Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

カトリックの兄弟姉妹の皆様、特にさいたま教区の兄弟姉妹の皆様にお願い:自民党埼玉県連の『性自認』が入った条例骨子案にカトリック信仰の声を上げてください。

2022年04月27日 | プロライフ

アヴェ・マリア・インマクラータ!

カトリックの兄弟姉妹の皆様、特にさいたま教区の兄弟姉妹の皆様にお願い

令和4年4月1日から5月2日まで、自由民主党埼玉県支部連合会(以下、埼玉県連)が、「埼玉県性の多様性に係る理解増進に関する条例(仮称)骨子案」の策定に当たって、意見を募集しています。

ご意見募集(パブリックコメント)について | 自由民主党 埼玉県支部連合会 ご意見募集(パブリックコメント)について

県民の皆様をはじめ、全国からも意見を応募できるとのことです。

特にカトリックさいたま教区の兄弟姉妹の皆様にお願いいたします。自民党埼玉県連の『性自認』が入った条例骨子案にご意見を出して下さい。カトリック信仰の声を上げてください。この条例案を提出しないように、パブリックコメントの提出にご協力頂けますようお願いいたします。

日本の社会とカトリック教会を守るために、発言してください。遠くで受動的に傍観して抵抗しないなら、亡国への歩みに向けて加速することになります。

聖ピオ十世教皇さまは、カトリック信者の怠惰や臆病が、信仰に反対する悪の力になっている、ということをおっしゃっていました。

この戦いにおいて私たちは一人ではありません。キリスト者として私たちは聖霊と協力するように招かれています。

「埼玉県性の多様性に係る理解増進に関する条例(仮称)骨子案」はここにあります。

この骨子案には多くの問題点があります。

■1条 目的には「性のあり方が男女という二つの枠組みではなく連続的かつ多様」とありますが、「性(sex)のあり方」には男性と女性の二つしかないというのが、人類の普遍的で客観的な事実です。生物学的性別は生涯不変です。男性の染色体と女性の染色体の二つのみが存在し続けているからです。この現実と条例は調和させることができません。

創世記は断言しています。「天主が人間を創造されたのは御自分の像にかたどってである。天主の像にかたどって創造されたのである。人間を男と女に創造された。」(創世記、1章、27)« Creavit Deus hominem ad imaginem Suam; ad imaginem Dei creavit illum; masculum et feminam creavit eos » (Gn 1,27). 

私たちの主イエズス・キリストも仰せられました。「あなたたちは読まなかったのか、はじめにすべてをおつくりになったお方が、人を男と女とにつくり、"そこで人は父母を離れてその妻と合い、二人は一体となる"とおおせられたことを」(マテオ19章)と。

天主は人間の男女の二つの性だけを創造されたのであって、「連続的かつ多様」な性を創造されたのではありません。このような条例の内容は、男女の生物学的な現実という概念そのものを分解してしまいます。

このような条例は、人間を男と女とに創造された天主に対する暴挙です。自然に反するものです。

人間は天主の似姿に創られています。聖父と聖子と聖霊との三位一体なる天主の似姿です。人間は、天主の愛から愛のために生まれた人格(ペルソナ)を持っています。生命を生み出すために「父親」「母親」「夫婦」が天主によって創造されました。

天に唾するものは、それが自分に帰ってきます。地震、台風、津波、などの自然の恐ろしさを知っている私たち日本人は、自然には逆らえない、逆らったらしっぺ返しが来る、ということをよく知っています。このような条例は、人間とはなにか、家族とは何かを崩壊させる脅威となります。私たちは、家族の破壊を容認することはできません。ひいては、家族を基礎とする日本社会全体が壊れてしまいます。従って亡国への一歩を踏み出すことになってしまいます。このようなことは、カトリックの信者でない方でも、常識的に理解できる事実です。

もしも客観的な現実と自然とに反することを、主観的に条例を定めようとするなら、それは「自然に従うのではなく、自分が決定する」という無謀なことです。しかし、例えば「重力がない」が条例として通過すれば、そうなるのでしょうか?

