保護を以って伴い、彼らはーー特にロザリオを唱えることによってーー救われるでしょう。」

「サタンは吼える獅子のようにこの無秩序な世界を猛然と進み、その憎悪はすべての民族と国家を汚染するでしょう。しかし、私の汚れなき御心によって、光の勝利は闇の力に対して遅れることなく、世界はついに、その静寂と平和を手に入れるでしょう」。
 
::::::::::::::::::

1961年3月31日 聖金曜日

悲しみの聖母:「人々は私の母としての警告に注意を払わず、そのため世界はますます邪悪の淵へと沈み込んでいます。国々は恐ろしい災害によって見舞われ、破壊と死が引き起こされるでしょう」。

「ロシアはサタンに駆り立てられ、全世界を支配しようとし、流血の革命によって、イタリアを中心とするすべての国々にその誤った教えを広めるでしょう。教会は迫害され、教皇と司祭は多くの苦しみを受けるでしょう。」

シスター・エレナ:「ああ、なんと恐ろしい幻影が見えるのでしょう!ローマで大革命が起こっています!彼らはバチカンに入ろうとしています。教皇は一人、祈りを捧げています。
彼らは教皇を捕まえています。力づくで教皇を連れて行きます。彼らは教皇を地面に殴りつけます。そして彼らは教皇を縛っています。ああ主よ!なんてことでしょう!彼らは教皇を蹴っています。なんという恐ろしい光景でしょうか!なんてひどい…!」

「聖母が近づいてきます。この悪人たちは、まるで死体のように地面に倒れました。聖母は、教皇が立ち上がるのを助け、マントで彼を覆いながらこう仰っています。『恐れてはいけません!』

旗頭(聖ペトロ大聖堂のドームと他の場所で掲げられている赤い旗)が倒れ、あの邪悪な獣たちの集まりから力が抜けていきます。この無神論者たちは、『我々は天主が我々を支配することを望んでいない、サタンが我々の主人になることを望んでいる!』と叫び続けています。」

聖母:「私の娘よ、ローマは守られないでしょう。なぜなら、イタリアの統治者たちが天主の光を捨てたからです。教会を真に愛している人々はほんの一握りです。しかし、すべての邪悪な者たちが、天主の正義の巨大な一撃のもとに滅びる日は、そう遠くはありません。」

【参考情報】

THE PROPHECIES OF SISTER ELENA AIELLO

This saint bore the stigmata every Good Friday for 38 years


もしも麦が地に落ちないならば、そして死なないならば、そのまま残るけれども、しかし地に落ちて死ぬのならば、多くの実りを結ぶ

2022年04月18日 | お説教・霊的講話

2022年4月9日(土)御受難の週の土曜日のミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、あと一週間で聖金曜日、私たちの主の十字架の御苦しみの神秘に到達します。

今日福音では、イエズス・キリストを、そしてその為に皆がイエズス・キリストに従っているラザロを、亡き者にしようと、ユダヤ人たちが計っている場面が読まれました。それと同時にイエズス様は、聖父に、天主聖父に祈ります。「聖父(ちち)よ、時が来ました。栄光を表して下さい。」

つまり、イエズス・キリストが、私たちの罪の贖いの為に苦しみを受けて、御血を全て流し、命を捧げるその時が来た、ということです。

「もしも麦が地に落ちないならば、そして死なないならば、そのまま残るけれども、しかし地に落ちて死ぬのならば、多くの実りを結ぶ」と主は言われます。「もしも自分の命を救おうと思うならば、彼はそれを失い、私の名の為にそれを失う者があれば、それを救うだろう」と。

私たちも、イエズス様の御受難の御跡に従うことに致しましょう。私たちが永遠の命に辿り着くには、主が辿った道しかありません。つまり十字架の道です。

--- もしも私たちが自分の命を、自分の快楽、自分のやりたいことを、自分がこうあってほしいことを、と、このイエズス様から受けられた十字架を受け取らないならば、私たちは生命を失ってしまうことになる。

しかし、イエズス・キリストの為に十字架を取るならば、送られた十字架を受けて、この自分に死ぬのならば、命を受ける。

私たちの命を受けるのみならず、永遠の命を受けるのみならず、多くの実りをも結ぶことができる。多くの霊魂を救うことができる。イエズス・キリストの贖いの業に参与することができる。永遠の命の為に多くの霊魂たちを導くことができる。--- 

私たちが十字架を受ける時には、苦しみを受ける時は、非常に辛い、苦しいものですが、イエズス・キリストがその私たちの先頭に立って私たちを導いて下さいます。主は私たちを決して見放すことがありません。いつも私たちの傍にいて支えて下さっています。マリア様もそうして下さっています。

ですから今日、良い決心を立てることに致しましょう。

明日、枝の主日で、勝利の棕櫚を持って、キリストを王として迎えるのですから、この王に従って最後まで突き進む、天国にまで進む力と、特別の御恵みを乞い求めましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


聖母もイエズス様と同じことを祈っていたに違いない。「聖父よ、彼らをお赦し下さい。イエズスよ、彼らを赦してあげて下さい。」

2022年04月18日 | お説教・霊的講話

2022年4月8日(金)童貞聖マリアの七つの御悲しみのミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆さん、今日、悲しみの聖母の記念を行なっております。この聖母は特に、聖ピオ十世シスター会の守護の聖人で、聖ピオ十世会の私たちも一級の特別の祝日として祝っています。今日は是非シスターたちの為に、聖ピオ十世会のシスターたちの為にお祈り下さい。

特に日本から初めての召命、シスター・マリ・エスペランスは、来たる白衣の主日(4月24日)に初誓願を立てるとのことです。シスターの為にお祈り下さい。また日本から多くの召命が、修道士・修道女が出ますようにお祈り下さい。

マリア様の御悲しみ、今日それを垣間見ることに致しましょう。マリア様は十字架の足元に立ち留まっておられました。マリア様の汚れなき御心の中には一体、どんな思いがあったのでしょうか?

私たちはともすると、不正義を見て怒りにかられます。「何でこんなに苦しむのか? 他の人は安楽な生活をしているのに、バラバは赦されたのに、イエズス様は無罪なのになぜ十字架なのか?なぜ、無罪のみならず、こんなに聖なる方が、なぜ極刑を死刑を受けなければならないのか?なぜこんな傲慢が許されるのか?どこにそんな法律があったのか?裁判はどれほどいい加減だったのか?夜中の裁判は許されていなかったはずだ。お祭りの日には裁判を開くことができないはずだ。あまりにも不法だ!矛盾している!無効だ!」

もしかしたら私たちはともすると、そのような怒りや、復讐や、憤りの念にかられてしまうかもしれません。時々には、車を運転しただけでも、追い越し方が悪いとか、あるいは走り方が悪いということで、窓を開けて怒る人もいます。

そのような、イエズス様が受けたその不当な裁判、不当な宣告、その拷問、血だらけの御姿をご覧になって、十字架の下に佇んだマリア様は、どれほどの思いがあったことでしょうか。

ともすると私たちは、「あぁ、なぜ天主よ、こんなことが起こったのか?私が一体何を悪いことをしたのか?」等と不平を言うような人もいるような状況だったかもしれません。マリア様はもしかしたら、その苦しみがあまりにも残酷で、ひどく、もしかしたらもう目を向けることもできずに、ここからもう去ってしまいたい、もうこのような所から立ち去りたい、と思われたかもしれません。マリア様は一体何を思ったのでしょうか?

しかしマリア様は、私たちが考えるようではなく、イエズス様と同じことを思ったに違いありません。イエズス様は仰います。最初の言葉はこうでした。「聖父よ、彼らをお赦し下さい。」

マリア様も、イエズス様と同じことを祈っていたに違いありません。「聖父よ、彼らをお赦し下さい。イエズスよ、彼らを赦してあげて下さい。」

聖母は決して、十字架の下を逃げようとせずに、離れようとせずに、その苦しみを、イエズス様と共にお捧げしていました。

悔い改めた盗賊を赦すイエズス様の言葉、おそらくマリア様は、この盗賊たちの為に祈っていたに違いありません。「彼らもイエズスの方に、イエズスを信じて、イエズスから憐みを受けるように。」一人は、マリア様のその祈りに動かされて、主に憐れみを乞いました。

十字架に釘付けにせられて、頭も体も動かすこともできずに、声も絶え絶え、息絶え絶えの血まみれのイエズス様は、それでも最後の力を振り絞って、私たちのことを考えました。愛する兄弟姉妹の皆さんと、私のことを考えて下さいました。

「天主聖父を父と呼んで、『我らの聖父(ちち)よ』と呼べ。こうやって祈れ」と教え、御聖体を以って御自分の御体を全て与え尽くして、御血を全て流し尽くして、最後の最後まで私たちに全てを与えようとした時に、最後に、最大の愛の御方マリア様をも、私たちの母として与えようと思われました。

私たちにマリア様を与える時に、まずマリア様に仰います。「女よ、お前の子、ここにいる」と。「お前の子供を見よ。」私たちのことです。

マリア様はその時、確かに私たちを、本当のマリア様の子供として受け取って下さいました。イエズス様とははるかに違う、天主の子ではなくエヴァの子、罪人の子ではありました。しかし私たちの永遠の救霊の為に、これから母として心を砕こうと、イエズスを愛するがように、私たちを愛そうとされます。

そしてイエズス様は、十字架の上から、喘ぐ声で私たちの方に声をかけます。「汝の母、お前の母がここにいる。お前の母を見よ。」

「マリア様こそ、お前の母だ。永遠の命に産んでくれる母親だ。母として大切にしてくれ。私の形見だ。お前の母だ。お前はこの母の子だ。」マリア様は、このイエズス様の言葉を聞いて、どれほど私たちに対する愛に燃えて下さったことでしょうか。

私たちはそれを知りつつも、あたかもマリア様がいらっしゃらなかったかのように、マリア様は私たちに関係なかったかのように、母の心を傷つけて、あるいは無関心で、冷たい心で、マリア様をどれほど取り扱ってきたことでしょうか。マリア様にどれほど悲しい思いをさせてしまったことでしょうか。

それにも関わらず、マリア様は常に優しい母の心で、私たちを見守って、私たちの為に祈り、私たちの為に取り次いで、涙を流しながら、イエズス様にお願いをして下さっています。

愛する兄弟姉妹の皆様、ではこの悲しみの聖母を、私たちの母として今日もう一度、感謝と愛を以って受け入れて、そして良き子となる恵みを乞い求めましょう。そして私たちも受ける、受けている、あるいは将来受けるかもしれない、あるいは将来あるかもしれない辛いことや十字架、悲しみ、あるいは不当な悪口や嫌がらせ、あるいは病気、事故、あるいは死別など、主の御旨のままに、マリア様を通してお捧げ致しましょう。私たちのこの捧げものが、私たちの罪と世の罪の償いとなりますように、贖いの為の一滴となりますように、今日その御恵みを乞い求めましょう。

イエズス様とマリア様にいつも寄り添う御恵みを乞い求めましょう。私たちの心に、マリア様の御悲しみと、イエズス様の悲しみがいつも深く刻まれますように。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


【ミサ報告】愛する兄弟姉妹の皆様、私たちの主イエズス・キリストの御復活の喜びを申しあげます。

2022年04月17日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

私たちの主イエズス・キリストの御復活の喜びを申しあげます。

今年の聖週間には、予定通り、東京と大阪とで。テネブレの典礼を行うことができました。聖歌隊の皆様には心から感謝いたします。

さて4月14日東京の聖木曜日のミサに来られた方は、子供達も入れて合計55人でした。聖木曜日の夕べのミサ聖祭が終わった後の夜、御聖体をミサ会場から修道院まで運びました。ロザリオを唱えながら御聖体で祝福しつつ、東京をぐるりと回りました。大阪ではミサの参加者は15人でした。

4月15日東京の聖金曜日の典礼に来られた方は、子供達も入れて合計67人でした。大阪では17人でした。

4月16日東京の聖土曜日の復活徹夜祭に来られた方は、子供達も入れて合計66人でした。東京では復活の徹夜祭に一人の成人女性が洗礼の恵みを受けられました!天主に感謝!大阪では19人でした。

4月17日復活の主日に東京のミサに来られた方は、子供達も入れて合計142人でした。大阪では38人でした。大阪ではこの主日に一人の子供が初聖体を受けました。天主に感謝いたします。今年、日本では復活の主日の日中のミサに180人の方々が聖伝のミサに与ることができました!

