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聖ピオ十世のモットー “Omnia instaurare in Christ per Mariam.” マリア様を通して、全てをキリストに於いて復興させる

2016年09月21日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2016年9月3日(初土)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2016年9月3日 初土曜日 教皇証聖者聖ピオ十世のミサ
小野田神父説教


聖母の汚れ無き御心聖堂にようこそ。今日は2016年9月3日、聖ピオ十世教皇様の祝日で、聖ピオ十世会の私たちの守護の聖人で、そして1級祝日を祝っております。

今日は9月の初土でもありますから、どうぞ今日は初土の信心をなさってこのミサを捧げて下さい。

このミサの後に公教要理があります。特に堅振を受けようという方の為にその準備があります。堅振を受けようという方は是非、今日の最終の公教要理に与って下さい。

次回は、ミサは来週の木・金・土とあります、来週の木・金・土はミサが2回ずつあって、ティシエ・ド・マルレ司教様の歌ミサと、私の読誦ミサがあります。是非、ティシエ・ド・マルレ司教様は日本に初めていらっしゃるという事で、歓迎の意味も含めてどうぞ皆さんいらして下さい。


“Instaurare Omnia in Christ.”

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日は聖ピオ十世教皇様の大祝日であって、聖ピオ十世会の守護の聖人ですから、特に4つのポイントを黙想する事を提案します。

1つは聖ピオ十世教皇様が主に何をなさったか、という事をざっと見て、

次に聖ピオ十世教皇様がその就任の、教皇聖座に教皇座に登位した、教皇様となった最初に、何をモットーとして、何を目指して、何が一番大切で、何をなさろうとしたのか、その確信のメッセージは何だったのか、

その次に、教皇様が第2の回勅として出したメッセージ「Ad Diem Illum」、マリア様の回勅で何を求めていたのか、

最後に第4番目には、私たちは聖ピオ十世教皇様の精神と、その事業と、その志をどうやって続けてやっていったら良いか、その決心を立てる事に致しましょう。

聖ピオ十世教皇様は、イタリアの農村のリエーゼという所で貧しい家族の中に生まれました。特に有名な話は、学校に行く時に裸足で行って、靴を担いで行った。何故かというと、靴が擦り切れるのを避ける為に、裸足で靴を担いで運んで行った。歩くのに、行き帰りに何時間もかかって行かなければなりませんでした。

聖ピオ十世教皇様、ヨゼフ・サルトは、司祭に叙階されて、主任司祭として、そして司教として、そして枢機卿として、遂には教皇様として、全ての教会の仕事を見てきた方でした。「自分はいつも貧しかったので、貧しく生き、貧しく死ぬ」という事を思っていました。ピオ十世教皇様が教皇様になったのは1903年の事でした。その教皇様にコンクラーベで選ばれた時には、本当はベネツィアの枢機卿としてベネツィアにすぐ帰ってくる予定だったので、「まさか自分が選ばれるとは」という事で、涙を流して、「お願いだからこれを受け受けたくない。その責任はとても私には果たしきれない」という事で泣いて泣いて泣いて、「これを何とかして、これを受けたくない」としたのですけども、皆から薦められて、「ぜひお前しかいやる人がいない」という事で、十字架として受けた。「十字架として受ける」と遂に決心しました。

教皇様となってから特に有名なのは、教会を、ローマの組織を改革したという事、聖務日課を改革した事です。司祭たちがどれほど聖務日課を大切にして祈るか、という事をよく知っていたので、それが司祭たちが一番唱えやすいように改革した、聖ピオ十世だからこそできた。また特にグレゴリオ聖歌を復興させた。子供たちに聖体拝領を、初聖体をもう早く、早い時期からする事ができるようにさせた事。ですから聖ピオ十世教皇様は、「御聖体の聖人」とも言われています。

ルフェーブル大司教様も私たち聖ピオ十世会の創立者も、聖ピオ十世教皇様のこの勅令によって子供の時からすぐに聖体拝領できるように、御聖体に対する愛を表す事ができました。聖ピオ十世教皇様に感謝の手紙を送った、という事も残されています。

聖ピオ十世は教会法も改革しました。今までは教会法というのは習慣法であって、昔の習慣はこうで、こうであって、1つに体系付けられていなかった事を1つにまとめました。

聖ピオ十世教皇様は教会の光として、特にカトリック教会の神学校、大学で、正しいカトリックの信仰が教えられるように近代主義を排斥しました。一番有名なのは「パッシェンディ」です。そして「反近代主義宣誓」というものを作って、「司祭になる者、或いは司教になる者、神学校で教える者、或いはカトリックの学校で教える者は必ず、この反近代主義宣誓を宣誓しなければならない」としました。

そして聖徳の香り高く、10年ほどの教皇様の仕事をした後に天に召されました。この短い間だったのですけれども、聖ピオ十世が教皇様であった時に教会はますます発展する事ができました。

ルフェーブル大司教様が私たちの修道会の創立者が、聖ピオ十世をこの保護者としたのは「なるほど」その訳があります。


では第2の点で、聖ピオ十世教皇様は教皇登位のその時に、一体何を自分はしようと、そして自分のモットーは何で、一番教皇の職として大切なものは何か、何だと言ったのでしょうか?

