アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
2016年8月6日(初土)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
聖母の汚れ無き御心聖堂にようこそ。今日は2016年8月6日、イエズス・キリストの御変容の祝日です。今日は8月の初土曜日です。どうぞ今日はこの初土の信心をなさって下さい。5回の毎月続けての御聖体拝領と、告解と、それからマリア様と15分間一緒に居りロザリオの黙想を15玄義の何かをする事、ロザリオを唱える事です。これらをマリア様の汚れ無き御心に対して犯される罪を償う為になさって下さい。
8月15日からはフェレー司教様がロザリオの十字軍を起動させます。特に聖母の汚れ無き御心の信心の確立の為に、マリア様の汚れ無き御心の凱旋の為に、教皇様がカトリックの全ての司教様と一緒にロシアをマリア様の汚れ無き御心に奉献する為に、また聖ピオ十世会が特別に守られますように、との意向でロザリオの十字軍に参加なさって下さい。今回はファチマ100周年を控えているので、特別にマリア様にロザリオを1200万環、また小さな犠牲を5000万回捧げたいという意向を持っています。特にマリア様の汚れ無き御心に対する信心を確立する為にも、私たちはマリア様の汚れ無き御心に捧げられた聖堂に集う者ですから、初土の信心をよくなさるようになさって下さい。世界中で探しても、初土の信心ができるというチャペルはそんなに多くありません。どうぞこの特別のお恵みをぜひ利用して、これを与えられたこの機会を活用なさって下さい。もしも私たちがそれを利用すれば利用するほど、小さなものに忠実であればあるほど、より多くのものが与えられます。
今日はミサの後にいつもの通り公教要理をしたいのですけれども、特別の事情があってどうしてもこれをですね短くしなければなりません。そこで今日は20分間だけ「聖霊の実り」についてお話をしたいと思っています。どうぞお付き合い下されば幸いに思います。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日はイエズス様の御変容の大祝日です。御変容の時に一体何が起こったのか、それは何故イエズス様は何の為だったのか、何故それを弟子たちに御変容をお見せになったのか、では私たちに一体なぜ、カトリック教会は今日この御変容の祝日で私たちに何を準備させようとしてるのか、を黙想しましょう。この3つの点を黙想して、最後にイエズス様の御変容の祝日の良い遷善の決心を立てる事にします。
御変容の時に何が起こったのか、その最初のポイントは福音をお読みになれば明らかです。福音を読むと同時に聖ペトロが、目撃証人である聖ペトロが書簡の中で言っています、「私は作り話をしたのではない。確かにこの目で見た。この耳で聞いた。本当の事を語る。」
一体何があったかというと、イエズス様が3人の使徒たちを特別に選んで、12人の内の3人を選んで、ペトロ、ヤコボ、そのヤコボの兄弟のヨハネ、特別に選ばれた、教会の3つの柱のこの特別に連れて、この3人はゲッセマ二の園でも特別にイエズス様の近くに来るように命じられるその3人ですけれども、この3人はイエズス様の御受難の直前に、山に登って、これはタボル山と言われていますけれども、そこでその3人の弟子たちの前で他の弟子たちには見せなかった事を見せるのです。
それは何かというと、イエズス様の御顔が太陽のように燦然とこう輝きだし、イエズス様の本当の王の王である御稜威、その光を、その権威をお見せになったのです。そればかりではありません、服が真っ白く雪のように輝き出しました。昨日は雪の聖母の大聖堂の祝日で、マリア様が雪でご自分の場所を、自分の教会の頂きが奉献する事をお望みになった場所をお示しになりましたが、つまり「清い、汚れの無い場所がここだ」という事を雪で示しましたが、イエズス様は今日は雪のように真っ白な服を輝かせて、御自分の本当の清らかさと、自分のお持ちになっている天主の力をそのままを弟子たちに見せました。