東京では、次の主日(4月24日)からいつもの曙町会館に戻ります。お間違えの無いようお願いいたします。
東京では、再来週の主日(5月1日)には全てがうまくいけば、レネー神父様が9時からの歌ミサを捧げる予定です。レネー神父様と小野田神父との二人が曙町会館で交互にミサを捧げ、レネー神父様は秋田巡礼にも参加される予定です。

明日、復活の月曜日には、修道院ではミサは、午前7時15分と午前11時の二回です。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】
Dear Fathers:
Shown below are the number of attendees at the Maundy Thursday mass in Tokyo today. The total number of attendees today was 55, including children.

M: 28 (incl. 6 children)
F: 27 (incl. 5 children)
Total: 55 (incl. 11 children)

【報告】
Dear Fathers:
Shown below are the number of attendees in Tokyo today. The total number of attendees in Tokyo today was 67, including children.

M: 32 (incl. 6 children)
F: 35 (incl. 6 children)
Total: 67 (incl. 12 children)

【報告】
Dear Fathers:
Shown below are the number of attendees in Tokyo today. The total number of attendees in Tokyo today was 66, including children.

M: 31 (incl. 5 children)
F: 35 (incl. 5 children)
Total: 66 (incl. 10 children)

【報告】
Dear Fathers:
Shown below are the number of attendees at the masses in Tokyo today. The total number of attendees at the masses in Tokyo today was 142, including children.

09:00 mass
M: 33 (incl. 9 children)
F: 32 (incl. 7 children)
Total: 65 (incl. 16 children)

11:00 mass
M: 21 (incl. 4 children)
F: 25 (incl. 5 children)
Total: 46 (incl. 9 children)

12:30 mass
M: 12 (incl. 0 child)
F: 22 (incl. 0 child)
Total: 34 (incl. 0 child)

Total of 3 masses (excl. 3 people who participated in multiple masses)
M: 65 (incl. 13 children)
F: 77 (incl. 12 children)
Total: 142 (incl. 25 children)

Photo Credit


[復活の徹夜祭]の儀式のひとつひとつの神秘的な意味。有名な美しき讃歌「エクスルテッド」は、なぜ司教でもなく司祭でもなく助祭が歌うのか?

2022年04月16日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2022年4月17日は御復活の主日です。

私たちの主イエズス・キリストの御復活のお慶びを申し上げます。アレルヤ!

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「御復活の説教」の動画をご紹介いたします。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

SSPX JAPAN聖ピオ十世会日本にチャンネル登録もお願いいたします。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父


ミサ聖祭は、カルワリオの十字架の犠牲と同じ価値を持っている。キリスト的生活と永遠の救いに不可欠なもの。聖伝のミサのための私たちの戦いは、私たちと隣人の霊魂の救いのために不可欠な戦い。

2022年04月15日 | 聖伝のミサの予定

聖木曜日 ミサと十字架の関係についての説教

ドモルネ神父(2022年4月14日聖木曜日)

はじめに

聖木曜日には、聖なるミサとカトリック司祭職の制定の記念日を、お祝いします。今日は、カルワリオの犠牲とミサの関係について、お話ししたいと思います。

1.十字架の犠牲

イエズスは、十字架上で死ぬことにより、真の犠牲を捧げられました。犠牲とは、天主への服従と敬意のしるしとして、何かを天主に捧げる儀式のことです。イエズスは、十字架上で死ぬことにより、天主ご自身によって定められた儀式に忠実に従いながら、ご自分自身の命を、天主に捧げられたのです。実際、天主は、イエズスが、どのように苦しまれ、亡くなられることになるかをあらかじめ計画され、それを、旧約の預言の中で、とても詳細に、予告しておられたのです。また、イエズスは、天主に無限の敬意を表し、それによって、人間のすべての罪の赦しを得るために、ご自分を捧げられたのです。このように、イエズスは、十字架上で死ぬことにより、ご自分が、いけにえであり、かつ司祭である、真の犠牲を捧げられたのです。

ミサは、十字架の犠牲を更新し、かつ継続するものです。なぜ、そうなのでしょうか? それは、いけにえと司祭が同じであり、また、ミサで行われる奉献の行為と、十字架上で行われた奉献の行為との間に、本質的な関係があるからです。このことを、もう少し詳しく見てみましょう。

2.十字架とミサで、いけにえは同じ

ミサにおいて、私たちが捧げるのは、イエズス・キリストの命です。聖変化のとき、司祭は、パンとぶどう酒の外観の下に、イエズス・キリストを真に現存させます。しかしまた、イエズスの御体と御血を、ある意味で分ける二度の聖変化によって、司祭は、イエズスの犠牲と死を表します。このように、司祭が天主に捧げるのは、イエズスの命です。この捧げ物は、司祭が天に向かってホスチアを、その後、尊き御血を、差し上げる奉挙のときに、外的に示されています。このように、十字架においても、ミサにおいても、捧げられるのは、イエズス・キリストの無限に尊い命なのです。いけにえは、同じです。

3.十字架とミサで、司祭は同じ

ミサにおいて、いけにえは、イエズス・キリストによって捧げられます。実際、イエズス・キリストのみが、パンとぶどう酒の外観の下に、ご自分を現存させる力を持っておられ、このような方法でご自分を天主に捧げることができるのは、イエズス・キリストのみです。皆さんが目にしている人間の司祭は、イエズスが、それを通して実行されるための、道具にすぎません。イエズスが大司祭であり、私たちは私たちの側で、イエズスの奉献の行為に参加するのです。この理由から、ミサでは、「Dominus vobiscum - Et cum spiritu tuo」が、頻繁に繰り返されるのです。それは、司祭としての行為をなさるイエズスと私たちの一致と、その更新を表すためです。つまり、十字架においても、ミサにおいても、犠牲を捧げる司祭は、同じイエズス・キリストなのです。

4.ミサの奉献の行為は、十字架上の奉献の行為と本質的に関係している

最後に、ミサは、十字架の犠牲の更新かつ継続です。なぜなら、双方の奉献の行為は、本質的に関係しているからです。十字架上で、イエズスは奉献の行為をされました。イエズスは、私たちの罪の赦しのために、ご自分の命を、天主に捧げられました。実際、十字架上で、イエズスはこう言われました。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているか知らないからです」(ルカ23章34節)。ミサにおいて行われる奉献の行為は、十字架上のイエズスの奉献の行為と、本質的に関係しています。イエズスご自身が、この関係をはっきりと確立されました。第一に、イエズスは、十字架上で亡くなられるほんの数時間前、聖木曜日の晩に、聖なるミサを制定されました。第二に、イエズスは、ミサの聖変化の言葉において、十字架上のご自分の死に明確に言及されました。「これはあなたたちのために与えられる私の体である」(ルカ22章19節)、「これは、多くの人のために、罪の赦しを得させるために流す…私の血である」(マテオ26章28節)。第三に、ミサを制定した直後、イエズスは、使徒たちに、次の掟を与えられました。「私の記念としてこれを行え」(ルカ22章19節)。そして、聖パウロは、イエズスが、何のことを言っておられたのかを、こう説明しています。「まことに、あなたたちは、このパンを食べ、この杯を飲むごとに、主の来られるまで、主のご死去を告げるのである」(コリント前書11章26節)。

ミサにおける奉献の行為は、十字架上のイエズスの奉献の行為と、本質的に関係しています。しかし、イエズスが十字架上でご自身を捧げられたのは、主に、罪の赦しのためです。ですから、ミサもまた、主に、罪の赦しのために捧げられるのです。したがって、ミサにおけるこの意向を取り除いたり、最小限にしたりすることは、ミサを十字架の犠牲から切り離すことであり、ミサを変質させることです。ところが、これが、新しいミサの典礼で起こったことであり、私たちが、この新しい典礼を良くないと非難する理由の一つが、このことなのです。

ミサにおけるイエズスの奉献の行為は、十字架上のイエズスの奉献の行為と関係していますが、この二つの行為は、別のものです。両者の間には違いがあるのです。その違いは、どのようなものでしょうか? カルワリオでは、すべての贖いが完全に獲得されましたが、分配はされませんでした。ミサでは、何も獲得されませんが、すべてが分配されます。言い換えれば、カルワリオでは、すべての恩寵の巨大な貯蔵庫が作られ、ミサでは、これらの恩寵が、私たちの聖性の状態に応じて分配されるのです。

結論

親愛なる信者の皆さん、聖なるミサは、カルワリオの十字架の犠牲と同じ価値を持っています。聖なるミサは、十字架上のイエズスの犠牲と同じく、私たちのキリスト的生活、私たちの永遠の救いに、不可欠なものです。ですから、この聖木曜日に、ミサに対する感謝の気持ちを新たにし、ミサを変質させたり、ミサの効力を弱めたりするすべての人々から、ミサを守る決意を新たにしましょう。聖伝のミサのための私たちの戦いは、第一に私たちの霊魂の救いのために、第二に他の人たちの霊魂の救いのために、不可欠な戦いなのです。

共受難の聖母が、この戦いを、死ぬまで確実に続ける力を、私たちに取り成してくださいますように。

Photo Credit


ウクライナの戦争の多くの苦しみの原因は何か?なぜ天主は、彼らを苦しめ、死なせるのか?なぜ天主は、戦争とその惨状を止めるために介入なさらないのか?

2022年04月14日 | お説教・霊的講話

苦しみの原因についての説教

ドモルネ神父(2022年4月3日受難節第一主日)

はじめに

1月末以来、ウクライナの現政権に対するロシアの軍事作戦が行われています。現地のジャーナリストが送ってくる報道を通じて、私たちは、破壊されたり、被害を受けたりした多くのインフラを目にします。そして何より、すべてを失った人々、爆撃や暴力を目の当たりにしてやつれた人々、負傷した人々、拷問を受けた人々、殺された人々を、目にします。そのような光景を見ると、これほど多くの苦しみが存在することに、いくつかの疑問を抱くかもしれません。今日は、そういった疑問のうちの三つについて、お話ししたいと思います。

1.私たちの苦しみの原因

第一の疑問は、こうです。「これほど多くの苦しみの原因は、何だろうか?」。地政学的な理由を挙げることはできます。しかし、それは根本的な理由ではありません。私たちは、さらに昔を振り返らなければなりません。聖パウロは、こう言っています。「悪を行って生きるすべての人の上には、患難と苦悶がある」(ローマ2章9節)。これは、罪を犯したすべての人の上には、という意味です。聖霊は、聖書の中で、義人ヨブを通して、こう言っておられます。「思い返せ、罪なくして滅ぼされた者があったか。正しい人がどこで敗北したか。私の知る限り、悪のすきを使う者、罪をまく者たちは、それを刈り入れる。彼らは天主の息吹で滅び、その怒りの一吹きで消え去る」(ヨブ4章7-9節)。苦しみと死が、罪に対する罰であるのは明らかです。

原罪は、私たち全員にとって、苦しみの第一の原因です。天主が人類を創造されたとき、天主は、善意から、私たちが道徳的な正しさを保つ助けを与え、そして私たちを苦しみや死から守る特別な賜物を与えてくださいました。原罪のせいで、私たちは、これらの特別な賜物を失い、今や私たちは、罪を犯しやすくなり、苦しみと死にさらされるようになったのです。

次に、私たちの個人的な罪が、苦しみの第二の原因です。私たちが罪を犯すとき、私たちは、天主の法に背くのです。言い換えれば、私たちは、自分の意志を、天主のご意志と対立させるのです。正義が要求するのは、私たちが、自ら犯した罪に対する罰を受けることです。ですから、私たちは、自分が望むものを奪われることによる罰を受け、そのことが、私たちを苦しめるのです。私たちは、幸福、他人との平和な暮らし、行動の自由、物質的な財物、健康、生命などを奪われるのです。

2.罪のない人々の苦しみ

第二の疑問は、こうです。「この戦争に責任のない人々がいる。なぜ天主は、彼らをこの戦争で苦しめ、死なせるのだろうか?」。第一の答えは、原罪の結果を免れる人は誰もいない、ということです。ですから、誰もが戦争の苦しみを受ける恐れがありますが、それは、天主のせいではありません。戦争の恐ろしさをみて、私たちは、原罪の深刻さについて、また、これを機に、天主に対して犯す罪の深刻さについて、思いを巡らせるべきです。実際、原因と結果は、釣り合うものです。原罪の結果がこれほど恐ろしいものであるならば、原罪とは、どれほど悪しきものなのでしょうか!