それは最初の回勅、1903年10月4日に出された“E Supremi Apostolatus”の中に書かれています。「この今人類は、」聖ピオ十世が今から100年以上前に話す事には、「今、全人類は非常に重大な病に犯されている。そしてこの病はますます日ごとに悪くなっているばかりだ、悪化するばかりだ。人類はこの病の為に、人類の滅亡にまで追いやられている。その危険にさらされている。この病の名前は、『天主からの背教』である。天主から離れている事である。ますますイエズス・キリストを打ち捨てて、天主の教えから離れている事である」と嘆きました。

そのこの病を癒す為に、聖ピオ十世教皇様は、「私の教皇となった時の願いは1つしかない。そしてこれはどのような政治的な圧力も、圧迫もあっても、私はこの願いとモットーはこれである。そしてもしも誰か私を、どのような圧迫や、脅迫や、或いは何か賄賂や、何とかで私をそれから外そうとしても、全く無駄である。私の利益は、天主の利益こそ私の利益だ。そして私が求める事は、『全てをキリストに於いて復興させる』事だ。私はその為に命をかける。」

つまり聖ピオ十世教皇様は、その当時から歌われていた、「Christus Vincit!Christus Regnat!Christus Imperat!」「キリストが勝利した!キリストが統治した!キリストが命令し給うた!」これを是非全世界に実行させて、そしてこの病から、背教の病から、人類の破滅の危機から救おうと思ったのでした。

聖ピオ十世はその最初の書簡の中でこう言います、「今全人類は平和を求めている、熱望している。しかし天主から遠ざかりつつ、天主を無視しつつ、天主をほっぽり出しながら平和をも探すのは全く愚かな事であって、無駄な事だ、馬鹿馬鹿しい。何故かというともしも天主が、この世の創造主であり、正義であり、真理である天主が、私たちの生活から排除されているならば、正義が排除される事であって、もしも正義が無いという事であれば、平和が無い事だ。何故ならば、イザヤの預言によると、『平和とは正義の業』だから。」「もしも天主を認めるならば、天主を認めるような組織があるならば、この組織こそが本当の平和を私たちにもたらす事ができる。天主のもとに戻る為には、私たちはキリストを通してでなければ戻る事ができない。だから全てをキリストに於いて復興させなければならない。」「全てをキリストのもとに復興させる為に一番大切なものは何か。それは司祭たちだ。それは聖職者だ。」

そこで聖ピオ十世は、この全ての兄弟の司教様たちに、「兄弟たちよ、尊敬する兄弟たちよ司教様たちよ。良き聖なる教義の、正しい教義を知っている非常にレベルの高い神学知識を持った司祭、のみならず、非常にレベルの高い聖徳の高い生活を以ってキリストを皆に示す事ができるような司祭を養成しなさい」と訴えました。ちょうど聖パウロが言ったように、「キリストの姿を映し出すように、私はその生みの苦しみを今感じている」と言ったように、「司祭たちの中にキリストの生きる姿を映し出しなさい」と聖ピオ十世は訴えました。「第2のキリストを生み出すように。そこで司教様たちにとって一番大切なのは神学校の運営であって、聖職者、聖なる学徳の高い司祭の養成である」としました。「聖徳の高い、聖なる多くの司祭を生み出してもらいたい。第2のキリストたちをたくさん生み出してもらいたい。そうする事によって、社会を全てキリストにおいて復興させる。」これが聖ピオ十世の求めていた事でした。

更に、「もしも今天主から背教しているとしたら、天主の教えから離れているとしたら、多くの場合それは悪意ではなくて『無知』からだ。宗教の、真の宗教、カトリック宗教への敵は、言うなれば無知こそが、知らない事こそが敵だ。だから多くの人がイエズス・キリストの教えをよく知る事ができるように助けてほしい。もしもそれができないならば、それは教えるべき人が教えないからだ。そこに問題がある。全ての人々の霊魂を天主に戻す為に、天主の教えを教えて欲しい。」

そして平信徒の人々には、「天主の掟と教会の掟を忠実に守る、それを忠実に遵守する事に根付いた行動を起こすように」と求めました。そして、「特に愛徳の掟と、信仰を表明するのに率直で、そしてオープンであって、自分にはこの自分の利益やこの世俗の利益を追求するよりも、イエズス・キリストの利益を追求するように」とお願いしました。

つまり聖ピオ十世教皇様にとっては、「イエズス・キリストこそが中心であって、イエズス・キリストに於いて生きる」という、「私たちにとって生きるというのはキリストである」という事こそが彼の霊性でした、霊的な精神でした。全てはイエズス・キリストの贖いの観点から、私たちが霊魂を救って、全てはキリストのもとに行く、という観点から考えられていました。「全ての人類がイエズス・キリストのもとに行く為に、私たちは皆キリストのようになる、キリストのようにさせる、私たちにおいてキリストを養成する姿を映し出させる。」これが聖ピオ十世の願いでした。

第3の点は、では第2の回勅に聖ピオ十世は何を言ったでしょうか?

「Ad Diem Illum」それはマリア様の無原罪の御宿りについてで、マリア様を通して、私たちをイエズス・キリストへと導こうと考えました。つまり「“Omnia instaurare in Christ per Mariam.”マリア様を通して、全てをキリストに於いて復興させる」これが聖ピオ十世のモットーでした。

聖ピオ十世教皇様はマリア様についてこう言います、「イエズス様は正義において完璧な、正義の要求する絶対的な権利として功徳を得た。しかしマリア様は、」この事をラテン語で“Condigno”と言いますが、「しかしマリア様は、イエズス様の助け手として伴侶として、贖いの伴侶として共贖者として、それにふさわしい“Congruo”の功徳を得た。マリア様はイエズス・キリスト様と共に贖いの業を果たした。だから私たちがイエズス・キリストのもとに行くには、必ずマリア様を通さなければならない。旧約の時代も、イエズス・キリストについては全てをマリア様を通して与えられている」と言いました。ですから聖ピオ十世は、「キリストのところに行く為に、必ずマリア様を通すように。マリア様に於いて、マリア様と共に行くように」と訴えました。