そればかりではありません。旧約のその偉大なる、これを他にしてはもう右に出る者がいないと言われているモーゼ、律法を私たちに、それを通して伝えられたモーゼが現れて、イエズス様とお話をするのです。もう一方はエリヤが、預言者の代表エリヤがやって来て、イエズス様とお話をするのです。聖ルカの福音によれば、「御受難についての話をしていた」との事です。イエズス様のそのような2人の、モーゼは既に死んでいましたけれども、エリヤはまだ天に上られて、火の車で天に上ってまだ生きておられる、生ける人と死せる人とを裁く為に来たり給うイエズス様を証人する2人が、律法と預言者の代表がイエズス様の元に来て、「これこそ来たるべきメシアであり、救い主であり、贖い主である」という事を私たちに示そうと証人として現れます。
3人の弟子たちはそれを見ていると、あまりにも素晴らしいので、是非このここに、その3人にふさわしい幕屋を立てたいという事で、ペトロが、「ここに何か、素晴らしい幕屋をあなたにふさわしい場所を作りましょうか?」と言うと、突然天が、天の雲の中から御父の声が響き渡ったのです、「これは私の愛する子、私の喜びとする者である。彼の言う事を聞け。」天主御父が、「このイエズス・キリストこそが、真の御父の御子である、永遠から生まれた天主三位一体の御子である。始めもなく終わりもなく、創られない、父から生まれている、永遠の今において生まれている天主、生まれながらにして本性にして天主である御子である」という事を承認します。「彼の言う事を聞かなければならない、彼こそがお前たちに本当の事を、真理を、善を教える。彼の言う事を聞け」と。「そうすればお前たちも、この御子のように燦然と輝く天の遺産を受けるだろうし、また私の愛する子と養子相続する事ができる。だから彼の言う事を聞け。彼こそが真理の言葉を持っている」という事を御父が、「彼の言う事を聞け。この子の言う事を聞け。このイエズス・キリストの言う事を聞け」と命令するのです。
するとその声を聞いて、あまりにもその神々しいその荘厳な絶対の御父の声に恐れおののいて、「ははぁー!控え控えー!」という事を内の声で中からの声を聞いたのでしょうか。弟子たちは顔を平伏して、地に死んだように恐れおののいて地に伏せました。するとイエズス様が近づいて、「恐れるな。さぁ、怖がる事はない」と言う事で見ると弟子たちは、「もう既にイエズス様しかいなかった。普通の今まで通りのイエズス様を見た」という事です。
これは来たるべき御受難に備えて、イエズス・キリスト様がどのように裏切られようとも、どのように苦しみを受けられようとも、あたかもイエズス・キリストが天主の御子でないかのように見えたとしても、苦しみのあまり、血のあまり、傷にただれて、そのイエズス様の御姿が、もうメシアなのだろうか、天主の御子だろうかという事が見分けがつかなくなるほどになってしまうかもしれないとしても、しかしイエズス・キリストは永遠の御子であり、メシアであり、律法と預言者が期待していた、待ちに待っていたその御方である、という事を確固とさせる為でした。将来イエズス様に付き従う、イエズス様の声を聞く者に対して与えられるべき報いは、「イエズス様と同じ姿になる事である」という事を見せる為でした。
カトリック教会は今日私たちに、やはりそれと同じイエズス様の姿を見せ、私たちの信仰を固めようとします。私たちが信じているイエズス・キリストは、まさにこの御変容された、しかしそれを隠しておられるイエズス様です。隠しておられるのは、「私たちが信仰によって歩む事ができる為」です。「Mystici Corporis “ミスティチ コルポリス”」という回勅の中でピオ十二世教皇様は言っています、「教会はイエズス・キリストの神秘体である。しかしイエズス・キリストが私たちの信仰の徳を実践する機会を与える為に、時において私たちに、この私たちにとってこのキリストの神秘体が受難を受けている、苦しみを受けている事を示す場合がある」というような事を書いておられます。確かにピオ十二世教皇様が仰るとおりです。イエズス様の神秘体である教会は、花婿であるイエズス様に倣って、受難の道を辿らなければなりません。しかしこの教会の頭は、今日私たちにその姿をお見せになった「栄光の王イエズス・キリスト」です。御父がまさに「これの言う事を聞け、これ以外に真理の道はない」というイエズス・キリストです。
聖ペトロも今日書簡の中で、「私はこの目で見た。この耳で聞いた」と証人しています。
