Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

本性(ほんせい)とは?ペルソナとは? ご托身の玄義とは?|御托身は婚姻の一致にたとえられます。 キリストは大地と婚姻関係を結んだの ではありません。

2022年10月15日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2022年10月16日は聖霊降臨後第19主日です。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「聖霊降臨後第19主日の説教」の動画をご紹介いたします。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

SSPX JAPAN聖ピオ十世会日本にチャンネル登録もお願いいたします。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父


良きサマリア人であるイエズス・キリストは、憐れな罪びとをその憐れな状態から救い出そうとする。私たちは憐れな罪びとであることを認めてくいあらためて、憐みを乞わなければなければならない。

2022年10月15日 | お説教・霊的講話

2022年8月28日(主日)聖霊降臨後第十二主日のミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父説教(大阪)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、聖霊降臨後第十二主日のミサを捧げています。

今日8月28日は、聖アウグスティヌスの祝日でもあります。
良きサマリア人の例えの話を、聖アウグスティヌスの解釈によって一緒に黙想致しましょう。

【良きサマリア人:イエズス・キリスト】

聖アウグスティヌスによれば、このエルサレムからエリコに行く途中に強盗に襲われた、そして半死半生になってもう息絶え絶えになっていたこの人は、人類の象りだと言われています。強盗は悪魔であって、私たちに罪を犯させて、そして聖寵の衣を剥ぎ、天主の命を奪っていきました。道でぐったり倒れている人類に対して、ユダヤ教の司祭も、レヴィ人も、何もすることができませんでした。何もしないばかりか、通ってその男を見ると、見ないふりをして、道を避けて、別の方に行ってしまいました。近寄りもしませんでした。全くの無力であるということを示しています。

しかし、イエズス・キリストは、人類を救う為に旅を、天から地上への旅をされていました。
イエズス様はユダヤ人から悪口を言われていました。「彼はサマリア人だ」と。
サマリア人とうのは、ユダヤ人にとって最大の悪口でした。何故かというと、ユダヤ教を信じていない、エルサレムでの神殿で礼拝しない、破門されている。
イエズス様はそのような悪口を言われていましたが、自分はサマリア人ではない、とは言いませんでした。そのような悪口を逆手に取ったかのように、良いサマリア人を例えに出します。

このサマリア人は、この死にかけてぐったりしている人を憐れに思い、近付いて、ブドウ酒で傷口を洗って、そして油を注いで癒して、そして宿屋に連れて行って、自分で看病します。その次には翌日には、宿屋の主にお金を渡して、高額のお金を渡して、看病するように、と言います。

まさにこれは、イエズス・キリストの象りでした。
イエズス・キリストが御自分の御血を以って罪を赦し、そして聖霊の賜物を以って罪を癒し、教会に秘跡を与えて、ミサ聖祭を与えて、私たちを癒すように、罪を癒すようにとお願いしたのでした。

【主の憐み】

日本のカトリック教会によると、日本語のミサが、今度は待降節から変わると聞きました。それによると、「キリエ・エレイソン」「主よ、憐れみ給え」と言うところを、「主よ、いつくしみを 主よ、いつくしみをわたしたちに」と変える、とのことです。「憐れみ」という言葉がなくなります。何故そのように変えなければならない必要があったのか、私には理解できません。

「憐れむ」というのは、言葉をよく理解すると「憐れな人を、その憐れな状態から救い出そうとする」ということです。ですから、惨めで、もう悲惨で、どうしようもない、ということを認めて、それに近付いて行って、そしてそこから救い出してあげたい、それが憐れみです。この苦しむ人と同じ、私も苦しんで、この苦しむ人が苦しまないように、その苦しみから救い出してあげたい。それが、憐れみです。

「憐れんでください」とこい願うことができるのは、自分が憐れな状態にいると言うことを認めているからです。私たちの憐れな状態とは、私たちが罪を犯したということです。罪人であると言うことを認めていることです。罪人である私たちを憐れんでくださいということです。この意味での「憐れみ」は、古語ではありません。古語の「もののあはれ」とは別の意味です。

ところで、現代人は自分を罪人であると言うことを認めようとしません。自分を憐れな惨めだとは思わず、自分が愛されることを当然の人権だと思っています。罪人でも天国に行く権利があるし、救われて当然だ、と錯覚しています。ですから天主の前で跪くことを拒否します。ですから、「主よ、憐れみ給え」と言うことができないのです。その代わりに、当然のこととして「慈しみを、私たちに」と要求するのです。

