2022年4月3日(主日)御受難の第一主日のミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教(東京)
日本の聖なる殉教者巡回教会にようこそ。今日は御受難の第一主日です。
一つお知らせがあります。5月1日から5日まで、恒例の秋田の巡礼があります。特に今、日本ではコロナのまん防と言われているものが無くなりました。絶好の機会です。いつこれがまたどうなるか分かりません。是非このチャンスを逃さないように、特にまだ秋田にいらしたことがない方、今年の5月には秋田の巡礼にいらっしゃることを考慮して下さるようにお願い致します。
今年は秋田の私たちのいつも使っている施設のすぐ横には、子供たちの為の公園があったり、私たちの使う施設は、私たちがほぼ全て貸し切ってしまっているので、非常に安全で、非常に美しい所です。
午前中はマリア様についてのお話、ミサ、そして午後は聖母行列や御聖体行列など、私たちが都会ではすることができないような色々なことを行ない、マリア様に讃美と感謝を御捧げしたいと思っています。大人も子供も、非常に有意義な時を過ごすことができるようなプログラムをいつも準備しております。5月1日から5日、皆さんの多くの方の参加をお待ちしております。
教皇様は、ロシアとウクライナを聖母の汚れなき御心に奉献して下さいました。ファチマのマリア様は「天主が、聖母の汚れなき御心に対する信心を確立することをお望みになっている」と仰っています。ですから私たちも、この汚れなき御心に対する信心を行なう為に、是非、秋田巡礼にいらして下さい。そうすることによって大きな平和の御恵みがあると信じております。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
今日、私たちのいつもの御聖堂に入って来ると、「あれ?十字架像に紫の布がかかっているなぁ。あれ?御像も紫の布がかかっているなぁ。あれ?なんだろう?」と思われたことでしょう。
今日はそれについて一緒に黙想致しましょう。二つ、黙想のテーマを提案します。
⑴一つは、イエズス様の十字架が紫の布で隠されている、という事です。
⑵もう一つは、イエズス様が福音で、「私は、アブラハムが存在する前に私は在る」と仰ったこの二つです。
⑴一つは、イエズス様の十字架が今日から、聖伝に従い紫の布で覆われます。一体なぜ?
なぜかというと、その理由は、今日の福音にあります。今日の福音を読むと、その終わりの方で、イエズス様が石殺しにされようとされて姿を隠された、とあります。イエズス様は十字架に付けられなければ、そして十字架の上で贖いをする、という永遠の計画をする為に、今、時ではなかったので、姿を消されました。ちょうどイエズス様が姿を隠されたかのように、十字架を準備するかのように、イエズス様の御姿が今隠されています。
なぜ十字架で贖いを果たさなければならなかったのでしょうか?なぜかというと、人類は木を以って、善と悪との知識の木の実を取って「食べてはいけない」と言われながらもそれを犯してしまったので、つまり、木を以って最初の罪を犯したので、どうしても木を以って償いを、贖いを果たそうと思われたからでした。
イエズス・キリストは特に、呪われた「十字架の木」、旧約聖書の第二法21:22によると「木にかけられた者は呪われよ」とあります。その呪われた十字架を祝福に変えようとする為に、十字架での贖いを望まれました。
聖パウロはガラチア人の手紙の中でこう書いています。「キリストは、私たちのために呪いとなって、律法の呪いから私たちをあがなわれた。すなわち、「木にかけられた者は呪われよ」と書かれているからである。」(3:13)
ですから本来ならば、イエズス様がいらっしゃらない十字架は、呪いの木の十字架であって、私たちが受けるべきものだったのです。呪いと、苦しみと、辱めと、痛みと、そして地獄の火を。しかし、私たちの代わりにそれを受けようとされます。
イエズス様が姿を隠されているので、諸聖人もマリア様も、御像にベールがかぶされて、イエズス様の後を慕っているかのように、姿を消されました。実は、復活祭の時にはいつも満月ですけれども、御受難の第一主日は、いつも新月です。月でさえも、大自然でさえも、光を真っ暗にして、「イエズス様がいらっしゃらないならば、私は光も出したくない。イエズス様がいなければ、私たちは真っ暗だ」と言うかのように、月も真っ暗になって、これから喪に服そうとしているかのようです。
旧約の預言が、このイエズス様の十字架のいけにえによって成就します。イエズス様の十字架、この木は、モーゼが苦い泉の所で奇跡を行なった、あの奇跡の杖であるかのようです。約束の地まで旅立ったイスラエルの人たちは、水が飲みたくて仕方がなかったのですけれども、しかし湧き出る水は苦くてとても飲めませんでした。しかしモーゼが杖でその水に触れると、甘くなって飲むことができます。
イエズス・キリストの十字架もまさに、私たちの苦しみを、呪いを、祝福に変える、その杖です。モーゼはある時、その十字架の所に青銅の蛇の像を付けてそれを見せました。それを見た者はどのような病であっても治りました。何で蛇が?