教会がどのようになったとしても、どのように受難な道を歩いたとしても、この創立者が頭が「イエズス・キリストである」という事をどうぞ確固として信じ、その信仰を固めて下さい。イエズス・キリスト様は十字架によってこの世を統治します。イエズス・キリスト様が私たちを贖うのは受難の道でした。イエズス・キリスト様が私たちにお恵みを与えようとするのは、その十字架の木を通してでした。「Regnavit a ligno Deus」と公教会がイエズス様に謳う通りです。
イエズス様は確かに、この御変容の後に弟子にユダに裏切られ、弟子たちからは捨てられてしまいました。ゲッセマ二の園では弟子たちは散り去ってしまいました。ポンシオ・ピラトはイエズス様に、「真理とは何か?」イエズス様は、「私は真理の為に証明する為に生まれて来た、やって来た」と言うのですけれども、ピラトは真理を信じようとしません、「真理とは何か?真理なんて何だ、何さ。」そればかりでなく、イエズス様とバラバのどちらを選ぶか国民投票させます。ピラトには「私たちが選ぶ事ができない、投票で決めるのではないものがある」という事を知らなかったようです。
イエズス様にピラトは聞きます、「お前はユダヤの王なのか?」
「お前の言う通りだ」と。
イエズス様はですから、十字架の上で「王」という罪を、実際にこの御変容でお見せになったこの本当の王であるにもかかわらず、そのそれであるという事で十字架の上ではその罪を、「王である」という事の為に十字架に付けられる事になりました。「ユダヤ人の王、ナザレトのイエズス」と。
公教会は今その2000年後、イエズス様の受難と同じようなものを辿りつつあるようです。何故かというと残念ながら、カトリック教会の本当ならばいつも十字架の下にいなければならない司祭たちは、聖伝のミサを捨ててお食事会に、新しいミサをするようになってしまっているからです。十字架の下に留まったのは、マリア様とヨハネだけであったように、聖伝のミサを守る者は、マリア様のすぐ傍にあったルフェーブル大司教様とほんの限られた司祭たちだけになってしまったからです。
ベネディクト十六世が、「教会が過去愛したものを、教会がいきなり禁止する事ができるはずがない。過去教会が愛したものを、私たちは今も愛し続けなければならない」と言っているにもかかわらず、しかしイエズス様の十字架は、「あぁ、」皆がそれを捨てたままになっているかのようです。
ピラトを代表するかのようにこの世は、或いは第二バチカン公会議は、「真理とは何か?」と疑問をかけているようです。
カトリック教会は言いました、「イエズス様こそが真の王であり、イエズス様の言う事を聞かなければならない。イエズス様こそが真理である。イエズス様を通らなければ誰も天の国に行く事はできない、救われる事はできない。彼の言う事を聞かなければならない。イエズス様は真理を証明する為に生まれてきたのであって、道・真理・命だ。」
ところが、「そうではない。私たちは真理であろうが誤謬であろうが、私たちは判断する事ができない。私たちは自由でなければならない。真理とか誤謬とかではなくて、自由が大切だ。それが信仰の自由であって、良心の自由だ。それが人間の尊厳だ」と。
ですから、イエズス様は「真理がお前たちを自由にする」と言ったにもかかわらず、「真理とは関係のない自由」を言っています。ちょうどピラトが「真理とは何か?」と聞いたかのようです。
そればかりではありません。イエズス様こそが王であるにもかかわらず、イエズス様の事を投票で決める事ができないはずにもかかわらず、多数決で、「イエズス様を王とするか王としないか、或いはイエズス様に従うか従わないかは多数決で決めれば、もしも他の宗教の方が多いならば、それに譲るべきだ」と言っているかのようです。
もしもイエズス・キリスト様が真の天主、真の王でなくて、イエズス様でなくても救霊ができるならば、一体なぜ宣教師は全てを捨ててイエズス・キリストの福音を伝えなければならないのでしょうか?なぜ青年たちや若い人たちは一生かけて生涯をかけて、イエズス・キリストに全生涯を青春をイエズス様に捧げなければならないのでしょうか?
他の宗教でも皆天国に行くのならば、一体イエズス・キリストに付き従ってどこが価値があるのでしょうか?
多数決で決める事ができるのならば、なぜイエズス様につかなければならないのでしょうか?
真理も誤謬もなくてただ自由だけが、人間の尊厳だけが大切ならば、なぜイエズス様の事をそうやって聞かなければならないのでしょうか?