「慈しみ」というと、かわいらしいお花を慈しむとか、子犬が可愛いから慈しむとか、子供が可愛いらしいから慈しむとか、愛すべきかわいいものに愛を注ぐ心を意味します。慈しむ対象は、愛らしいものです。聖ヨゼフは「天主の聖母なる汚れなき童貞と結ばれたるいつくしみあり」と言われるように「いつくしみ」には「敬って大切に世話をする」という意味さえあります。

みじめで、悲惨で、手も付けられないような悪い状態を「いつくしむ」とは普通はいいません。そうではなく、悪い状態をかわいそうに思って「憐れむ」と言います。「あわれむ」と「いつくしむ」は、文語と口語の違いではありません。意味の違いです。

この良きサマリア人であるイエズス様は、罪を犯したがために惨めで憐れな人類に近付いて助けました。主は、悲惨な罪の状態を「いつくしむ」のではなく、みじめな罪の状態を「憐れむ」のです。

【罪と罪人】

ですからイエズス・キリストにとって、私たちは二つのことが区別されなければなりません。
一つは、私たちが「罪人」である、ということです。もう一つは、私たちの「罪」です。

イエズス・キリストは「罪人である私たちを、憐れんで下さる」方です。
ところで「罪人である私たちを憐れむ」ということは、この罪を捨てさせて「罪から救い出す、最も悲惨な罪の状態から救い出す」ということです。つまり「罪」を悪として忌み憎む、ということです。

つい最近、日本キリスト教団出版局からだされた「LGTBとキリスト教」という本を手する機会がありました。その本の中には菊地大司教様のコラム「その尊厳ゆえに尊重し、心を配るべき」が載っていました。

★★★★★★★★★★★★

菊地大司教様は次のように書かれておられます。
"2019 年 11 月に来日されたローマ教皇フランシスコは、2013 年に就任されて以来、「誰ひとりとして排除されない世界」を実現することを、優先課題とされています。東京ドームでのミサで教皇は、「わたしたちは、すべてのいのちを守り、あかしするよう招かれています」と述べて、自らの根幹にある価値観を明示し、「実際に目前にあるいのちを抱擁し、受け入れる態度です。そこにあるもろさ、さもしさをそっくりそのまま、そして少なからず見られる、矛盾やくだらなさをもすべてそのまま引き受けるのです。わたしたちは、この教えを推し進める共同体となるよう招かれています」と、すべてを包括する共同体であれと呼びかけられました。"(ママ)

大司教様はさらにこうも書かれていました。
"倫理の原則を前面に掲げ裁くことで、教会から排除されている性的マイノリティの存在にも目を向ける教皇は、「その人の性的指向にかかわらず、その尊厳ゆえに尊重し、軽蔑することなく受け入れるべきで、「不当に差別せず、いうまでもなくいかなる攻撃や暴力もあってはならず、心を配るべき」だと呼びかけています。"(ママ)

つまり大司教様は、原則を前面に掲げ裁くことで、教会から排除されているマイノリティの存在にも目を向けるべきであること、その人の指向にかかわらず、その尊厳ゆえに尊重し、軽蔑することなく受け入れるべきこと、不当に差別をせずに心を配るべきだと、言われています。

★★★★★★★★★★★★

しかし残念なことには、それを読むと、「罪人」ということと、「罪」ということの区別はありませんでした。罪が「罪である」とは言われていません。罪を恒常的に犯している状態を、すべてをそっくりそのまま肯定的に受け取らなければならない、そしてそれをそうすることが当然であるかのように書かれています。

ですから、それを読む人は錯覚してしまいます。自然に反する「罪」であっても、尊厳あるものとして尊重する、心を配って大切にする、愛すべきものとして「いつくしむ」べきである、と。「同性愛というのは、聖パウロは『そのような人は、天の国を継がない』と言っている。しかし、今はもうそうではなくなったのだろうか?」

【イエズス・キリストの福音「くいあらためよ」】

もちろんカトリック教会は誰ひとりとして排除しません。誰ひとりとして排除せずに、罪を痛悔することを求めています。何故ならこれこそが福音だからです。洗者聖ヨハネはこう叫びました。「くいあらためよ、天の国は近づいた」と。私たちの主イエズスも教えをのべはじめていわれたことはこれです。「くいあらためよ、天の国は近づいた」と。悔い改める、とは自分を罪人だと認めて、あわれみを乞うことです。