また、すべての人は罪人です。すべての人は、自分が犯す罪のために、当然、罰を受けるべきものです。しかし、天主だけが、その無限の正義と知恵により、この世で、あるいは来世で、それぞれの人が償わなければならない罰の種類と厳しさを、割り当てることがおできになります。私たちは、罪の悪を十分に理解していないため、自分の苦しみは厳しすぎる、不公平だと思うかもしれません。しかし、私たちは、謙虚になって、天主が無限に正しく、賢く、善いお方であることを思い出すべきです。私たちは、天国でのみ理解できることがたくさんあることを、認めるべきです。

しかし、幼い子どもたちの苦しみはどうでしょうか? 子どもたちの苦しみは、とても不公平に見えます! しかし、ここでもまた、それは誰のせいなのでしょうか? 原罪と個人の罪によって、人間自身に、その責任があるのです。子どもたちが苦しんでいるという、私たちの胸が張り裂けそうな光景を見て、私たちは、あらゆる罪、特に私たち自身の罪を、もっと強く嫌うようにならなければなりません。

3.天主のご介入

三つ目の疑問は、こうです。「なぜ天主は、戦争とその惨状を止めるために介入なさらないのだろうか?」。第一に、天主は人間を、自由なものとして、創造なさったことを忘れてはなりません。私たち人間の尊厳は、私たちの自由、すなわち、善いことを、進んで選択する能力にかかっているのです。聖霊は、聖書の中で、こう言っておられます。「天主は、誰にも、悪人になれと命じられたことはなく、誰にも、罪を犯す許可を与え給わない」(集会書15章20節)。私たちは、幸福を選ぶか、あるいは不幸を選ぶかを、自ら選択し、その選択についての責任を負います。天主は、聖書の中で、こう言われます。「人間の前には、生命と死、善と悪がある。望みのままに、そのいずれかが与えられる」。(集会書15章17節)。もし、人間が間違ったことをしないように、天主がいつも介入なさるならば、人間は、本当の意味で、自由ではないことになってしまいます。

第二に、天主は、その知恵により、人間の罪によって起こる苦しみを、善に変える方法をご存じであることを忘れてはなりません。私たちの罪による戦争の苦しみは、天主の正義を明白に表しているのです。聖パウロは、ガラツィア人に、こう言いました。「天主を侮ってはならない。人は、蒔くものを収穫するからである」(ガラツィア6章7節)。また、戦争の苦しみは、しばしば、多くの人々が天主に回心し、罪深い生活をやめる良い機会となります。ですから、天主は、霊魂の永遠の救いのために、こういった、この世での一時的な苦しみを、許されるのです。最後に、戦争の苦しみは、回心と罪の償いをするようにという、天主がすべての人にお与えになる、すべての人のためになる警告なのです。

結論

親愛なる信者の皆さん、ウクライナの戦争の苦しみを目にすると、胸が張り裂ける思いがします。なぜなら、それは、本物であり、現実であり、ひどいものであるからです。しかし、人間的な感情だけに動かされないようにしましょう。私たちの霊魂にとって有益なものを、引き出しましょう。第一に、非常に多くの苦しみの原因である罪の悪を、もっとよく理解しましょう。この世の最大の悪である罪を嫌いましょう。

第二に、次のことを忘れないようにしましょう。戦争の苦しみは、それをすべて合わせて考えても、私たちの主イエズス・キリストと童貞聖マリアのご受難の際の御苦しみに比べれば、取るに足りないものです。ですから、戦争の恐ろしさを目の当たりにすることで、私たちが、特にこのご受難節に、イエズスとマリアの御苦しみを、さらに深く黙想することができますように。そして、その黙想により、私たちが、イエズスとマリアと一致して、さらに寛大な罪の償いをお捧げすることができますように。

Photo Credit


アブラハムの二人の妻サラとアガル、二人の息子イスマエルとイサク:その文字通りの意味と、寓意的な意味

2022年04月14日 | お説教・霊的講話

アガルとサラ(四旬節第四主日)についての説教

ドモルネ神父(2022年3月27日四旬節第四主日)

はじめに

書簡の中で、聖パウロは、アブラハムの二人の妻、サラとアガル、そして二人の息子、イスマエルとイサクについて語っています。聖パウロは、こう言っています。「そのことは、寓話として語られている。すなわちこの女たちは二つの契約である」(ガラツィア4章24節)。聖パウロは、聖書に載せられている言葉や出来事には、いくつかの意味があることを、はっきり述べているのです。今日は、そのうちの二つの意味、文字通りの意味と、寓意的な意味について、簡単にお話ししたいと思います。

1.アガルとサラ:文字通りの意味

聖書の中の第一の意味は、使用されている用語から直接現れてくる意味で、これは、いつも存在するものです。この第一の意味は、「文字通りの意味」と呼ばれます。アガルとサラの話の、文字通りの意味とは、何でしょうか? サラはアブラハムの妻でした。サラは不妊でしたから、子どもを授かることができませんでした。アガルは、サラの奴隷でした。当時有効だった法に従って、サラはアブラハムに、自分の奴隷であるアガルを、第二の妻として与え、それによって、アガルの子どもが、法的に自分の子どもとなるようにしました。当時、天主は、一夫多妻制を許しておられたのです。そこで、アブラハムはアガルと結婚し、アガルは自然の法則に従って、アブラハムのために、イスマエルという名の息子を生みました。その後、天主はサラに、 子どもを生む力を奇跡によって授けられ、サラは、アブラハムのために、イサクという名の息子を生みました。イサクは、当然の権利によって、アブラハムの全財産の相続人となりました。

2.アガルとサラ:寓意的な意味

聖書には、文字通りの意味に加えて、時々、神秘的寓意的意味と呼ばれる、隠された意味が存在することがあります。聖書に記されている言葉や出来事を通して、聖霊は、未来の出来事や人々、特にイエズス・キリストや教会について、告知されます。アガルとサラの話の、寓意的な意味は、何でしょうか? 聖パウロは、こう言っています。奴隷のアガルは、旧約、つまりシナイ山で、モーゼを通して、天主とヘブライ人たちの間に結ばれた契約を表しており、自由民の女サラは、新約、つまりシオン山で、私たちの主イエズス・キリストを通して、天主とすべての民族の間に結ばれた契約を表しています。この寓意について、もう少し説明しましょう。

天主は、救い主イエズス・キリストと新約の到来を告知し、それを準備するために、ヘブライ人たちと、旧約を結ばれたのです。その旧約のすべての律法は、この目的のためにあったのです。イエズスが地上に来られたとき、多くのユダヤ人は、イエズスを、天主が約束されていたメシアだと認め、イエズスに従いました。例えば、使徒たちがそうでした。しかし、ほとんどのユダヤ人は、キリストを拒絶しました。今日に至るまで、彼らは旧約の律法に従い、また自分たち自身で作り出した習慣にも従い続けています。このユダヤ人たちの行っていることは、霊的に空しく、束縛や重荷となり、また、自分たちを永遠の命に導くことのできないものです。これが今日、私たちが「ユダヤ教」と呼んでいるものです。ユダヤ教は、アガルに象徴される奴隷制度にほかならず、その信者たちを、イスマエルに象徴される単なる奴隷にするものです。

天主と人との間の、真の、完全な契約は、私たちの主イエズス・キリストによって打ち立てられた契約です。私たちは、それを、新約と呼んでいます。真の天主であり真の人間であるイエズス・キリストは、人間を天主と一致させる唯一かつ普遍的な仲介者です。イエズス・キリストは、ご自分の教えを私たちに伝え、私たちを天主の子とし、私たちを天主の至福直観と永遠の幸福へと導くために、地上に来られ、カトリック教会を創立されたのです。カトリック教会の真正な教えを実践する者は、誰でも自由になります。自分の情欲、悪徳や悪魔の奴隷状態から解放され、常に、真、善、美を愛する自由を得るのです。この理由により、カトリック教会は、自由民の女サラに象徴されており、キリスト教徒は、アブラハムの相続人イサクに象徴されているのです。

3.イスマエルのイサクへの迫害:文字通りの意味

ここで、聖パウロが書簡の中で触れているもう一つの点、すなわち、イサクに対するイスマエルの迫害について見てみましょう。この箇所の文字通りの意味は、何でしょうか? イスマエルとイサクは、一緒に成長しました。しかし、年上で力の強いイスマエルは、年下で力の弱いイサクを、迫害するようになりました。そこでサラは、アブラハムに、アガルとイスマエルを追い出すように要求しました。「この奴隷女とその子を追い出してください。この奴隷女の子が、私の息子イサクとともに遺産を受けることがあってはならないのですから」(創世記21章10節)。天主はサラの願いを認められ、アブラハムに、アガルとその子イスマエルを追い出すように命じられました。アブラハムは、それを実行しました。

4.イスマエルのイサクへの迫害:寓意的な意味

さて、この箇所の寓意的な意味は、何でしょうか? アガルは、キリストの死以降行われてきたユダヤ教を、表しています。ですから、アガルの息子イスマエルは、ユダヤ教を実践しているすべての人々を象徴しています。サラは、カトリック教会を表しています。サラの息子であるイサクは、すべての真のキリスト教徒を表しています。イスマエルのイサクに対する迫害は、ユダヤ教のカトリック教会に対する迫害、ユダヤ人のキリスト教徒に対する迫害を表しています。聖パウロの時代から今日まで、ユダヤ教の信者たちがキリストの教会を破壊しようと戦ってきたことは、実際に歴史が示しています。

天主のご命令により、アブラハムは、アガルとイスマエルを追い出し、サラとイサクを、自分のもとにとどめました。これは、ユダヤ教を実践する者は、天主がアブラハムとその子孫に約束なさった祝福にはあずかれない、という意味です。アブラハムの真の子、つまりアブラハムと一緒にとどまり、アブラハムになされた約束にあずかる者は、イエズス・キリストへの真の信仰を持つ者なのです。(ヨハネ8章56節参照)。

聖パウロの教えに照らせば、ヨハネ・パウロ二世やベネディクト十六世といったカトリックの教皇が、ユダヤ教の会堂に祈りに行くことが、いかに、つまずきを与えるものであるかが、ご理解いただけるでしょう。1986年、ヨハネ・パウロ二世は、ユダヤ教に関する第二バチカン公会議の教え(ノストラ・エターテ)に自ら言及し、ローマのラビにこう告げました。「あなたたちは私たちの親愛なる兄弟であり、ある意味で、私たちの兄と言えるかもしれません」。

これは誤りです。今日のユダヤ教は、その信者を天主の子とはしませんし、信者を永遠の幸福に到達させることも、できないのです。

結論

四旬節の一番初めに、教会は、キリストの砂漠での誘惑の物語を、私たちに読ませました。その時、私たちの主イエズスは、サタンにこう言われました。「人はパンだけで生きるのではない。天主の口から出るすべての言葉によって生きる」(マテオ4章4節)。聖書は、書き記された天主のみ言葉です。ですから、私たちは、聖書を読み、それによって霊的に養われるべきです。聖書を読むことによって、私たちは、旧約と新約の歴史的事実を知り、私たちの主イエズス・キリスト、聖母、聖なる天使たち、聖人たちをさらによく知って愛することを学び、自分のカトリック信仰をさらに強め、祈ること、そしてあらゆる聖徳を実践することを学び、永遠の命へのますます強い希望に生きるのです。

Photo Credit


イエズス・キリストとサタンの戦いは決してやむことがない。サタンに固く立ち向かうためにイエズスと強く一致する必要がある。サタンよりも強いイエズスの強さは私たちの強さだ。

2022年04月14日 | お説教・霊的講話

キリストとサタンの戦い(四旬節第三主日の福音)についての説教

ドモルネ神父(2022年3月20日四旬節第三主日)

はじめに

今日の福音で、ファリザイ人は、イエズスが、悪魔の力によって悪霊を追い出したと非難します。私たちの主は、この非難が不合理であることを示して、こう反論されました。「サタン同士争っているなら、どうしてその国が存在を保てよう」(ルカ11章18節)。そしてイエズスは、ご自分が、いかに、実際にはサタンと正反対の立場におられ、サタンと戦う人々の指導者であり、また、その人々を勝利へと導かれるかを、説明されます。私たちの主イエズスのこのお言葉の意味を、もう少し詳しく見てみましょう。

