アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
2016年8月21日(主日)に東京で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
日本の聖なる殉教者巡回教会にようこそ。今日は2016年8月21日、聖霊降臨後第14主日のミサをしています。
今日14時半からいつものように公教要理の復習があります。今日は堅振の準備の為に、「聖霊の7つの賜物」と、それから聖霊が私たちに導いて下さる「至福八端」、7つの賜物と至福八端の関係について一緒に復習致しましょう。16時からは主日の第2晩課があります。
明日は、聖母マリア様の汚れ無き御心の祝日です。1962年の典礼暦によると、日本の第一級の主要の祝日で、日本の第一の守護者聖母マリア様の汚れ無き御心です。明日7時からミサがあります。ミサに与れないとしてもどうぞ、明日マリア様の為にたくさんお祈りをなさって下さい。
9月は少しイレギュラーなスケジュールで、9月4日の主日と11日の主日の、第1・第2主日にここでミサがあります。第2主日はティシェ・ド・マルレ司教様が日本にいらっしゃる為に、シカゴから直接日本にいらっしゃるので、少し予定が変更されなければなりませんでした。
フルーガー神父様から連絡があって、11月1日に日本に来るという事です。そこでここでミサをする事になりました。11月1日の午後18時頃、これは諸聖人の大祝日です。それから聖ピオ十世会の創立の記念日でもあります。11月2日の死者の日にはここで朝6時ごろから、朝のミサをお願いしようと思っています。
“Nemo potest duobus dominis servire.”
「誰も、2人の主人に仕える事はできない。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日私たちの主は、「2人の主人に仕える事はできない。天主に仕えて、それと同時にマンモンにも仕える事ができない」と仰って下さいました。そこで今日この、この言葉を一緒に黙想する事を提案します。では主に仕えるという事は、主に仕える事とマンモンに仕える事とはどう違うのか、2つの主人というのはどう違うのか、どのような仕え方が違っているのか。それで主に対する天主に対する仕え方と、それからマンモンに対するにどうやって奉仕するのか、その2つの違いを見てから、第3に、この私たちをそれをできないようにさせている、この主の言葉を、イエズス様の御言葉を暗に否定させるような罠が仕掛けられていると思われる、それをちょっと分析する事を提案します。それで最後に、私たちが今日取るべき遷善の決心を致しましょう。
イエズス様が仰ったのは非常に明快です。「天主に仕える」という事はつまり、「私たちが創造の目的を達成する」という事です。私たちは天主から創られた被造物ですから、私たちが私たちの与えられた秩序や、法則や、デザインや、目的を完璧に達成するような構造を見ると、どうしても私たちは被造物だと言わなければなりません。天主様によって創られました、創造されました。天主に仕えるという事は、私たちがその創られた創造の目的を達成する事です。これはどういう事かというと、「天主の命を得る」という事、「永遠の命に到達する」という事です。イエズス様は言いました、「永遠の命とは、それは御身、唯一の天主なる御身と、御身が遣わし給うたイエズス・キリストを知る事であります。」イエズス・キリストを知り、イエズス・キリストの命を生きるという事です。これが天主に仕えるという事で、つまり私たちは、「イエズス様と一体、イエズス様のようになる」という事が天主に仕えるという事です。イエズス様を通っていくという事です。イエズス様は言いました、「私は道であり、命であり、真理である。私を通らずには御父の元には行けない」と。