しかし、もしも罪を肯定的に受け入れるのならば、「くいあらためよ」という福音とは異なっています。
もしも罪を捨てなくても罪を犯し続けても尊厳があるものして尊重するのならば、「くいあらためよ」ではありません。
もしも罪人だったけれども悔い改めたので憐れんでくださいと祈る代わりに、罪はそのままでも尊厳がある尊重すべき存在なので、憐れな存在ではないので、「あわれみ給え」ではなく「いつくしんでください」と祈るのならば、主の福音を裏切っていることになります。

しかし同性愛の人や、あるいはそのような罪を犯すような人々は、非常に苦しんでいます。そのような生活から抜け出した時に、本当に幸せになった、と言っている方がたくさんおられます。このようなことは、マスコミでは言われませんが本当のことです。そのような人たちのことを本当に愛するのであれば、私たちはこのような人たちを、そのような状態からなるべく救い出してあげるようにしなければなりません。これが本当の愛徳です。それこそが、本当の主の憐れみです。

イエズス様は、憐れみの業を教会に任せました。罪を憎んで、罪人を愛するように。もちろん愛というのは秩序があって、まず自分の近しい人たちから愛を表していかなければなりません。しかし、もしも生きるか死ぬか、というような状態の時には、もちろんどのような人であっても、私たちはこれを助けるように、愛徳を実行する務めがあります。

聖アウグスティヌス、そしてマリア様に、良い御恵みを乞い求めましょう。私たちがぜひ、主の御助けによって、真の愛徳を実行することができますように。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


「兄弟たちよ、先に私があなたたちに告げ、あなたたちが受けてそれにふみ止まった福音を、私はふたたび示そう。あなたたちが空しく信じることなく、私が伝えたままを守るなら、それによって救われる。」

2022年10月15日 | お説教・霊的講話

2022年8月21日聖霊降臨第十一主日
トマス小野田神父説教(東京)

聖なる日本の殉教者教会へようこそ。

「兄弟たちよ、先に私があなたたちに告げ、あなたたちが受けてそれにふみ止まった福音を、私はふたたび示そう。あなたたちが空しく信じることなく、私が伝えたままを守るなら、それによって救われる。」

父と子と聖霊と聖霊との御名によって、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日は2022年8月21日聖霊降臨第十一主日です。今日の書簡で聖パウロは「あなたたちが空しく信じることなく、私が伝えたまま【福音】を守るなら、それによって救われる」と断言しています。

【「私が伝えたままを守る」】
「私が伝えたままを守るなら、それによって救われる」なぜかというと、「私がまずあなたたちに伝えたことは、私自身受けたことであるから、私自身キリストから受けたことであるから」と、説明しています。なぜかというと、福音はイエズス・キリストが天主の権威で教え始めて、それを直接受けた使徒たちの権威で私たちに伝えられているからです。

聖パウロはヘブレオ人たちの手紙のなかでこう書いています。「主によってはじめて告げられて、それを聞いた人々から確実に私たちに伝えられたことである」と。

「私が伝えたままを守らなければならない」ということは、同じ聖パウロは、ガラチア人への手紙のなかでも何度も繰り返して力説しています。引用します。「私たち自身であるにせよ、天からの天使であるにせよ、私たちがあなたたちに伝えたのとはちがう福音を告げる者には呪(のろ)いあれ。私は前にいったことを今また繰り返す。あなたたちが受けたのとはちがう福音を告げる者には呪いあれ。…私はあなたたちに宣言する。私が告げた福音は人間によるものではない。また、人間から受けたものでも、教えられたものでもなく、イエズス・キリストの啓示によるものである。」

非常に厳しい言葉です。呪いあれ。なぜかというと、この教えはイエズス・キリストから直接私たちが受けたのであって、使徒たちを通じて受けたのであるから、私たちにはそれを変えることができないからです。

今日の書簡を読むとはっきりとわかることは、伝えられたままを守る、伝えられたままの福音・信仰を、私たちはそのまま踏みとどまってそれを守らなければならない、ということです。そのまま伝えられたままを守るならば、私達はそれによって永遠のいのちを受けることができるのです。そのために聖パウロは命がけでこの福音を、そのままの福音を、伝えようとしました。夜も昼も働き骨折って労苦した、と聖パウロは言っています。

