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福者シスター・エレナ・アイエロ(1895-1961)その2

2022年04月04日 | カトリックとは

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

福者シスター・エレナ・アイエロ(1895-1961)その1の続きです。

福者エレナは、彼女の肩の傷の痛みは癒されるだろうと何度か告知した。
彼女は1924年5月10日付でモンシニョール・マウロ神父宛の手紙にこう書いている。

「尊敬すべき神父様、昨日の午後3時頃、イエズス様が私の前に現れ、『愛する娘よ、おまえは癒されたいのか、それとも苦しみたいのか?』と仰いました。そこで私は、『御身と共に苦しみます、私のイエズス様、私たちは何でも苦しむことができます』と答えました。するとイエズス様はこう仰いました。『ああ!そうか、私はおまえを癒すだろう、しかし毎週金曜日には、おまえを暗闇に連れ込むだろう:おまえは私に近い者となるだろう』。そう告げられた後、主は姿を消しました。」

エレナは肩の傷にひどく苦しんでいた。彼女は鏡を使って、肩の上からはびこり続ける虫を駆除しようとしたという記述が残っている。1924年5月21日の夜、福者エレナは、聖リタから翌日の午後3時に癒されると告げられた夢を見た。翌日、ロザリオを唱えた後、エレナは聖リタの御像の前で祈り始めた。そのとき聖堂の扉は開いていた。

エレナの姉妹はこう話している。「私に助けられながら、エレナは立ち上がって聖リタの御像に近づきました。私たちは、聖女リタの伸ばした十字架を持つ手が、エレナの傷ついた側の手に届いて、その手を持ち上げたようでした。するとある振動が御像を揺り動かしたような印象を受けました。エレナは、私たちの驚きと信じられない気持ちを前にして、こう繰り返しました。『私は癒された!私は治った!』私が身を乗り出して傷口を見てみると、傷口は塞がっていて、傷跡だけが残っていたのです。」

1926年、3月の金曜日と聖金曜日の苦しみが定期的に繰り返されるようになった。主は、ビジョンの中でエレナに、「事業」の開始を望んでおられることを明らかにされた。

1928年、33歳のとき、エレナは「私たちの主イエズス・キリストの御受難のいとも小さき姉妹会(Minim Sisters of the Passion of Our Lord Jesus Christ)」を創立した。

新しい修道会で最初に手がけたのは、市民の子供たちの教育であった。100人が集められ、教育を受けた。福者シスター・エレナは、シスター・ジジア(Sister Gigia)の助けを借りて、家々から子どもたちや少女たちを集め、信仰の真理を教え、初聖体の準備をさせたのである。エレナを偽善者だと非難して反対する中傷者もいた一方で、この活動は天主の祝福を受け、教会当局の励ましを受け、やがてコセンツァの善良な人々を惹き付け、彼らはキリスト教的愛徳に満ちた協力によってこの活動を励まし、支援することを怠らなかった。この修道会と学校は、天主の御摂理によって送られた奇跡によって、何度も慰められ、助けられた。

あるとき、幼きイエズスの聖女テレジアが、作業場で働くすべての幼い子どもたちが祈りを唱えている時に現れた。その騒ぎに、二階にいた福者エレナは何事かと駆け寄った。少女たちは、聖なるカルメル会修道女を「見たの!」と叫んだ。二階に戻ると、福者エレナもまた、聖テレジアから優しく天上的な微笑みの恩寵を受けた。

その修道院の建物は乏しく、地元の農村銀行の創設者と取締役は、古い銀行の建物を彼女たちの自由に使えるように差し出した。シスター・エレナとシスター・ジジアは、その後その建物をはるかに広い敷地に移し、同時により多くの孤児とシスターを収容することができるようになった。そして、より多くの貧しい人々を助けることができるようになったのではあるが、彼女らの資源はしばしば限界に達していた…。

1935年9月11日、台所には昼食用の食材がまったくなかった。
シスター・アンジェラが修道院長(エレナ)にお金を求めて来た時、一人の司祭が修道院に入り、ミサを行いたいと言って、すぐに香部屋に行った。一銭も持っていなかったシスター・エレナは、シスター・アンジェラに、この問題に対して、主はどのような形であれ、その時に与えてくださるはずです、とミサに与りに行くように頼んだ。

シスター・エレナとシスターたちと孤児たちの熱心な祈りは、すぐに主によって応えられた。聖体奉挙の後、まるで主が彼らの願いを聞き入れられたことを知らせるかのように、聖堂全体に非常にすばらしい香りが広がった。その後、福者エレナは聖母の聖務日課を唱えると、彼女の小冊子の中にある二つの敬虔な御影(ごえい)--- それは悲しみの聖母と幼きイエズスの聖テレジアの御影(ごえい)であった --- の間に、50リラの紙幣があるのを見つけたのである。

エレナは、自分が決してそこに置いたのではないことを確信していた。ミサが終わると、彼女はシスター・アンジェラに、その日の費用として50リラを渡した。そして、シスターと子供たちと共に聖堂に戻り、自分たちの願いを聞き入れて下さった主に感謝した。

50リラの紙幣は決して不注意からではなく、本当に御摂理から送られたものであることを証明するために、もう一つの奇跡が起きた。同じ日の夕方、共同体が最後の祈りのために集まったとき、同じ香りが聖堂から漂ってきた。シスターが再び小冊子を開くと、二枚の敬虔な御影の間にもう一枚の50リラ紙幣があり、白い円の中に緑の鉛筆で「50+50=100」と書かれてあり、そしてギリシャ語のアルファベットがいくつか書かれた短いメッセージが添えられていたのである。翌朝、福者シスター・エレナは、聴罪司祭であるカノン・マズーカ神父に2枚目の50リラ紙幣のメッセージを調べたいと告げたが、前日のメッセージは消え去っていた。

1934年、聖ヨゼフの祝日の前夜、彼女らは油の代金を支払わなければならなかったが、シスター・エレナは何も持っていなかったので、祭壇の周りに孤児たちを集め、共にこの偉大な聖人に、自分たちを助けて下さるよう乞い求めた。すると、ある寄付者が修道院を訪れ、彼女が借金を返すのに必要な金額をぴったりと差し出し、思いがけず資金が提供されたのである。

天主の御摂理からのもう一つの目に見える援助は、1937年、シスター・エレナがパンがないことに気づき、心の内で主に熱心に祈りを捧げた時に訪れた。その時、警備員がドアをノックして、同じ日の朝に仕入れた36キロのパンを、快く修道院に届けてくれたのである。

1948年1月、修道者聖省(the Sacred Congregation for Religious)事務局から出された法令により、「私たちの主イエズス・キリストの御受難のいとも小さき姉妹会」は、教皇権(Pontifical Right)の修道会の地位に上げられた。こうして、1949年7月8日付の大統領令によって、修道院はイタリア国内の法的認可を受けることになった。1949年10月3日、54歳のとき、福者シスター・エレナは終生誓願を立てた。

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