ジェンダー論は、人間の存在にとって現実のもの、真のもの、良いものを否定するという過程です。現実と真実と善を守るためにジェンダー論に反対することは、光と闇の戦い、命と死の戦い、愛と憎しみの戦い、真理と偽りの戦いです。

今、私たちが反対しなければ、私たちが悪に対して目をつぶって悪が広るままなってしまいます。そうなると、今度は、必然的に社会は、善に対して不寛容になり、悪をしなければ処罰されるようになってしまうでしょう。

■2条 定義では、「(2)性自認」を「自己の性別についての認識をいう」と定義付けて、自己申告による性別をそのまま認めなければならならないこととしています。言い換えると「自らを女性と認識する」だけで、身体的・法的な男性も「女性」として認めることです。身体違和感があることを要件とせず、手術などする気持ちのない人も含みます。「女性自認者」を「女性」を認めなければ「差別的取り扱い」とされることにあります。

これは、性別が、ジェンダー論に基づいた個人がそうだと思う可変的な主観的自己認識へと恣意的に変えられてしまうことを意味しています。これは大きな混乱を引き起こすことになります。

「自己の性別についての認識」による「性自認」を法制化・条例化することに、多くの女性が反対しています。

なぜなら、たとえば、「性自認が女性」という身体的には男性が、女性専用スペース(公衆トイレや公衆浴場、更衣室等々)に堂々と侵入しても、それを阻止することは「差別的取り扱い」になり、そのことは女性に不利益をもたらし、社会的混乱を引き起こしかねないからです。非常に深刻な道徳的・規律的な危機を迎えるだろうことは明らかです。

事実、札幌や大阪ではすでに似たような事件が起きています。
 
「女性スペースを守る会」は次の懸念を訴えています。

「女性トイレがもし身体男性にも開かれるのであれば、個室に引きずりこまれての性暴力被害、個室の盗撮被害の増加や盗聴さらに使用済みの生理用品を見られたり、持ち出されることも増えるでしょう。警戒心が薄く抵抗する力のない女児や、障害のある女性が性暴力被害に遭いやすくなるのでは、という懸念」について、ぜひ真摯に考えてください。女性専用の空間は、女性を守るシェルター的な働きをしているのです。

ある男性が、ある時点で、自分は女性であると確信する場合があり得ます。生物学的な男性が女性のスポーツに参加した場合、生物学的は女性は、絶対的に不利です。男性の自己認識を持つようになった女性が、司祭になることを要求する場合もありえます。これはカトリック教会にとって致命的な脅威となる恐れがあります。

社会的混乱を引き起こしかねない「性自認」の条例化を認めてはなりません。私たちはこのようなことを受け入れたり正当化したりすることは少しもできません。

■このような条例ができてしまうなら、同じ原理で、自己の性別についてのみならずさまざまなことがらについての「自認」していると主張する人の思い通りに社会を動かさなければならなくなる危険があります。

たとえば、今現在ではありえないと思われるかもしれませんが、"自分をサルだと「自認」した人がサルと結婚することを法律で認めないこと"は、差別的取り扱いとされるでしょう。この条例がつかった「性自認」の原理と同じ考え方に従えば、だれかが「自認」した通りだと認めないならば、それは「偏見」で「認識不足」で「暴力的」で「不当な差別で他人を傷つけている」ということになってしまうでしょう。「性自認」の原理を受け入れた限り、どこに線を引くことができるでしょうか。しかし、人間が何を自認しようとも、客観的な変わらない真理は存在します。全てが「自由」になるわけではありません。

■4条 差別的取扱い等の禁止についてには、「何人も、性的指向又は性自認を理由とする不当な差別的取扱いをしてはならない」とあります。「不当な差別的取扱い」に関する明確な定義がなく、恣意的な拡大解釈が可能で、あらゆることが「差別」とされる危険があります。言い換えると、女性の権利法益を守ろうとする発言や信仰に関する発言などが「差別だ」とすることにより議論をさせない危険があります。

「性の多様性に係る理解増進」「不当な差別的取扱い」というの名のもとに、憲法で保障された思想・良心、言論・表現、信教の自由などが侵害される危険があります。

■5条 県の責務についてには「県は、市町村、関係団体等と連携して」とあります。しかし「関係団体」とは、「レインボーさいたまの会」などのごく一部の偏向した団体であることが想定されます。特定の関係団体との癒着が懸念されます。 

■10条 啓発等についてには「県は、学校の授業その他教育活動において、性の多様性に関する理解増進のための教育等必要な施策を実施するものとする」「学校は、児童及び生徒に対し、性の多様性に関する理解増進のための教育又は啓発に努めなければならない」とあります。

「性の多様性に関する理解増進」を率先して担うのは、「レインボーさいたまの会」など当事者団体やLGBT活動家などだろうと予想されます。まだ未成熟で発達途上にある「児童及び生徒」に対する、性意識を混乱させるような「教育又は啓発」は、極めて危険です。