【天主の教会を迫害していたが、恩寵で回心したパウロ】

このような使徒聖パウロですけれども、実はもともとは天主の教会を迫害したものでした。そのことを思って、自分の過去の行ないを考えて、聖パウロは使徒と呼ばれる価値のない、使徒のうちでもっとも小さいものであると、告白しています。ほかの使徒たちは教会を迫害することはありませんでした。しかしパウロは自分でこう言います。極めて激しく天主の教会を迫害し荒らしていた、と。そしてさらにこうもいいます。先には冒涜者、迫害者、暴力者だった、でも特別のお恵みを受けて天主の聖寵を受けて、私はいまの私となった、といいます。突然天からの光が輝きだして、それがパウロを包み、地上に倒れたパウロはイエズス様の声を聴きます、『サウロ、サウロ、なぜ私を迫害するのか』。

聖パウロの回心は今日の福音のイエズスの奇跡の話のようです。イエズス様は一人のどもりで耳の聞こえない人を群集の中から呼び出して、その耳に指を入れて唾をつけて舌につけて天を仰いで吐息をついて、『エッフェタ!』(開けよ)というと、耳は開けて口のもつれは取れて正しく話せるようになったからです。イエズス様は、どもりで耳の聞こえない人を癒すこともできれば、教会を迫害していたような人を改心させることもできます。

聖パウロは恩寵の力を讃えてこういっています。私は福音の奉仕者となった。それは天主の力ある業によって私に与えられた恩寵の賜物によることである。私はすべての聖徒の中で最も小さな者よりも小さな者であるが、キリストの底知れない富を異邦人に告げ、万物の創造主である天主のもとに天主のうちに世々に隠されていた奥義の分配とはなにかということを皆に示す恩寵を受けた、といっています。イエズス様の指つまり天主のお恵みが、使徒聖パウロに働いてその憐れみの業を全世界に告げる使命を受けました。特別のお恵みを受けました。

【恩寵で、信仰の恵みを受けた私たち】

聖パウロは、洗礼を受けた私たちと全く同じ境遇です。ちょうど聖パウロに起こったことと同じようなことが私達にもお恵みで与えられました。信仰の恵みを受けました。ちょうど福音の中で福音の癒された人のように私達も主のことを聞くことができず主のことについて話すことができなかったのですけれど、それが癒されました。ですから、このお恵みを受けたのですから、聖パウロが私達に注意するように、この受けた福音をそのまま変えずに、このまま清く保たなければなりません。教えられたままをそのまま信じ続けなければなりません。

【信仰の恵みをまだ受けていない現代の多くの人びと】

では第二に、今日私たちはミサで何を考えなければならないでしょうか。現代の私たちは改心以前の聖パウロがそうだったようなもしかしたらイエズス・キリストの教えを知らないで聖伝の使徒伝承のカトリック信仰を迫害する側に立っているような多くの人々のことを、知っているかもしれません。あるいはもしかしたら、私たちがかつてそうだったということを思いだすかもしれません。

なぜかというとマスコミやテレビがいろいろゴミのような情報を流しているからです。その情報にどのような価値があるのか疑問に思うかもかもしれませんが、そのような宣伝をそのまま鵜呑みにしてしまって、そしてマスコミとその教えるそのイデオロギーとそれにマッチしていないものは、例えば宗教やカトリックの信仰があたかも悪であるかのように思いこんでしまっているかもしれないからです。そのようなものを無批判に受け入れるような現代の私たちはますますマスコミの毒に犯されてしまって、死の文化、嘘の文化、あるいは嘘の帝国を築きあげようとするそのような悪魔的な計画に、もしかしたら知らずに賛同しているかもしれません。

「死の文化」とか「嘘の文化」というのは、これは教会の教皇様やあるいはある司教様が言った言葉です。どんな内容かというと、たとえば、人間というのは天主から天主の似姿に沿って作られた創造の作品です、ですから誰も無辜の人間の赤ちゃんの命を自分勝手にすることはできません。わたしは男の子が嫌だから、女の子が嫌だから、わたしは病気の子が嫌だから、あるいはその他の理由で、殺害することはできません。しかしそれを、人間の命を抹殺することがあたかも権利であるかのように、嘘の文化は教えています。嘘の帝国を作ろうとしています。