では私たちは何をどのような決心をしたら良いでしょうか。

私たちも聖ピオ十世教皇様の精神を今でも受け継いで、それを果たさなければなりません。聖ピオ十世教皇様は今現代に生きていたら、この病気について、人類の日々悪くなってる病気について何と嘆いた事でしょうか。「もう癌のようなこの病は体中に広まってしまって、もう死なんばかりとしているのではないかと思われる」と仰るかもしれません。しかし聖ピオ十世教皇様はそれでも決して絶望はしなかったでしょう。「全てをキリストに於いて復興させなければならない。人類がイエズス・キリストに戻るようにしなければならない。」おそらく聖ピオ十世教皇様は現代におられたら、ますますマリア様に行くように、私たちを促した事でしょう。「マリア様こそ私たちの唯一の希望だ。マリア様を通してこそ、私たちはイエズス様を受けたのだから。だからマリア様への信心をますます強めるように」と仰ったに違いありません。

聖ピオ十世教皇様は、初土の信心も、ファチマのマリア様の仰る前から既に仰っていました、「初土の御聖体拝領、初土の告解をするように。」そしてマリア様、ファチマのマリア様と聖ピオ十世教皇様はあたかも瓜二つであるかのようです。おそらく聖ピオ十世教皇様はもしも今生きていたら、今年ファチマの100周年を準備する為に、「これからロザリオの十字軍を起こしなさい」と教皇様として全世界に言っていたに違いありません。「ファチマのマリア様の100周年をよく準備するように」と心から訴えて、「人類がここで復活するかしないかは、これにかかっている」と訴えたに違いありません。「ファチマのマリア様のメッセージをよく聞くように。汚れ無き御心の信心を私たちが実践するように。初土の信心をするように。ロザリオを毎日唱えるように。犠牲を、マリア様の御心に対して犯される罪を償う為に祈りと犠牲を捧げるように」と訴えたに違いありません。全世界にご自分の声を放っていたに違いありません。もしも聖ピオ十世がこの現代に生きていたら必ずそうしたに違いありません。

ですからそれをそのような事を、聖ピオ十世の精神を知れば知るほど、その今なさるだろうような事を知れば知るほど、私たちはこの聖ピオ十世会が今皆さんに呼びかけているロザリオの十字軍、これにぜひ答えなければならない、と皆さん確信するに違いないと思います。まさに現代21世紀、2016年に生きている私たちが、日本に生きている私たちが、一番大切にされているこのカトリック教会で一番大切にされている事は、このメッセージだ、この実践だ、という事です。

そこで今日、聖ピオ十世教皇様の祝日を祝う事ができて、そのミサを捧げる事ができて、聖ピオ十世のこのモットーを私たちのモットーとする事ができるように、この聖人の執りなしを求めましょう。

聖ピオ十世の御取り次ぎによりて、私たちもファチマのマリア様のメッセージを聞く事ができますように、実践する事ができますように。そして聖ピオ十世教皇様がその御取り次ぎによって、私たちの修道会を聖ピオ十世会をいつも守り導いて、教会の復興の為にマリア様の道具として使って下さいますように。

聖ピオ十世教皇様が望まれるような事を私たちがいつもし続ける事ができるように、聖なる司祭を生み出す事ができますように、多くの聖なる司祭が生み出す事ができますように。そしてそれらを通して多くの聖なる修道者、そして多くの聖なる家族、そして聖なる社会が、キリストに立ち戻る社会が、全世界が平和の内にキリストに立ち戻る事ができますように、その御恵みを求めたいと思います。

“Instaurare Omnia in Christ.”

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


聖ピオ十世会日本のお説教・講話がここに掲載されています。

アジアの無原罪の聖母の騎士への手紙 第13号 ― ファチマでの聖母の最初の御出現

2016年09月21日 | M.I.(無原罪の聖...
アジアの無原罪の聖母の騎士への手紙第13号

*** ファチマでの聖母の最初の御出現 ***


親愛なる無原罪の聖母の騎士の皆さん!

私たちの主イエズス・キリストの御受難と御復活という偉大なる神秘が近づいているため、1917年5月13日のファチマでの聖母の最初の御出現のときの出来事、およびそれについての解説を、皆さんにお送りさせてください。これによって、無原罪の聖母のみ言葉とお望みを皆さんが黙想する助けとなるかもしれません。私はまた、皆さんにもっともっとファチマの使徒たるよう心に留めておいてくださることを、お願いしたいのです。ですから、皆さんが他の人々を聖母に引き寄せることができるよう、皆さんはファチマの出来事とその奥深い意味を、どちらもよく知らなければなりません。

この聖なる御受難節のための私の司祭としての祝福とともに。
カール・シュテーリン神父

1917年5月13日
ファチマでの聖母の最初の御出現

私たちが聖母の現存そのものに入り、また聖母が愛しておられる子供である私たちを救うためになさった称讃すべき御介入について黙想する前に、私たちはまずなによりも、私たちが表現できないほど聖にして純粋で繊細である霊的な世界に入っていくということを知らなければなりません。

聖マクシミリアノ・コルベは、これを最も深遠な言葉でこう表現しました。「あなたが無原罪の聖母について読む準備をするとき、あなたはこれからいかなるけがれも全くない最も純粋な存在との接触に入ってゆくのだということを忘れてはなりません。また、あなたが読む言葉は聖母がどんな方なのかを表現することはできないということを考えておいてください。なぜなら、その言葉は人間の言葉であって、すべてをこの世的な方法で提示する人間の概念から引き出されたものである一方、無原罪の聖母は完全に天主に属する存在であって、そのため、あなたの周りのあらゆるものよりも無限に高いところにおられるからです。

…また、次のことを率直に認識してください。聖母の助けなしに一人だけでは、あなたは聖母について何も知ることができず、その結果、あなたはまことに聖母を愛することができないということ、さらに愛によってあなたの心を聖母に引き寄せるためには、聖母御自身がもっともっとあなたを照らしてくださらなければならないということを。」

これが聖母について私たちが読むどんなことにでも当てはまるのであるならば、私たちが聖母御自身にお会いし、聖母の御言葉や御振る舞いを理解し始めるとき、それはどれほどもっと当てはまるでしょうか。

