Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

イエズス様の聖心がどれほど私たちを愛しているか?その愛の極みの発明とは?

2016年09月20日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2016年9月2日(初金)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


2016年9月2日 初金曜日 至聖なるイエズスの聖心の随意ミサ
小野田神父説教

聖母の汚れ無き御心教会にようこそ。今日は2016年9月2日、9月の初金でイエズス様の聖心の随意ミサをしております。

今日のこのミサの直後に、いつもの通り初金の聖時間を致しましょう。特に私たちの聖心に対して犯される罪を償う為に、聖時間をお捧げ致しましょう。

明日はここで10時半のミサがあります。明日は初土曜ですけれども、聖ピオ十世の大祝日で、聖ピオ十世会にとっては第1級の祝日、守護の聖人でとても大切な祝日です。どうぞいらして下さい。

9月のミサはイレギュラーになっています。9月8日から、来週の木・金・土と続けてミサが2回ずつあります。ティシエ・ド・マルレ司教様がはるばる日本にいらして下さいまして、司教様は木曜日のマリア様のお誕生日の御降誕のミサからして下さいます。

ミサは2回ずつ、16時半からと18時から。また金曜日も16時半からと18時から。そして土曜日には8時45分頃から第1回目のミサ、それから10時から堅振式。堅振式では大体4名ぐらいの方々が堅振を受ける予定です。そして10時半頃から歌ミサがあります。それから歌ミサが終わった直後に、司教様からの「ルフェーブル大司教様についてのお話」を是非お伺いしたいと思っています。皆さんがたくさんいらっしゃる事をお待ちしております。


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日は9月のイエズス様の聖心の初金ですから、イエズス様の聖心の愛について黙想致しましょう。

今日は、イエズス様の聖心がどれほど私たちを愛しているか、という事を黙想して、しかしこの聖心が愛されていない、天主様の愛が愛されていない、無視されている。そこで私たちは遷善の決心を立てる事に致しましょう。

特に今日はイエズス様の聖心が私たちをどれほど愛して下さっているか、そしてこの私たちを愛する為にどのような発明を、愛の発明をして下さったのか。その愛の深さについて黙想してみたいと思います。その愛の発明の極みは「御聖体」であり、「私たちにマリア様を下さった」という事です。そしてこのそれにもかかわらず、この愛の発明が全く無視されている、という現実を見て、私たちは遷善の決心を立てる事に致しましょう。

今日の聖パウロの書簡をご覧下さい。聖パウロは、長い書簡ですけれども、文章は実はラテン語では2つの文章しかないのです。聖パウロはもう言いたい事が山程あって、文法的にどこで終わったら良いかもう分からないほどでした。聖パウロは、「私たちがこの主の愛に根付いて、それに基礎付いて、そしてその広さと、その高さと、その深さと、その崇高さとを私たちが理解する事を望む。私たちがその主の愛のその素晴らしさを知る事ができるように」と、私たちがイエズス様の愛のその極みにまで入る事を訴えています。

聖ヨハネは今日の福音書の中で、イエズス様の聖心が貫かれるのを見た目撃証人です。その聖ヨハネは書簡の中でこう言います、「天主は愛である。私たちはその天主の愛を信じた。“Deus caritas est. Credidimus Caritati.”」(ヨハネの第一の手紙第4章16節)

このパウロの書簡と聖ヨハネの言葉を考えると私たちはどうしても、イエズス様の聖心の燃えるような私たちに対する愛を黙想せざるを得なくなります。

よく考えると人類の歴史というのは、創造の、天主が私たちの世界を創造されたその歴史というのは、愛の歴史であって、天主様が私たちに対する憐れみの歴史である、としか言う事ができません。私たちは天主様からのものすごい創造の業を受けました。太陽・月・星・動植物・大自然の、この美しい大自然の神秘、原子や分子や、或いはこの天のどこまで広がるか分からないような大宇宙の、美しい大宇宙。そればかりでありません。私たちを罪の無い状態に於いて創って下さり、天主の子供として創って下さり、「エデン」というのは楽園で、私たちが永遠に生きる事ができるように、幸せに生きる事ができるように、悲しみも、病気も、死も、怪我も無いように創って下さった。知恵も充満で、そして意志も強く、素晴らしく美しく創って下さった、原初の正義の状態に私たちを創って下さったという事を見ると、その天主様への愛の素晴らしさに何と感謝したらよいか分かりません。天使たち、何千何兆という天使たちを創って、その天使たちが人間に仕えるように命じられました。