【参考情報】

「埼玉県性の多様性に係る理解増進に関する条例(仮称)骨子案」に待った!|保守の会|note

女性スペースを守る会

マルグリット・ペタース(Marguerite A. Peeters):ジェンダー論は、世俗化という革命の木になる実:ジェンダー革命は、「理論」ではない、人間の存在の現実、真実、善を否定する課程だ。 - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

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本当に主は復活され、死の眠りから起き上がった。復活に関するあまりにも多くの確実な歴史的証言と旧約の預言の前兆がある。「この世に勝つ勝利は私たちの信仰である。」

2022年04月27日 | お説教・霊的講話

2022年4月24日(主日)白衣の主日のミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教(大阪)

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。

今日は2022年4月24日、白衣の主日です。

今日フランスでは、日本からの聖ピオ十世会修練者である、シスター・マリ・エスペランスが初誓願を立てる予定です。どうぞシスターのためにお祈り下さい。日本からの最初の聖ピオ十世シスター会の修道召命のためにお祈り下さい。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、私たちの主イエズス・キリストは真によみがえりました。御自分の肉体を以って、その御復活を使徒たちに証明しました。

復活のその日、ドアを閉じられた部屋に、最後の晩餐の高間に主は現れて、ユダヤ人たちを恐れる弟子たちの中に現れて仰いました。「お前たちに平和あれ。お前たちに平和!」

今日の福音では、この言葉が何度も繰り返されました。そして御自分の手と脇を見せて、御自分が本当に復活された、ということを弟子たちに証します。その中の内の一人の使徒トマは、信じようとしませんでした。

「絶対信じない。もしも信じるのならば、私の手をその釘の跡に指を入れて、脇腹に手を入れない限り信じない。」これが言いたいことはつまり、そんなことはあり得ないということでした。「信じない。他の言ってる人を見ろ」でした。

しかし、私たちの主は、このトマのためにも、もう一度現れて、今日、そして「さぁ、お前の手をこの脇腹に入れよ。信じない者ではなく、信じる者になるように」と招きました。これを見たトマは、主の脇に、あるいは釘に本当に入れる勇気があったのかどうか分かりませんが、主を認めて、「御身こそ確かに、私の主であり、私の天主であります」と宣言しました。

今日、私たちの主は同じことを私たちにもなさろうとします。本当に主は復活され、私たちはそれを、その復活に関するあまりにも多くの確実な証言があります。2000年間のカトリック教会がそれを証言しています。御復活の後の世界の歴史が主の復活を証言しています。これほど確実な事実はありません。

今日、私たちは、御復活の後の歴史のみならず、更に旧約聖書にも目を向けて、イエズス・キリストの復活の神秘について更に理解を深めようと思っています。

主は十字架の上で亡くなりました。本当に死去されましたが、復活されたので、教父たちは、イエズス・キリストは「眠り」についた、「死の眠り」についたと言います。眠ったかのように、また起き上がったからです。

これは、最初のアダム、第一のアダムの眠りを思い出させます。アダムが眠っている間、脇からエワが創られたことを思い起こしてください。第二のアダムであるキリストが十字架の上で寝ている間、その脇から水と血が流れて、聖なる教会が出ました。いけにえの中から聖なる教会が生まれました。水は「洗礼」、血は「御聖体」です。

旧約聖書の中にはまた、次のような眠りもあります。それはノアです。方舟を造ったノアです。大洪水があって地上が浄められた後に、聖書によると、ノアは「最初に畑を耕した者である」と書かれています。そして最初に植えたものはブドウの木で、ブドウの畑を作りました。そして最初にブドウの実を潰して、それを飲んで、ブドウに酔ってしまいました。そしてブドウに酔った勢いで、裸になって寝てしまいます。すると三人の子供たちは、この父親の裸を見て笑います。その内の一人が笑って、二人はそれを辱めないように、お父さんの体を辱めないように、後ろに向きながらマントをかぶせます。

教父たちによると、これはイエズス・キリストの前兆だ、と言います。つまり、イエズス・キリストは、御自分のブドウ畑であるユダヤの民を、イスラエルの民を育てました。しかし、その彼らから却って迫害を受けて、そのイエズス・キリストは潰されて、ブドウが潰されたかのように血を流して、そしていけにえとなりました。それを飲んだノアが酔って裸になった。つまり、御受難に没頭して、その中に入り込んでしまって、十字架の上では衣さえも剥がされて、死の眠りについた、という前兆であると教父たちは言っています。

更に、「イエズス・キリストの十字架は、ユダヤ人にとっては躓き、ギリシア人にとっては愚かなもの、しかし選ばれた者にとっては、天主の力である」と言ったように、一部の、1/3の人類からは拒否され、笑われ、嘲られる原因となりました。