第二の準備の黙想は次の通りです。私たちが御出現という出来事について読む際には、あたかもファチマが天主の御母と三人の子供たちの出会いでしかないかのように、つまりある歴史上の事実を思い起こすためだけにこれを読んではいけません。幻視者たちは常に、聖母の伝達手段となって聖母のメッセージを伝えるために、聖母によって選ばれた道具にすぎません。聖母はルチア、フランシスコ、ヤシンタに直接話されますが、聖母は彼らをすべての人間の代表として、すべての人に間接的に話しておられるのです。私たちも、1917年のコヴァ・ダ・イリアに自分自身がいたかのように、聖母のお言葉を私たちの心に直接受け入れなくてはなりません。

ここに、シスター・ルチアによって書かれた最初の御出現の記録があります。

<コヴァ・ダ・イリアの坂の上で、私はヤシンタとフランシスコと遊んでいました。
突然、私たちは稲光の閃光のようなものを見ました。
「家に帰った方がいいわ」と、私はいとこたちに言いました。
「稲光よ、雷と嵐かもしれない。」
「ええ、確かに。」と二人は言いました。
私たちは坂を下り始め、道の方へ羊を急いで行かせました。私たちは坂の中程、そこに立っていた大きなトキワガシの木とほとんど同じくらいの高さにまで行ったとき、また別の稲光の閃光を見ました。私たちがもう数歩だけ進むや否や、目の前の小さなトキワガシの木の上に全身純白の服をお召しになった御婦人を見ました。御婦人は太陽よりさらに光り輝き、きらきらと輝く水でいっぱいになったクリスタルグラスが燃えるような太陽の光線で貫かれている時よりも、もっと明るく強烈な光を放っていらっしゃいました。

私たちはそのお姿に大変驚いて、その前に止まりました。私たちは御婦人から数歩しか離れていない所にいたので、御婦人の周りを取り巻いているというか、むしろ御夫人から出ている光に覆われていました。
その時、聖母マリア様は私たちにお話しになりました。

-「恐れることはありません。私はあなたたちを傷付けたりはしません。」
「あなた様はどこからいらっしゃったのですか?」
-「私は天国からの者です。」
「あなた様は私に何をお望みなのですか?」
-「私がここに来たのは、あなたたちがこれから6ヶ月間の間、毎月13日のこの同じ時刻にここに来るように頼むためです。私が誰か、そして何を望んでいるかは後で教えましょう。その後、私は7回目にここに戻ってきます。」
「私も天国へ行くでしょうか。」
-「はい、あなたは天国へ行くでしょう。」
「ヤシンタも行くでしょうか?」
-「はい、彼女も行くでしょう。」
「フランシスコも?」
-「はい、彼も行くでしょう。でも、彼はロザリオをたくさん唱えねばなりません。」

その時、私は最近亡くなった2人の女の子について尋ねることを忘れませんでした。彼女たちは私の友人で、私の姉と共に織物を学ぶために私の家にきていました。
「マリア・ダス・ネヴェスは天国にいますか?」
-「はい、彼女は天国にいますよ。」
「では、アメリアは?」
-「彼女は世の終わりまで煉獄にいることになります。」
-「天主をお怒りさせる罪に対する償いの行為として、そして、罪人の改心を願うために、あなた自身を捧げて、また天主があなたにお送りになる全ての苦しみに耐える覚悟がありますか?」
「はい、その覚悟があります。」
-「それなら、あなたは非常に苦しまなければならないことになるでしょう。しかし、天主の聖寵があなたの慰めになるでしょう。」

聖母は最後に「天主の聖寵があなたの慰めになるでしょう」とお話しなさいつつ、初めて両手を広げられました。するとマリア様の両手から非常に強い光線が出て私たちに届き、その光線は私たちの心臓と魂の最も奥深い所までも貫き、私たちはどんなにすばらしい鏡に自分自身を映すよりももっとはっきりと、その光そのものであった天主の中に自分たちの姿を見ることができました。そして同時に私たちに与えられた深い内的な衝動に突き動かされて私たちはひざまずき、心の中でこう繰り返しました。
「おお、至聖なる三位一体よ、我、御身を崇め奉る。我が天主、我が天主よ、我は至誠なる御聖体の秘跡にまします御身を愛し奉る。」

数秒の後、マリア様はお話しになりました。
-「世界の平和のため、そして戦争が終わるように毎日ロザリオを唱えてください。」
「戦争は長く続くでしょうか、それともすぐに終わるでしょうか?」
-「私が何を望むかまだあなたに話していないので、まだそれを教えることはできません。」

そして、天の御母は穏やかに東の空へ昇って行き、広い空に見えなくなってしまわれました。聖母を囲んでいた光が天空で聖母の前に道を開けたようでした、そして、この現象から、私たちは時々それを「天が開いているのを見た」と言ったものでした。>

では、聖母マリア様がおっしゃったお言葉について考えてみましょう。

1/「恐れることはありません。私はあなたたちを傷付けたりはしません。」
このマリア様の最初のお言葉、これは最初におっしゃったお言葉ですので非常に重要です。

-「恐れることはありません。私はあなたたちを傷付けたりはしません。」
ルチアはこう説明しています。「私たちが感じた恐れはマリア様に対する恐れでは全くなく、むしろ、雷を伴った嵐が来ることに対する恐れだったのです。マリア様の御出現によって私たちは恐れも恐怖も感じず、ただ驚きだけを感じました。」

ファチマにおける聖母の御出現から100年後の今、私たちはこれらの言葉のより深い解釈を見いだすことができます。暗闇の多数の力が、私たちを傷付けています。このことに対して、最初の主要な宣言がなされたのです。「私は、あなたたちの母親として、 あなたたちを傷付けたりはしません。」つまり、私と一緒ならば何も怖がることはありません、私の言うことを聞き、私に従い、私を受け入れるならば、あなたたちを本当に傷付けるようなことは許しません、という宣言です。


