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2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

マリア様とかけ離れている私たちはどのようにしたら良いのか?

2022年10月07日 | お説教・霊的講話

2022年8月14日(主日)聖霊降臨後第十主日のミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父説教(大阪)

聖父と聖子聖霊との御名によりて、アーメン。

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2022年8月14日、聖霊降臨後第十主日のミサを行なっております。
このミサの後に、いつもの通り聖体降福式があります、皆様をご招待致します。

明日は8月15日、聖母の被昇天です。やはりここで午前10時半からミサがあります。そしてミサの後には聖母行列も行ないたいと思っています。皆様の参加をお待ちしています。

マリア様は8月15日には、特に日本には、特別の恵みを与えようとしておられます。明日は私たちにとって特別の御恵みの日です。聖フランシスコ・ザベリオが日本にやって来たのも8月15日、そして第二次世界大戦が終結したのも8月15日でした。

明日も三位一体の天主は、マリア様の御手を通して皆様に、皆様の家族に、皆様の霊魂に、特別の御恵みを満ちるばかり与えようとお待ちです。ですからどうぞ、ますますマリア様に寛大に、イエズス様に寛大に、明日の被昇天の大祝日には是非、マリア様を心から讃美するようにして下さい。

愛する兄弟姉妹の皆さん、では私たちは明日の聖母の被昇天の準備を続けていくことにしましょう。

今日の聖霊降臨後第十主日のミサは、まさに聖母被昇天の御恵みをよく受ける為にこれほど相応しいものがあるか、というほどの相応しいミサです。

私たちは金曜・土曜と、マリア様の被昇天を、なぜマリア様がどうしてこれほどまでの高い栄光をお受けになったのか、イエズス様のすぐ横におられ、そしてすべての天使を越えて、天と地の元后として上げられたのか、その秘密を一緒に黙想してきました。

一つは、マリア様の「ご謙遜」でした。もう一つは、マリア様のその「聖徳」、つまり、「主の御旨をいつも果たしてきた」ということ、罪がなかったということ。謙遜と、罪のなさ汚れのなさ、そして聖なる徳でした。

すると、では私たちは一体どうしたら良いのでしょうか?
マリア様の天の栄光を讃美して、それだけなのでしょうか?

いえ、マリア様は私たちを天に招いておられる、私たちもマリア様のおられる天に行く為にこそ、教会は被昇天を私たちが祝うようにとして、教会はいつも私たちの心を天に上げさせてくれている、ということを黙想しました。では、私たちはどうしたら良いのでしょうか?

何故かというと、私たちはマリア様と違って、罪を犯した身であるからです。この地上で最も最悪の時代に落ちてしまったからです。たとえ私たちが病気をしても、たとえ私たちが怪我をしても、たとえ私たちが財産を失っても、取り返しがつきます。

しかし、大罪を犯して聖寵の状態を失ってしまう、そして天国への道を閉ざしてしまうのならば、地獄に行ってしまうのであれば、永遠の命を失ってしまうのであれば、これほど不幸な事はありません。この世で私たちが起こりうる最悪のこととは、罪を犯すことです。これ以外の悪はあり得ません。なぜかというと、天主を失ってしまうからです。

では私たちは、このようにマリア様とかけ離れている私たちは、どのようにしたら良いのでしょうか?
その答えは、今日のミサにあります、二つあります。

一つは「集祷文」にあります。集祷文では、天主は全能である、全てがおできになる。全てがおできになるその全能は、どのように表されるかと言うと、最高度に表されるのは、「憐れむこと」によって、「赦すこと」によって、それが私たちに示される。天主は全能であることを示したいと思って、憐れみたい、赦したいと思っておられます。

では、このその「憐れみ」ということはどういうことなのでしょうか?

憐れみというのは、憐れな人を、その憐れな状態から救い出してあげて、そしてそのもはや憐れでないようにして、高めて下さる、これが憐れみです。憐れな人をその憐れなままに、汚ないままに、「さあ、そのままでいなさい」というのが憐れみではありません。それは残酷です。

天主は、私たちがどのような惨めな、もう手を付けられないような状態であっても、全能の力を以って、そこから救い出して高めて下さる、つまりマリア様のおられる天の国に上げて下さることができる、ということです。これこそが天主の全能です。「憐れみ」と「赦す」ことによって、最高度に示される憐れみです。

第二の回答は、今日の「福音」に表れます。それは、憐れみを受ける為にはどうしたら良いのか、という秘密です。天主は、全能、憐れむことによって示されますが、では私たちはどうやったら憐れみを受けることができるのでしょうか?

