アジアの無原罪の聖母の騎士への手紙第14号
*** 無原罪の聖母の騎士会祈りの十字軍の創設 ***
無原罪の聖母の騎士の皆さん。
聖マキシミリアノ・コルベは、「Rycerz Niepokalanej―無原罪の聖母の騎士」誌の最初の号から、仲間の騎士の意向のために毎日祈るよう、すべての騎士を招きました。聖コルベはまた、自分たちの祈りの依頼を本部に送るよう、騎士たちを招きました。その依頼の中で最も重要なものは、聖コルベが「聖母の騎士」誌に掲載することさえしました。
この使徒職の効果は予想外のものでした。聖コルベが受け取った、依頼が奇跡的にかなえられたという感謝の手紙の数はどんどん増えてゆきました。そこで聖コルベは、雑誌の中で、「無原罪の聖母への感謝」というタイトルの特別ページを捧げることを決めました。このページには、非常に小さな文字で次のような百から二百の証言がありました。「ありがとう、親愛なる聖母の騎士の皆さん、死にかけていた息子が、祈りを依頼してちょうど九日後に奇跡的に回復しました」「ありがとうございます、無原罪の聖母、あなたの騎士たちの祈りによって、私は自分の召命を見いだしました」「〇〇地区の騎士の皆さんに特別に感謝します。閉校されそうだったカトリックの学校が救われました。そうなっていたら、私たちの多くの子どもたちにとって損害でした」。
六カ月後、編集者(聖コルベ)はもう一ページ増やさざるを得ませんでした。「聖母の騎士」誌の部数が八十万部という記録に到達したときには、いただいた恩寵が多く、月に七百から八百の感謝の言葉を掲載するために四ページを捧げました。これはつまり、騎士たちの祈りのお蔭で実現した天からの明らかな介入に感謝するため、毎年一万人ほどの人々が手紙を編集部へ送っていたということです。しかし、恩寵を受けた人たちのうちで、感謝の手紙を書かなかった人たちは、さらにどれほど多かったことでしょうか?
これは、私たちにとって重要な教訓です。聖母は常に私たちの祈りを聞いておられます(その祈りが良い意向で良く唱えられたらの話です。この面についての公教要理を読んでください!)。ですから、私たちが真面目に絶え間なく聖母に願うなら、聖母は奇跡的な答えさえもお使いになって、私たちを驚かせてくださるでしょう。私たちの祈りに対して、そんな予期せぬ実があるのはなぜでしょうか? それは、聖母が寛大な霊魂を愛しておられるからです。私たちが聖母のお求めに対して寛大であればあるほど、聖母も私たちに対して寛大になられるでしょう。聖母の寛大さが、私たちの寛大さよりも数千倍、百万倍なのは間違いありません。
しかし、それ以外にも、もう一つのさらに深い理由があります。それは、私たちに聖母の騎士会の本質を理解させてくれるということです。つまり、騎士会が、聖母の道具を通して、聖母の道具によって実現する、この世における無原罪の聖母ご自身の勝利の存在であるということです。無原罪の聖母の騎士会(M.I.)は、すべての恩寵の仲介者のご活躍の体現なのです。聖母は、ご自分の失われた子どもたちを正しい道に連れていき、回心と聖化という恩寵を彼らの霊魂に注ぎ込もうと望んでおられます。これが、聖母が天主なる御子から、御子が十字架上で亡くなろうとされているときに受けられた使命です。しかし、これらの霊魂にあふれるほどの恩寵を流し込むことのできる道具、経路がなければ、聖母がその使命を果たされることは不可能なのです。
皆さんは聖母の騎士会への入会によって、そのような道具である聖母の騎士になっています! しかし、皆さんが聖母の道具であるのは、皆さんが「罪びとや離教者、異端者、そして特にフリーメーソンらの回心のために努力する」というまさにその目標をもって行動するときだけです。それはこんな場合です。皆さんが彼らの救いのために何かをするとき、不思議のメダイを配るとき、良き模範を示すとき、特にその意向で自分の苦しみと犠牲を捧げるとき、しかし何よりも祈るときです。
聖マキシミリアノ・コルベは何回も強く述べています。MIの普遍的かつ第一の手段は祈り、具体的には使徒的な祈りです。「無原罪の聖母の騎士の目標は、世界中の霊魂の回心、無原罪の聖母の勝利です。しかし、外的な活動や事業をすべてもってしても、それが天主の恩寵によるみわざによらなければ、一人の霊魂さえも回心させることはできません」。