2/「私は天国からの者です。」
確かに聖霊に霊感を受けて、ルチアは、聖母に話しかけ、質問をする勇気を見出しました。
-「あなた様はどこからいらっしゃったのですか?」
その時、聖母は彼女に最初のお返事をされましたが、その質問に正確にはお答えになりませんでした。
「私は天国から参りました」とおっしゃったなら、それは確かに真実だったでしょう。
しかし、聖母は文字通り、こうおっしゃいました、
-「私は天国のものです。」(1922年にはじめてルチア自身が書いた記録には、「私自身、天国のものです!」と書かれています。)
この言葉だけで、私たちは聖母の神秘の全てを見るのです。

私たちが、諸天使と聖人たちと共に、「おお、インマクラータよ、あなたはどなたですか?」と尋ねると、
聖母はお答えになります。「私は、天国のものです!」
「天国の」という言葉、それは主祷文の「天にまします我らの父よ」という言葉をこだましています。そして、聖母はその全ての存在と人格をもって、この天国のものとして存在しておられるのです。

さて、すべての人間は、人間を両親にもつ子供ですから、第一に「地上のもの」です。それに対して、聖母マリアは人間としてはただ一人、一般の原則から除外されたお方であり、『地上のもの』である前に、第一に、主に『天国のもの』なのです。
何故でしょうか?

なぜなら、「神はそのみ業を始められたときから、そのみ業より早く、私を有しておられた。永遠から、初めから、地が始まる前から、私は立てられた。淵もまだなく…私は生まれた。…私は建築技師のように、彼のそばにいた。」(格言の書8章23-30節)聖母の『存在』の理由は、天主の神秘の中に埋もれています。すなわち、聖母の地上でのご生活は、聖母「自身、天国のもの」であることが目に見えるかたちで表現されているにすぎません。聖母の本質、聖母の存在の基礎、聖母の最も奥深いところは、被造物ではなく創造主にあり、時間ではなく永遠にあり、一言で言えば天国にあるのです。聖母は天主以外のものの為に生きることは決してなさいません。聖母は御自身の全存在において、ただ天主御父の娘、天主御子の母、聖霊の神殿、聖霊の浄配だけでいらっしゃるのです。

私は、…です。
聖母は、「私は…から来ました」とはおっしゃらず、「私は…です」とおっしゃいました。
それは、聖母御自身の自己定義といえるでしょう。私の存在、私の本性、私『自身』は「天国のもの」です。
さて、天国は永遠の命であり、聖なるものであり、闇の無い光であり、永遠の平和であり、完全の充満であり、無垢で汚れなきすべてです!

したがって、この自分自身に関する御説明は、ベルナデッタの質問に対する聖母のお答えを誠実にこだましています。
「あなたはどなたですか?」
「私は、無原罪の御宿りです。」

さらにもう一つ、考慮すべき重要な詳細があります。
正しくは、天主のみが「私は有る(存在する)!」とおっしゃることができます。実際に天主のみが存在されるからです。もし、被造物が「私は有る(存在する)」と言うならば、それは「私は持っている」という意味です。誰も「私は命である、私だけが命を持つ」とか、「私が真実である」とか言うことはありえませんが、「私は真実を話す」ということはできます。「私は有る(存在する)」というのは、私が、自分の持っているものの本源であるという意味です。

従って、私たちの天主だけが、天主であるが故に、こうおっしゃる事ができます。「私は復活であり命である。アブラハムより前に、私は有る。」
では、聖母マリアがルルドで「私は無原罪の御宿りです」とおっしゃり、またファチマで「私は天国のものです」とおっしゃったのは、誇張だったり、はたまた不正確なものだったりするのではないでしょうか? もし聖母が創造されたご自身の存在のことを話されたとすれば、それは厳密には「無」に等しいものですから、その通りということになるでしょう。ですが、聖母がそのようにご自身を示されるのを天主が許されるという事は、つまり聖母の中に、本質的に神的ななにものかが本当にあるということです。

どういう事でしょうか?
聖母は聖寵に満ち、あらゆる罪から解き放たれたことにより、 「御父と御子の賜物」、すなわち天主から私たちの心の中に送られる聖霊を十分に、完全に受け取られました。聖霊は聖母の内に完全に住まわれ、奥深く入り込まれるので、聖母の内には「彼女自身」が何も残らず、すべて天主で満たされます。聖母のお考えも、お言葉も、行動も、その他あらゆる事が、聖母御自身のものというより聖霊のお考え、お言葉、行動なのです。従って、
聖母は「私は…です」とおっしゃる事ができるのです。

聖マキシミリアノ・コルベはこの称賛すべき神秘についてこう説明しています。
「彼女は言い表せないほど崇高な方法で聖霊と結びついています。何故なら彼女は聖霊の浄配だからです。この結びつきという言葉は、被造物について使われるどんな場合よりも比類なく、より完全な意味において聖母に当てはまります。これはどんな結びつきなのでしょうか? それはとりわけ内的なもので、聖母の存在自体と聖霊の存在との結合です。聖母の存在の最初の瞬間から聖霊が聖母の内に住み、聖母の内に生き、それは永遠に続きます。この聖母の内における聖霊の存在は何から成っているのでしょうか? 聖霊御自身は聖母の内の愛であり、御父と御子の愛であり、天主が御自身を愛される愛であり、至聖三位一体全体の愛であり、実りの多い愛であり、御宿りです。被造物中では、愛の結合がこれに最も似ています。聖書はこのことを確認します。『二人は一体になる。』(創世記2章24節)また、イエズスも再びおっしゃいます。『もう二人ではなく一体である。』(マテオ19章6節)聖霊は、比類なきほど、より厳密な、より内的な、より本質的な仕方でインマクラータの霊魂の内に、聖母の存在そのものの内に住んでおられ、聖母の存在の最初の瞬間からその御生涯を通じて、すなわち永遠に、聖母の実りを豊かなものとされるのです。」