1.「強い人たち」

私たちの主は、第一の強い人について、こう言われます。「強い人が武装して自分の邸(やしき)を守れば、その持ち物は安全である」(ルカ11章21節)。この強い人とは、サタンのことです。サタンが強いのは、サタンが天使であり、天使の生まれ持った力が、人間の生まれ持った力より、はるかに強いからです。しかし、サタンが、とりわけ私たちに対して強いのは、私たちが、自分自身の罪によって、サタンに、私たちを支配する力を与えてしまうからです。サタンの邸とは、この世のことです。サタンは、しっかり武装しています。サタンの武器とは、サタンが、私たちを誘惑して陥らせる、あらゆる種類の大罪であり、それによって、サタンは、私たちを奴隷として支配するのです。したがって、サタンが所有しているのは、大罪の状態にある霊魂たちです。大罪の状態にある霊魂は、自分自身ではその状態から抜け出せないため、サタンは、その霊魂を、平穏無事に所有しているのです。その霊魂は、罪の完全な償いを、天主に捧げることができません。天主から離れた霊魂は、もはや誘惑に抵抗するのに十分な力を持っておらず、罪の中に、ますます深く沈んでいくのです。その結果、サタンは、その霊魂に対する支配力を、ますます強めるのです。

次に、私たちの主は、第二の強い人について、こう言われます。「しかし、さらに強い人が来て、その人に勝てば、その人が頼みとしていた武器を、すべて奪い取り、分捕り品を渡すだろう」(ルカ11章22節)。このサタンよりも強い人とは、イエズス・キリストご自身のことです。イエズス・キリストがサタンより強いのは、イエズス・キリストが天主であるからであり、また、人として、罪を完全に免れ、完全に天主と一致しておられるからです。サタンは、イエズスを罪に陥れようと、つまり、天主のみ旨に背かせようと、あらゆる手を尽くしました。しかし、イエズスは、「死ぬまで、十字架上に死ぬまで従われ」(フィリッピ2章8節)ることによって、また、父なる天主に、ご自分の命という無限に尊い犠牲をお捧げになることによって、サタンに打ち勝たれたのです。イエズス・キリストは、サタンの武器を、すべて奪い取られたのです。これは、私たちの主が、すべての人のすべての罪のための、完全な償いを、お捧げになったことを意味します。主は、私たちがすべての誘惑に打ち勝つために必要な、すべての恩寵を獲得されました。サタンから奪い取られた分捕り品とは、イエズス・キリストを信じ、そしてイエズスの甘美なる愛の法に自ら従うことによって、サタンの奴隷状態から解放された、すべての人々のことを意味します。イエズスが、分捕り品を渡されるというのは、イエズスがお救いになる霊魂を、永遠の幸福へと導くために、善き天使たちやご自分の教会に、お委ねになることを意味します。

2.キリストとサタンの全面的な戦い

しかし、イエズスの勝利の実にあずかるためには、私たちは、固い決意をもって、イエズスと共に立たなければなりません。サタンのわざと、キリストのみわざは、完全に対立しています。聖ヨハネ・クリゾストモは、こう述べています。「サタンは、霊魂を奴隷にしようと望み、イエズスは、霊魂を自由にしようとお望みになる。サタンは、霊魂を偶像崇拝に導き、イエズスは、天主への礼拝に導かれる。サタンは、霊魂を悪徳に導き、イエズスは、聖徳に導かれる」。中立は、あり得ないのです。キリストの側に立たないということは、サタンの側に立つということなのです。このため、イエズスは、「私とともにいない人は私の敵である」(ルカ11章23節)と言われます。しかし、イエズスは、さらに進んで、こう言われます。「私とともに集めぬ人は、散らす人である」。私たちが、イエズス・キリストにお捧げせずに行うあらゆる仕事、肉体的または霊的な活動は、永遠の命のためには、無益なものなのです。そのような活動は、時間とエネルギーの浪費、天主が私たちに与えてくださった才能や恩寵の浪費に過ぎません。ですから、朝、その日のすべての活動を天主にお捧げして、またその日のあいだ、頻繁に、その捧げ物を更新することが重要なのです。

3.私たちの主の警告

その次に、私たちの主は、重大な警告を与えられます。「汚れた霊は、人から出ると、休みを求めて荒れ地をさまようが、それを見つけないので、『私の出てきた元の家に帰ろう』と言う」(ルカ11章24節)。サタンは、キリストに敗れたにもかかわらず、キリストとの戦いを、あきらめません。サタンは、キリストの勝利を、できるだけ多くの霊魂にとって無益なものにしようと、懸命に努力するのです。ですから、もし霊魂が、イエズス・キリストによって解放されたとしても、サタンは、その霊魂が再び罪に陥り、自分の力の下に戻るようにするために、あらゆることをします。サタンは、自分よりも邪悪な七つの悪魔とともに、その霊魂を攻撃します。つまり、七つの悪徳を通して、これまで以上に激しく霊魂を攻撃するのです。このため、成聖の恩寵の状態にある人が、大罪の状態で生きている人よりも、悪魔から、より激しい攻撃にさらされるのは、驚くべきことではありません。

残念ながら、イエズスによって解放された霊魂が、再びサタンの力の下に落ちてしまうことがあります。イエズスは、その霊魂の後の状態は、前の状態よりも悪くなる、と言っておられます(ルカ11章26節)。しかし、悪魔が、以前よりもさらにひどい奴隷状態にすることができる霊魂とは、どのような霊魂なのでしょうか? 聖マテオの福音の言葉によると、それは、サタンが、「空いていて、掃き清められ、整えられている」のを見つけた霊魂です(マテオ12章44節)。これらの霊魂は、掃き清められ、整えられている、つまり、洗礼によって、すべての罪が清められ、成聖の恩寵で豊かにされているのです。しかし、これらの霊魂は、空いているのです。どのように、空いているのでしょうか? イエズス・キリストへの真摯な愛がなく、空いているのであり、キリスト的生活の要請に応じて生きる寛大さもなく、空いているのであり、霊的な戦いを行う勇気もなく、空いているのです。

結論

親愛なる信者の皆さん、イエズス・キリストとサタンの戦いは、決してやむことがなく、私たちも、必然的に、その戦いに巻き込まれています。私たちが、キリストと共にいるならば、サタンは、あらゆる方法で、私たちを攻撃し続けることでしょう。これに固く立ち向かうために、私たちは、イエズスと強く一致していなければなりません。イエズスの強さは、私たちの強さです。ですから、四旬節の努力を新たにしましょう。その目的は、まさに、私たちの罪の償いをすることであり、私たちの主イエズスへの愛と、イエズスとの一致を、強めることなのです。そして、毎日、頻繁に祈願を行い、なんらかの霊的な読書をして、一日中、イエズスとの一致を保つように努めましょう。私たちがこれを行うにあたって、 童貞マリア、私たちの保護の聖人や守護の天使が、私たちを助けてくださいますように。アーメン。

Photo Credit


聖母が、聖ヨゼフのため以上に恩寵と特権を取り成してくださった人はいなかった。聖母が、聖ヨゼフ以上に信頼して自らをお委ねになった人はいなかった。

2022年04月13日 | お説教・霊的講話

童貞聖マリアの浄配である聖ヨゼフについての説教

ドモルネ神父(2022年3月13日四旬節第二主日)

はじめに

今度の土曜日、3月19日には、童貞マリアの浄配の称号における、聖ヨゼフの祝日をお祝いします。この祝日は、カトリック教会の守るべき10の祝日の一つです。この童貞マリアの浄配という称号は、聖ヨゼフの主たる称号です。この称号は、聖ヨゼフが、他のすべての聖人、さらには、天使よりも偉大であることの基礎となるものです。ですから、今日は、この称号についてお話しします。

1.聖ヨゼフの召命

天主が人をある使命に召されるとき、天主はその人に、その使命を完璧に果たすための手段をお与えになります。そうでなければ、天主は不公平なお方ということになってしまうことでしょう。例えば、私たちの主イエズスは、世界中に主の福音を宣教するように、使徒たちを召されました。使徒たちのほとんどは、平均的な教育を受けた素朴な人々でした。イエズスは、使徒たちを、並ぶ者のない全世界の教師とする恩寵と賜物を、彼らにお与えになったのです。

天主は、聖ヨゼフを、ある使命に召されました。この使命は、一般的に言えば、童貞聖マリアを物質的にも精神的にも保護し、支えることでした。聖ヨゼフが、マリアの終生童貞の証人かつ保護者となることでした。また、姦通で訴えられる恐れからマリアの評判を守り、エジプトへの逃避の間は、マリアを保護し、日常生活においては、マリアを支えることでした。最後に、聖ヨゼフが、父なる天主の代理として、イエズスに対して、父としての権威を行使することでした。聖ヨゼフがこの使命を果たすことができるように、天主は、真の結婚によって、聖ヨゼフを童貞聖マリアと結ばせることを、お決めになりました。

2.聖ヨゼフと童貞聖マリアの間の財産の共同体

結婚とは、結婚の目的のための、男と女の間の契約です。夫婦は、互いに心と体と霊魂を与え合います。この契約からただちに表れる効果は、夫婦の間に財産の共同体が確立されることです。この共同体は、あきらかに、天主によって確立されるものです。「人は…その妻と合い…それゆえ、もう二人ではなく一体である。人は天主が合わせられたものを離してはならぬ」(マテオ19章5-6節)。この共同体は、物質的な財産だけではなく、二人の人間そのものにも及びます。夫は、妻を「自分の」妻と呼び、妻は、夫を「自分の」夫と呼びます。天主は、聖ヨゼフと童貞マリアを、真の結婚で結ばれました。聖ヨゼフは、マリアを、真に「自分の」妻と呼ぶことができたのです。さて、童貞マリアが、どのようなお方であるかを思い起こすことにしましょう。

マリアは、天主であるイエズスの御母です。この母性による絆によって、マリアは、聖三位一体の各ペルソナと、非常に密接なつながりをもつことになります。マリアは御子の御母であり、御父の娘であり、聖霊の浄配です。マリアは被造物に過ぎませんが、被造物として可能な範囲で、最も天主と結ばれたのです。したがって、こうも言えるでしょう。「天主は、いまより偉大な世界、いまより偉大な天国を創造することはおできになったが、童貞マリアより偉大な母を創造することはおできにならなかったのである」(ザクセンのコンラド)。マリアは、三位のペルソナと親密であったために、恩寵と美の充満を受けられました。天主は、聖書の中で、マリアについてこう言っておられます。「私の愛する者よ、あなたはすべてが美しく、何の汚れもない」(雅歌4章7節)。結婚によって、この創造の傑作である童貞マリアは、聖ヨゼフに委ねられたのです。聖ヨゼフは、真に、こう言うことができました。「最も清らかで、最も愛してくださり、また最も愛すべきマリアの御心は、私のものである」。(シエナの聖ベルナルディーノ)。

3.聖ヨゼフの偉大さ

天主は、ご自分の傑作である童貞マリアを、結婚という親密な絆によってお委ねになる相手が、誰でもよかったわけではないことは、明らかです。天主が望まれたのは、恩寵と聖徳において、童貞マリアに最も似た人でしかありえませんでした。ですから、天主は、聖ヨゼフを、童貞マリアに最もよく似た人とされたのです。創世記の中で、天主は、こう言われます。「人間が一人きりでいるのは良くない。私は、彼に似合った助け手を与えよう」(創世記2章18節)。そして、アダムのために、エワを創造されました。しかし、マリアとヨゼフについては、その逆です。聖ベルナルドは、こう言っています。「ヨゼフは、妻である童貞マリアに似せて造られた…聖ヨゼフはマリアの夫であったというだけで、十分である。聖ヨゼフは、顔立ち、心、心構え、習性、また聖徳、聖性が、童貞マリアに似ていると言えば、それが、すべてを語っているのである。聖ヨゼフは、義人として、最も偉大な聖人たちよりも聖なる人である。聖ヨゼフは、夫として、すべての天使たちよりも偉大である。それは、聖ヨゼフの妻が天使たちの元后であるがゆえに、聖ヨゼフは、天使たちの王であるからである」。聖ヨゼフの尊厳の源泉は、童貞聖マリアの尊厳なのです。