そして更に、その天主の愛と憐れみが私たちに開かれるのは、私たちがそれほどの物凄いとてつもない幸せを受けておきながら、この地上で受けておいて、しかもそのこれの地上での幸せの後には、更にもっと無限の幸せが待っているだけだったのにもかかわらず、私たちはそのような天主に、「ノー!」と言って、その天主の計画を台無しにして、天主様の愛の計画を粉々に足蹴にして、天主を信じるよりは悪魔を信じて、そして私たちは天主からの天の遺産を、約束された遺産を受ける事ができなくなる身分になりました。それにもかかわらず、この私たちの背信と侮辱にもかかわらず、私たちを救おうと思われました。

なんと天主御子が、三位一体の第2のペルソナが、永遠に幸せな天主の御一人子が人間となって、私たちの為に人となって住もうと思ったのです。もちろん天主様は一言、「許してあげよう」と言えばそれで十分だったはずです。或いは単に、「お前たちを愛そう」と思えば、そのそうするだけで私たちの罪を赦す事もできたのですが、しかし天主はもっと、どれほど私たちの事を愛しているか、私たちにその天主の愛の極みを見せようと、目に見えない御自分の愛を見せようと、人となる事を望まれたのでした。

そればかりではありません。人となって私たちの為に御自分の天主の血潮を流して、苦しみと辱めのうちに、屈辱のうちに十字架の上に釘付けにされて、死を遂げる事を望みました。私たちを愛するが為に。私たちの罪を償うが為に。

そしてこの世の終わりまで御聖体の中に留まろうと思われました。聖マルガリタ・マリア・アラコックにイエズス様の聖心は現れた時に、御聖体の中で現れました。イエズス様の聖心は槍にて貫かされ、いけにえの状態で、犠牲をいけにえを捧げている状態でお現れになりました。そしてこれを御聖体の中で、御聖体といけにえが一致しているという事を見せようとしてお現れになりました。

そればかりではありません。このイエズス様はこの贖いの事業をもちろん御自分一人で、こう人となって贖いの事業をする事ができたはずです。しかし私たちへの、私たちを愛するがあまりに、私たちがもっとイエズス様、イエズス・キリストに簡単に近づく事ができるように、幼子として生まれる事をお望みになりました。そしてこの幼子を私たちが簡単に、イエズス様が簡単に手に取る事ができるように御母を、ある女性から生まれる事を御望みになりました。永遠の昔からの御計画によって、天主の御一人子は特別に選ばれた女性マリア様から、マリア様からのみお生まれになりたい、マリア様を通してお生まれになる事を、私たちに与えられる事をお望みなりました。これは私たちに対する愛の極み、愛の大傑作でした。

何故かというと、天主三位一体はアダムを創った時に、この「アダムが一人で、男が1人でいるのは良い事ではない。彼に似た助け手を私たちは創ろう」と言ったその影が、その前兆が、実現しなければならなかったからです。

第2のアダム、イエズス・キリストがこの世に来たる時には、「第2のアダムが一人で贖いの業をするのは良くない。彼にこれに似た助け手を与えよう。イエズス・キリストの聖心に似た助け手を与えよう。汚れ無き御心を与えよう」と思われたからでした。

聖ヨハネ・ユードの本を読んでいると、マリア様の、そのマリア様になされたその天主の偉大な業というのが分かります。

「天と地を創られた事は確かに偉大な業だ。無から有をこの創られたその天主の全能は偉大な事だ。でもアダムの孫娘の子孫であるマリア様を、その天主の御母として、そしてその御母から御自分が生まれるようになさったという事と比べたら、天地創造の大事業も全く何でもない」と言います。

「確かにイスラエルの時代にマンナで40年間、砂漠にさまようイスラエルの人たちは養われたけれども、天から降ったパンで養われたけれども、しかしマリア様を通して、天の天使たちのパンであるイエズス・キリストが人となって私たちに与えられた、という事に比べればその奇跡は何でもない。」