3/唯一必要なこと、つまり永遠に続くこと
ファチマでの御出現の一番最初からの重要なテーマは何でしょうか?
天使の出現によって、天主の絶対的優越性、至聖三位一体の栄光、天主への改心、そして、天主に反抗する侮辱への償いが示されました。 聖母は、後に子供たちを天主の威厳と無限の愛の深みに沈める天主の光を伝達されることによって、この同じテーマを子供たちの心に植え付けられました。また、聖母がお話しになった最初のお言葉は、死後の現実のみ、とりわけまず天国と煉獄の現実に関わるものでした。三回目の御出現の際、聖母は印象的な方法で地獄の現実をお見せになりました。

また聖霊の霊感によって、ルチアは大事な質問をします。
「では、私、私は天国へ行くでしょうか?」
ほとんど誰もがこの世と自分の短いこの世での人生へ完全に向いている物質的で無神論的なこの時代において、これはいかに良い訓戒でしょうか。今日、信者であっても、たとえ熱心なカトリック信者であっても、この質問はどれほど人々の心の中に浮かぶでしょうか。ルチアのこの小さな質問は、全ての聖人たちの生活の要旨であるだけでなく、私たちの救霊の業の目的でもあります。つまり、私たちの生活の中のすべてのことは、UNUM NECESSARIUM(唯一必要なこと)、すなわち「私は天国へ行くでしょうか?」を中心に展開すべきであるということです。私は天国へ行くために今日何をしたでしょうか? おお、聖母マリアよ、あなたはこの質問にお答えになるためにいらっしゃいました。もしファチマの子供たちが聖母にお答えしたように、私が聖母の望みにお答えするならば、聖母は「はい」とおっしゃるでしょう。

「ではヤシンタは? フランシスコは? マリア・ダス・ネヴェスは? アメリアは?」
この二番目の質問は、私たちにとって、(自身の救霊の)次に何が本当に大切であるかを示しています。ここに、隣人愛という私たちの主の新しい律法の全てが含まれています。常に私たちの周りの世界の物質的幸福ばかりについて心配し、「隣人愛」を、 物質的なものやこの世の楽しみを隣人たちに与えることにほぼ限定してしまっている私たちにとって、これもまた、いかに良い訓戒でしょうか!

私たちは次の質問をもってこの世界を見ることを学ぶ必要があります。「自分の子供たち、友人たち、隣人たち、親戚、私の敵、同胞、教会の神秘体の他のメンバーについてはどうでしょうか? 彼らの人生の問題は何でしょうか? 彼らは天国へ行くでしょうか?」そしてまたその答えは聖母マリアの手の中にあります。人々が彼らの救霊のために必要な手段を使い、特に聖母が「多くのロザリオを祈る必要があります」とおっしゃったロザリオを祈るならば、再び聖母のお答えは「はい」でしょう。「はい、彼らは天国に行くでしょう。」

私たちは、私たちの天の御母のこの慰めの御約束から深い感銘を受けるべきです。この御約束は、聖母に従い、幼い3人の子供たちの足跡を辿ることを望む全ての人々になされたものです。 またルチアの友達、マリア・ダス・ネヴェスが既に天国にいるということを聖母がルチアに明かされたのも、注目すべきことです。通常このようなことは、列聖された聖人を除いては、ほとんど明らかにされることがないからです。聖母は、御自分が天国からいらっしゃった唯一の大きな目的は、この唯一必要なことを私たちに思い出させるため、また、私たちが天国に至るのを助けるためであることを、このようなやり方で確認してくださいます。

/煉獄
「アメリアは?」「彼女は世の終わりまで煉獄にいることになります!」
次に聖母の要理は、「天国へ行く」のはそんなに簡単なことではない、という重要な点に進みます。聖性への道は骨の折れる努力であり、英雄的な寛大さが必要です。「天国へ行く」こと、つまり、救霊、聖性、「天主御自身である光」の内におけるあふれんばかりの幸福は、確かに聖母の御出現の主要な目的です。しかし、人が暗闇(罪)に汚染されている限り、純粋の光である天主御自身と一体になる ことはできず、完全に「心の清い人」のみが「天主を見る」という事を知っておくのも重要です。

もし天主が憐れみによって煉獄(死後の清めの可能性)を創造なさらなかったならば、ほとんどの人は死の瞬間に完全に心の清い状態にはないので、ほとんど誰も天国へ行くことはできなかったことでしょう。しかしこの清めの場所は、とても大きな苦しみを通して霊魂を浄化する霊的な炎です。聖母はルチアの友人であるアメリアの例をとって、こう言って、その苦しみがいかに激しいものかをお示しになりました。「…世の終わりまで!」これを私たちの言葉に翻訳すると、「全ての起こり得る事柄が終わるまでの完全な苦しみ」となります。教父たちによると、煉獄にいる1分は、この世での100年の最も辛い苦しみに勝る苦しみだ、ということですから、「…世の終わりまで」という言葉が何を意味するのか、私たちも想像することができるでしょう。

この世の問題や苦しみに捕われ、この世での短い月日と周囲の人々の小さな群れに閉じ込められている私たちにとっては、これもいかに良い訓戒でしょうか。この世での生活は、小さな丘のようです。その丘の先には、広大な谷があり、そこではあらゆる燃え盛る炎が数え切れない霊魂で満ちているのです。 その中に私たちは自分たちの先祖たち、親戚たち、友人たちがいるのを見ます…そして、彼らは皆、天国と、そして、この小さな丘である地上へと目を向けています。人々が自分自身のことのみにかかずらわず、自分たちの犠牲で隣人たちをこの苦しみから救うための小さな愛さえ持っているならば、その隣人たちは大きな慰めを得るでしょうし、またしばしばその苦しみからの完全な救済を受ける事もできるのです。