結論

すべての被造物の中で、聖ヨゼフ以上に、童貞マリアに密接につながっていた人はいませんでした。聖ヨゼフ以上に、童貞マリアの偉大さを理解した人はいませんでした。したがって、聖ヨゼフ以上に、童貞マリアを、心から深く愛した人はいませんでした。そして、そのお返しに、私たちの主イエズスは別として、聖母が、夫の聖ヨゼフ以上に、愛された人はいませんでした。聖母が、聖ヨゼフ以上に、恩寵と特権を取り成してくださった人はいませんでした。聖母が、聖ヨゼフ以上に、信頼して自らをお委ねになった人はいませんでした。

ですから、天の御母に倣いましょう。私たちも、聖ヨゼフを愛しましょう。聖ヨゼフを讃美し、その聖徳に倣い、あらゆる必要について、信頼をもって、聖ヨゼフのもとに行きましょう。しかし、次の土曜日に、私たちが聖ヨゼフに願い求める特別な恩寵は、より心からの、より深い、より完全な、童貞聖マリアに対する愛です。これこそが、私たちが、死ぬまで、私たちの主イエズスに忠実であり続けるための最高の保証です。

去年の3月19日、私たちは、私たちの修道院と使徒職を、聖ヨゼフに奉献しました。土曜日のミサの後、この奉献を更新します。実際に、あるいは霊的に、ぜひこの奉献に加わってください。


なぜ天主は、悪魔が私たちを誘惑するのをお許しになるのか?聖アンブロジオ「この戦いの報いは、この世の富ではなくキリストの王国とキリストの遺産である。誰も戦わなければ、勝利することはできない」

2022年04月13日 | お説教・霊的講話

誘惑についての説教

ドモルネ神父(2022年3月6日四旬節第一主日)

はじめに

今日、教会は、私たちに、砂漠でのキリストの誘惑の物語を読ませました。誘惑は、この世での私たちの日常生活の一部です。そこで、このテーマについて、少しお話ししたいと思います。

2種類の誘惑

「さて、イエズスは、悪魔に試みられるために、霊によって荒野に導かれた」(マテオ4章1節)。この福音の一節で、二つのことが分かります。第一に、イエズスを罪に陥れようとして、誘惑するのは、悪魔だということです。このように、天主の法に背くようにそそのかすことは、「いざないの誘惑」と呼ばれます。悪魔は、エワに、禁断の実を食べるように、このいざないの誘惑によって、そそのかしました。第二に、イエズスが、悪魔と戦って、悪魔に打ち勝つ機会を与えるために、イエズスを誘惑に向けられるのは、聖霊だということです。このように、ある人を誘惑して、その人に、自分の資質や弱点を示させようとする行為は、「試練の誘惑」と呼ばれます。天主は、アブラハムに、独り子のイザアクをいけにえにするよう要求することによって、この試練の誘惑として、アブラハムを誘惑なさいました。このとき、アブラハムは、天主への絶対的な忠実さを示したのです。

悪魔の誘惑

悪魔は、私たちを罪に陥れるために、私たちを誘惑します。聖ヨハネ・クリゾストモは、こう言っています。「悪魔は、誘惑しかしない。誘惑こそが、悪魔の食べ物であり、栄光であり、喜びなのだ」。なぜ悪魔は、私たちに対して、このような行動を取るのでしょうか? 悪魔は、天主を憎んでいます。しかし、悪魔は、直接には、天主に手が届かないため、天主の似姿に造られた人間を攻撃するのです。悪魔は、イエズス・キリストを憎んでいます。しかし、悪魔は、イエズス・キリストを打ち負かすことができないため、イエズス・キリストの贖いのみわざを、できるだけ多くの人にとって無益なものにしようと懸命に努力するのです。悪魔は、嫉妬から、私たちを憎んでいます。悪魔は、天国の幸福を失ったため、私たちにも、その幸福を失わせようと、懸命に努力するのです。

イエズスに対する悪魔の三つの誘惑は、私たちに対する悪魔の誘惑のすべてを、まとめたものです。石をパンに変えるという誘惑は、あらゆる情欲の誘惑を意味します。情欲とは、快楽や快適さを求める、乱れた愛のことです。情欲は、私たちを、肉欲、大食、怠惰に至らせます。神殿の頂上から身を投げるという誘惑は、あらゆる高慢の誘惑を意味します。高慢とは、天主に依存するのことのない、自らの優秀さに対する、乱れた愛のことです。高慢は、私たちを、ねたみと怒りに至らせます。この世のすべての国を所有するという誘惑は、あらゆる貪欲の誘惑を意味します。貪欲とは、この世の財物に対する、乱れた愛のことです。貪欲は、あらゆる種類の不正を行うように私たちを駆り立て、はては、悪魔崇拝を実践するまでに至らせます。

天主がお許しになる誘惑

では、なぜ天主は、悪魔が私たちを誘惑するのを、お許しになるのかを、見てみましょう。天主は、霊的な戦いを望んでおられます。私たちが戦い、勝ち、そして、勝利者に約束された報いを得ることを、望んでおられます。聖アンブロジオの言葉を聞いてください。「この戦いの報いは、この世の富ではなく、キリストの王国と、キリストの遺産である。私たちには、冠がかかっているのだから、この戦いを受け入れなければならない。誰も、勝利しなければ、冠を得ることはできないし、戦わなければ、勝利することはできないのだから」。

天主は、私たちに、キリスト信者としての霊的な強さを自覚させるために、悪魔が私たちを誘惑することを、お許しになるのです。聖アンブロジオは、こう言っています。「私たちは、肉と血に対してではなく、霊的な勢力に対して、戦わなければならない。キリスト信者は、何という偉大さに召されていることか。キリスト信者は、この世の、より高いところにいる勢力と、戦わなければならない!」。ですから、聖書の中で、天主は、ヤコブと組打ちするように、天使を遣わされました。ヤコブは一晩中戦い続け、その天使は、ヤコブに勝つことができませんでした。天主は、ヤコブに、自分がいかに強いものであるかということ、そして、兄のエザウを恐れる理由がないことを、自覚させようとされたのです。(創世記32章28節)。

天主は、私たちが高慢におちいらないように、悪魔が私たちを誘惑することを、お許しになるのです。聖パウロは、こう言っています。「私が受けた啓示があまり偉大なので、高ぶらせないように肉体に一つの刺(とげ)が与えられた。高ぶらないように私を打つサタンの使いである」(コリント後書12章7節)。私たちが誘惑を受けることで思い起こすのは、私たちが、いかに、悪に染まりやすいか、また、恩寵の助けがなければ、あらゆる種類の堕落に、いかに、すぐ陥ってしまうか、ということです。

天主は、私たちが霊的にもっと強くなるように、悪魔が私たちを誘惑することを、お許しになるのです。私たちが貞潔の徳を育むのは、肉欲の誘惑と戦うことによってです。私たちがカトリック信仰を告白する勇気を育むのは、天主より人間を敬う誘惑と戦うことによってです。私たちが寛大さを育むのは、自己中心主義の誘惑と戦うことによってです、といった具合です。

天主は、私たちにお与えくださる賜物が、どれほど貴重なものであるかを、私たちに理解させるために、悪魔が私たちを誘惑することを、お許しになるのです。天主は、私たちを、永遠の命に召されます。天主は私たちに、成聖の恩寵、聖徳、聖霊の賜物、助力の恩寵を、与えてくださいます。悪魔が、これらの賜物をすべて、私たちから失わせようと決意していることは、これらの賜物が、どれほど貴重なものであるかを示しています。

結論

天主は、私たちと悪魔との間の霊的な戦いを、望んでおられます。ただ、天主は、公平な、同等の強さの戦いを、望んでおられます。ですから、天主は、悪魔を打ち負かすための手段を、すべて、私たちに与えてくださるのです。聖パウロは、こう言っています。「天主は忠実であるから、あなたたちの力以上の誘惑には遭わせ給わない。あなたたちが誘惑に耐え、それに打ち勝つ方法をも、ともに備え給うであろう」(コリント前書10章13節)。イエズスが、主祷文の中で、「われらを試みに引き給わざれ」と祈るように、私たちに教えられたように、特に私たちが天主の御助けを求めるとき、天主は私たちを助けてくださいます。また、私たちが断食をするときも、同じです。聖アウグスティノは、こう言っています。「イエズスの模範に倣って、激しい戦いに直面するときは、断食をしなければならない。そうすれば、この自ら行う制裁によってあなたの体は強められ、また、謙虚になることによって、あなたの魂は勝利することができるであろう」。

四旬節の間、私たちの主イエズスに倣いましょう。祈って、断食をして、あらゆる悪魔の誘惑に打ち勝ちましょう。


【参考情報】エドワード・ペンティン:新型コロナウイルス感染症のトップ専門家「バチカンは今すぐワクチン接種の義務付けを終わらせるべき」

2022年04月13日 | プロライフ

【参考情報】エドワード・ペンティン:新型コロナウイルス感染症のトップ専門家「バチカンは今すぐワクチン接種の義務付けを終わらせるべき」

2022年2月23日(水曜日)

EDWARD PENTIN | Top COVID-19 Expert: Vatican Violating Code of Bioethics, Must End Vaccine Mandate Now

プレスリリース

【エドワード・ペンティン】新型コロナウイルス感染症のトップ専門家「バチカンは生命倫理規範に違反しており、今すぐワクチン接種の義務付けを終わらせるべき」

新型コロナウイルス感染症の第一人者が、バチカンに対し、ワクチンの擁護と義務付けを直ちにやめるよう求め、ワクチン接種に関するバチカンの立場が、ワクチンによる死亡と、生命倫理の重要な規範への違反に加担している、と警告した。

ダラスを拠点とする内科医、心臓専門医、疫学者で、新型コロナウイルス感染症に関する自分の名前の54の査読付き出版物を持ち、パンデミック対応について米上院の前で証言したピーター・マッカロー博士(Dr Peter McCullough)は、バチカンに対しても、「ワクチン被害とワクチン死亡に関する公益キャンペーンを直ちに始める」ことを要求している。

ルルドの聖母の祝日である2月11日に電話越しに話した彼は、バチカンはすでに「世界中でワクチンによって失われた何十万にも上る可能性のある命について説明しなければならない」だろうと述べた。なぜなら、「ニュルンベルク・コード」(あらゆる医療行為、特にそれが新しく実験的である場合は、圧力、強制、報復の脅しを排除する一連の倫理原則)に違反しているからである。

【参考資料】ニュルンベルク・コード 【あるいはニュルンベルク綱領

この米国人専門家(マッカロー博士)は、今後ワクチンについて教皇に助言することを申し出ている。

メソジスト派のマッカローは、ワクチンによる生命の損失や副作用を容認できないものとし、また抵抗しない者は犯罪の共犯者であると考え、声を上げざるを得ないと感じてきたと言った。「私は、このような事態を傍観し、黙って見ていることはできません」と彼は言った。「キリスト教徒なら、誰もこんなことはできないと思います」。

バチカンは、ワクチン接種は「原則として道徳的義務ではなく、したがって自発的でなければならない」という自らの教えにもかかわらず、現在では、典礼や教皇謁見にあずかる者を除く、すべての職員と訪問者が、バチカンの領土内に入るためには、完全に予防接種を受けているかウイルスから最近回復していることを義務づけている。

教皇フランシスコは、新型コロナワクチンの世界的な擁護者でもあり、ワクチン接種を「愛の行為」「道徳的義務」と呼び、世界中で、特に世界の最貧困層に公平にワクチンを配布するようたびたび促している

昨年は、バチカンと新型コロナワクチンの配布契約を結んでいるファイザー社のCEO、アルバート・ブーラと2回にわたって秘密会談を行った

フランシスコのワクチンへの支持は、宗教的免除を拒否するためにも使われており、最近では、ニューヨーク市の公立学校教師へのワクチン義務付けを支持した先週金曜日の最高裁決定がある。

以下、インタビューからの抜粋である。

【質問】マッカロー博士(Dr McCullough)、あなたは専門的な内科医、心臓学者、疫学者として、ウイルス感染と新型コロナワクチン接種後の傷害の両方による心血管系の合併症を綿密に調査されています。また、あなたは新型コロナウイルス感染症に関する54の査読付き出版物を作っておられます。ですから、この分野の著名な専門家として、ワクチン、特にメッセンジャーRNAワクチンについて、あなたが懸念しておられることを簡単に要約していただけますか?

