アヴェ・マリア・インマクラータ!
カトリックの兄弟姉妹の皆様、特にさいたま教区の兄弟姉妹の皆様にお願い
令和4年4月1日から5月2日まで、自由民主党埼玉県支部連合会(以下、埼玉県連)が、「埼玉県性の多様性に係る理解増進に関する条例(仮称)骨子案」の策定に当たって、意見を募集しています。
ご意見募集(パブリックコメント)について | 自由民主党 埼玉県支部連合会 ご意見募集(パブリックコメント)について
県民の皆様をはじめ、全国からも意見を応募できるとのことです。
特にカトリックさいたま教区の兄弟姉妹の皆様にお願いいたします。自民党埼玉県連の『性自認』が入った条例骨子案にご意見を出して下さい。カトリック信仰の声を上げてください。この条例案を提出しないように、パブリックコメントの提出にご協力頂けますようお願いいたします。
日本の社会とカトリック教会を守るために、発言してください。遠くで受動的に傍観して抵抗しないなら、亡国への歩みに向けて加速することになります。
聖ピオ十世教皇さまは、カトリック信者の怠惰や臆病が、信仰に反対する悪の力になっている、ということをおっしゃっていました。
この戦いにおいて私たちは一人ではありません。キリスト者として私たちは聖霊と協力するように招かれています。
「埼玉県性の多様性に係る理解増進に関する条例(仮称)骨子案」はここにあります。
この骨子案には多くの問題点があります。
■1条 目的には「性のあり方が男女という二つの枠組みではなく連続的かつ多様」とありますが、「性(sex)のあり方」には男性と女性の二つしかないというのが、人類の普遍的で客観的な事実です。生物学的性別は生涯不変です。男性の染色体と女性の染色体の二つのみが存在し続けているからです。この現実と条例は調和させることができません。
創世記は断言しています。「天主が人間を創造されたのは御自分の像にかたどってである。天主の像にかたどって創造されたのである。人間を男と女に創造された。」(創世記、1章、27)« Creavit Deus hominem ad imaginem Suam; ad imaginem Dei creavit illum; masculum et feminam creavit eos » (Gn 1,27).
私たちの主イエズス・キリストも仰せられました。「あなたたちは読まなかったのか、はじめにすべてをおつくりになったお方が、人を男と女とにつくり、"そこで人は父母を離れてその妻と合い、二人は一体となる"とおおせられたことを」(マテオ19章)と。
天主は人間の男女の二つの性だけを創造されたのであって、「連続的かつ多様」な性を創造されたのではありません。このような条例の内容は、男女の生物学的な現実という概念そのものを分解してしまいます。
このような条例は、人間を男と女とに創造された天主に対する暴挙です。自然に反するものです。
人間は天主の似姿に創られています。聖父と聖子と聖霊との三位一体なる天主の似姿です。人間は、天主の愛から愛のために生まれた人格(ペルソナ)を持っています。生命を生み出すために「父親」「母親」「夫婦」が天主によって創造されました。
天に唾するものは、それが自分に帰ってきます。地震、台風、津波、などの自然の恐ろしさを知っている私たち日本人は、自然には逆らえない、逆らったらしっぺ返しが来る、ということをよく知っています。このような条例は、人間とはなにか、家族とは何かを崩壊させる脅威となります。私たちは、家族の破壊を容認することはできません。ひいては、家族を基礎とする日本社会全体が壊れてしまいます。従って亡国への一歩を踏み出すことになってしまいます。このようなことは、カトリックの信者でない方でも、常識的に理解できる事実です。
もしも客観的な現実と自然とに反することを、主観的に条例を定めようとするなら、それは「自然に従うのではなく、自分が決定する」という無謀なことです。しかし、例えば「重力がない」が条例として通過すれば、そうなるのでしょうか?