「イスラエルの人たちに約束の地が与えられたという事は素晴らしい事で、紅海を裸足で通って、この海が壁のようになった所を裸足で渡ったというものすごい奇跡があるけれども、でも大海のような天主が、小さなマリア様の、海の一滴のような水のようなマリア様の中に入ってしまった、という事から比べれば、海が2つに分かれたエジプト軍が全滅したなどは全く何でもない。」

「イエズス様がなさった、この目の見えない人が見えるようになって、聞こえない人が聞こえるようになって、死んでいた人が生き返った、という事もマリア様を通して天主が人となった、という事から比べれば何でもない。」

「モーゼが昔ナイル川で小さな、この葦の小さな舟でやって命が助けられたという大奇跡があったけれども、でもマリア様を通して天主が人となって、そして馬草桶に寝かされた、という事から比べれば何でもない。」

「モーゼは昔、燃える青々とした木が燃えているのを見たけれども、でも童貞が童貞女が天主の御母となった、という事から比べれば何でもない。」

「ヨシュエが太陽を止めた事、或いはエリヤが太陽を後ろに戻した事という奇跡があるけれどもそれも、正義の太陽であるイエズス様が、マリア様の御胎内の中で全く無のようになった、本当に小さい、小さな赤ちゃんに胎児になった、という事から比べれば何でもない。」

「全宇宙の神秘、そして旧約時代の全ての大奇跡なども、イエズス・キリスト様がイエズス様の聖心がマリア様になさった大奇跡、その業を見れば取るに足らない。マリア様にものすごい事を偉大な事をして、天主の御母とした、そしてそれをマリア様を助け手として贖いの事業をした、それは私たちのようなもう絶望に値するような、希望も無いような、或いはもうどうしようもない惨めな私たちに、特別の力のある母親が与えられる為である、憐れみの母が与えられる為である、私たちを助ける母親が与えられる為である、決して私たちを見捨てない母が与えられる為である。」

イエズス様の聖心はその愛のあまり、御自分の御母マリア様を私たちに、汚れ無き御心を私たちに与えようとされました。マリア様はイエズス様の聖心とそれほど一致して、それほど力強く、それほど素晴らしい方で、私たちに与えられましたけれども、それは私たちの心においてイエズス様の御国がやって来るように、イエズス様をますます知る事ができるように、イエズス様にますます信仰と礼拝が捧げられる為でした。私たちがますますイエズス・キリストのようになる為です。

しかし残念ながら、イエズス様のこの愛の広さと、深さと、崇高さその高さは知られていません。

100年前に天使が送られました、3人の子供たちに、ファチマに送られました。そして天使は御聖体を子供たちに見せて、「罪の為に傷付けられているこの御聖体を礼拝しなさい。主よ、私は御身を信じ、礼拝し、希望し、御身を愛します。私は御身を信じない人々、希望しない人々、礼拝しない人々、愛さない人々の代わりに罪の償いを捧げます」と礼拝して、天使たちが額ずいて礼拝していました、御聖体を礼拝していました。ファチマの100周年を迎える私たちの御聖堂にもマリア様は、天使たちを送って下さいました。私たちが目に見えるように二位の天使が来ましたけれども、でも本当は何千何万という天使たちが、御聖体の前で額を地に付けて礼拝しています。何故かというと礼拝する人がいないからです。イエズス様の愛が愛されていないからです。マリア様の愛が愛されていないからです。天使たちは模範を見せて子供たちを準備しました。マリア様が来られるのを準備されました。

マリア様はご自分の御心を見せて、イエズス様を愛するように、イエズス様へと導こう、と望んでいます。ですから今日この初金曜日に、イエズス様の聖心を心から礼拝致しましょう、心から讃美して、その愛の深さを理解する事ができるようにマリア様にお願い致しましょう。

今日の決心は、ますますマリア様を通して、マリア様の御恵みによって、イエズス様の聖心の愛の深さを知りそれを理解する、その御恵みを求める事です。そして御聖体に在すイエズス様を、ますます深く礼拝する事です、天使たちに倣う事です、マリア様に倣って礼拝する事です。この御恵みを今日はお祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


聖ピオ十世会日本のお説教・講話がここに掲載されています。

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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