ヤコブの眠りはイエズス・キリストの死の眠りの前兆です。有名なヤコブの階段、ヤコブの梯子の話です。これで、御自分の死の前兆を見せようとしました。ヤコブはある日、ある所で眠りにつきました。石を枕にして眠ると、すると夢を見て、天にまで昇る階段があったのです。そしてその階段を天使たちが行ったり来たりしていて、お祈りを運んでいた、とあります。そこで、それを見て驚いたヤコブは、「これこそ天主の家である。“ベテル”と名付けた」とあります。

これは何を意味するかというと、これは「イエズス・キリストが、その隅の親石として死の眠りについた時、天に昇る階段、すなわち十字架が立てられて、その十字架を通ってのみ、天に祈りが昇られることができ、そして天から祝福が降りることができる唯一の階段が作られた、橋が作られた、ということだ」と教父は言っています。

更にこのような前兆はまだたくさんありますが、最後に一つだけ言うのを許して下さい。それはイエズス・キリストの復活、御受難と復活は、モーゼが率いた出エジプト、エジプト脱出によって前兆されていたということです。

つまり、奴隷状態にあったユダヤ人たちは、モーゼを先頭として紅海、赤い海を渡って、逃れた時に、ユダヤ人たちは壁のようになった海の中を、乾いたままの足で渡ることができました。渡り終わると、壁のようになっていた海はもとに戻り、彼らの後を追っていたエジプトの大群が海の中に溺れてしまって、全滅してしまいます。ユダヤ人たちは大勝利を祝いました。

紅海を渡った直後、イスラエルの人たちはモーゼを通して天主の十戒を受けます。その後、天主ヤーウェの指示に従って、契約の櫃を作ります。契約の櫃は、天主がそこにおられる、主の栄光がそこにおられる、天主の力によって覆われるという特別な櫃です。

ちょうど私たちの目の前にあるこの祭壇のような形をしていて、その前後には天使が、ケルビムが礼拝している姿が付いていました。そして棒で担ぐことができて、そしてその契約の櫃の中には三つのものがありました。「天主の十戒の石板二つ」と、そして「マンナ」、もう一つは「アーロンの杖」です。これは紅海を渡った後に、イスラエルの人たちが最も大切にしていたものでした。契約の櫃。そしていつも契約の櫃を先頭に行列を作って、約束の地まで動いていました。

ちょうど聖伝のミサを捧げる私たちは御聖体を、御聖櫃を前にして、イエズス様を先頭にして、「約束の地」である天国に向かって行列をしているかのようです。中にある三つのものは全て、イエズス・キリストを前兆していました。契約の櫃の中にある三つの一つは、まず天主の十戒です。これは天主の掟、天主の御言葉ですが、つまり「人となった御言葉イエズス・キリスト」の前兆でした。天から降ったマンナも、「イエズス・キリストの御聖体」の前兆でした。アーロンの杖はもちろん「大司祭であるイエズス・キリスト」の前兆でした。これによって奇跡が起こります。

では、私たちにとって契約の櫃とは何でしょうか?

それはマリア様です。聖母が、イエズス・キリストをその中に入れた新しい契約の櫃です。ですから教父たちは声を揃えて、新約の私たちは第二の新しいエジプト脱出をしている、出エジプトをしている。新約の民は、第二の本当の出エジプトの民である。悪魔の奴隷状態から逃れて、そして復活の命へと移動している、新しいイスラエルであると、言います。旧約時代にエジプト軍に大勝利を収めた通り、私たちも大勝利を収めます。

使徒聖ヨハネは今日の書簡の中でこう言っています。「この世に勝つ勝利は、私たちの信仰である。信仰こそが私たちに唯一勝利を与えて下さる。」

では、イエズス様の御復活の神秘の中に入ることに致しましょう。真に主はよみがえりました。そして私たちを永遠の喜びと大勝利へと導こうとされています。この勝利に与ることができますように、主に付き従いましょう。契約の櫃である、新しい契約の櫃であるマリア様に、私たちの忠実を乞い願いましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

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私たちがいつも目指すべきは、この地上の十字架の次にある栄光の復活である

2022年04月27日 | お説教・霊的講話

2022年4月23日(土)白衣の土曜日のミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、今日は白衣の土曜日(Sabbato in Albis)とも言われております。なぜかというと、今日で復活の八日が終わろうとしており、復活の徹夜祭で洗礼を受けた方は、あるいは今日、あるいは明日、洗礼の時に受けた勝利の衣を脱いで、教会の保管場所に置くことになっていたからです。