聖母はその御出現のはじめから、この何十億もの霊魂に満たされている煉獄という巨大な世界について、私たちに思い起こさせようとされます。その第一の理由は、(彼らは全て聖母の最愛の子供たちですから)彼らを助けることを私たちに奨励するため、そして第二の理由は、私たちが「天国へ行くこと」を気にせずに生活するならば、地上でのしばしの時の後に私たち自身が行って長い長い時間を過ごすかもしれない場所がまさにここである、ということを私たちに思い起こさせるためです。煉獄について考えることは、私たちが馬鹿げた小さな世界から離れ、むしろ『もうひとつの世界』、すなわち本質的な真実の世界を私たちが見て、そのために真理の内に生きる助けになります。

/最後に
聖母は教会についての重要な訓戒をお与えになりました。聖母は戦闘の教会の子供たちと共にあるために地上に御出現になります。しかし、戦闘の教会の存在理由は、ただ「天国に」ある勝利の教会のための準備をすることだけです。この間にある苦しみの教会は、哀れな罪人たちに死後の永遠の至福の為の準備をする機会を与えるためにあるのです。そして、これら三つは一つの教会であり、彼らを結びつけるものは、天主の御憐れみと、天主の恩寵の道具である聖母マリアです。


4/天国への道、つまり祈りと犠牲
目的を定めた後、聖母は、そのために使うべき手段についてお話しになります。
-「私はこの世ではあなたの幸福を約束しません、来世でのみ約束します。」インマクラータは、聖ベルナデッタにルルドでそうおっしゃっていました。

同様にファチマでは、3人の子供たちに天国を約束された後、すぐ聖母は彼らに『苦しみ』を告げられます。これが、光に導く十字架の王道です。1916年、天使は既に子供たちに対して、絶え間なく天主に犠牲を捧げるように招いていました。「そして特に天主があなたたちに送る苦しみを受け入れ、従順を持って忍耐しなさい。」

今日、聖母は子供たちに、ずっと多くのことを行うようにおっしゃいます。「天主をお怒りさせる罪に対する償いの行為として、そして、罪人の改心を願うために、あなた自身を捧げて、また天主があなたにお送りになる全ての苦しみに耐える覚悟がありますか?」再び聖母は天主の栄光と霊魂の救いのための犠牲、十字架と苦しみがもつ計り知れない価値を強調なさいます。

きたるべき永遠のものを子供たちに示した後、聖母は、このことを他の人たちに伝えたり、司祭のところに言ってミサを挙げるように頼んだり、祈りの会を開いたり、その他使徒的な行動を取るように子供たちに指示されるだろう、と私たちは想像するかもしれません。

いいえ、そうではありません。第一の手段は祈りでさえなく、むしろ償いと罪人の改心のために自ら進んで捧げる苦しみなのです!
また最も重要なことは、これらの苦しみが超自然の実りをもたらすためには、それを進んで受け入れなければならないということです。その苦しみは、天主と隣人とに対する愛の行為であって、その意味で、最も大事な掟を完全に満たすことになるのです。そして、苦しみを進んで受け入れれば受け入れるほど、それはさらなる愛の行為となり、より多くの実りがもたらされるのです。

従って、聖母は子供たちに自由な同意をお求めになります。そして子供たちの同意を得た後、聖母はこう宣言なさいます。「それなら、あなたは非常に苦しまなければならないことになるでしょう。」

このことによって、聖母は、「世間話」や取るに足りない内容の話は決してされないことがわかります。聖母とのお話しは完全な約束を伴うものです。もし、あなたが「はい」と答えるなら、それは引き続いて起こる結果の全てを含んだ「はい」なのです。

/犠牲と苦しみの他にも、聖母はそれぞれの御出現でもう一つの手段についてもお話しになります。それは祈りです! 

まずなによりも第一に毎日のロザリオです。天使は既に子供たちに祈りの生活の準備をさせ、小さな射祷を唱えるよう求めていましたが、それに「天使の祈り」を付け加えることもできるでしょう。私たちは、ファチマでのそれぞれの御出現が、規則的な、そして深い霊的生活を私たちに教える方法でもあることがわかるでしょう。もしファチマの子供たちが祈りという手段を使ったのにならって私たちもその祈りを実践するならば、彼らの心にもたらされたのと同じ効果が私たちの心のうちにももたらされることでしょう。

/そのような祈りと犠牲の生活のうちで最も重要なことは、天主御自身から与えられた最高の手段です。
-「天主の聖寵が、あなたの慰めになるでしょう。」
天国へ至る道において、私たちは確かに不断の努力をする必要があります。しかし、私たちの聖性が私たちの努力に依存していると考えることは大きな誤りです。私たちの努力は確かに重要なものですが、それは私たちの心を正しい向きに向け、天主御自身が私たちの生活の中に介入され、私たちに天主の光と生命、すなわち私たちの霊魂を聖化する天主の恩寵をお与えいただけるような状態にする、という意義しかないのです。この真理の証拠は下記の通りです。


5/ 天主の御出現
『聖母は、最後に「天主の聖寵があなたの慰めになるでしょう」とお話しなさいつつ、初めて両手を広げられました。するとマリア様の両手から非常に強い光線が出て私たちに届き、その光線は私たちの心臓と最も奥深い所までも貫き、私たちはどんなにすばらしい鏡に自分自身を映すよりももっとはっきりと、その光そのものであった天主の中に自分たちの姿を見ることができました。』

これは神秘的、驚異的な御出現です。それは、霊魂たちを天主の光に導くため、はかり知れない恩寵によって聖母に与えられた普遍的な仲介権を、驚くべき方法で示しているからです。子供たちはこの驚異的な出来事を三度にわたって黙想しますが、これは、1830年、リュー・ド・バックでの不思議のメダイに関する『光線をまとった聖母』の御出現を思い起こさせます。