多くの方がそうして混乱して、「もうそうであれば、イエズス様はいらない、カトリック教会もいらない」ものになってしまいます。
教会はですからそのリベラリズムによって、イエズス・キリスト様の御変容の論理的な結論を捨てる事によって、イエズス様が真の王であるという事を、イエズス様の言う事を聞かなければならないという事を捨てる事によって、この世の言う事を聞いてしまう事によって、今、受難の道に入っているかのようです。
では私たちはどのような決心を立てなければならないでしょうか?
ファチマのマリア様は、この私たちの公教会の受難についてのビジョンをシスタールチアに見せました。それは多くの司教様や司祭が、或いは信徒の方々が次々と亡くなって殉教していくビジョンでした。何か私たちの二十一世紀のこの平和な時代からはとても考えられないようなビジョンですけれども、しかしこれが本当になる危険があります。もしも教会が、イエズス様のこの御変容のその確固とした「イエズス・キリストこそが天主の御子であり、聖三位一体の御子であり、真の天主である。このイエズス・キリストの神秘体がカトリック教会である」という事を忘れ去ったときには、このビジョンが実現する危険があります、その虞(おそれ)があります。
そこでそのマリア様に、聖母の汚れ無き御心に私たちは馳せ寄る事に致しましょう。このどのような事があってもマリア様がイエズス様の御神性を、イエズス様が天主であるという事を決して疑った事がないように、捨てた事がないように、十字架の下に固く立ち留まったように、全てをご自分の御心の中に入れて思い巡らしておられたように、私たちもイエズス様の御変容、御神性を、決して捨て去る事がないように、またマリア様と共にイエズス様の下さる、イエズス様が御恵みを下さっているミサ聖祭に、十字架の秘跡で十字架の生贄であるミサ聖祭に留まる事ができますように、聖伝のミサに留まる事ができますように、この世のリベラリズム、或いはその他の間違った誤りの中に、マリア様の御助けによってファチマの光によって、正しい道が照らし出しますように。
マリア様は言いました、「私の汚れ無き御心はあなたの避難所となり、天主に導く道となるでしょう。私は決してあなたを捨てる事はありません」と。マリア様の汚れ無き御心にひたすら寄り添って、その信心をますます実践する事に致しましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、
2016年8月6日(初土)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2016年8月6日 初土曜日 私たちの主イエズス・キリストの御変容のミサ
小野田神父説教
小野田神父説教
聖母の汚れ無き御心聖堂にようこそ。今日は2016年8月6日、イエズス・キリストの御変容の祝日です。今日は8月の初土曜日です。どうぞ今日はこの初土の信心をなさって下さい。5回の毎月続けての御聖体拝領と、告解と、それからマリア様と15分間一緒に居りロザリオの黙想を15玄義の何かをする事、ロザリオを唱える事です。これらをマリア様の汚れ無き御心に対して犯される罪を償う為になさって下さい。
8月15日からはフェレー司教様がロザリオの十字軍を起動させます。特に聖母の汚れ無き御心の信心の確立の為に、マリア様の汚れ無き御心の凱旋の為に、教皇様がカトリックの全ての司教様と一緒にロシアをマリア様の汚れ無き御心に奉献する為に、また聖ピオ十世会が特別に守られますように、との意向でロザリオの十字軍に参加なさって下さい。今回はファチマ100周年を控えているので、特別にマリア様にロザリオを1200万環、また小さな犠牲を5000万回捧げたいという意向を持っています。特にマリア様の汚れ無き御心に対する信心を確立する為にも、私たちはマリア様の汚れ無き御心に捧げられた聖堂に集う者ですから、初土の信心をよくなさるようになさって下さい。世界中で探しても、初土の信心ができるというチャペルはそんなに多くありません。どうぞこの特別のお恵みをぜひ利用して、これを与えられたこの機会を活用なさって下さい。もしも私たちがそれを利用すれば利用するほど、小さなものに忠実であればあるほど、より多くのものが与えられます。