自由な人間の中の使徒職は、意志を、おそらく悪しきものであろうその意志を、善きものに向けることから成っています。そうすれば、天主から遠く離れていたり、天主の敵でさえあったりする人が、天主の方へ引き寄せられ、天主の友となるかもしれません。そして天主は、この任務を、無原罪の聖母を通して騎士たちに割り当てられます。彼らが霊魂の救済へ向かい、キリストの王国の宣教者となるように。人々が地獄の火から引き離されるかどうか、どれほど多くの霊魂がそうなるかどうかは、騎士たちにかかっているのです。しかしながら、これがすべての恩寵のうちで最も大きなものです。どのようにすれば、騎士は天からこの恩寵を引き出せるのでしょうか? それは、主に祈りによってです。
「祈りと苦しみによって、私たちは多くの恩寵を獲得することができます。外的な活動は、恩寵を得るための道を準備しますが、それ自体によって恩寵を提供することはできません。天主のご意志に確実に対応する一つの祈りがあります。すなわち、自分自身の聖化と隣人の聖化の依頼です。無原罪の聖母がすべての霊魂を勝ち取られるように私たちが祈るとき、それは確実に天主のご意志です。この意向のために私たちは、聖母が世を征服されるよう、私たちのすべての努力、困難、苦しみを無原罪の聖母に捧げることができるのです。
ナポレオンはかつて、戦いに勝つのに何が必要とされるのかと尋ねられました。彼は答えました。「三つのものが必要だ。お金、お金、そしてさらなるお金だ」。
霊魂を聖化するという問題のときも、まさにそうです。必要なのは祈り、祈り、そしてさらなる祈りです。祈りが不足していれば、霊魂は弱まります。人は恩寵の宝蔵から恩寵を引き出せば引き出すほど、それを宝蔵から得ることになるでしょう。祈りは最も誤解されやすいものですが、霊魂たちに平安を回復させ、幸せにし、天主の愛に近づけるための最も強力な手段です。祈りは世を新たにします。祈りは、すべての霊魂の再生と命に必要不可欠です。修道院の壁の外に一度も出たことがないにもかかわらず、祈りによって、[リジューの]聖テレジアはすべての宣教者の保護聖人になりました。
私たちもまたそのように祈ることを望みます。よく祈り、多く祈り、口によって祈り、心によって祈ることです。そうするならば私たちは、無原罪の聖母がどれほど強く私たちの霊魂を支配されるのか、私たちがどれほどもっと完全に聖母のものになるのか、どれほど罪が消えて過ちが少なくなるのか、どれほど優しく力強く天主の近くに引き寄せられているのかを、個人的に経験することになるでしょう。外的な活動はよいものですが、それが二次的なものであることは言うまでもなく、内的な生活に比べれば、黙想や祈りの生活に比べれば、天主への個人的な愛の生活に比べれば、二次的なもの以下に過ぎないのです。私たちが天主の愛でもっともっと燃える限り、この愛で他人の心を燃え立たせることができるでしょう。天主のために霊魂を勝ち取ることは、大変困難な仕事です。人間的な方法ではしばしば失敗するものです。実りのない会話や議論、砂の中にしたたり落ちてなくなってしまう事業、無駄に印刷される出版物、といったものです。しかし、祈りは決して失望させません!
「働いているとき心から出てくる小さなため息は、最高の祈りです。なぜなら、それは私たちを何度も何度も、更に強く無原罪の聖母と一致させ、聖母の道具である私たちと聖母の御手をつなぎ、それによって、私たちは多くの恩寵を受けるからです。生活の中で何か悪い状況になるとき、騎士が敵に敗れたり勝利を得られなかったりしたとき、まず自問すべきです。私たちは十分に祈っただろうか? 私たちの一人一人が、本当にこの問題について祈っただろうか? 私たちは、事業のすべての効果を外的な行動の中に見るという行動主義の危険から自らを守らなければなりません。こういう外的な行動だけに力を費やす騎士は、自らを実りのないものにしたり、自らを大きな欺きに陥らせたりするという大変危険な状態にいるのです」
伝統を厳守する無原罪の聖母の騎士会を再創設したあと、ようやく2012年になって、私はこの祈りの使徒職を始めたいというポーランドの何人かの騎士の依頼に答えて、事務局が提示した意向でロザリオ一連とメモラーレを唱えることに賛同した騎士たちの特別なリストをつくりました。一カ月後には、この使徒職に五十人の騎士を獲得し、一年後にはほぼ百人がいました。その理由は?