そして、ルチアは重要なことを述べます。
「私たちはひざまずきました。それは私たちに、天主に関するとても偉大な知識の霊感を受けましたが、それについて話すことは容易ではありません。」ファチマでの出来事の最も偉大な専門家たちによると、これらすべての御出現の中核はインマクラータを通しての3回の「天主の光」の伝達にあります。

ここでは全てのことが重要です。そして、
/まず、まさに聖母のそのしぐさです。聖母は「はじめて両手を広げられました。するとマリア様の両手から非常に強い光線が出て私たちに届き…」
私たちは、子供たちがしたようにひざまずき、幼子イエズスを抱き、その御生涯の間懸命に働かれた聖母の御手を見なければなりません。しかし、この聖母の御手は象徴をはるかに超えるものです。私たちは持っているものを他の人に伝えるために、手を必要とします。私が両手を開くということは、私の心を開くということ、私自身を開くということ、私の霊魂の最も奥深いところを開くということです。

聖母は『聖寵の充満』ですから、聖母がその両手を開くと聖寵の大海は聖母の側に立つ全ての霊魂の中に溢れます。ルチアは、その恩寵(その光)は聖母の両手から流れ出でたと強調しています。その意味は、天国の扉が聖母によって開かれるだけでなく、聖母御自身が天国の扉であるという事です。

/聖母は何をお与えになるでしょう? 「非常に強い光線…どんなにすばらしい鏡に自分自身を映すよりももっとはっきりと、その光そのものであった天主の中に自分たちの姿を見る…」この『光』が現実、唯一真実である現実です。残りは影と虚無だけです。ここで、子供たちは最高の神秘的な恩寵の一つである、『天主御自身の御出現』を受けました。

子供たちがその時、本当に何を見て、何を受け取ったかについては、私たちはその効果によってのみ定義することができます。最初の反応は射祷を祈ることでした。「おお、至聖なる三位一体よ、我、御身を崇め奉る!」 

この光の中に、彼らは 至聖三位一体の言い表すことのできない神秘である三つの位格において、唯一真の天主を見ました。「我が天主、我が天主よ、我は至聖なる御聖体の秘跡にまします御身を愛し奉る!」この光の中に、彼らは世界における天主の現存、御聖体における現存に至る救霊の神秘の概要を見たに違いありません。

フランシスコは後でこう言います。「私は天使と会うことが好きでした。それよりも聖母とお会いするのが好きでした。私が一番好きだったのは、聖母から放たれる、私たちの心臓を貫く光の中で主を見ることでした。私は天主をとても愛しています!」

/この御出現の効果で、子供たちは三人とも愛と自己放棄の充満に満たされました。
彼ら自身が話しているように、御出現の時だけでなく、死を迎えるまでこの世での生活の間中そうでした。三人の人生全ては 途切れることのない天主への愛の爆発、天主の現存の下での生活、天主の御意志と良い喜びを求めること以外のなにものでもなかったと言うことができるでしょう。

これらの御出現は非常に多くの恩寵をもたらしたので、天主がふつう御自分の親友たち(聖人たち)に長い時間をかけてお与えになる恩寵を、天主は数分の内に子供たちにお与えになったことになります。天主の光を経験して、彼らは天主以外に他の何も望みませんでした。そしてこの恩寵こそ、天主がファチマの神秘に近づく人々全てに与えることを望んでおられるものなのです!

/天主の悲しみ。この光の御出現の中でフランシスコは、特に一つの現実に感銘を受けました。
「天主は、数多くの罪のため、とても悲しまれていました! 私たちはもう二度とどんな罪も決して犯してはいけません。」

実際、彼はその短い生涯を特にこの神秘の黙想に捧げることになります。「私は数多くの罪のためにとても悲しまれる天主のことを考えています! 私が天主をお慰めすることができさえすれば!」ーちょうど、1916年に神秘的な御聖体を彼らに与えられた時の天使の望みに対する答えです。「天主をお慰めしなさい!」

/アロンソ神父様は、私たちがファチマのメッセージの外面的様相と内面的様相を区別する必要があると説明しています。外的な目に見えるものは、より護教的なものであって、それは世界にファチマの真実性を証明し、聖母マリアのお望みを実現するために働く信者を動かすものです。しかし、ファチマの本質的なメッセージ、「本質的な現実」は内的にのみ与えられています。それは、「神的な世界、天主と天主の御意志の具体的経験、聖母マリアによって世界にもたらされた天主の伝達そのもの」です。私たちは、聖母を通した3回の『天主の光の伝達』をすべて黙想した後、ファチマのこの本質的な面に戻ることにしましょう。

最初の御出現の概略
もし、あなたがこの1917年5月13日の出来事について度々黙想するならば、人間とその地上での生活こそが最も重要でしばしば唯一価値あることとしてそれに焦点をあわせるような現代の世俗的、宗教的雰囲気から、ファチマがどれほど離れているか、ますます理解されることでしょう。たとえ私たちが天主を信じているとしても、天主は重要な要因ではなく、ちょうど、安心のための機関のようなもので、私たちの実際の生活とは関係しない、遠く離れた存在としてしまっているのです。まるで天主が存在しないかのように人々が生活したり振舞ったりするので私たちは反キリストの時代にいる、と聖ピオ十世が宣言されたのですから、私たちは、天主が全てである、というファチマの最初のメッセージの重要性をよりよく理解することができます。天主は光であり、天主以外には闇しかありません。このようにファチマは、私たちを幻想から目覚めさせ、この世の支配者の嘘に反対させるのです。重要なことは永遠の事柄です。それは、天国か地獄か、永遠への道である祈り、犠牲、罪との戦い、霊魂の救い、そして、なによりも天主の光、すなわち天主の愛という信じがたい幸せなのです!

聖伝のM.I.(Militia Immaculatae 無原罪の聖母の騎士会)についてのまとめ

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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