【マッカロー博士】現在、このワクチンには危険な作用機序(メカニズム)があることが知られています。このことは、安全で効果的な他のワクチンとは違って、これらのワクチンは、その生化学的・物理化学的特性から、危険であることが予想される、ということです。つまり、私が言いたいのは、メッセンジャーRNAやアデノウイルスDNAなどの遺伝物質が、脂質ナノ粒子に載せられている、ということです。

脂質ナノ粒子は、設計上、体内の各所に、体内の臓器システムに行き渡り、そこに遺伝物質が運ばれれば有害です。だから、このことは、これらのワクチンが登場する以前から知られていたのです。

中国の論文が脂質ナノ粒子を研究しており、脂質ナノ粒子が副腎、卵巣、脳、心臓、骨髄、その他の重要な臓器に到達することが分かりました。注射後に腕から離れ、体内を循環し、実際に体内の細胞に遺伝物質が沈着するようなワクチンには、私たちは大きな懸念を抱いています。遺伝物質がこれらの臓器に送り込まれることは、その遺伝物質が細胞に取り込まれることになるため、非常に懸念されます。これらの細胞は、そのような遺伝物質を持つようには作られていません。細胞には天主から授かった遺伝子があり、それは世代から世代へと受け継がれていくのです。外来性の遺伝物質を摂取して、それを体中に撒き散らして、細胞のモザイクが人体がこれまでに作ったことのない新しい物質を作り始めるなどということは、私たちのすべきことではないのです。これは非常に憂慮すべきことです。

そして次に、今、この遺伝物質がすぐには消えないということが発見されました。トニー・キリアコプロス博士と私は最近、この理論的な懸念に関する論文を発表しました。これは国立医学図書館にありますが、このワクチンの遺伝物質が体内で数カ月間持続する可能性があること(を示しています)。数カ月後、その遺伝物質がリンパ節で発見され、まだ残っていることが証明されたのです。

この遺伝子は、武漢の野生型スパイクタンパク質と呼ばれる非常に危険なタンパク質をコードしており、これはウイルスの表面にある棘のようなものです。このスパイクタンパク質が、新型コロナウイルス感染症のすべての危険性をもたらしているのです。これが、新型コロナウイルス感染症のすべての致死性をもたらしているのです。つまり、ある意味では、私たちはウイルスの致死性成分を取り出し、その遺伝子コードを見つけ、そして今、その遺伝子コードを大量に人体に注入しているのです。このスパイクタンパク質は、制御されない方法で、制御されない量と時間の間、体内で生成されます。最近の発見でまとまったのは、数カ月間体内にある遺伝物質、スパイクタンパク質が数カ月間体内にある遺伝物質だということです。実際、スパイクタンパク質は1年以上体内に存在するかもしれません。

【質問】では、このワクチンで心筋炎や脳卒中、心臓発作を起こすリスクは、どの程度だと思われますか? これらは本当に深刻なリスクなのでしょうか、また、ワクチンのために当たり前になる可能性があるのでしょうか?

【マッカロー博士】最も深刻な懸念として、死亡を取り上げてみましょう。人口3億3千万人の米国を例に取ってみます。米国で1年間に接種されるワクチンをすべて、複数回の注射をすべて合わせてみると――私自身、すべてのワクチンを接種していますが――、年間約2億7800万本になります。これは大変な数です。全国民ではありませんが、少なくとも幅広い層の人々に2億7800万本のワクチンが投与されているのです。

死亡はあっても、まれにしかないと考えられており、また私たちが我慢しなければならないものであり、アレルギー反応のような非常に珍しい状況によって起こり得るものですが、その数は、年間約150件でしょう。それで、私たちの「ワクチン有害事象報告システム」(VAERS)には、2021年までのすべての年を通じて、年間約150件の死亡が記録されています。

2021年に起きたことは、1月22日にはすでに182人の死者を出し――すでに死者が30人も多かったのです。振り返ってみると、もし適切なデータ安全性監視委員会と適切な人間倫理委員会を設置し、この件を調査していれば、2月に米国のプログラムを停止させ、「ちょっと待ってください、死者が多すぎます」と言ったことでしょう。

今、私たちはここにこうして座っていますが、同じシステムで21,000人以上が死亡しているのです。ですから、【死亡数が】珍しいと考えられるのは、全ワクチンを合わせても150人、1製品あたり50人ほどでしょう。通常、医薬品については、30日以内に原因不明の死亡が5件あれば、ブラックボックス警告(FDAが市販薬に対して行う最も厳しい警告で、一般市民や医療従事者に傷害や死亡などの重大な副作用を警告するもの)が出されます。30日以内に50人の死亡者が出た場合、因果関係とは無関係に――というのは、それが一時的に起きたかどうかだけで、因果関係を正確に評価することはできないからです――50人になったら、その製品は市場から消えます。

今日、私たちはCDCのワクチン安全性報告システムにおいて、21,000人の死亡を記録しているところです。ですから、私はこう申し上げなければなりません。いかなる状況においても【ワクチンによる】死亡がまれだとは考えられない、と。さて、これを正しく表現するならば、これは人類史上最も危険で致死性を持つ生物学的製剤(biological product)だ、ということです。それ以外の何ものでもありません。以上です。

全文はEdward Pentin’s blogでお読みください。

Photo Credit


【お腹の赤ちゃんと妊婦さんを守ろう!ネット署名を始めました】経口中絶薬は危険な薬です。胎児のいのちを奪います。

2022年04月12日 | プロライフ

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

経口中絶薬は危険な薬です。胎児のいのちを奪います。女性の身心をむしばみます。

ウクライナで民間人や子供たちが殺害されていると大きく報道されています。とても悲しいことです。

しかし日本で罪のない赤ちゃんたちが毎日、堕胎(人口妊娠中絶)で殺害されています。日本人の子供たちへの攻撃はメインストリームの新聞やテレビでは無視されています。

日本の統計によると、2017年に16万4621人の赤ちゃんが、2016年には16万8015人が堕胎で殺害されました。毎日451人から460人が殺害され続けました。つまり、日本の赤ちゃんたちのうちの7人に1人が殺されています。

これは戦争犯罪です。しかし、だれも赤ちゃんたちを助けようとしていません。
だから、私たちは経口中絶薬の承認に反対します。

胎児のいのちを守ってください。

お腹の赤ちゃんと妊婦さんを守ろう!【ネット署名始めました】※用紙での署名活動も同時進行中 17130名(2022/3/27時点)

未来の命・胎児と子どもたちを守るためにご賛同いただける方は、ぜひご署名をお願いいたします。
必ずしもエールは必要ではありません。エール(ご寄付)は任意ですので、ご署名だけ頂くことで全く構いません。

1.経口中絶薬は、危険な薬です。

 母体に対する深刻な影響があります。服用後2週間近くの間、強い腹痛と嘔気を伴うケースが多く、膣からの出血が長期間続くこともあります。時に止血手術を要する大量出血や感染症も引き起こします。また胎児や胎盤の排出が不完全で、手術が必要になるケースが数%発生しています。このため、中絶手術よりも、長期間厳重な医療監視下に置かれる必要があり、個人の自己管理下での使用ではさらに危険性が増します。また、投与前には子宮外妊娠、子宮内避妊具使用、副腎障害、ステロイド薬使用、抗凝血剤使用の有無等を、超音波検査も含めて厳重にチェックする必要があり、怠ると死を招く危険すらあります。

2.胎児の生きる権利を奪う薬です。 

 いのちは“授かりもの”であり、お腹の赤ちゃんも大切な市民です。かけがえのない個性と役割を持つワン&オンリーの存在です。その小さな命の生きる権利を奪ってはなりません。

3.今必要なのは、すぐに中絶にアクセスすることではなく、妊婦への相談と支援です。

 経口中絶薬は、女性の身心を蝕む薬です。「妊娠SOS相談窓口」の充実と周知、また出産困難な事情の解消と経済的支援を含む援助の提供など、妊娠に悩む女性への相談と支援が優先されるべきです。

4.いのちの始まりを大切にする社会づくりが求められます。

 増加する乳幼児虐待の背景には、いのちの始まりを大切にしてこなかった風潮があると指摘されています。その風土で育つ子供たちには、十代中絶の低年齢化等様々な社会問題が起きています。お腹の赤ちゃんと妊婦さんを温かく迎える社会づくりが求められます。

経口中絶薬に反対するプロジェクト

情報拡散のご協力もお願いします。


聖金曜日 主の御受難・御死去を記念する午後の荘厳典礼儀式 DE SOLEMNI ACTIONE LITURGICA IN PASSIONE ET MORTE DOMINI(その2)

2022年04月12日 | ミサ聖祭

聖金曜日 (その2)