なぜかというと、十字架にイエズス・キリストが、あたかも私たちの全ての罪を背負って、あたかも呪われたかのように、あたかも天主聖父から捨てられたかのように、あたかも呪われた蛇となったかのように付けられたから。そして私たちの為に罪を贖ったからです。
このイエズス様の十字架を見る者には、すべての肉体の健康のみならず、霊魂の健康と永遠の救いが与えられる、ということのかたどり・前兆でした。
ですから十字架は今、イエズス様を受け入れようと待っています。
今、十字架は、その本当の姿が隠されています。
もしもイエズス様がいないのならば苦しみだけだけれども、単なる苦しみだけれども、イエズス様がいれば、イエズス様の贖いによって、それは祝福と平和と喜びの源に代わる、という意味です。そのイエズス様を受け入れる準備が今できている、と十字架は語っています。
⑵第二の点は、何故ではイエズス様は石殺しにされかかったのでしょうか?
なぜかというと、イエズス様が、御自分がどなたであるか、ということをはっきりと仰ったからです。イエズス様は仰いました、「アブラハムが在る前に、私はある。」
これは、モーゼに天主ヤーウェが言った、天主の聖名(みな)だったのです、天主の固有名詞です。
つまりその昔、イエズス様が生まれる1500年前、モーゼという人にヤーウェ天主は現れて、「イスラエルの民にお前を遣わす」と言われました。するとモーゼは、「この民が私のことを信じることができるように、あなたの名前を教えて下さい」と頼みました。すると天主は、自分の固有名詞を、自分の名前を教えました、私はトマス小野田神父である、というように、ヤーウェは答えました、「私は『在りてあるもの』である。これが私の名前だ。『在りてあるもの』がお前を遣わしたと言え」と。
イエズス様はその時、今日の福音で語られたように、「アブラハムが昔生まれたよりも前に、私はある」と仰ったのです。つまり御自分こそが、全てを創った全能の天主である、創造主である、永遠の知恵、全万軍の王の王、この全てを支配している、永遠の昔から永遠に渡って変わることのない天主である、ということをはっきりと言いました。
ユダヤ人はすぐにそのイエズス様の仰っていることが分かって、「あぁ、冒瀆をしているのではないか!」と石を取って、イエズス様を石殺しにしようと思いました。
でもイエズス様は嘘をつくことができませんでした。もしもそうだったら、ユダヤ人たちと同じような嘘つきになってしまいます。本当のことしか言うことができませんでした。アブラハムが存在するよりも、生まれるよりも既に、イエズス様は在(ましま)すのです。永遠の天主の御一人子であるからです。全宇宙を創られた創造主であるからです。
この天主が十字架に付けられようとします。つまり、今日私たちが黙想する内容は、「この天と地を創られた全能の天主、天主の第二のペルソナ、命の造り主、王の王、万軍の主、永遠の御言葉、知恵、天主御自身、天主の御一人子が、私たちの代わりに、私たちを愛するが為に、十字架に付けられる」ということです。
「え!?天主が、命を創って下さった、命の創り主が、十字架に付けられて死ぬのですか?」
そうです。なぜかというと、私たちの、本当は私たちが受けなければならない呪い、十字架の苦しみ、あるいは死、あるいは永遠の地獄を、私たちに与えない為に、自分が自ら呪いを受けて、死を喜んで受けて下さったからです。
天主が、皆さんと私の為に、死を受けた、亡くなった、死去された。ここに今日の神秘があります。十字架の、紫で覆われた十字架の神秘があります。
考えて下さい。天主が私たちを愛するがあまりに、愛の極みのあまり、命を投げうってしまった。そこまで私たちは愛されている、ということです。
それにも関わらず、私たちはこの愛に応えようとしませんでした。それを見ても、何も感じることなく、何も今まで十字架像を見ても、何も思う事がありませんでした。心は冷たく石のようでした。今まで罪を犯して、主を侮辱し続けてきました。
私たちの冷淡と忘恩にも関わらず、天主は私たちの冷たさを知っていたにも関わらず、「さあ、私は命を与える」と、両手を広げて待っておられます。「さあ、私のもとに来なさい。命を与えるから。呪いの代わりに祝福してあげるから、来なさい。」
どうぞ、この天主の愛の神秘の中に深く入るように致しましょう。これからは、あと残る二週間、イエズス様の御受難に心を馳せるように致しましょう。
どれほど私たちを愛して下さったか、どれほど痛まれたか、どれほど恥ずかしかったか、侮辱を受けたか、どれほどだったのか、それにも関わらず、喜んでそれを受け入れようとされた愛、憐れみ。そして私たちは、それにどれほど応えたのか。痛悔の涙を流す恵みを乞い願いましょう。
マリア様にお祈りしましょう。マリア様に、イエズス・キリストの御受難とその計り知れない愛を垣間見ることができますように、この主の愛を私たちが少しでも理解することができますように、特別の御恵みを乞い求めましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。