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アブラハムの二人の妻サラとアガル、二人の息子イスマエルとイサク:その文字通りの意味と、寓意的な意味

2022年04月14日 | お説教・霊的講話

アガルとサラ(四旬節第四主日)についての説教

ドモルネ神父(2022年3月27日四旬節第四主日)

はじめに

書簡の中で、聖パウロは、アブラハムの二人の妻、サラとアガル、そして二人の息子、イスマエルとイサクについて語っています。聖パウロは、こう言っています。「そのことは、寓話として語られている。すなわちこの女たちは二つの契約である」(ガラツィア4章24節)。聖パウロは、聖書に載せられている言葉や出来事には、いくつかの意味があることを、はっきり述べているのです。今日は、そのうちの二つの意味、文字通りの意味と、寓意的な意味について、簡単にお話ししたいと思います。

1.アガルとサラ:文字通りの意味

聖書の中の第一の意味は、使用されている用語から直接現れてくる意味で、これは、いつも存在するものです。この第一の意味は、「文字通りの意味」と呼ばれます。アガルとサラの話の、文字通りの意味とは、何でしょうか? サラはアブラハムの妻でした。サラは不妊でしたから、子どもを授かることができませんでした。アガルは、サラの奴隷でした。当時有効だった法に従って、サラはアブラハムに、自分の奴隷であるアガルを、第二の妻として与え、それによって、アガルの子どもが、法的に自分の子どもとなるようにしました。当時、天主は、一夫多妻制を許しておられたのです。そこで、アブラハムはアガルと結婚し、アガルは自然の法則に従って、アブラハムのために、イスマエルという名の息子を生みました。その後、天主はサラに、 子どもを生む力を奇跡によって授けられ、サラは、アブラハムのために、イサクという名の息子を生みました。イサクは、当然の権利によって、アブラハムの全財産の相続人となりました。

2.アガルとサラ:寓意的な意味

聖書には、文字通りの意味に加えて、時々、神秘的寓意的意味と呼ばれる、隠された意味が存在することがあります。聖書に記されている言葉や出来事を通して、聖霊は、未来の出来事や人々、特にイエズス・キリストや教会について、告知されます。アガルとサラの話の、寓意的な意味は、何でしょうか? 聖パウロは、こう言っています。奴隷のアガルは、旧約、つまりシナイ山で、モーゼを通して、天主とヘブライ人たちの間に結ばれた契約を表しており、自由民の女サラは、新約、つまりシオン山で、私たちの主イエズス・キリストを通して、天主とすべての民族の間に結ばれた契約を表しています。この寓意について、もう少し説明しましょう。

天主は、救い主イエズス・キリストと新約の到来を告知し、それを準備するために、ヘブライ人たちと、旧約を結ばれたのです。その旧約のすべての律法は、この目的のためにあったのです。イエズスが地上に来られたとき、多くのユダヤ人は、イエズスを、天主が約束されていたメシアだと認め、イエズスに従いました。例えば、使徒たちがそうでした。しかし、ほとんどのユダヤ人は、キリストを拒絶しました。今日に至るまで、彼らは旧約の律法に従い、また自分たち自身で作り出した習慣にも従い続けています。このユダヤ人たちの行っていることは、霊的に空しく、束縛や重荷となり、また、自分たちを永遠の命に導くことのできないものです。これが今日、私たちが「ユダヤ教」と呼んでいるものです。ユダヤ教は、アガルに象徴される奴隷制度にほかならず、その信者たちを、イスマエルに象徴される単なる奴隷にするものです。