【天主の教会を迫害し荒らそうとするイデオロギー】

あるいはジェンダー論というのがあります。男と女以外にも何かがある、これは嘘です。聖書にも何回も出てきます。イエズス・キリストも何度もおっしゃいました。お前たちは読まなかったのか、初めに天主は男と女を作って、その二人は父と母を離れて一体となる、それが婚姻だ。天主が合わせたものを誰も壊すことができない。しかし新しいジェンダー論によると、男と女以外の何かもあるし、さらには自分が男とだと思えば男だし、女だと思えば女で、それを他の人も認めなければならない、と主張します。もしも認めてあげなければそれは差別だ、それは尊厳を冒している。ですからそのようなことを認めてあげるためには、温泉も銭湯もあるいは自衛隊もそれに開かれていなければならなくて、そのようなことを子供たちにも学校で教えなければならない。もしもそれに反対するならば逮捕される、罰金を払わされる。そのような世界が今作り上げられようとしています。

ですから、神学校もなぜ女性が神学校にはいることができないのか、不当だ、といわれる日が来る危険があります。将来神学校はどうなってしまうのでしょうか。女子修道院はどうなってしまうのでしょうか。修道会はどうなってしまうのでしょうか。女性が司祭になれないのは差別だとか、男性が女子修道院に入れないのは不当な差別だ、ということになってしまうのではないでしょうか。このような動きに、日本におけるカトリックの指導者はどのような声をあげているのでしょうか。

あるいは、あるいはこの大自然、あるいはこの大地が神聖化されて、もっとも尊いものであるかのように、この大自然を守るためであるならば人間が犠牲になってもよい、人間の命がなくなってもよい、かまわない、ただ絶滅危機の種が守られて、あるいは水がきれいであれば太陽空気がきれいであればその方がもっと大切だ、という世界を今マスコミが作ろうとしています。そして残念ながら教会もそれを教えなければならないかのようなことの雰囲気です。

しかしカトリック教会はエコロジーを教えるためにイエズス・キリストから福音を委ねられたのではありません。そうではなくて私たちはもっと、地球からなくなってしまう動植物よりももっと大切なものを守るために、教会に福音をゆだねられました。それは私達の霊魂です。永遠の救いです。私達が罪を犯して地獄の火に落ちないように、天国の永遠にまで導かれるように、そのために教会に福音をゆだねられました。そのために聖パウロは改心しました。その奇跡を受けましたし、そしてそのために一生懸命働きました。

【遷善の決心】

私達は今日どのような遷善の決心をとるべきでしょうか。聖パウロは既にこう警告しています。『人々がもはや健全な教えを忍ばず、私欲のままに耳に快いこと聴かせる教師を集めて、真理から耳を背け、作り話に耳をかたむける時が来るであろう。』

愛する兄弟姉妹の皆様、ですから、私たちはきょう特にお祈りいたしましょう。私達がそのような汚染から守られて変わりない福音をそのまま保持することができますように。またそのようなものに毒されて福音に耳を閉ざしてしまって、あるいは正しい福音を伝えることが、あるいは言うことができなくなっているような人々にも、イエズス様の恵みありますようにお祈りいたしましょう。特に教会の指導者たちのためにお祈りください。司教さまたちがはっきりとイエズスさまの伝えられたままの福音を、霊魂の救いについて、超自然のお恵みについて、説教することができますように、はっきりとものを言うことができますように、お祈りください。

聖パウロは言っています。この伝えた通りを守らないならば私たちは救われることができないから、福音によると、イエズスさまが誰にも言うなといわれれば言われるほど人々はますます言い広めたとあります。

聖アウグスチヌスによると、これは私達に模範を示すためだ、もちろん主は言うなと言えば彼らがもっと言うというということを、言うなと言っても言い広めることを知っていました。知っていながら言うなと言ったということ、禁じたということは、言えと言われた、伝えよと命じられた、ということだ、と。私たちがさらにもっとイエズス様の教えを伝えなければならないということをよく理解することができるためだ、と聖アウグスチヌスは解説しています。ですから私たちも主の教えを恐れることなく伝える力と智慧を請い求めましょう。

明日はマリア様の汚れなき御心の大祝日です。日本の主要の最上位の守護の聖人の祝日です。どうぞマリア様が日本にいる私たちを守ってくださいますように、信仰を守ってくださいますように、私たちの多くの兄弟姉妹同胞が天国に導かれますように、マリア様の御保護で導かれますように、お祈りいたしましょう。

父と子と聖霊の御名によってアーメン


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】