今日はミサの後にいつもの通り公教要理をしたいのですけれども、特別の事情があってどうしてもこれをですね短くしなければなりません。そこで今日は20分間だけ「聖霊の実り」についてお話をしたいと思っています。どうぞお付き合い下されば幸いに思います。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日はイエズス様の御変容の大祝日です。御変容の時に一体何が起こったのか、それは何故イエズス様は何の為だったのか、何故それを弟子たちに御変容をお見せになったのか、では私たちに一体なぜ、カトリック教会は今日この御変容の祝日で私たちに何を準備させようとしてるのか、を黙想しましょう。この3つの点を黙想して、最後にイエズス様の御変容の祝日の良い遷善の決心を立てる事にします。
御変容の時に何が起こったのか、その最初のポイントは福音をお読みになれば明らかです。福音を読むと同時に聖ペトロが、目撃証人である聖ペトロが書簡の中で言っています、「私は作り話をしたのではない。確かにこの目で見た。この耳で聞いた。本当の事を語る。」
一体何があったかというと、イエズス様が3人の使徒たちを特別に選んで、12人の内の3人を選んで、ペトロ、ヤコボ、そのヤコボの兄弟のヨハネ、特別に選ばれた、教会の3つの柱のこの特別に連れて、この3人はゲッセマ二の園でも特別にイエズス様の近くに来るように命じられるその3人ですけれども、この3人はイエズス様の御受難の直前に、山に登って、これはタボル山と言われていますけれども、そこでその3人の弟子たちの前で他の弟子たちには見せなかった事を見せるのです。
それは何かというと、イエズス様の御顔が太陽のように燦然とこう輝きだし、イエズス様の本当の王の王である御稜威、その光を、その権威をお見せになったのです。そればかりではありません、服が真っ白く雪のように輝き出しました。昨日は雪の聖母の大聖堂の祝日で、マリア様が雪でご自分の場所を、自分の教会の頂きが奉献する事をお望みになった場所をお示しになりましたが、つまり「清い、汚れの無い場所がここだ」という事を雪で示しましたが、イエズス様は今日は雪のように真っ白な服を輝かせて、御自分の本当の清らかさと、自分のお持ちになっている天主の力をそのままを弟子たちに見せました。
そればかりではありません。旧約のその偉大なる、これを他にしてはもう右に出る者がいないと言われているモーゼ、律法を私たちに、それを通して伝えられたモーゼが現れて、イエズス様とお話をするのです。もう一方はエリヤが、預言者の代表エリヤがやって来て、イエズス様とお話をするのです。聖ルカの福音によれば、「御受難についての話をしていた」との事です。イエズス様のそのような2人の、モーゼは既に死んでいましたけれども、エリヤはまだ天に上られて、火の車で天に上ってまだ生きておられる、生ける人と死せる人とを裁く為に来たり給うイエズス様を証人する2人が、律法と預言者の代表がイエズス様の元に来て、「これこそ来たるべきメシアであり、救い主であり、贖い主である」という事を私たちに示そうと証人として現れます。
3人の弟子たちはそれを見ていると、あまりにも素晴らしいので、是非このここに、その3人にふさわしい幕屋を立てたいという事で、ペトロが、「ここに何か、素晴らしい幕屋をあなたにふさわしい場所を作りましょうか?」と言うと、突然天が、天の雲の中から御父の声が響き渡ったのです、「これは私の愛する子、私の喜びとする者である。彼の言う事を聞け。」天主御父が、「このイエズス・キリストこそが、真の御父の御子である、永遠から生まれた天主三位一体の御子である。始めもなく終わりもなく、創られない、父から生まれている、永遠の今において生まれている天主、生まれながらにして本性にして天主である御子である」という事を承認します。「彼の言う事を聞かなければならない、彼こそがお前たちに本当の事を、真理を、善を教える。彼の言う事を聞け」と。「そうすればお前たちも、この御子のように燦然と輝く天の遺産を受けるだろうし、また私の愛する子と養子相続する事ができる。だから彼の言う事を聞け。彼こそが真理の言葉を持っている」という事を御父が、「彼の言う事を聞け。この子の言う事を聞け。このイエズス・キリストの言う事を聞け」と命令するのです。
するとその声を聞いて、あまりにもその神々しいその荘厳な絶対の御父の声に恐れおののいて、「ははぁー!控え控えー!」という事を内の声で中からの声を聞いたのでしょうか。弟子たちは顔を平伏して、地に死んだように恐れおののいて地に伏せました。するとイエズス様が近づいて、「恐れるな。さぁ、怖がる事はない」と言う事で見ると弟子たちは、「もう既にイエズス様しかいなかった。普通の今まで通りのイエズス様を見た」という事です。