でもそれだけではありませんでした。イエズス様は、「もしも私の弟子になりたいのならば、自分を捨てて、日々自分の十字架をとって私に従え」と言いました。つまりイエズス様は、ただイエズス様の事を知ってそれだけで、そのイエズス様のように生活するだけではなくて、私たちも日々の十字架を取って、自分の欠点と自分の悪い傾向に対して戦って、私ではなくイエズス・キリストが、私たちの心を支配するように、私たちを統治するように、私たちを導くようにしなければならない、と教えています。
イエズス様は言いました、「狭い門から入れ。何故ならば滅びに導く道は広くその門は大きい。しかしそれを見つける人はたくさんいる。でも命へと通じる道は狭く、その門は狭い。それを見つける人は本当に少ない」と。イエズス様はまた別の所でもこう言いました、「正義と邪悪との間に一体どんな関係があるだろうか。」聖パウロは言いました、「光と闇の間には一体どんな一致があるだろうか。キリストとベリアルの間にはどんな関係があるだろうか。」イエズス様は、「そうではなくて、ベリアル、悪魔や闇ではなくて、光の方に来い」と言います。
イエズス様は自分の後に続くように招いています、「疲れた者や、重荷を負う者は私の元に行きなさい。私はあなたを回復させよう。私の荷は軽く、私は心の柔和謙遜な者であるから、私から学べ。私はあなたたちの霊魂を休ませよう。私のくびきは優しく、私の荷は軽い」と言われました。
では、「マンモンに仕える」という事はどういう事でしょうか?マンモンというのは、イエズス様の時代の言葉で「お金」の事で、「お金に仕える」という事です。
つまり、「全てお金で買える、良心も何かも全て努力しなくても、お金があれば何でも解決できる、お金が一番だ、主の天主の掟ではなくて、お金が全てを決定するのだ。お金があればそれで良いのだ」という考えです。
そのような考えは私たちに、「あぁ、そんなに十字架とか苦しい事は避けて、簡単な楽な、面白おかしくやっていれば良いのだ。みんながやっているからその通りに、みんなのやるようにすればよい。普通そうはしないよ、みんなこうしてるよ。ファッションはこうだ、今スカートはこういう風に短くなければならない。」或いは「髪の毛はこうやってパーマをかけなければならない、髪の毛の色はこうだ。」或いは「今は皆こうしている。今、携帯はこうで、コンピューターゲームはこれで、このゲームをみんながやっている」と言うのです。
でもこのそのような人たちが本当に幸せかというと、実はこの世で一番幸せで、この世で一番楽しそうに見える、この世の全ての喜びと楽しみを受けるような人たちを見ても、実は、そのような人たちの心の中では、失望があったりとか、不満があったり、憎しみがあったり、嫉妬があったり、妬みがあったり、怒りがあったり、野心があったり、恐れがあったり、結局何らかのそういう世間体とか、「他の人が何と言うか」とか、「みんなと同じようにしなければならない」とか、「自分の良心はこれで良いのだろうか」という恐れと奴隷状態にあります。
イエズス様は私たちにこう言います、「私はお前たちに平和を与える。私の与える平和はこの世が与えるような平和ではない。」イエズス様の精神に従う者だけに与える平和があります。
今日のミサ聖祭にあるイエズス様の与える平和と、この世が与える楽しみ、この世が与える肉の仕業という事について、聖パウロが詳しく書いています。聖パウロによれば、「聖霊の実りは12個ある」と言います。皆さんご存知の通り、「愛徳」それから「喜び」「平和」「忍耐」それから「堅忍」「親切心」、そして「善良さ」「柔和」と「誠実」「慎み深さ」に「貞潔」そして「節制」。このこれらはイエズス様の聖霊によって私たちに与えられる喜びです。この世が決して与える事ができないものです。