ですから今日の書簡でも、今日の福音でも、このことが語られます。朝まだきに、復活のその日の朝、マグダレナ・マリアは、主の墓が空っぽであるということを弟子たちに使徒たちに告げに行きました。聖ヨハネと聖ペトロは、墓の中に主のくるまっていた布が、あるいは顔に被せられていた布が取られて、そのまま脱がされて隅に一つにまとまって置かれていたのを見ました。ちょうど洗礼を受けた人が、自分の受けた布を畳んで保管所に戻すかのようです。

聖ペトロも、今日の書簡で同じことを言います。私たちは、悪意と以前の罪の生活を脱いで、それを脱ぎ去って、生まれたばかりの乳飲み子のようにならなければならないと言っています。

今日、では教会は私たちに一体何を言いたいのでしょうか?

この今までの地上の生活の、この世の考え方、この世の生き方、この地上だけのことを考える生き方を脱いで、イエズス・キリストの復活の命を生きると招いています。

私たちの目的はこの地上ではなくて、永遠の命にあること、この地上でのことが、どのように苦しいことでも、辛いことでも、嫌なことでも、実はそれはあっという間に終わって、これをすぐに脱ぎ去って、永遠の終わることのないイエズス・キリストとの共の命が待っているということを私たちに教えようとしています。

私たちがいつも目指すべきは、この地上の十字架の次にある栄光の復活である、ということです。そうする時に初めて、私たちの受ける十字架が、実はこれは特別の御恵みである、ということが分かります。

辛い、あるいは嫌な、あるいは逃げたい、あるいは…ということは、実は本当は主から送ることが許されて、実は私たちの栄光の冠の種となって、本当は私たちに勝利の栄冠を与えようと、その機会を下さった、ということになるからです。十字架を通してのみ、栄光が与えられるからです。戦ってのみ、勝利が与えられるからです。

ですから今日、私たちは洗礼を受けた方々のように、地上の、あるいはあまりにも地上的なこの世の世界のことだけを考える見方を捨てて、イエズス・キリストの見方を、イエズス・キリストの考え方を、イエズス・キリストが思うような、永遠の命を求める生活をする御恵みを乞い求めましょう。

最後にマリア様にお祈り致しましょう。マリア様は私たちに、母として至福の生命へと招いて導いて下さるからです。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


私たちの主イエズス・キリストは真によみがえりました。本当に死者の中からよみがえって、今生きておられます。主は真実によみがえられました。

2022年04月27日 | お説教・霊的講話

2022年4月22日(金)復活後の金曜日のミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

私たちの主の御復活の御慶びを申し上げます。

私たちの主イエズス・キリストは真によみがえりました。本当に死者の中からよみがえって、今生きて、天に昇られて、天主聖父の右に座しておられます。主は真実によみがえられました。そして私たちを愛の眼差しで、憐れみの眼差しで見守っておられます。主は勝利されました。生きておられます。真の天主であるということを本当に証されました。

ですから福音では、今日、聖金曜日の全く反対を宣言します。ちょうど一週間前は、「我が天主よ、なぜ私を見捨てられたのですか」というその御苦しみを読みましたが、しかし今日は、「私には、天と地とすべての権威が与えられている。だから行って、全世界に行って、聖父と聖子と聖霊との御名によりて、洗礼を授けよ」という荘厳な命令が与えられました。

全ての権威が、全ての力が、イエズス・キリストには与えられています。何も恐れることはありません。何も心配することはありません。イエズス・キリストが全てを勝利者として支配しておられます。ですから私たちの主は、復活の恵みとしてその実りとして、洗礼を、罪の赦しを私たちが受けることを命じておられます。

ノアの方舟で全世界が浄められたのも、エジプト人の手からイスラエルの人たちが紅海の、海の水を通って救われたのも、これも洗礼の儚い象りでした。ノアの大洪水よりも、エジプト人の手から脱出したその劇的な場面よりも、もっと崇高でもっと劇的な素晴らしい変化が、私たちの霊魂において、洗礼を受ける時に起こります。天主に対する無限の罪の負債が洗い浄められて、私たちの霊魂は生まれたばかりの赤子のように清く美しくなる。これが主の十字架の、そして御復活の恵みでした。

私たちは最後に、マリア様にお祈り致しましょう。マリア様の御取り次ぎで、主の復活の事実がますます私たちの心に深く確信として刻まれますように、そして洗礼の恵みの偉大さをますます理解することができますように、お祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

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--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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