アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、2022年10月30日は王たるキリストの祝日です。
「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「王たるキリストの祝日の説教」の動画をご紹介いたします。
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天主様の祝福が豊にありますように!
トマス小野田圭志神父
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ヴィガノ大司教「位階階級において異端的となっている教会を去らなければならないのは、カトリック信者ではなく、羊の皮をかぶった狼と偽預言者たちである」
2022年10月10日
ブログ:アルド・マリア・ヴァッリ
親愛なる「Duc in altum」(沖に漕ぎ出せ)の友人の皆さん、ファビオ・バティストンの記事 「ヴィガノ大司教の発言の周辺にある問題点」(Questions in the Margins of Archbishop Viganò's Statements)によって始まった討論に、ヴィガノ大司教自身が回答しています。
大司教が寄稿文を送ってくださいましたので、それをここで公表して、問題をはっきりさせることができればと思います。
「私たちの誰もが、『自分の母親を非難する』つもりはなく、むしろ、王の不在中に、神聖な義務と誓いを立てた荘厳な誓約を裏切って、王の花嫁に怒りを表す者たちから母を守るつもりなのです。教会はキリストの神秘体ですから神聖であり、腐敗するものは教会に属しません。…私たち自身の望みに従って教会を作ることが可能だと信じることは、幻想であり欺瞞です。カトリック信者としての私たちの義務は、城塞に留まり、敵の攻撃と城塞内に侵入した裏切り者たちの破壊的行為に対抗するために、自由に使えるすべての手段を使って、命を捧げる覚悟をすることです」。
お返事をいただける方は、こちらのメールアドレス(blogducinaltum@gmail.com)をご利用ください。
***
Spelunca latronum
盗人の巣
カルロ・マリア・ヴィガノ
10月6日、「Duc in altum」に、「ヴィガノ大司教の発言の周辺にある問題点」と題するコメントが掲載されました。
「ヴィガノ大司教の発言の周辺にある問題点」の著者は、「教皇に対する非常に重大な告発を口にする人々が、自分たちが悪魔的だと考える組織の内部で自分たちの信仰を告白し続けることは絶対に論理的であり、私がほとんど正常だと言ってもよいと考えていることが、受け入れられるのでしょうか?」と書いています。
ベルゴリオに対する告発は、私たちの主がそのかしらであるキリストの教会の肢体(メンバー)に対して、何ら影響を与えるものではありません。また、私は教会が「悪魔的な組織」になったと断言したことは決してありません。その組織とはむしろ、教会の最高指導者たちの裏切りによって、教会の上に重ね合わせられた教会の偽物なのです。人々をつまずかせ、これまで聞いたことのないものとみなされるべきなのは、私には然るべきものと思われる「教皇に対する非常に重大な告発」ではなく、むしろ教会で権威を行使する者が、キリストとキリストがお委ねになった群れにとっての敵であったという正体を現し、さらに、実は彼の共犯者である位階階級が、耳の聞こえないかのような沈黙を保っているという事実でしょう。
教会は、責任者に同意しない場合には捨てると決めることのできるような団体ではありません。むしろその逆が正しいのです。教会のトップである者には、キリストがご自分の代わりに教え、守るように命じられたことに、「verbo et exemplo」(言葉と模範によって)自分を合わせる義務があるのです。キリストは彼に、教会を破壊し、信者を散らすための絶対的な権力をお与えになったのではありません。
位階階級が異端となっている教会を去らなければならないのは、カトリック信者ではなく、むしろ天主の代理権を濫用し、私たちの主によって立てられた目的そのものに反する形で、その代理権を使用する権力を簒奪している、羊の皮をかぶった狼と偽預言者たちなのです。
著者はこう続けます。「教皇が枢機卿たちとともに、地上におけるキリストの代理人をこのように攻撃する者たちに対して、全く関心を示さないということが、受け入れられるのでしょうか?…しかし、怪物のように感じられるのは、何よりも、最高位から始まる位階階級の沈黙です。それはあたかも家族の中で、母親が、不道徳や不誠実や無知で非難されるのを子どもたちが毎日見ているようなものですが、同時に、この女性がそのような悪事の前に反応しないばかりか、自分に対して言われていることに全く無関心であることを、子どもたちが呆れながら観察しているようなものです」。