私たちはイエズス様の教えの通り、この世の精神とイエズス様の精神の2つの間に対立がある事を見ますが、第3の点は、実はこのイエズス様の教えの敵が、今21世紀には出てきました。昔は確かに2つの陣営があって、2つが「戦っている」と思っていましたが、今は「そうではない」と言います、罠が仕掛けられています。罠は2つのレベルがあります。1つは私たちの住んでいるこの世界全体が、「そういうイエズス様の話はもう、もう時代遅れだ。敵などいない、戦わなくてもいいんだ。」というレベルです。もう一つは、「私たちが『イエズス様の方に従っている』と思いつつも、実はこの世の精神に影響されてしまっている」という罠です。
ちょっとだけ分析すると、この世では、「もう真理とか誤謬とか、そういうものはもう分からないんだ。誰が真理を持っているのか、誰が間違っているか分からないんだ」とか、或いは、イエズス様の教えた真理、或いは私たちが持っている本当の事という事に対して、あまり本当の事を知っても感動されなくて、「あぁ、それもそうだ。だけどもそれが何だ」という無関心があります。
或いは非常に感動の無い、全てがもう平凡で、全てが何の意味も無いような事に成り下がってしまっているような態度があります。
それと同時に、「罪」について、或いは「誘惑」について、それに対して少し前でしたら、「あぁ!そのようなものは罪だ!それは悪だ!」として、敏感に反応したのも、「あぁ、えぇわえぇわ、まぁそれも、それがどこが悪いんだ。みんながやっているから。」罪に対しても鈍感に、眠ったようにさせるそのような雰囲気が全世界に広がっています。
「世論はそうだから」「国民投票で皆がそう言っているから。」これがこの世の世界で、私たちの心にもじわじわと影響していて、「もう敵は無いんだ、悪と戦う必要は無いんだ。正義とか真理を、イエズス様の信仰を守る必要はそんなに無いんだ」と私たちを眠るようにさせています。良心をますます鈍感にさせてしまっています。それが第一の危険です。
第二の危険は、私たちがともすると、「イエズス様の方に付いている」と言いながら、「イエズス様の精神である」と思いながら、実は世俗の、或いはこのマンモンの精神によって非常に影響されていた、という事があり得ます。例えばご利益、「私はこのイエズス様の信仰を信じるけれども、それはご利益の為だ」「交通安全の為だ」とか「試験の成功の、合格の為だ」とか、「家内繁盛の為だ」とか結局は何て言うんでしょうか、この世のマンモンの為に、イエズス様が道具とされてしまっている。本当は私たちがイエズス様のしもべとして、イエズス様に従う奉仕するのが、その逆転してしまっている、それは「イエズス様に従う」と言いながら実は、それが口実の、傲慢な信仰心となってしまっています。
或いは、「イエズス様に従う」と言いながら、月が満ち欠けがあるように、今日は従うけれども、明日は従わないし、三日月の時にはちょっとお祈りするけども、満月の時にはテレビを見る、或いは何もしない、といつもコロコロ変わるような、全然従うのか従わないのか分からないような事もあったり、或いは、他の人が見ていれば一生懸命お祈りするような仕草をするけれども、そうでなければ何をしているか分からない、偽善的な態度を取っているかもしれません。或いは私たちは、「この信仰、カトリックの信仰を守るんだ!」と言いつつも、実は日々お祈りもせずに自分の義務も果たさずに、自分の犠牲も果たさずに、インターネットに身を任せて、「あぁ、教皇様はこんなに悪い!」とか「司教様はこんな事を言った、これはけしからん!」などという事に、私たちの義務でもないような事に時間をかけて、自分の本当の義務をおろそかにしている、批判だけの信仰とか、或いはそのような、心から主を愛するが為に仕えるというよりは、単なる自分を満足させる為の信心に、或いは信仰になっているかもしれません。
では私たちはこのイエズス様の招きに従って、狭い道から入る、このイエズス様の天主に仕える為には一体どうしたら良いでしょうか?