. 二 とりつぎの祈願
1. Pro sancta Ecclesia 1. 公教会のため
Orémus, dilectíssimi nobis, pro Ecclésia sancta Dei : ut eam Deus et Dóminus noster pacificáre, adunáre, et custodíre dignétur toto orbe terrárum : subíciens ei principátus et potestátes : detque nobis quietam et tranquíllam vitam degentibus, glorificáre Deum, Patrem omnipoténtem. 愛する者よ、天主の聖なる教会のために祈ろう。わが天主なる主が、教会に平和と一致を与え、全世界において教会を守り、勢力と主権とをこれに服させ、全能の父なる天主の栄光のために、われらを平和と秩序とのうちに生かし給わんことを。
Orémus.    V/.Flectámus génua.  R/. Leváte. 祈願    V/.跪こう。  R/.起て。
Omnípotens sempitérne Deus, qui glóriam tuam ómnibus in Christo géntibus revelásti : custódi ópera misericórdiæ tuæ ; ut Ecclésia tua, toto orbe diffúsa, stábili fide in confessióne tui nóminis persevéret. Per eúndem Dóminum nostrum.                 R/. Amen. 全能永遠の天主よ、御身はキリストによって万民に御光栄をあらわし給うた。御身の御憐れみの御業を守り給い、全世界に広まる主の公教会が、信仰と御名の宣言とにおいて、固く保たれんことを。その同じわれらの主イエズス・キリスト、天主として、(…)。             R/. アメン。
2. Pro summo Pontifice 2. 教皇のため
Orémus et pro beatíssimo Papa nostro N.. .. ut Deus et Dóminus noster, qui elégit eum in órdine episcopátus, salvum atque incólumem custódiat Ecclésiæ suæ sanctæ, ad regéndum pópulum sanctum Dei. また、われらの聖なる父(名)教皇のために祈ろう。かれを司教の階級に選び給うたわが天主なる主が、天主の聖なる民を導くものとして、かれを、聖なる教会のために健全ならしめ給わんことを。
Orémus.   V/.Flectámus génua.  R/. Leváte. 祈願      V/.跪こう。  R/.起て。
Omnípotens sempitérne Deus, cuius iudício univérsa fundántur : réspice propítius ad preces nostras, et electum nobis Antístitem tua pietáte consérva ; ut christiána plebs, quæ te gubernátur auctóre, sub tanto Pontífice, credulitátis suæ méritis augeátur. Per Dóminum nostrum. R/. Amen. 全能永遠の天主よ、御身はその上智によって全てを計り給う。願わくは、われらの祈りを嘉し、その御慈悲によって、われらのために選び給うた司教を守り給い、主の権威によって司られるキリスト信者が、この大いなる司教らの指導の元に信仰の功徳を増さんことを。天主として(…)。   R/.アメン。
3. Pro omnibus ordinibus gradibusque fidelium 3. 聖職者と民とのため
Orémus et pro ómnibus Epíscopis, Presbýteris, Diacónibus, Subdiacónibus, Acólythis, Exorcístis, Lectóribus, Ostiáriis, Confessóribus, Virgínibus, Víduis : et pro omni pópulo sancto Dei. また、すべての司教、司祭、助祭、副助祭、侍祭、祓魔師、読師、守門、証聖者、童貞女、寡(やもめ)、天主のすべての聖なる民のために祈ろう。
Orémus.   V/.Flectámus génua.  R/. Leváte. 祈願     V/.跪こう。  R/.起て。
Omnípotens sempitérne Deus, cuius Spíritu totum corpus Ecclésiæ sanctificátur et régitur : exáudi nos pro univérsis ordínibus supplicántes ; ut, grátiæ tuæ múnere, ab ómnibus tibi grádibus fidéliter serviátur. Per Dóminum. R/. Amen. 全能永遠の天主よ、御身の霊は、公教会の全体を聖としかつ支配し給う。われらが、人々の各階級のためにささげ奉る祈願をききいれ、聖寵によって、各階級が忠実に主に仕えうるようになし給え。天主として、(…)。    R/. アメン。
4. Pro res publicas moderantibus 4. 治政者のため
Orémus et pro ómnibus respúblicas moderántibus, eorúmque ministériis et potestátibus : ut Deus et Dóminus noster mentes et corda eórum secúndum voluntátem suam dírigat ad nostram perpétuam pacem. すべての治政者、そのわざ、その権威のために祈ろう。天主なる主が、われらの絶えざる平和のために、思召しどおりに彼らの知恵と心とを指導し給わんことを。
Orémus.   V/.Flectámus génua.  R/. Leváte. 祈願      V/.跪こう。  R/.起て。
Omnípotens sempitérne Deus, in cuius manu sunt ómnium potestátes et ómnium iura populórum : réspice benígnus ad eos, qui nos in potestáte regunt ; ut ubíque terrárum, déxtera tua protegénte, et religiónis intégritas, et pátriae secúritas indesinénter consístat. Per Dominum. R/. Amen. 全能永遠の天主よ、すべての人々の権力と人権は、御手のものである。権威をもってわれらを治める人々を、御慈悲をもってかえりみ、御保護によって、全世界に純正な信仰と国家の安泰を与え給わんことを。天主として、(…)。R/. アメン。
5. Pro Catechumenis 5. 求道者のため
Orémus et pro catechúmenis nostris : ut Deus et Dóminus noster adapériat aures præcordiórum ipsórum ianuámque misericordiæ ; ut, per lavácrum regeneratiónis accépta remissióne ómnium peccatórum, et ipsi inveniántur in Christo Iesu, Dómino nostro. また、われらの洗礼志願者のために祈ろう。天主なる主が、かれらの心と耳と、赦しの門とを開き給い、かれらが、贖いの水によってその罪の赦しを得、われらとともに、主イエズス・キリストに一致せんことを。
Orémus.   V/.Flectámus génua.  R/. Leváte. 祈願      V/.跪こう。  R/.起て。
Omnípotens sempitérne Deus, qui Ecclésiam tuam nova semper prole fecúndas : auge fidem et intellectum catechúmenis nostris ; ut, renáti fonte baptismátis, adoptiónis tuæ fíliis aggregéntur. Per Dóminum. R/. Amen. 全能永遠の天主よ、御身は、公教会に、絶えず新しき子らを与え給う。願わくは、われらの洗礼志願者の信仰と知恵とを増し、かれらが洗礼の水によって新に生れ、主の養子の内に加えられんことを。天主として、(…)。    R/. アメン。
6. Pro fidelium necessitatibus 6. 苦しみや危険にある者のため
Orémus, dilectíssimi nobis, Deum Patrem omnipoténtem, ut cunctis mundum purget erróribus : morbos áuferat : famem depellat : apériat cárceres : víncula dissólvat : peregrinántibus réditum : infirmántibus sanitátem : navigántibus portum salútis indúlgeat. 愛する者よ、全能の父なる天主に、この世をあらゆる謬説よりきよめ、病気を除き、飢饉を追い、牢を開き、囚われ人の鎖を解き、旅人に喜ばしい帰りを、病人に健康を、航海者に救いの港を与え給うように祈ろう。
Orémus.   V/.Flectámus génua.  R/. Leváte. 祈願     V/.跪こう。  R/.起て。
Omnípotens sempitérne Deus, mæstórum consolátio, laborántium fortitúdo : pervéniant ad te preces de quacúmque tribulatióne clamántium ; ut omnes sibi in necessitátibus suis misericórdiam tuam gáudeant affuísse. Per Dóminum nostrum.          R/. Amen. 全能の父なる天主よ、悲しむ者の慰め、苦しむ者の力にて在す天主よ、その艱難のうちにあって主に寄り頼む人々の祈りをききとどけ、かれらに主の憐みに守られる喜びを与え給わんことを。天主として、(…)。R/. アメン。
7. Pro unitate Ecclesiæ 7. 教会の一致のため
Orémus et pro hæréticis et schismáticis : ut Deus et Dóminus noster éruat eos ab erróribus univérsis ; et ad sanctam matrem Ecclésiam Cathó licam atque Apostólicam revocáre dignétur. また、異端者、離教者のためにも祈ろう。わが天主なる主が、かれらを誤謬より救い、聖なる母である使徒伝承の公教会に呼び戻し給わんことを。
Orémus.   V/.Flectámus génua.  R/. Leváte. 祈願    V/.跪こう。  R/.起て。
Omnípotens sempitérne Deus, qui salvas omnes, et néminem vis períre : réspice ad ánimas diabólica fraude decéptas ; ut, omni hærética pravitáte depósita, errántium corda resipíscant, et ad veritátis tuæ rédeant unitátem. Per Dóminum nostrum.            R/. Amen. すべての人を救い、一人も亡びるを望み給わぬ全能永遠の天主よ、悪魔の罠(わな)にたぶらかされた霊魂の上に御目を投げ給え。かれらが異端の悪を捨て、迷った心を改め、主の真理の一致に帰るよう計らい給え。天主として、(…)。R/. アメン。
8. Pro conversione Iudæorum 8. ユダヤ人の回心のため 
Orémus et pro (pérfidis) Iudǽis : ut Deus et Dóminus noster áuferat velámen de córdibus eórum ; ut et ipsi agnóscant Iesum Christum, Dóminum nostrum. また、不忠実なユダヤ人のためにも祈ろう。天主なる主が、かれらの心をおおう幕を取り除き給い、かれらも、われらの主イエズス・キリストを認めるに至らんことを。
Orémus.   V/.Flectámus génua.  R/. Leváte. 祈願   V/.跪こう。  R/.起て。
Omnípotens sempitérne Deus, qui iudǽos étiam (iudáicam perfídiam) a tua misericórdia non repéllis : exáudi preces nostras, quas pro illíus pópuli obcæcatióne deférimus ; ut, ágnita veritátis tuæ luce, quæ Christus est, a suis ténebris eruántur. Per eúndem Dóminum.           R/. Amen.               全能永遠の天主よ、御身は不忠実なユダヤ人にさえも御あわれみをかけ給う。われらが、盲目なかれらのために祈る祈りをきき入れ、かれらが主の真理の光なるキリストを認め、その闇より解き放たれんことを。その同じわれらの主イエズス・キリスト、天主として、(…)。       R/. アメン。
9. Pro conversione infidelium 9. 外教者の回心のため
Orémus et pro pagánis : ut Deus omnípotens áuferat iniquitátem a córdibus eórum ; ut, relíctis idólis suis, convertántur ad Deum vivum et verum, et únicum Fílium eius Iesum Christum, Deum et Dóminum nostrum. 外教者のために祈ろう。全能の天主が、かれらの心よりすべての不義を取り除き、かれらが偶像を捨てて、生けるまことの天主、その御ひとり子、主イエズス・キリストに帰らんことを。
Orémus.   V/.Flectámus génua.  R/. Leváte. 祈願     V/.跪こう。  R/.起て。
Omnípotens sempitérne Deus, qui non mortem peccatórum, sed vitam semper inquíris : súscipe propítius oratiónem nostram, et líbera eos ab idolórum cultúra ; et ággrega Ecclésiæ tuæ sanctæ, ad laudem et glóriam nóminis tui. Per Dóminum.             R/. Amen. 全能永遠の天主よ、御身は常に、罪人の死ではなく生命を望み給う。ゆえに、われらの祈りを御憐れみをもってきき入れ、未信者の偶像崇拝を改めさせ、御名の称賛と光栄とのために、主の教会に一致させ給え。天主として、(…)。 R/.アメン。
  三 十字架の礼拝
*祭壇中央で、司祭が十字架を受けとり それを人々の方に向け、布の上部を少し開いて言う。
Ecce lignum Crucis, in quo salus mundi pependit. (司)見よ、十字架を。世の救いはこれにかかり給うた。
Omnes  R/. Veníte, adoremus. 一同    R/. 来たれ、礼拝しよう。
IMPROPERIA インプロペリア(咎めの交誦)
I I
1 et 2 Pópule meus, quid feci tibi ? aut in quo contristávi te ? respónde mihi. 1と2 わが民よ、私は汝に何をしたか。私は何をもって汝を悲しめたか。私に答えよ。
V/. Quia edúxi te de terra Ægýpti : parásti Crucem Salvatóri tuo. V/. 私は、汝をエジプトの地から御前に導いたのに、汝は救い主に十字架を返した。
1 Agios o Theós. 1 聖なる天主よ。(ギリシャ語で)
2 Sanctus Deus. 2 聖なる天主よ。(ラテン語で)
1 Agios ischyrós. 1 聖なる御者、強き御者。(ギリシャ語で)
2 Sanctus fortis. 2聖なる御者、強き御者。(ラテン語で)
1 Agios athánatos, eléison imas. 1聖なる御者、不朽なる御者、我らを憐れみ給え。ギリシャ語
2 Sanctus immortális, miserére nobis. 2聖なる御者、不朽なる御者、われらを憐れみ給え。ラテン語
1 et 2 Quia edúxi te per desértum quadragínta annis, et manna cibávi te, et introdúxi te in terram satis bonam : parásti Crucem Salvatóri tuo. V/. 1と2 私は、四十年間、砂漠で汝を導き、汝をマンナで養い、豊かな地を与えたのに、汝は、救い主に十字架を返した。
1 et 2 Quid ultra débui fácere tibi, et non feci ? Ego quidem plantávi te víneam meam speciosíssimam : et tu facta es mihi nimis amára : acéto namque sitim meam potásti : et láncea perforásti latus Salvatóri tuo. 1と2 私が汝のために、これ以上になすべきであるのに、しなかったことがあるか。私は美しいぶどう園のように汝を植えた。それなのに汝はあまりに苦いものを報いた。汝は、私の乾いたときに酢を与え、汝の救い主の脇腹を槍で貫いた。
1 Agios o Theós. 1 聖なる天主よ。
2 Sanctus Deus. 2 聖なる天主よ。(ラテン語で)
1 Agios ischyrós. 1 聖なる御者、強き御者。(ギリシャ語で)
2 Sanctus fortis. 2聖なる御者、強き御者。(ラテン語で)
