Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

四季の斎日の精神:マグダレナ・マリアの回心と罪の償い、日本の先祖キリシタンたちのカトリック教会は祈りの教会・痛悔の教会だった。「ああ、イエズスよ。我らの罪を赦したまえ。地獄の火より守りたまえ。」

2022年10月27日 | お説教・霊的講話

2022年9月23日(九月の四季の金曜日)説教(大阪)
トマス小野田神父

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン 

愛する兄弟の皆様、今日は九月の四季の金曜日です。福音では、何度読んでも非常に感動的なマグダレナ・マリアの回心、罪の償いの場面が出てきます。

彼女は 世間体を一切考えませんでした。人が何を考えようとなんと噂されようと自分はイエズス様のもとに行く、自分は罪を償わなければならない、イエズス様の愛のことでいっぱいでした。そしてそれを実践しました。

イエズス様の足元の後ろに来て、跪いて、涙を流して、痛悔の涙を流して、今までの罪を悔い改めました。何度主を悲しませたことか、それを悲しみました。自分の髪でそれを拭いました。主の御足に接吻を何度もしました。非常に高価な香油で主の御足に塗りました。おそらく彼女の最も大切な宝物で高価な非常に到底普通の人では手が出ないようなものすごいものだったに違いありません。 

教会はこの回心の姿を私たちに見せ、私たちも同じようにするようにと、招いています。イエズス様の下で痛悔の涙を流すように、罪を悔い改めるように、そして罪の償いをするように、そしてイエズス様に接吻を差し上げるようにと。

私たちは幸いなことにミサを捧げることができています。歌ミサを捧げることができています。私たちの持っている最も貴重な愛と時間と考えをすべて、イエズス様にお捧げいたしましょう。他の人が何と言うか、それは関係ありません。イエズス様のことだけを、主をお愛いしすることだけを、考えましょう。

過去のキリシタンたちは250年の間、迫害の間、ずっとそうでした。聖フランシスコ・ザビエルから受け継いできたその信仰、イエズス・キリストへの愛、マリア様への愛、これを考えてきました。ですから250年間、迫害にもかかわらず信仰を保つことができたのは、コンチリサンの祈りのおかげだと言われています。つまり痛悔の祈りを良くしたからです。

特に踏み絵を踏まされたとか、あるいはどうしても強制的に村の人が亡くなった時には仏教のお寺に行かなければならなかったとか、という時には、その後に気が済むまで何度も何度も痛悔の祈りを唱えていました。涙ながらに自分の裏切ってしまった罪を悔やんで祈り明かし、祈り通しました。だから信仰が伝わってきた、信仰を守ることができたと、いわれています。日本の私たちの先祖のカトリック教会、キリシタンたちは、祈りの教会であり、痛悔の教会でした。まさに教会が今日私たちに求めていること、つまり祈りと痛悔を、私たちの先祖はそのまま実践したのです。

マリア様も言います。ファチマでおっしゃいました。「ああ、イエズスよ。我らの罪を赦したまえ。地獄の火より守りたまえ。」

キリシタンたちもいつも、七代に渡ってコンフェッソーレつまり告解を聴く司祭がやってくるのを、ずっと待ちに待っていました。「我らの罪を赦したまえ。地獄の火より守りたまえ。」まさに同じ信仰でした。

今日は是非このよい四季の金曜日を過ごすことができますように、このミサを、愛をこめて、マグダレナ・マリアに倣って、お捧げいたしましょう。御聖体を拝領いたしましょう。マリア様に御助けを請い願いましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によって、アーメン


実のならないイチジクの木である私たちのために:18年間背中が曲がって地面しか見ることができない年寄りの婦人のような私たちのために

2022年10月27日 | お説教・霊的講話

2022年9月24日(九月の四季の土曜日)お説教(大阪)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン

今日の福音では、二つの話があります。

一つはイエズス様の例えです。ある時、農夫が無花果(イチジク)の木を植えて、その木の実が実ったかを見に来ると、実が成っていない。「なんだ」。雇人を呼んで、「こんな木は切ってしまえ」と言います。

するとその雇い人は、「ご主人様、待ってください。私が周りに土を掘って肥料(こやし)をおいて水をかけて大切に育てますから、もう少し待ってください。今年一年待って下さい。もしもそれでも実がならないなら、引き抜いて焼いてください」と言います。

これは私たちの主イエズス・キリストが、実のならない木である私たちのために、天主御父に取り次いでくださっていることを表しています。

天主御父は、私たちに愛とお恵みをすべて与えて、私たちに聖霊の実を実らせるようにと期待していますが、しかし、私たちはなかなか実をつけません。

この私たちのために主イエズス・キリストは、一生懸命愛を注いで、実をならせよう、ならせよう、としてくださっています。私たちが地獄の火に、切り取られて焼かれないように、してくださっています。