そこで今回、マリア様にお祈り、マリア様の方に向かう事を提案します。何故かというとマリア様は、この最初にこの世に罪が入ったその最初の瞬間に、アダムとエヴァのその時から予言された方であるからです。天主は蛇に言いました、「私はお前とこの女との間に敵対を置く。お前の子孫とこの女の子孫との間に敵対を置く。」つまりイエズス様に仕える者と、この世に仕える者との代表が置かれたのです。マリア様は、絶対に主にイエズス・キリストにだけ仕える方であって、いかなる妥協も無い方です。ですからこそマリア様は、罪の汚れを一切知らない、無原罪の御宿りでした。マリア様はその生涯の全ての瞬間を、天主三位一体の為だけに生きたお方でした。この世の精神と悪魔を踏みにじった、このヘビを踵で踏み砕いた方でした。このマリア様が私たちの母として、女王として、私たちの避難所として、与えられています。
ファチマのマリア様は仰いました、「天主は、私の汚れ無き御心に対する信心を世界で確立する事を望んでいます。もしもそうする人がいれば、その人たちに私は救いを約束します。そのような人たちは私によって、天主の祭壇に飾られた綺麗な花のようになるでしょう。私の汚れ無き御心は、いかなる危険に対しても避難所となるでしょう。天国に導く道となるでしょう」と言われました。
主に仕える、2つの主人に仕える事はできない、唯一の主に仕える為には私たちは一番簡単な一番完璧な手段があります。マリア様の汚れ無き御心です。そこで、特に日本はマリア様の汚れ無き御心に捧げられた国ですから、是非マリア様の汚れ無き御心に行く事に致しましょう。マリア様の信心を汚れ無き御心をますます愛するようになさって下さい。
ではどうしたら良いのでしょうか?これを提案してこの話を終わります。マリア様の汚れ無き御心の信心をするというのは、私たちがいつも、何をするにも、「マリア様のお望みのような事は何ですか?」「マリア様の御旨は何ですか?」「マリア様、私が今これをする事をお望みですか?」とマリア様と、マリア様を通して、マリア様によって、全てをするという事です。朝起きる時にも、ベルが鳴ったらすぐに起きる。何かお父様やお母様から「こうして下さい」と言われたら、マリア様のお望みの通りにする。或いは、もしか何か悪い危険誘惑の時が来たら、マリア様のお望みの通り、誘惑を避ける、或いはその避ける力を願い求める、マリア様と共に生活する、という事です。この汚れ無き御心に対する信心を実践する為にもどうぞ、フェレー司教様が今提案している、起動している、ロザリオの十字軍にもどうぞ寛大に参加なさって下さい。沢山というよりは、高い質の愛の込もった、マリア様に対する愛の込もったものとなりますように、皆さんからの寛大な参加をお待ちしています。
“Nemo potest duobus dominis servire”
「誰も、2人の主人に仕える事はできない。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
聖ピオ十世会日本のお説教・講話がここに掲載されています。
愛する兄弟姉妹の皆様、
2016年8月21日(主日)に東京で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2016年8月21日 聖霊降臨後第14主日
小野田神父説教
小野田神父説教
日本の聖なる殉教者巡回教会にようこそ。今日は2016年8月21日、聖霊降臨後第14主日のミサをしています。
今日14時半からいつものように公教要理の復習があります。今日は堅振の準備の為に、「聖霊の7つの賜物」と、それから聖霊が私たちに導いて下さる「至福八端」、7つの賜物と至福八端の関係について一緒に復習致しましょう。16時からは主日の第2晩課があります。
明日は、聖母マリア様の汚れ無き御心の祝日です。1962年の典礼暦によると、日本の第一級の主要の祝日で、日本の第一の守護者聖母マリア様の汚れ無き御心です。明日7時からミサがあります。ミサに与れないとしてもどうぞ、明日マリア様の為にたくさんお祈りをなさって下さい。
9月は少しイレギュラーなスケジュールで、9月4日の主日と11日の主日の、第1・第2主日にここでミサがあります。第2主日はティシェ・ド・マルレ司教様が日本にいらっしゃる為に、シカゴから直接日本にいらっしゃるので、少し予定が変更されなければなりませんでした。
フルーガー神父様から連絡があって、11月1日に日本に来るという事です。そこでここでミサをする事になりました。11月1日の午後18時頃、これは諸聖人の大祝日です。それから聖ピオ十世会の創立の記念日でもあります。11月2日の死者の日にはここで朝6時ごろから、朝のミサをお願いしようと思っています。
“Nemo potest duobus dominis servire.”