これは来たるべき御受難に備えて、イエズス・キリスト様がどのように裏切られようとも、どのように苦しみを受けられようとも、あたかもイエズス・キリストが天主の御子でないかのように見えたとしても、苦しみのあまり、血のあまり、傷にただれて、そのイエズス様の御姿が、もうメシアなのだろうか、天主の御子だろうかという事が見分けがつかなくなるほどになってしまうかもしれないとしても、しかしイエズス・キリストは永遠の御子であり、メシアであり、律法と預言者が期待していた、待ちに待っていたその御方である、という事を確固とさせる為でした。将来イエズス様に付き従う、イエズス様の声を聞く者に対して与えられるべき報いは、「イエズス様と同じ姿になる事である」という事を見せる為でした。
カトリック教会は今日私たちに、やはりそれと同じイエズス様の姿を見せ、私たちの信仰を固めようとします。私たちが信じているイエズス・キリストは、まさにこの御変容された、しかしそれを隠しておられるイエズス様です。隠しておられるのは、「私たちが信仰によって歩む事ができる為」です。「Mystici Corporis “ミスティチ コルポリス”」という回勅の中でピオ十二世教皇様は言っています、「教会はイエズス・キリストの神秘体である。しかしイエズス・キリストが私たちの信仰の徳を実践する機会を与える為に、時において私たちに、この私たちにとってこのキリストの神秘体が受難を受けている、苦しみを受けている事を示す場合がある」というような事を書いておられます。確かにピオ十二世教皇様が仰るとおりです。イエズス様の神秘体である教会は、花婿であるイエズス様に倣って、受難の道を辿らなければなりません。しかしこの教会の頭は、今日私たちにその姿をお見せになった「栄光の王イエズス・キリスト」です。御父がまさに「これの言う事を聞け、これ以外に真理の道はない」というイエズス・キリストです。
聖ペトロも今日書簡の中で、「私はこの目で見た。この耳で聞いた」と証人しています。
教会がどのようになったとしても、どのように受難な道を歩いたとしても、この創立者が頭が「イエズス・キリストである」という事をどうぞ確固として信じ、その信仰を固めて下さい。イエズス・キリスト様は十字架によってこの世を統治します。イエズス・キリスト様が私たちを贖うのは受難の道でした。イエズス・キリスト様が私たちにお恵みを与えようとするのは、その十字架の木を通してでした。「Regnavit a ligno Deus」と公教会がイエズス様に謳う通りです。
イエズス様は確かに、この御変容の後に弟子にユダに裏切られ、弟子たちからは捨てられてしまいました。ゲッセマ二の園では弟子たちは散り去ってしまいました。ポンシオ・ピラトはイエズス様に、「真理とは何か?」イエズス様は、「私は真理の為に証明する為に生まれて来た、やって来た」と言うのですけれども、ピラトは真理を信じようとしません、「真理とは何か?真理なんて何だ、何さ。」そればかりでなく、イエズス様とバラバのどちらを選ぶか国民投票させます。ピラトには「私たちが選ぶ事ができない、投票で決めるのではないものがある」という事を知らなかったようです。
イエズス様にピラトは聞きます、「お前はユダヤの王なのか?」
「お前の言う通りだ」と。
イエズス様はですから、十字架の上で「王」という罪を、実際にこの御変容でお見せになったこの本当の王であるにもかかわらず、そのそれであるという事で十字架の上ではその罪を、「王である」という事の為に十字架に付けられる事になりました。「ユダヤ人の王、ナザレトのイエズス」と。
公教会は今その2000年後、イエズス様の受難と同じようなものを辿りつつあるようです。何故かというと残念ながら、カトリック教会の本当ならばいつも十字架の下にいなければならない司祭たちは、聖伝のミサを捨ててお食事会に、新しいミサをするようになってしまっているからです。十字架の下に留まったのは、マリア様とヨハネだけであったように、聖伝のミサを守る者は、マリア様のすぐ傍にあったルフェーブル大司教様とほんの限られた司祭たちだけになってしまったからです。
ベネディクト十六世が、「教会が過去愛したものを、教会がいきなり禁止する事ができるはずがない。過去教会が愛したものを、私たちは今も愛し続けなければならない」と言っているにもかかわらず、しかしイエズス様の十字架は、「あぁ、」皆がそれを捨てたままになっているかのようです。