ベルゴリオと彼の最高法院(サンヘドリン)によって示された、拡大する背教についての十分に検討された多くの非難に対する無関心――「この点で、(使徒的勧告)「アモーリス・レティチア」(Amoris Laetitia)のさまざまな点について何人かの枢機卿が出した「ドゥビア」(dubia)に直面しながらも、教皇が耳の聞こえないかのように沈黙していることに、どうして言及せずにいられるでしょうか?」――は、これらの人々が、キリストの花嫁の名誉を守ることに関心がないことを示しています。それどころか、彼らの故意の意図は、花嫁の名誉を傷つけ、屈辱にさらし、花嫁にふさわしい王妃としての栄誉を否定した上で、花嫁を奴隷として提示することであることを裏付けています。そして、次は、カトリック・アイデンティティー会議でのマイケル・J・マットとのインタビューにおいて、私が断言したことです。
著者はさらに筆を進めます。「自分の母親が辱められ、使用人が母親の悪名と中傷をさらし、その三重冠と王衣をはぎ取り、宝石を盗んで財物を売りさばき、母親に強制して泥棒や売春婦と暮らさせ、さらには王位を取り上げ、不名誉な状態に打ち捨てるのを、無表情で見ていられる息子がいるでしょうか?」
私たちの誰もが、「自分の母親を非難する」つもりはありません。むしろ、王の不在中に、神聖な義務と誓いを立てた荘厳な誓約を裏切って、王の花嫁に怒りを表す者たちから母を守るつもりなのです。教会の役務者たちの過失の責任が教会にあると考えないように注意しましょう。教会はキリストの神秘体であり、腐敗しているものは教会に属さないのですから、教会は聖なるものです。しかし、至聖なる童貞が十字架のふもとで天主なる御子のご受難にあずかられたように、教会も――何世紀にもわたって個々のメンバーにおいて、また終末においてはその神秘体全体において――カルワリオの道に沿ってそのかしらに従い、「教会の受難」(passio Ecclesiae)を生きなければならないのです。
私たちの主が商人たちを神殿から追い出し、両替人のテーブルをひっくり返してしまわれたとき、主はこう言われました。「『私の家はすべての民の祈りの家と言われる』と書かれているではないか。あなたたちはそれを『盗人の巣』にしたのだ」(マルコ11章16節)。天主なる花婿は、花嫁を「盗人の巣」と呼ぶことで侮辱するおつもりだったのでしょうか、あるいはむしろ、悪しき商人たちのせいで花嫁がさらされた屈辱を糾弾し、終止符を打つおつもりではなかったのでしょうか?
私たちは、聖なる洗礼とそのままの信仰告白のゆえに、教会の子です。教会は唯一の救いの箱船ですから、私たちには教会に留まって戦う権利と義務があります。逆に、放り出されるべき者たち――すでに神秘体の一部ではない者たち――は、異端の教理を教えることにより、また不道徳で倒錯した行為によってつまずきを与えることにより、日々教会を傷つける者たちの方なのです。
私たち自身の望みに従って教会を作ることが可能だと信じることは、幻想であり欺瞞です。カトリック信者としての私たちの義務は、城塞に留まり、敵の攻撃と城塞内に侵入した裏切り者たちの破壊的行為に対抗するために、私たちが自由に使えるすべての手段を使って、命を捧げる覚悟をすることです。王が戻られるとき、私たちは、私たちの忠誠と、キリストの兵士として教会を敵から守るために行った戦いに基づいて裁かれるでしょう。敵どもがいて、その邪悪な働きがあることについて沈黙するならば、私たちは敵どもの共犯者になってしまうのです。
+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ
2022年10月9日
聖霊降臨後第十八主日
初出「Duc in Altum」
【参考資料】ヴィガノ大司教の発言の周辺にある問題点
2022年10月10日
Questions in the Margins of Archbishop Vigano’s Statements
【解説】ある読者がヴィガノ大司教の発言を読み、カトリック教会の現体制を非難しているが、同時にカトリック教会の一員であり続けていることについて、ヴィガノ大司教に疑問を投げかけた。この読者は、カトリック教会を人間的に見すぎていて、天主の創立した、天主の教会という側面を忘れているようである。あたかも普通の会社や団体であるかのように見ている。そこから疑問が生じた。カトリック教会のかしらは、イエズス・キリストであり、教皇を始めとする聖職位階はキリストの代理にすぎない。キリストの後継者ではない。ヴィガノ大司教は、後に彼の疑問に答えて、母なる教会を非難しているのではなく、母なる教会を裏切っている人々を非難している、と言うだろう。
ブログ:アルド・マリア・ヴァッリ
ファビオ・バティストン
ヴィガノ大司教が「カトリック・アイデンティティー会議」のためにマイケル・J・マットに公表したインタビュー記事を、私はブログ「Duc in altum」(沖に漕ぎ出せ)で読み終えたところです。
大司教の発言のトーンや内容について、ここでコメントするつもりはありません。大司教の断言は、第二バチカン公会議の実体と解釈の間に差異があることに関するいくつかの問題点に集中していますが、それでも大司教の発言は「教会」という大きな問題に対する私の見方といつも一致しています。