三カ月後には、上で述べたのと同じような「感謝」のページを私たちの情報誌に載せなければなりませんでした。その効果は、まったく圧倒的でした。無原罪の聖母が、愛する騎士たちに恩寵を注ぎ込もうと、まさにこの使徒職を待っておられたとは、私はまったく想像することもできませんでした。
そのため、私はアジアで同じような使徒職を始めようと決めました。
これは、皆さんが書き送ることのできる特別なメールアドレスです。
prayer@militia-immaculatae.asia
1)無原罪の聖母の騎士―祈りの十字軍(M.I.—PRAYER CRUSADE)に参加したいということを書いてください。そのために、
毎日少なくともロザリオ一連とM.I.の祈り
「ああ原罪なくして宿り給いし聖マリアよ、御身に依り頼み奉るわれらのために祈り給え。また御身に依り頼まざるすべての人々、特にフリーメーソン会員のため、また御身に委ねられ奉りしすべての人々のために祈り給え」と、聖ベルナルドのメモラーレ
「慈悲深き童貞マリア、御保護によりすがりて御助けを求め、あえて御取次ぎを願える者、一人として棄てられしこと、いにしえより今に至るまで、世に聞こえざるを思い給え。ああ童貞中の童貞なる御母、我これによりて頼もしく思いて走せ来り、罪人の身をもって御前になげき奉る。ああ御言葉の御母、わが祈りを軽んじ給わず、御憐れみをたれてこれを聴き給え。これを聴き容れ給え。アーメン。」を唱えるという約束をしてください。
注意 どのような理由であれ、皆さんがこのロザリオ一連を祈らないとしても(忘れたり、時間がなかったり、病気になったりで)、皆さんは罪を犯すのではありません。しかし、その場合でも翌日にロザリオ二連を唱えるのは良いことです。この一連の意向は、下記の祈りの依頼全部のために祈ることです。
a)無原罪の聖母の騎士―祈りの十字軍に参加する騎士からの祈りの依頼
b)M.I.のモデレーターからの祈りの依頼
2)皆さんが望むだけいくつでも、望むだけ何回でも、祈りの依頼を送ってください! 事務局は、無原罪の聖母の騎士―祈りの十字軍に参加している騎士全員に、この依頼をそのまま転送します(例外として、皆さんの依頼が教会の掟に適切でない場合は、修正するよう送り返されます)。
注意 皆さんの祈りの依頼が、仲間の騎士たちに具体的に送られるか、または一般的な内容(例えば、「自分の家族たちの回心のために、二十人の騎士たちが祈りを依頼している」など)で送られるか、については、事務局が決定します。自分の依頼が公表されることを望まない場合は、メールの中でそれを述べてください。
3)祈りがかなえられたなら、感謝の言葉を送ってくださるよう強くお勧めします。
無原罪の聖母の騎士―祈りの十字軍に、皆さん全員をお招きします。想像してみてください。一万人の騎士たちが毎日ロザリオ一連を祈り、そうすると、二千環のロザリオが騎士たちの意向で毎日唱えられることになるのです。それに加えて、皆さんは聖母の特別な使徒職を毎日行ったことになるのです。
いつも覚えていてください。自分のために真剣に祈れば、恩寵を受けるでしょう。
他人のために祈れば、二倍の恩寵を受けるでしょう。
カール・シュテーリン神父
2016年4月5日、マニラにて。
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ファチマ2017に向けて(第6部)
*** 1917年5月13日(2)―私たちの中の無原罪の聖母 ***
「おおマリアよ、あなたはすべて美しい」と、私たちの典礼は歌います。これはまた、ヤシンタが天からの幻視を黙想したあと、繰り返していたものでもありました。「おお何と美しいお方、おお何と美しいお方」。そのお姿があまりに美しいため、ご出現についてのあらゆる絵、あらゆる像にヤシンタはがっかりします。「実際の聖母がどんな方なのか、描写するのは不可能です。この地上の言葉で聖母のことを説明することさえできません」。
疑いなく、ファチマの子どもたちは、(ルルドの聖ベルナデッタ、パリの聖カタリナ・ラブレ、ラ・サレットのメラニーとマクシマンと同じように)無原罪の童貞、天と地の元后の栄光のお姿を、聖母が天に上げられたその御体を見るという特権を持っていました。子どもたちが見たマリアは、聖母の天主なる御子のそばに今も、そして永遠に座しておられるお姿です!