もうひとつの出来事は、奇跡です。18年間背中が曲がって地面しか見ることができない年寄りの婦人がいました。天を見上げることができずに いつも下ばかり向いていました。それを見た主は、安息日にこの婦人を治しました。手を置いて、瞬間的に治されます。この婦人も私たちの霊魂の象(かたど)りです。

私たちも、天に目を挙げることをせずに、長々と地上の事ばかり心配しています。他の人が何と言うかと、他の人が何と考えるかと考えたり、あるいはこの地上の富をどうやって貯めるかあるいは楽しむか、そのことばかり考えていたのです。

その私たちをイエズスは、安息日に、主の日に、癒されました。心を天に上げることができるようにイエズス様が私たちにしてくださる、ということです。私たちがたくさん実を結ぶことができるようにしてくださるということです。

今日は、お腹をすかしていますが、しかし胸は祈りと感謝と痛悔の心でいっぱいで、イエズス様の身元に参りましょう。

私たちが実りをたくさんつけることができますように、主に捧げる良い果実を実らせることができますように、そして私たちが天に心をあげることができますように、お祈りいたしましょう。

マリア様の御取り次ぎをお祈りいたしましょう。


主を全てに超えて愛すとは、そして主のために隣人を愛するとは、どういうことなのか?「天主のために天主を愛する」とは?

2022年10月27日 | お説教・霊的講話

2022年8月28日聖霊降臨後第12主日名古屋での説教
トマス小野田神父

聖伝のミサにようこそ。
今日は2022年8月28日、聖霊降臨後第12主日です。

名古屋では最終の主日の5時半からここで聖伝のミサが捧げられています。
12月の場合は最終の主日がクリスマスにあたってしまうので、クリスマスの一週間前の12月18日に繰り上げてミサを行います。どうかご了承ください。

父と子と聖霊の御名によって、アーメン

今日は典礼でイエズス様は質問を受けました。「永遠のいのちを受けるためにはどうしたらよいのか」と。するとイエズス様は彼に聞きます。「律法にはなんと書いてあるのか」と。すると彼は正しく答えます。「すべてに超えて心を尽くして霊魂を尽くして力を尽くして汝の天主を愛せよ、そして自分のごとく隣人を愛せよ、と書いています」。「正しく答えた、そのようにせよ、そうすればお前は生きる、永遠の命を得る」と。

ではこの愛の掟、最も大切な愛の掟というのは、どういうことなんでしょうか。主を全てに超えて愛す、そして主のために隣人を愛するというのはどういうことなんでしょうか。
是非今日はこの事を黙想いたしましょう。

実は、愛するということは、特に現代の日本では、あるいは世界では、その価値がますます見失われてしまっています。なぜかと言うと、テレビやマスコミであるのは、あの人が好きだ、この人が好きだ、という男女の愛とか、ペットが好きだとか、なかにはサラ金の宣伝もあります。

しかし天主を愛するというのはこれらとは全く別のことです。是非そのことを深く理解なさってください。

何故、私達は天主を愛するのでしょうか?なぜかというと、天主というのは私たちを無から創造して下さった大恩人であって、そして私達が究極にたどり着かなければならない目的だからです。

ですから私たちはその目的をどうしても選び、欲しなければなりません。この私たちは生まれつき幸せでありたいと願うようにできていて、そのように生まれてきました。この生まれつきの願いは誰にもあって、これを消すことはできません。幸せでありたいと思うのだけれど、しかしやり方を間違って、ある人はふさわしくないことが幸せだと思うので不幸になってしまいます。しかし本当の幸せを私たちに与えるものを私たちは求めなければなりません。

ところで、たとえですけど、もしも私たちが健康を求める、健康でありたい、といった時には、その健康でありたいという望みは100%です。いつでもそうしたいと思います。だからといって、健康のためには風邪薬がいいからこの風邪薬を毎日100錠飲んでもいいかというわけではありません。限度があります。目的には限度がありませんけれども、しかし手段には限度があります。

天主に対する愛は目的に対する愛なので、限度はありえないのです。天主を愛すれば愛するほど私たちはますますその目的に適う者となります。その愛は良いものになります。ですから私たちは天主を天主のために愛するのです。隣人も天主のために愛するのです。

では天主のために天主を愛するというとき、「のために」とはどういうことなのでしょうか。聖トマス・アクィナスはこんな三つの表現を例を出しています。

(1)【目的「のために」】
たとえば「健康"のために"私は散歩を愛する」と言うとき、これは「健康 "という目的" のために散歩を愛する」という意味です。散歩をするとのは良いことですけれどもこれは手段です。やりすぎだと病気になってしまうかもしれません。
しかし、「天主"のために"天主を愛する」と言う時は、ほかの目的のためでもなく、天主を目的として天主を愛する、という意味です。