その秘密は、「謙遜」です。謙遜というのは、私たちが天主の与えられたその地位に留まり、それを超えることなく、それを感謝して受けることにあります。私たちが与えられた地位というのは、天国に行くべき地位でした。しかしこれは自分の力でというよりは、天主の憐れみによって行くべき所です。これを認めることにこそ、私たちの謙遜があります。私たちが認めるべきことは、私たちは罪を犯した罪人である、もう主に逆らってしまった身である、ということを素直に認めることです。

そこで今日の税吏は、どうやって主から憐れみを受けるべきか、ということを模範を示してくれました。その罪を認めて、主の御前に出ることさえも価値がないと自覚しつつ、目を天に上げることさえもせずに、うつむいたまま、「主よ、天主よ、罪人である私を憐れみ下さい。」たったそれだけでした。「罪人である私を、憐れみ下さい。」

この税吏はどれほど多くの罪を犯したことでしょうか。あるいは今までやるべきことをやってこなかったでしょうか。しかし、そのことを天主はきれいに忘れて、義とされて、その男は家に帰って行きました。

それに引き換え、良いことをやったはずの、きちんと守ってきたはずのファリザイ人は、それを自慢して、他の人を軽蔑したが為に、そのまま捨てられてしまいました。

ここに私たちの取るべき模範があります。今日私たちもミサに与りつつ、この税吏の言葉を一緒に、心の中で繰り返して主に祈ることに致しましょう。「主よ、罪人である私を憐れみ下さい。」マリア様にも、「罪人である私を憐れみ下さい。」私たちの心が謙れば謙るほど、砕かれれば砕かれるほど、自分に空っぽになればなるほど、ますます主は私たちを御自分の御恵みで満たして、そしてマリア様のような高い地位に引き上げて下さるに違いありません。

マリア様にお祈り致しましょう。そのマリア様の持っていたご謙遜を、私たちも真似ることができますように。では、明日の準備を良くすることに致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


聖母は主の御旨を完璧に果たされた。聖母は主の婢女(はしため)として「仰せの如く我になれかし」を完全に実行された。

2022年10月07日 | お説教・霊的講話

2022年8月13日(土)聖母の土曜日のミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、
あさって8月15日は聖母の被昇天です。その準備を致しましょう。

昨日は、マリア様が天の最も高い栄光に上げられたその理由、「ご謙遜」について黙想しました。
マリア様が、ご自分が被造物であって、主の婢女であるということをよくご存知であった、マリア様が私たちの、天主によって与えられた地位が、主の御旨を知り、それを愛し、主に奉仕するためにあって、そしてそうすることによって天国を受けるべき者となる、という地位のことをよく知っていた、と黙想しました。

今日は特にその続きを黙想することを提案します。マリア様は、「ご謙遜」であったと同時に、「主の御旨を完璧に果たされた」のです。それが為に、天の高き所に、最も高き所に上げられた、ということです。主の婢女(はしため)であり、「仰せの如く我になれかし。」それを完全に実行された、ということです。主の御言葉を聞いたのみならず、主の御旨を果たしたので、最も幸いな者となされた、ということです。

どういうことでしょうか?

「主の御旨を果たした」ということは、これは「罪を犯さなかった」ということです。
マリア様は、特別の特権を持って原罪の汚れなく宿られたのみならず、主の御旨に逆らって主を悲しませるようなことを、その影でさえもなさらなかった、ということです。

罪とは一体何なのでしょうか?罪とは、主の御旨に、「ノー!嫌だ!」と言うことです。

一体誰が罪を犯したでしょうか?悪魔が罪を犯しました。悪魔はどうやって罪を犯したのでしょうか?悪魔というのは、元々は天主から創られた最も美しい最高の天使たちでした。人間よりもはるかに能力がある天使たちでした。光の天使たちでした。