聖母を黙想すること、ルチアが詳しく述べたような様々な幻視者にご出現になった御姿の聖母を黙想することは価値あることです。そうすれば、私たちが、以前にも増して聖母に近づき、聖母をお愛しするのに助けとなるでしょう。
1)以前のルルドと同じように、ファチマでも、聖母は非常に若いお姿に見え、ルチアは15歳くらいだった、と言いました。
この驚くべき若さは、聖母の神秘のうち一つの面を思い出させます。私たちが子どもや若い人を見るなら、しばしば彼らの両親のことを考えます。マリア様の若さは、マリア様が「天の御父の永遠の娘」であることを、私たちに思い出させてくれます。この面は、私たちに、聖母の源、聖母の創造、聖母の誕生の日、そして何より聖母の御宿り、聖母の無原罪の御宿りについて考えさせます。聖母は、「いとも聖なる三位一体のふところ」から出た天主の光の最深部から来られるのであり、聖母は常に新たに天主の力と光と美を受けておられるのです。
「若いこと」は純粋さと美を意味しています―無原罪の聖母です! マリア様は常に霊魂と心と体が新たになっておられるのです。なぜなら、天主の光と命で満ちておられるからです。私たちはたびたび、この永遠の美に、天主の御業の傑作に、天主ご自身の永遠の光を映す生ける鏡、生ける像に目を上げるべきです。
2)再びルルドと同じように、(ファチマでも、)聖母は背丈が非常に小さく、5フィート(約150センチ)もないように見えた、とルチアは言いました。
この小さいこともまた意味を持っており、私たちに何かを語っています。聖務日課において、私たちは聖母について歌います。「私が小さな子どもだったとき、いと高き御者をお喜ばせし、私の胎内で人となった天主を生んだ」。天主の御前では、聖母は小さきものであるのを望んでおられ、できれば完全に消え去るほど小さきものであることを望んでおられます。これが聖母の謙遜であり、天主はこの謙遜に非常に引きつけられて、聖母を天主の御母となるよう選ばれたのです。
「大きく」なりたがり、目立ちたがり、有名になりたがり、高い評価を受けたがり、感謝されたがり、「消え去る」ことなど耐えられない私たちとは、何という違いでしょうか! しかし、聖性への道は、ここにあります。小さきものとなり、天主に栄光が与えられるよう、消え去ってしまいたいと望むことなのです。
3)もう一つ細かい点があります:聖母は三人の子どもたちに非常に接近なさいました。
足台として、聖母は高さ1メートルほどの小さなトキワガシの木をお選びになりました。「私たちは大変近くにいたため、自分たちが聖母の周りにある光、というか聖母から出てくる光の中にいて、聖母からおおよそ1メートル半ほどのところにいることに気づきました」。聖母は常に子どもたちを見ておられます。「聖母のお声は優しくて心地よいものでした」。本当に愛していれば、私たちはその愛する人たちに近づきたいと思いませんか? そして、その人たちを愛すれば愛するほど、私たちはその人たちにもっと近づきたいものです! また、私たちが愛する人たちのところにいるとき、親しみと愛の雰囲気を乱すようなことを話したり、そのような振る舞いをしたりしないよう気を付けます。まさにこのことがファチマで起こりました。しかし注意してください! 私たちに近づいてくるのは聖母であり、聖母は私たちを大変大変愛しておられるのです。聖母がどれほど私たちに、私たちの心に、私たちの人生の各瞬間に近づきたいと望んでおられるのかを理解し、認識することは、私たちの人生にとって最も大きな利益の一つとなるでしょう。
4)「ERA DE LUZ(光の時代)」:
しかし、聖母のお姿を描写した最も重要な言葉は、「太陽より明るい光」です。ルチアはしばしば、「私たちは、白い服を着て、太陽よりも光輝く婦人を見ました」と証言しており、その光は非常にきらきら光っていたため、彼らはまぶしく思いました。「婦人は光の真ん中に来ました。今度も、私たちは(まぶしくて)目が見えませんでした。ときどき私は目を手でこすらなければなりませんでした」。