「誰も、2人の主人に仕える事はできない。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日私たちの主は、「2人の主人に仕える事はできない。天主に仕えて、それと同時にマンモンにも仕える事ができない」と仰って下さいました。そこで今日この、この言葉を一緒に黙想する事を提案します。では主に仕えるという事は、主に仕える事とマンモンに仕える事とはどう違うのか、2つの主人というのはどう違うのか、どのような仕え方が違っているのか。それで主に対する天主に対する仕え方と、それからマンモンに対するにどうやって奉仕するのか、その2つの違いを見てから、第3に、この私たちをそれをできないようにさせている、この主の言葉を、イエズス様の御言葉を暗に否定させるような罠が仕掛けられていると思われる、それをちょっと分析する事を提案します。それで最後に、私たちが今日取るべき遷善の決心を致しましょう。
イエズス様が仰ったのは非常に明快です。「天主に仕える」という事はつまり、「私たちが創造の目的を達成する」という事です。私たちは天主から創られた被造物ですから、私たちが私たちの与えられた秩序や、法則や、デザインや、目的を完璧に達成するような構造を見ると、どうしても私たちは被造物だと言わなければなりません。天主様によって創られました、創造されました。天主に仕えるという事は、私たちがその創られた創造の目的を達成する事です。これはどういう事かというと、「天主の命を得る」という事、「永遠の命に到達する」という事です。イエズス様は言いました、「永遠の命とは、それは御身、唯一の天主なる御身と、御身が遣わし給うたイエズス・キリストを知る事であります。」イエズス・キリストを知り、イエズス・キリストの命を生きるという事です。これが天主に仕えるという事で、つまり私たちは、「イエズス様と一体、イエズス様のようになる」という事が天主に仕えるという事です。イエズス様を通っていくという事です。イエズス様は言いました、「私は道であり、命であり、真理である。私を通らずには御父の元には行けない」と。
でもそれだけではありませんでした。イエズス様は、「もしも私の弟子になりたいのならば、自分を捨てて、日々自分の十字架をとって私に従え」と言いました。つまりイエズス様は、ただイエズス様の事を知ってそれだけで、そのイエズス様のように生活するだけではなくて、私たちも日々の十字架を取って、自分の欠点と自分の悪い傾向に対して戦って、私ではなくイエズス・キリストが、私たちの心を支配するように、私たちを統治するように、私たちを導くようにしなければならない、と教えています。
イエズス様は言いました、「狭い門から入れ。何故ならば滅びに導く道は広くその門は大きい。しかしそれを見つける人はたくさんいる。でも命へと通じる道は狭く、その門は狭い。それを見つける人は本当に少ない」と。イエズス様はまた別の所でもこう言いました、「正義と邪悪との間に一体どんな関係があるだろうか。」聖パウロは言いました、「光と闇の間には一体どんな一致があるだろうか。キリストとベリアルの間にはどんな関係があるだろうか。」イエズス様は、「そうではなくて、ベリアル、悪魔や闇ではなくて、光の方に来い」と言います。
イエズス様は自分の後に続くように招いています、「疲れた者や、重荷を負う者は私の元に行きなさい。私はあなたを回復させよう。私の荷は軽く、私は心の柔和謙遜な者であるから、私から学べ。私はあなたたちの霊魂を休ませよう。私のくびきは優しく、私の荷は軽い」と言われました。
では、「マンモンに仕える」という事はどういう事でしょうか?マンモンというのは、イエズス様の時代の言葉で「お金」の事で、「お金に仕える」という事です。
つまり、「全てお金で買える、良心も何かも全て努力しなくても、お金があれば何でも解決できる、お金が一番だ、主の天主の掟ではなくて、お金が全てを決定するのだ。お金があればそれで良いのだ」という考えです。
そのような考えは私たちに、「あぁ、そんなに十字架とか苦しい事は避けて、簡単な楽な、面白おかしくやっていれば良いのだ。みんながやっているからその通りに、みんなのやるようにすればよい。普通そうはしないよ、みんなこうしてるよ。ファッションはこうだ、今スカートはこういう風に短くなければならない。」或いは「髪の毛はこうやってパーマをかけなければならない、髪の毛の色はこうだ。」或いは「今は皆こうしている。今、携帯はこうで、コンピューターゲームはこれで、このゲームをみんながやっている」と言うのです。
でもこのそのような人たちが本当に幸せかというと、実はこの世で一番幸せで、この世で一番楽しそうに見える、この世の全ての喜びと楽しみを受けるような人たちを見ても、実は、そのような人たちの心の中では、失望があったりとか、不満があったり、憎しみがあったり、嫉妬があったり、妬みがあったり、怒りがあったり、野心があったり、恐れがあったり、結局何らかのそういう世間体とか、「他の人が何と言うか」とか、「みんなと同じようにしなければならない」とか、「自分の良心はこれで良いのだろうか」という恐れと奴隷状態にあります。