1 Agios athánatos, eléison imas. 1聖なる御者、不朽なる御者、我らを憐れみ給え。ギリシャ語
2 Sanctus immortális, miserére nobis. 2聖なる御者、不朽なる御者、我らを憐れみ給え。ラテン語で
II II (略)
III III
1 et 2 Antiphona Crucem tuam adorámus, Dómine : et sanctam resurrectiónem tuam laudámus et glorificámus : ecce enim, propter lignum venit gaudium in univérso mundo. 1 と 2 交誦 主よ、われらは主の十字架を礼拝し、主の聖なる復活を讃美し、栄えを帰し奉る。十字架の木によって、全世界によろこびがもたらされたからである。
1 Psalmus. 66, 2. Deus misereátur nostri et benedícat nobis : 1詩篇、66ノ2  天主よ、われらを憐れみ、祝し給え。
2 Illúminet vultum suum super nos et misereátur nostri. 2 主は我らの上に御顔を輝かせ、我らを憐れみ給わんことを。
1 et 2 Antiphona Crucem tuam adorámus, Dómine : et sanctam resurrectiónem tuam laudámus et glorificámus : ecce enim, propter lignum venit gáudium in univérso mundo. 1 と 2交誦 主よ、われらは主の十字架を礼拝し、主の聖なる復活を讃美し、栄えを帰し奉る。十字架の木によって、全世界によろこびがもたらされたからである。
IV IV
1 et 2 Antiphona Crux fidélis, inter omnes arbor una nóbilis : nulla silva talem profert fronde, flore, gérmine. 1 と2交誦 真実なる十字架、すべてに優(まさ)る唯一の尊い木、その葉、その花、その実に比ぶべきものは、どんな森にもない。
* Dulce lignum dulces clavos, dulce pondus sústinet. *甘美なる木、聖なる針、汝はかくも甘き荷を負う。
1 Hymnus Pange, lingua, gloriósi láuream certáminis, et super Crucis trophǽo dic triúmphum nóbilem : quáliter Redémptor orbis immolátus vícerit. 1 わが舌よ、光栄あるたたかいをうたえ。十字架の戦利品を前にして、その尊い凱旋をうたえ。世の救い主が、死して勝ち給うたことをうたえ。
2 Crux fidélis, inter omnes arbor una nóbilis : nulla… 2真実なる十字架、すべてにまさる唯一の尊い木、…
1 De paréntis protoplásti fraude Factor cóndolens, quando pomi noxiális in necem morsu ruit : ipse lignum tunc notávit, damna ligni ut sólveret. 1 悪い勧めに誘われて、禁じられた実を食べて死を知ったわれらのはじめの先祖を、創造主は憐れみ給い、すでにその時より、かの最初の木の不幸を補う他の木をお定めになった。
2 Dulce lignum dulces clavos, dulce pondus sústinet. 2甘美なる木、聖なる針、汝はかくも甘き荷を負う。
1 Hoc opus nostræ salútis ordo depopóscerat : multifórmis proditóris ars ut artem fálleret : et medélam ferret inde, hostis unde lǽserat. 1天主の御計画は、われらを救う御業を導き、天主の技(わざ)によって、悪魔の技はたぶらかされ、傷を生ぜしめたものが、救いの薬となった。
2 Crux fidélis, inter omnes arbor una nóbilis : nulla … 2真実なる十字架、すべてにまさる唯一の尊い木、その葉、…
1 Quando venit ergo sacri plenitúdo témporis, missus est ab arce Patris Natus, orbis Cónditor : atque ventre virgináli carne amíctus pródiit. 1 永遠の規定によって定められた時至り、天主の御子、世の創造主は、御父の玉座より下り、人身を纏(まと)い、童貞女より生れ給う。
2 Dulce lignum dulces clavos, dulce pondus sústinet. 2甘美なる木、聖なる針、汝はかくも甘き荷を負う。
1 Vagit Infans inter arcta cónditus præsépia : membra pannis involúta Virgo Mater álligat : et Dei manus pedésque stricta cingit fáscia. 1 幼児は狭い厩(うまや)で泣き給う。童貞母は、その御体をむつきで包み、天主の御手足を細布で巻いた。
2 Crux fidélis, inter omnes arbor una nóbilis : nulla …… 2真実なる十字架、すべてにまさる唯一の尊い木、その葉、…
1 Lustra sex qui iam perégit, tempus implens córporis, sponte líbera Redémptor passióni déditus, Agnus in Crucis levátur immolándus stípite. 1 五年が六度すぎ、地上における時は充ちた。救い主は、すすんで苦しみをむかえ、いけにえの小羊として十字架に上り給う。
2 Dulce lignum dulces claves, dulce pondus sústinet. 2甘美なる木、聖なる針、汝はかくも甘き荷を負う。
1 Felle potus ecce languet : spina, clavi, láncea mite corpus perforárunt, unda manat et cruor : terra, pontus, astra, mundus, quo lavántur flúmine ! 1 見よ、苦肝を飲まされた彼は、死の苦悶を味わい、釘、いばら、槍が、そのやさしい御体を差し貫く。そこから、水と血とが流れ出た。土地と海と全世界は、この河で浄められる。
2 Crux fidélis, inter omnes arbor una nóbilis : nulla… 2真実なる十字架、すべてにまさる唯一の尊い木、その葉、…
1 Flecte ramos, arbor alta, tensa laxa víscera, et rigor lentéscat ille, quem dedit natívitas : et supérni membra Regis tende miti stípite. 1 高く尊き木よ、汝の枝を垂れよ。汝のすじを緩め、もとの固さをやわらげ、天の王の手足を柔らかく休めさせよ。
2 Dulce lignum dulces clavos, dulce pondus sústinet. 2甘美なる木、聖なる針、汝はかくも甘き荷を負う。
1 Sola digna tu fuísti ferre mundi víctimam : atque portum præparáre arca mundo náufrago : quam sacer cruor perúnxit, fusus Agni córpore. 1 汝のみ、この世のいけにえを担うに足るものとされ、箱舟として難波の世に港となるに足るものとされた。小羊の御体を流れた聖なる血にいろどられた汝よ。
2 Crux fidélis, inter omnes arbor una nóbilis : nulla … 2真実なる十字架、すべてにまさる唯一の尊い木、その葉、…
「さいわいなる三位一体…」の一節を歌ってこの歌を閉じる。早く終った場合には、前の讃美歌の中央を省略してよい。
1 Sempitérna sit beátæ Trinitáti glória : æqua Patri Filióque ; par decus Paráclito : Uníus Triníque nomen laudet univérsitas. Amen. 1 さいわいなる三位一体に永遠の栄光あれ。聖父と聖子と聖霊とにひとしく光栄あれ。被造物はみな、三位一体を讃美せんことを、アメン。
2 Dulce lignum dulces clavos, dulce pondus sústinet. 2甘美なる木、聖なる針、汝はかくも甘き荷を負う。
De quarta parte Actionis liturgicæ seu de Communione 四 聖体拝領
一同の礼拝が終わると十字架は祭壇に高くかかげられる。助祭が侍者二人をつれて聖体をとりに行く間次の交誦をうたう。
Adorámus te, Christe, et benedícimus tibi, quia per Crucem tuam redemísti mundum. 交誦1:キリストよ、御身を礼拝し、祝し奉る。御身は十字架によって、世を贖い給うたのである。
Per lignum servi facti sumus, et per sanctam Crucem liberáti sumus : fructus árboris sedúxit nos, Fílius Dei redémit nos. 交誦2 :木によって、われらは奴隷とされ、聖なる十字架によって解放された。われらは、木の実で誘われ、天主の御子によって救い出された。
Salvátor mundi, salva nos : qui per Crucem et Sánguinem tuum redemísti nos, auxiliáre nobis, te deprecámur, Deus noster. 交誦3 : 世の救い主よ、われらを救い給え。願わくは天主よ、十字架と御血とによってわれらを贖い給うた御者よ、われらを助け給え。
聖職者一同、信者一同は、司祭と共に、聖体拝領の準備として、ラテン語で「主祷文」をとなえる。
Orémus : Præcéptis salutáribus móniti, et divína institutione formáti, audémus dícere : 祈願:救いにの益ある戒めに勧められ、天主の制定に教えられ、我らは、敢えて祈り奉る。
Pater noster, qui es in cœlis : Sanctificétur nomen tuum : Advéniat regnum tuum : Fiat volúntas tua, sicut in cælo, et in terra. Panem nostrum cotidiánum da nobis hódie : Et dimítte nobis débita nostra, sicut et nos dimíttimus debitóribus nostris. Et ne nos indúcas in tentationem. Sed líbera nos a malo. Amen. 天に在す我らの父よ、願わくは御名の尊まれんことを、御国の来たらんことを、御旨の天に行わるる如く地にも行われんことを。我らの日用の糧を、今日我らに与え給え。我らが人に赦す如く、我らの罪を赦し給え。我らを試みに引き給わざれ。我らを悪より救い給え。アメン。
Líbera nos, quǽsumus, Dómine, ab ómnibus malis, prætéritis, præséntibus et futúris : et intercedénte beáta et gloriósa semper Vírgine Dei Genetríce María, cum beátis Apóstolis tuis Petro et Paulo, atque Andréa, et ómnibus Sanctis, (non signat se) da propítius pacem in diébus nostris : ut, ope misericórdiæ tuæ adiúti, et a peccáto simus semper líberi et ab omni perturbatióne secúri. Per eúndem Dóminum nostrum Iesum Christum, Fílium tuum : Qui tecum vivit et regnat in unitáte Spíritus Sancti Deus, per ómnia sǽcula sæculórum. 主よ、願わくは、過去、現在、未来の全ての悪より、我らを救い給え。終生童貞なる栄福の、聖母マリア、使徒聖ペトロ、パウロ、アンドレア、及び諸聖人の取り次ぎにより、御慈悲をもって日々我らに平安を与え、御憐れみを下して、我らを罪より救い、我らを惑わすものより解き放ち給え。その同じ我らの主、イエズス・キリスト、天主として、聖霊との一致において、御身と共に生き且つ治め給う御子によりて、世々に至るまで。
Et ab omnibus respondetur : Amen. (一同) : アメン。
Percéptio Córporis tui, Dómine Iesu Christe, quod ego indígnus súmere præsúmo, non mihi provéniat in iudícium et condemnatiónem : sed pro tua pietáte prosit mihi ad tutaméntum mentis et córporis, et ad medélam percipiéndam : Qui vivis et regnas cum Deo Patre in unitáte Spíritus Sancti Deus, per ómnia sǽcula sæculórum. Amen. 主イエズス・キリスト、不肖の私は、あえて御体を拝領し奉る。願わくはこれを私の裁きと罰とにならせ給わず、却って御慈悲によって、これを私の霊魂と体との助けとならせ給え。聖父なる天主と共に、聖霊との一致において、世々に生き且つ治め給う天主よ、アメン。
Dómine, non sum dignus, ut intres sub tectum meum : sed tantum dic verbo, et sanábitur ánima mea. 主よ、私は主を我が家に迎え奉るに足らぬ者である。ただ一言を語り給え。そうすれば、私の霊魂は癒されるであろう。
Corpus Dómini nostri Iesu Christi custódiat ánimam meam in vitam ætérnam. Amen. 我らの主、イエズス・キリストの御体が私の霊魂を永遠の生命の為に守り給わんことを。アメン。
Misereátur vestri omnípotens Deus, et dimíssis peccátis vestris, perdúcat vos ad vitam æternam. 願わくは、全能の天主が、あなたたちを憐れみ、あなたたちの罪を赦して、永遠の生命に導き給わんことを。
Omnes respondent : Amen. (一同) :アメン。
Indulgéntiam, absolutiónem, et remissiónem peccatórum nostrórum, tríbuat nobis omnípotens et miséricors Dóminus. 全能慈悲の主が、我らを憐れみ、罪を解き、赦し給わんことを。
Omnes respondent : Amen. (一同) : アメン。
Ecce Agnus Dei, ecce qui tollit peccáta mundi 世の罪をのぞき給う天主の子羊を見よ。
Dómine, non sum dignus, ut intres sub tectum meum : sed tantum dic verbo, et sanábitur ánima mea. 主よ、私は主を我が家に迎え奉るに足らぬ者である。ただ一言を語り給え。そうすれば、私の霊魂は癒されるであろう。
Orémus Oratio secunda 祈願1
Super pópulum tuum, quǽsumus, Dómine, qui passiónem et mortem Fílii tui devóta mente recóluit, benedíctio copiósa descéndat, indulgéntia véniat, consolátio tribuátur, fides sancta succréscat, redémptio sempitérna firmétur. Per eundem Christum Dóminum nostrum. 主よ、願わくは、御子の御受難と御死去とを謹んで記念し奉った御民の上に、ゆたかな祝福を下し、赦しを与え、慰めを施し、聖なる信仰を強め、永遠の救いを固め給わんことを。同じわれらの主キリストによりて。
Orémus Oratio tertia 祈願2
Omnípotens et miséricors Deus, qui Christi tui beáta passióne et morte nos reparásti : consérva in nobis óperam misericórdiae tuae ; ut, huius mystérii participatióne, perpétua devotióne vivámus. Per eúndem Christum Dóminum nostrum. 主のキリストの幸いな御受難と御死去とをもって、われらを贖い給うた全能慈悲の天主よ、願わくは、われらの上に、御慈悲の御業を保ち給え。この奥義にあずかり奉ったわれらを、不断の信仰のうちに生きさせ給え。同じわれらの主キリストによりて。
Orémus Oratio prima 祈願3
Reminíscere miseratiónum tuárum, Dómine, et fámulos tuos aetérna protectióne sanctífica, pro quibus Christus, Fílius tuus, per suum cruórem, instítuit paschále mystérium. Per eúndem Christum Dóminum nostrum. 主よ、御慈悲を憶え、主のしもべらに永遠の御保護を下して聖となし給え、御子キリストは、このしもべらのために、御血によって復活の奥義を制定し給うたのである。同じわれらの主キリストによりて。
*司祭及び侍者たち、一同は跪いてのち、香部屋に退く。のちに、聖体を安置所にはこぶ。


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】