要するに、それは栄光の輝きに満ちた聖母の復活した御体だったのであり、そのお姿でコヴァ・ダ・イリヤにご出現になったのです。この聖母の御体は、ご変容のときのイエズスの御体と似ています。「顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」(マテオ17章2節)。黙示録の最初に出てくる栄光のキリストの素晴らしい示現において、イエズスは「顔は照りわたる太陽のようであった人の子のような者として」(黙示録1章16節)ご出現になります。主はダマスコへの道でサウロを地面に倒れさせられたとき、それも同じ光の中で起こりました。「真昼ごろ、私と一緒にいた人々の回りに、太陽よりも輝かしい光が天から下るのが見えました」(使徒行録26章13節)。この光は大変強かったため、サウロは視力を失いました。
太陽は、イエズスとマリアの復活の御体が発する天主の御光の象徴にしかすぎません。こういうわけで、童貞聖マリアは、雅歌の中に出てくる花嫁のように「月のように美しく、太陽のように輝き」(雅歌6章10節)、また黙示録の婦人のように「太陽に包まれた婦人」(黙示録12章1節)として、ファチマでご出現になったのです。コヴァ・ダ・イリヤでのご出現によって、童貞聖マリアは、「正義の太陽」の御母として、被昇天以来、天主の御光をまとっておられると私たちに確信させてくださいます。被造物でありかつ全く人間のままでありながら、聖母は、いわば(天主のおられる)至高天にまで入られたのです。
5)栄光の体:
「光ですべてが輝いていた」にもかかわらず、それでも出現されたのは、本当の人間のように見え、言いようのない美しさでした。聖母の御体は、さまざまな「その言いようのない光でできた波」のようでした。聖母に祈るとき、私たちは時折、まず聖母に対する深い霊的な眼差しを持ち、そしてこの子どもたちが聖母をどのように見たのかを想像しようとすべきです。「無限の清らかさと繊細な輪郭を持つそのお顔は、太陽の光輪の中で輝いています。御目は黒く、御手は胸の上で合わせられています。右手から美しいロザリオが提げられていて、真珠のように輝く白い玉があり、一番下には銀の小さな十字架がついていて、きらめいていました。足は、低木の緑の枝の上の小さなアーミンの雲の上にやさしくおかれていました。衣服は雪のように白く、真っすぐ足まであります。(まるでマントのような)白いベールは、縁が細密に編まれた金で飾られ、頭、肩を覆い、衣と同じほど低くまで垂れて、御体全部を包んでいます」。
教会は、無原罪の御宿りの祝日にこう歌います。「霊魂は天主において喜べ。天主は私に救いの衣を着せ、宝石を纏った花嫁のように、私に正義の衣を着けさせ給うた」(入祭文)。聖母はこういう風にファチマでご出現にならなかったでしょうか? 並外れた特権の象徴である光の衣を着ておられ、この特権によって、他のだれよりも救いの恩寵を獲得なさるのです。なぜなら、御子の将来の功徳によって、聖母はあらゆる罪のけがれから守られたからです。白く輝くマントをまとわれて、金色のまばゆい光で輝く聖母は、より大いなる輝きの内に再び見いだされ、回復された原初の正義の象徴です。「主は私を正義の外套で覆われた」(イザヤ61章10節)。
さらに、シスター・ルチアは、聖母が「どのように宝石で飾られておられたか」を見たかも説明します。ルチアは特に、その宝石の中の一つを「光の球」のようだと語りますが、それ以上の説明はありません。ファチマの聖母は外見から、雅歌の花嫁や黙示録の女性と正確に理解され、同一視されることを望んでおられます。このご出現は、他のどの宗教とも違う、マリア様に関するカトリックの教理を目に見えるよう表現したものです。すなわちマリア様は無原罪の御宿りであり(雅歌の花嫁)、身体と霊魂とともに天に上げられた童貞であり(光)、すべての恩寵の仲介者であり、天と地の元后であって、龍の頭を砕くお方(黙示録の婦人)だということです。
まとめ:
ファチマは単に「メッセージ」であるだけでなく、私たちを圧倒する現実です。天の元后のここ地上でのご臨在です。そして聖母は私たちに近づき、私たちが聖母に近づくことを望まれます。私たちが心の中で聖母のことを思えば思うほど、光と威厳にあふれた、しかし謙遜と優雅にあふれたご出現における聖母のことを考えれば考えるほど、聖母が私たちを守り導き、誤謬と罪の危険から守ることがおできになります。ファチマの子どもたちの目で聖母を見つめるとき、私たちにできるのは、その示現に魅了され、非常に多くの光によって「盲目」になることだけです! ですから、この光の中で生きるなら、私たちは、この世の輝きで私たちを試みようとする偽りの光を簡単に見つけることができますから、もうそれに心を動かされることはないのです。
聖伝のM.I.(Militia Immaculatae 無原罪の聖母の騎士会)についてのまとめ