イエズス様は私たちにこう言います、「私はお前たちに平和を与える。私の与える平和はこの世が与えるような平和ではない。」イエズス様の精神に従う者だけに与える平和があります。
今日のミサ聖祭にあるイエズス様の与える平和と、この世が与える楽しみ、この世が与える肉の仕業という事について、聖パウロが詳しく書いています。聖パウロによれば、「聖霊の実りは12個ある」と言います。皆さんご存知の通り、「愛徳」それから「喜び」「平和」「忍耐」それから「堅忍」「親切心」、そして「善良さ」「柔和」と「誠実」「慎み深さ」に「貞潔」そして「節制」。このこれらはイエズス様の聖霊によって私たちに与えられる喜びです。この世が決して与える事ができないものです。
私たちはイエズス様の教えの通り、この世の精神とイエズス様の精神の2つの間に対立がある事を見ますが、第3の点は、実はこのイエズス様の教えの敵が、今21世紀には出てきました。昔は確かに2つの陣営があって、2つが「戦っている」と思っていましたが、今は「そうではない」と言います、罠が仕掛けられています。罠は2つのレベルがあります。1つは私たちの住んでいるこの世界全体が、「そういうイエズス様の話はもう、もう時代遅れだ。敵などいない、戦わなくてもいいんだ。」というレベルです。もう一つは、「私たちが『イエズス様の方に従っている』と思いつつも、実はこの世の精神に影響されてしまっている」という罠です。
ちょっとだけ分析すると、この世では、「もう真理とか誤謬とか、そういうものはもう分からないんだ。誰が真理を持っているのか、誰が間違っているか分からないんだ」とか、或いは、イエズス様の教えた真理、或いは私たちが持っている本当の事という事に対して、あまり本当の事を知っても感動されなくて、「あぁ、それもそうだ。だけどもそれが何だ」という無関心があります。
或いは非常に感動の無い、全てがもう平凡で、全てが何の意味も無いような事に成り下がってしまっているような態度があります。
それと同時に、「罪」について、或いは「誘惑」について、それに対して少し前でしたら、「あぁ!そのようなものは罪だ!それは悪だ!」として、敏感に反応したのも、「あぁ、えぇわえぇわ、まぁそれも、それがどこが悪いんだ。みんながやっているから。」罪に対しても鈍感に、眠ったようにさせるそのような雰囲気が全世界に広がっています。
「世論はそうだから」「国民投票で皆がそう言っているから。」これがこの世の世界で、私たちの心にもじわじわと影響していて、「もう敵は無いんだ、悪と戦う必要は無いんだ。正義とか真理を、イエズス様の信仰を守る必要はそんなに無いんだ」と私たちを眠るようにさせています。良心をますます鈍感にさせてしまっています。それが第一の危険です。
第二の危険は、私たちがともすると、「イエズス様の方に付いている」と言いながら、「イエズス様の精神である」と思いながら、実は世俗の、或いはこのマンモンの精神によって非常に影響されていた、という事があり得ます。例えばご利益、「私はこのイエズス様の信仰を信じるけれども、それはご利益の為だ」「交通安全の為だ」とか「試験の成功の、合格の為だ」とか、「家内繁盛の為だ」とか結局は何て言うんでしょうか、この世のマンモンの為に、イエズス様が道具とされてしまっている。本当は私たちがイエズス様のしもべとして、イエズス様に従う奉仕するのが、その逆転してしまっている、それは「イエズス様に従う」と言いながら実は、それが口実の、傲慢な信仰心となってしまっています。
或いは、「イエズス様に従う」と言いながら、月が満ち欠けがあるように、今日は従うけれども、明日は従わないし、三日月の時にはちょっとお祈りするけども、満月の時にはテレビを見る、或いは何もしない、といつもコロコロ変わるような、全然従うのか従わないのか分からないような事もあったり、或いは、他の人が見ていれば一生懸命お祈りするような仕草をするけれども、そうでなければ何をしているか分からない、偽善的な態度を取っているかもしれません。或いは私たちは、「この信仰、カトリックの信仰を守るんだ!」と言いつつも、実は日々お祈りもせずに自分の義務も果たさずに、自分の犠牲も果たさずに、インターネットに身を任せて、「あぁ、教皇様はこんなに悪い!」とか「司教様はこんな事を言った、これはけしからん!」などという事に、私たちの義務でもないような事に時間をかけて、自分の本当の義務をおろそかにしている、批判だけの信仰とか、或いはそのような、心から主を愛するが為に仕えるというよりは、単なる自分を満足させる為の信心に、或いは信仰になっているかもしれません。
では私たちはこのイエズス様の招きに従って、狭い道から入る、このイエズス様の天主に仕える為には一体どうしたら良いでしょうか?