天主と人との間の、真の、完全な契約は、私たちの主イエズス・キリストによって打ち立てられた契約です。私たちは、それを、新約と呼んでいます。真の天主であり真の人間であるイエズス・キリストは、人間を天主と一致させる唯一かつ普遍的な仲介者です。イエズス・キリストは、ご自分の教えを私たちに伝え、私たちを天主の子とし、私たちを天主の至福直観と永遠の幸福へと導くために、地上に来られ、カトリック教会を創立されたのです。カトリック教会の真正な教えを実践する者は、誰でも自由になります。自分の情欲、悪徳や悪魔の奴隷状態から解放され、常に、真、善、美を愛する自由を得るのです。この理由により、カトリック教会は、自由民の女サラに象徴されており、キリスト教徒は、アブラハムの相続人イサクに象徴されているのです。

3.イスマエルのイサクへの迫害:文字通りの意味

ここで、聖パウロが書簡の中で触れているもう一つの点、すなわち、イサクに対するイスマエルの迫害について見てみましょう。この箇所の文字通りの意味は、何でしょうか? イスマエルとイサクは、一緒に成長しました。しかし、年上で力の強いイスマエルは、年下で力の弱いイサクを、迫害するようになりました。そこでサラは、アブラハムに、アガルとイスマエルを追い出すように要求しました。「この奴隷女とその子を追い出してください。この奴隷女の子が、私の息子イサクとともに遺産を受けることがあってはならないのですから」(創世記21章10節)。天主はサラの願いを認められ、アブラハムに、アガルとその子イスマエルを追い出すように命じられました。アブラハムは、それを実行しました。

4.イスマエルのイサクへの迫害:寓意的な意味

さて、この箇所の寓意的な意味は、何でしょうか? アガルは、キリストの死以降行われてきたユダヤ教を、表しています。ですから、アガルの息子イスマエルは、ユダヤ教を実践しているすべての人々を象徴しています。サラは、カトリック教会を表しています。サラの息子であるイサクは、すべての真のキリスト教徒を表しています。イスマエルのイサクに対する迫害は、ユダヤ教のカトリック教会に対する迫害、ユダヤ人のキリスト教徒に対する迫害を表しています。聖パウロの時代から今日まで、ユダヤ教の信者たちがキリストの教会を破壊しようと戦ってきたことは、実際に歴史が示しています。

天主のご命令により、アブラハムは、アガルとイスマエルを追い出し、サラとイサクを、自分のもとにとどめました。これは、ユダヤ教を実践する者は、天主がアブラハムとその子孫に約束なさった祝福にはあずかれない、という意味です。アブラハムの真の子、つまりアブラハムと一緒にとどまり、アブラハムになされた約束にあずかる者は、イエズス・キリストへの真の信仰を持つ者なのです。(ヨハネ8章56節参照)。

聖パウロの教えに照らせば、ヨハネ・パウロ二世やベネディクト十六世といったカトリックの教皇が、ユダヤ教の会堂に祈りに行くことが、いかに、つまずきを与えるものであるかが、ご理解いただけるでしょう。1986年、ヨハネ・パウロ二世は、ユダヤ教に関する第二バチカン公会議の教え(ノストラ・エターテ)に自ら言及し、ローマのラビにこう告げました。「あなたたちは私たちの親愛なる兄弟であり、ある意味で、私たちの兄と言えるかもしれません」。

これは誤りです。今日のユダヤ教は、その信者を天主の子とはしませんし、信者を永遠の幸福に到達させることも、できないのです。

結論

四旬節の一番初めに、教会は、キリストの砂漠での誘惑の物語を、私たちに読ませました。その時、私たちの主イエズスは、サタンにこう言われました。「人はパンだけで生きるのではない。天主の口から出るすべての言葉によって生きる」(マテオ4章4節)。聖書は、書き記された天主のみ言葉です。ですから、私たちは、聖書を読み、それによって霊的に養われるべきです。聖書を読むことによって、私たちは、旧約と新約の歴史的事実を知り、私たちの主イエズス・キリスト、聖母、聖なる天使たち、聖人たちをさらによく知って愛することを学び、自分のカトリック信仰をさらに強め、祈ること、そしてあらゆる聖徳を実践することを学び、永遠の命へのますます強い希望に生きるのです。

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