(2)【持っている善「のために」】
たとえば「彼の親切"のために"、私はあの人を愛する」といった時、「彼は親切"だから"私はあの人を愛する」という意味です。親切という特別な何かよいものがあるから愛する、ということです。
「のために」のこの意味において「天主のために天主を愛する」と言った時、天主は善そのものであり、究極の最高の善なので、天主を愛するのです。

(3)【善が由来する根源「のために」】
聖トマス・アクィナスはまたこんなことも言います。「親友の子どもである"ために"、彼を愛する」といったとき、それは「彼は親友の子どもだから、彼を愛する」という意味です。そういう時、愛する理由はどこか別のところから由来しています。
この意味で「天主のために天主を愛する」という場合、天主が天主であるがゆえに愛する、ということです。天主は、すべての善がそこに由来する根源なので、天主を愛するということです。
天主は、愛される善となるために何かの特別な理由など必要とせず、それどころかその他のすべての善は天主御自身から由来するから、天主のために愛するのです。

聖ベルナルドはこう言っています。天主を愛する原因というのはその理由は天主である。天主だからこそ私は天主を愛する。天主を愛する限度は限度なしに愛することである、と。すべてを尽くして際限がなく天主を愛する。これが私たちの天主に対するまことの創造主に対する愛なのです。

では隣人に対する愛というのは何なんでしょうか。隣人に対する愛というのは 天主の愛に基づいていなければならない、天主を愛するがために隣人を愛して初めて本当の隣人愛になるのです。

なぜ天主に基づいて天主のために 隣人を愛するのでしょうか。なぜかというと 隣人は同じ天主の似姿にかたどって創造されているからです。私たちと共に天国で天国の栄光を一緒に味わうことができる存在だからです。私たちに近い存在だからです。ですから私たちの隣人が天主から愛されるように、隣人が天主を愛することができるようにする、これこそが本当の隣人愛なのです。

私のある友人は外交官でした。今はもう外交官のお仕事を退職されたのですけれども、その方は自分にいろいろな知人やいろいろな繋がりがあるけれども、もしもそのような友情関係が本当の友情であるために、彼らにイエズスキリストを知らせて、彼らがイエズスキリストを愛することができるようにしたい、と言っていました。彼は、そうでなければ本当の友情ではない、本当の隣人愛ではない、と私に言ってくれました。そうやって、自分の地位や影響力を効かせて、カトリックの教えをなるべく伝えようとなさっている方がいます。まさに本当の隣人愛です。何故なら、隣人愛とは、隣人が天主を知って天主を愛することができるようにすることだからです。

ではその隣人をどのように愛するかというそのやり方というのはどうなのでしょうか。それは自分を愛する如く愛するということです。

永井博士が原爆を受けた時、小さな小屋を建てた時そこにずっといた時に、そこに如己堂と名前を付けました。それは自分と同じように、自分の如く、われの如く、という意味です。永井博士は、隣人をわが如くに愛したいと、一生懸命、執筆活動やいろいろな活動をやっておられました。

私たちは隣人を究極の目的であるかのように愛するとしたら、それは間違っています。妻が夫を夫だけが究極の目的であるように、あるいは子供を究極の目的であるかのように愛する、これも間違っています。あるいは自分を究極の目的であるかのように愛したとしたら、これも間違っています。

隣人を天主のために、天主を愛するがために、自分の如く自分のように愛する、これが本当の隣人愛です。

これはどういうことかと言うと、究極的には私が天主を愛するように 隣人たちも天主を愛することができるように助けるということです。自分"のように"愛するというのは 自分と"まったく等しく"愛するということではありません。もちろんそうではありません。同じ"ように"であって、"等しく"ではありません。何故なら愛には秩序があるからです。

自分の近しい人にはまず最初に、そしてその近くに従って愛を与えなければなりません。ですから愛徳の掟というのは、天主の永遠の至福を一緒に持つ、天主にそして隣人に対してだけあるものなのです。そして天主を愛するがためにこれを行うものなのです。ですから理性のない被造物やペットやその他のものにはこのような超自然の愛徳というのはありえないんです。

キリスト教が教える愛の掟は、このすべてを天主への愛に基づいて行うということです。これをする時に、私たちは永遠の命を受けるようになります。

マリア様にぜひお祈りいたしましょう。私たちの愛をますます清めてくださいますように。私たちが純粋に天主を愛するがために私たちを愛しておられる天主のその愛をよく知ることができますように。そして主を愛したいということができますように。主の御心を傷つけるのを私たちがしてしまわないように、愛する御方を傷つけてしまわないようにお祈りいたしましょう。

またマリア様の御助けによって隣人も天主をますます知り愛することができるようできるだけの奉仕ができますようにお祈りいたしましょう。

父と子と聖霊との御名によって、アーメン。


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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