そこで今回、マリア様にお祈り、マリア様の方に向かう事を提案します。何故かというとマリア様は、この最初にこの世に罪が入ったその最初の瞬間に、アダムとエヴァのその時から予言された方であるからです。天主は蛇に言いました、「私はお前とこの女との間に敵対を置く。お前の子孫とこの女の子孫との間に敵対を置く。」つまりイエズス様に仕える者と、この世に仕える者との代表が置かれたのです。マリア様は、絶対に主にイエズス・キリストにだけ仕える方であって、いかなる妥協も無い方です。ですからこそマリア様は、罪の汚れを一切知らない、無原罪の御宿りでした。マリア様はその生涯の全ての瞬間を、天主三位一体の為だけに生きたお方でした。この世の精神と悪魔を踏みにじった、このヘビを踵で踏み砕いた方でした。このマリア様が私たちの母として、女王として、私たちの避難所として、与えられています。
ファチマのマリア様は仰いました、「天主は、私の汚れ無き御心に対する信心を世界で確立する事を望んでいます。もしもそうする人がいれば、その人たちに私は救いを約束します。そのような人たちは私によって、天主の祭壇に飾られた綺麗な花のようになるでしょう。私の汚れ無き御心は、いかなる危険に対しても避難所となるでしょう。天国に導く道となるでしょう」と言われました。
主に仕える、2つの主人に仕える事はできない、唯一の主に仕える為には私たちは一番簡単な一番完璧な手段があります。マリア様の汚れ無き御心です。そこで、特に日本はマリア様の汚れ無き御心に捧げられた国ですから、是非マリア様の汚れ無き御心に行く事に致しましょう。マリア様の信心を汚れ無き御心をますます愛するようになさって下さい。
ではどうしたら良いのでしょうか?これを提案してこの話を終わります。マリア様の汚れ無き御心の信心をするというのは、私たちがいつも、何をするにも、「マリア様のお望みのような事は何ですか?」「マリア様の御旨は何ですか?」「マリア様、私が今これをする事をお望みですか?」とマリア様と、マリア様を通して、マリア様によって、全てをするという事です。朝起きる時にも、ベルが鳴ったらすぐに起きる。何かお父様やお母様から「こうして下さい」と言われたら、マリア様のお望みの通りにする。或いは、もしか何か悪い危険誘惑の時が来たら、マリア様のお望みの通り、誘惑を避ける、或いはその避ける力を願い求める、マリア様と共に生活する、という事です。この汚れ無き御心に対する信心を実践する為にもどうぞ、フェレー司教様が今提案している、起動している、ロザリオの十字軍にもどうぞ寛大に参加なさって下さい。沢山というよりは、高い質の愛の込もった、マリア様に対する愛の込もったものとなりますように、皆さんからの寛大な参加をお待ちしています。
“Nemo potest duobus dominis servire”
「誰も、2人の主人に仕える事はできない。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
聖ピオ十世会日本のお説教・講話がここに掲載されています。
Unknown さん、
こんにちは!
コメントをありがとうございます。
私も、ロザリオ十字軍に参加すれば布教しないでいい、とは言ったことはありません。
祈りがなければ、布教は効果がないとは言ったことがあります。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)