ピラトを代表するかのようにこの世は、或いは第二バチカン公会議は、「真理とは何か?」と疑問をかけているようです。
カトリック教会は言いました、「イエズス様こそが真の王であり、イエズス様の言う事を聞かなければならない。イエズス様こそが真理である。イエズス様を通らなければ誰も天の国に行く事はできない、救われる事はできない。彼の言う事を聞かなければならない。イエズス様は真理を証明する為に生まれてきたのであって、道・真理・命だ。」
ところが、「そうではない。私たちは真理であろうが誤謬であろうが、私たちは判断する事ができない。私たちは自由でなければならない。真理とか誤謬とかではなくて、自由が大切だ。それが信仰の自由であって、良心の自由だ。それが人間の尊厳だ」と。
ですから、イエズス様は「真理がお前たちを自由にする」と言ったにもかかわらず、「真理とは関係のない自由」を言っています。ちょうどピラトが「真理とは何か?」と聞いたかのようです。
そればかりではありません。イエズス様こそが王であるにもかかわらず、イエズス様の事を投票で決める事ができないはずにもかかわらず、多数決で、「イエズス様を王とするか王としないか、或いはイエズス様に従うか従わないかは多数決で決めれば、もしも他の宗教の方が多いならば、それに譲るべきだ」と言っているかのようです。
もしもイエズス・キリスト様が真の天主、真の王でなくて、イエズス様でなくても救霊ができるならば、一体なぜ宣教師は全てを捨ててイエズス・キリストの福音を伝えなければならないのでしょうか?なぜ青年たちや若い人たちは一生かけて生涯をかけて、イエズス・キリストに全生涯を青春をイエズス様に捧げなければならないのでしょうか?
他の宗教でも皆天国に行くのならば、一体イエズス・キリストに付き従ってどこが価値があるのでしょうか?
多数決で決める事ができるのならば、なぜイエズス様につかなければならないのでしょうか?
真理も誤謬もなくてただ自由だけが、人間の尊厳だけが大切ならば、なぜイエズス様の事をそうやって聞かなければならないのでしょうか?
多くの方がそうして混乱して、「もうそうであれば、イエズス様はいらない、カトリック教会もいらない」ものになってしまいます。
教会はですからそのリベラリズムによって、イエズス・キリスト様の御変容の論理的な結論を捨てる事によって、イエズス様が真の王であるという事を、イエズス様の言う事を聞かなければならないという事を捨てる事によって、この世の言う事を聞いてしまう事によって、今、受難の道に入っているかのようです。
では私たちはどのような決心を立てなければならないでしょうか?
ファチマのマリア様は、この私たちの公教会の受難についてのビジョンをシスタールチアに見せました。それは多くの司教様や司祭が、或いは信徒の方々が次々と亡くなって殉教していくビジョンでした。何か私たちの二十一世紀のこの平和な時代からはとても考えられないようなビジョンですけれども、しかしこれが本当になる危険があります。もしも教会が、イエズス様のこの御変容のその確固とした「イエズス・キリストこそが天主の御子であり、聖三位一体の御子であり、真の天主である。このイエズス・キリストの神秘体がカトリック教会である」という事を忘れ去ったときには、このビジョンが実現する危険があります、その虞(おそれ)があります。
そこでそのマリア様に、聖母の汚れ無き御心に私たちは馳せ寄る事に致しましょう。このどのような事があってもマリア様がイエズス様の御神性を、イエズス様が天主であるという事を決して疑った事がないように、捨てた事がないように、十字架の下に固く立ち留まったように、全てをご自分の御心の中に入れて思い巡らしておられたように、私たちもイエズス様の御変容、御神性を、決して捨て去る事がないように、またマリア様と共にイエズス様の下さる、イエズス様が御恵みを下さっているミサ聖祭に、十字架の秘跡で十字架の生贄であるミサ聖祭に留まる事ができますように、聖伝のミサに留まる事ができますように、この世のリベラリズム、或いはその他の間違った誤りの中に、マリア様の御助けによってファチマの光によって、正しい道が照らし出しますように。
マリア様は言いました、「私の汚れ無き御心はあなたの避難所となり、天主に導く道となるでしょう。私は決してあなたを捨てる事はありません」と。マリア様の汚れ無き御心にひたすら寄り添って、その信心をますます実践する事に致しましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。