ジェンダー論は、人間の存在にとって現実のもの、真のもの、良いものを否定するという過程です。現実と真実と善を守るためにジェンダー論に反対することは、光と闇の戦い、命と死の戦い、愛と憎しみの戦い、真理と偽りの戦いです。
今、私たちが反対しなければ、私たちが悪に対して目をつぶって悪が広るままなってしまいます。そうなると、今度は、必然的に社会は、善に対して不寛容になり、悪をしなければ処罰されるようになってしまうでしょう。
■2条 定義では、「(2)性自認」を「自己の性別についての認識をいう」と定義付けて、自己申告による性別をそのまま認めなければならならないこととしています。言い換えると「自らを女性と認識する」だけで、身体的・法的な男性も「女性」として認めることです。身体違和感があることを要件とせず、手術などする気持ちのない人も含みます。「女性自認者」を「女性」を認めなければ「差別的取り扱い」とされることにあります。
これは、性別が、ジェンダー論に基づいた個人がそうだと思う可変的な主観的自己認識へと恣意的に変えられてしまうことを意味しています。これは大きな混乱を引き起こすことになります。
「自己の性別についての認識」による「性自認」を法制化・条例化することに、多くの女性が反対しています。
なぜなら、たとえば、「性自認が女性」という身体的には男性が、女性専用スペース(公衆トイレや公衆浴場、更衣室等々)に堂々と侵入しても、それを阻止することは「差別的取り扱い」になり、そのことは女性に不利益をもたらし、社会的混乱を引き起こしかねないからです。非常に深刻な道徳的・規律的な危機を迎えるだろうことは明らかです。
事実、札幌や大阪ではすでに似たような事件が起きています。
「女性スペースを守る会」は次の懸念を訴えています。
「女性トイレがもし身体男性にも開かれるのであれば、個室に引きずりこまれての性暴力被害、個室の盗撮被害の増加や盗聴さらに使用済みの生理用品を見られたり、持ち出されることも増えるでしょう。警戒心が薄く抵抗する力のない女児や、障害のある女性が性暴力被害に遭いやすくなるのでは、という懸念」について、ぜひ真摯に考えてください。女性専用の空間は、女性を守るシェルター的な働きをしているのです。
ある男性が、ある時点で、自分は女性であると確信する場合があり得ます。生物学的な男性が女性のスポーツに参加した場合、生物学的は女性は、絶対的に不利です。男性の自己認識を持つようになった女性が、司祭になることを要求する場合もありえます。これはカトリック教会にとって致命的な脅威となる恐れがあります。
社会的混乱を引き起こしかねない「性自認」の条例化を認めてはなりません。私たちはこのようなことを受け入れたり正当化したりすることは少しもできません。
■このような条例ができてしまうなら、同じ原理で、自己の性別についてのみならずさまざまなことがらについての「自認」していると主張する人の思い通りに社会を動かさなければならなくなる危険があります。
たとえば、今現在ではありえないと思われるかもしれませんが、"自分をサルだと「自認」した人がサルと結婚することを法律で認めないこと"は、差別的取り扱いとされるでしょう。この条例がつかった「性自認」の原理と同じ考え方に従えば、だれかが「自認」した通りだと認めないならば、それは「偏見」で「認識不足」で「暴力的」で「不当な差別で他人を傷つけている」ということになってしまうでしょう。「性自認」の原理を受け入れた限り、どこに線を引くことができるでしょうか。しかし、人間が何を自認しようとも、客観的な変わらない真理は存在します。全てが「自由」になるわけではありません。
■4条 差別的取扱い等の禁止についてには、「何人も、性的指向又は性自認を理由とする不当な差別的取扱いをしてはならない」とあります。「不当な差別的取扱い」に関する明確な定義がなく、恣意的な拡大解釈が可能で、あらゆることが「差別」とされる危険があります。言い換えると、女性の権利法益を守ろうとする発言や信仰に関する発言などが「差別だ」とすることにより議論をさせない危険があります。
「性の多様性に係る理解増進」「不当な差別的取扱い」というの名のもとに、憲法で保障された思想・良心、言論・表現、信教の自由などが侵害される危険があります。
■5条 県の責務についてには「県は、市町村、関係団体等と連携して」とあります。しかし「関係団体」とは、「レインボーさいたまの会」などのごく一部の偏向した団体であることが想定されます。特定の関係団体との癒着が懸念されます。
■10条 啓発等についてには「県は、学校の授業その他教育活動において、性の多様性に関する理解増進のための教育等必要な施策を実施するものとする」「学校は、児童及び生徒に対し、性の多様性に関する理解増進のための教育又は啓発に努めなければならない」とあります。
「性の多様性に関する理解増進」を率先して担うのは、「レインボーさいたまの会」など当事者団体やLGBT活動家などだろうと予想されます。まだ未成熟で発達途上にある「児童及び生徒」に対する、性意識を混乱させるような「教育又は啓発」は、極めて危険です。
【参考情報】