私が提案したいと思うのは、そのことではなく、ヴィガノ大司教とカトリック教会の現体制との関係を典型例とする、ペトロの舟が今日置かれている「状態」に関する、もっと全般的な考察です。ヴィガノ大司教は、カトリック教会の現体制と対立していますが、同時にその一員であり続けています。したがって、具体的な立場による利益を別にして考えれば、いくつかの問題点が心に浮かんできます。
聖にして母なる教会の高位者と、現職の教皇である(権威的、教理的、司牧的な)人物の間に、これほど大きな意見の相違があった場合、過去数世紀には何が起こったでしょうか? 一方では、母なる教会の川床の内に留まろうとする「反逆者」の意向、他方では、自らの特権を守るために組織権力が用いたであろう手段、これらのことからどのような結果が導き出されたでしょうか? 歴史はこの種の例を数多く与えてくれています(完全に教会内部に限定しており、政治の権力と教会の権力の衝突には触れません)。これらの衝突は、ほとんどの場合、破門、教会を去る人々、離教、断罪、そしてお互いが公に異端の非難を行うことになり、公然かつ深刻な矛盾を生じさせました。私が言いたいのは、こういったときにはすべて、論じる立場の善悪とは関係なく、教会は、強さ、活力、原則の擁護、そして誤謬への対応を示し、そこから常にさらに強く、さらに復元力が増してきたということです。
しかし、その代わりに、この数年間に何が起こっているのでしょうか? 「ヴィガノ事件」に限って言えば、私たちに分かるのは、一人の有力な高位聖職者が、言葉を濁すこともなく、外交的駆け引きを用いることもなく、現職の(reigning)教皇(この形容詞は、サンタマルタ館の現住人には特に歓迎されません)をサタンの使者として扱っていることです。新異教主義、背教、汎神論などは、教皇に追加された副次的な罪状です。
同じ大司教が、ベルゴリオの選出は、メーソンの世界支配勢力(例の「ディープ・ステート」)のお金の支払いを受けてなされたコンクラーベが裁可した、全く無効なものであると、自らの立場を裏付ける豊富な論拠をもって主張しています。このすべての主張は、いたるところにあるマスメディアの装置によって増幅されています。一方で、私たちは、これらの告発が重大であって繰り返されているということを完全に無視するかのような教皇の振る舞いに気づいて、呆然としています。2013年に【コンクラーベで】ブエノスアイレスの大司教に投票したすべての人々【枢機卿たち】の沈黙にも気づくなら、私たちは同じ悲しみを抱きます。
しかし、こういった態度は孤立した【大司教に限った】ものではありません。この点で、回勅【実際は使徒的書簡】「アモーリス・レティチア」(Amoris Laetitia)のさまざまな点について何人かの枢機卿が出した「ドゥビア」(dubia)に直面しながらも、教皇が耳の聞こえないかのように沈黙していることに、どうして言及せずにいられるでしょうか? 私は次のように問いかけます。これは、どのような教会なのでしょうか?
教皇に対する非常に重大な告発を口にする人々が、自分たちが悪魔的だと考える組織の内部で自分たちの信仰を告白し続けることは絶対に論理的であり、私がほとんど正常だと言ってもよいと考えていることが、受け入れられるのでしょうか? また、教皇が枢機卿たちとともに、地上におけるキリストの代理人をこのように攻撃する者たちに対して、全く関心を示さないということが、受け入れられるのでしょうか? そして、はっきりさせておきたいのは、私がヴィガノ大司教に提案している、この教会の内部にとどまるかどうかという問題点は、私にとっても、ここ数年、自分がこのままでいるのがますます難しくなったと思っている教会の状況の中で生きることを不快に感じてきたすべての人々にとっても、非常に自分の身にかかわる問題だということです。
しかし、怪物のように感じられるのは、何よりも、最高位から始まる位階階級の沈黙です。それはあたかも家族の中で、母親が、不道徳や不誠実や無知で非難されるのを子どもたちが毎日見ているようなものですが、同時に、この女性がそのような悪事の前に反応しないばかりか、自分に対して言われていることに全く無関心であることを、子どもたちが呆れながら観察しているようなものです。子どもたちはどう感じるのでしょうか?
私は、これまで数々の問題点を問うてきたこと、またそれを自問してきたことに気づいています。その問題点とは、どう答えればいいのか私には分からないもの、また、この教会にとって、そして個人的な疑惑や優柔不断、恐れ、罪の真っただ中で、まだ教会の一部である私たちにとって、近い将来はどうなるのかについての不安感を日ごとに膨らませているものなのです。
紀元3世紀のカルタゴの司教、聖タシオ・チェチリオ・チプリアノは、教皇ステファノ二世への手紙の中で、後に教義となる有名な言葉「Extra Ecclesiam nula salus」(教会の外に救いなし)を記しています。この原則は今でも基準です。しかし私は、第三千年紀の初頭には、「どの」教会の外のことなのか、と問わないわけにはいかないのです。
初出「Duc in altum」