ところが、一回だけ、天使たちに試練が与えられました。天主の御旨に従順であるか、否か。天主の御望みを果たすか、果たさないか。一部の天使たちは、あまりにも自分が受けた御恵みが偉大だったので、知性が素晴らしかったので、意思があまりにも強かったので、能力があまりにも高かったので、これは自分が当然のものであるかのように錯覚していたかのようです。これに思い上がって、天主に「ノー!」と言いました。「嫌だ!それはできない。」全ては天主から頂いたにも関わらず、その主の御旨を果たそうとしませんでした。その能力を主の為に使おうとしませんでした。

その結果は、全てを、天主を失って、地獄へと落とされる、永遠の破滅へと行かなければなりませんでした。

三位一体は、天使たちをどれほど美しく、どれほど知性で飾り、どれほど能力で飾り、どれほどの御恵みを与えてきたことでしょうか。しかし、たった一度の逆らいに、それを全て地獄へと落とすに十分でした。天主にとって何の惜しくもありませんでした。もちろん、悲しかったとは思います、天主は。残念だったとは思います。

しかし、天使たちがこれほどの大恩人である三位一体に逆らう限り、自ら天主を拒む限り、一体どうすることができたでしょうか。天使たちは悪魔になっていったのです。天主から離れていきました。地獄の方に落ちていきました。「天主に仕えない!」

一度の罪で、天使たちは永遠の罰を受けるに相応しい者となってしまいました。傲慢の罪でした。

罪を犯したのは悪魔だけでしょうか?いえ、悪魔だけではありません。人間も罪を犯しました。アダムとエワ以降、全ての人が、私たち全ての人間が、罪を犯しました。

アダムとエワは、人類の最初で、私たちと同じように創られたのですか?

そうではないのです。アダムとエワは、人類の父となり母となるが為に、特別の御恵みを受けて創られました。超自然の恵み、自然外の恵み、つまり不死の恵み、苦しまない恵み、そして動植物を支配する恵み、病も死も苦しみもなく、そして自分の能力を全て理性においてコントロールする恵み、自然に関する広大な知識、動植物の秘密に関する莫大な知識、全人類を教えるにふさわしい父親として、母親として、特別の能力が与えられました。

では、よっぽど天主様はアダムとエワに厳しい、「これをしたらダメ、ダメ、ダメ、ダメ」という掟を与えたに違いありませんね?

そうではなかったのです。アダムとエワは全てが与えられて、全く自由にすることができました。アダムとエワが守らなければならなかったものは、本当に簡単なものでした。地球上のありとあらゆる全ての木と実を自由にしてよかったけれども、ただ一つ、善と悪の知識の木の実だけは、これは食べてはいけない。なぜなら、そうすると死ぬから。

その木の実を食べる必要もなかったし、必然性も全くなかったし、とても簡単なものでした。たったそれをするだけで、永遠の命を得るという特別の御恵みが与えられていました。

では、アダムとエワは簡単にこれを守ったに違いありません。

アダムとエワは簡単にこれを守ることができたはずでした。しかし、守らなかったのです。アダムとエワは、天主よりも悪魔の言葉を信じて、悪いと知りながら、必要もなかったにもかかわらず、天主に背いて、罪を犯しました。まず、エワが、次にアダムが。謝る機会が、謝罪をする機会が与えられました。しかしそれをすることをしませんでした。説明に機会が与えられたにもかかわらず、それを他人のせいに、天主のせいに、なすりつけました。

そのたった一度の罪の為に、アダムとエワ、そしてその全子孫の為に、超自然の御恵みが全て無くされました。それを受けるに相応しい者となりました。そしてもうこれで天使たちが受けたと同じように、私たちももうこれで永遠の命に相応しくない者となって、地獄に永遠に焼かれる身となって当然のことでした。

それにもかかわらず天主は、天使たちには与えなかった特別の特権を、人間に与えました。天主は人となって、救い主となって人間となって、救いに来る。罪の赦しの為に、救いに来る。そしてアダムとエワはその後、残る人生を、何百年という人生を、罪の償いの為に、祈りと償いの人生を送りました。死に至るまで送りました。その責任を取って、厳しい生活を送りました。

では、私たちは一体どうなのでしょうか?

天使たちは、傲慢の罪で地獄に落ちる者となりましたけれども、私たちは傲慢の罪以外に、肉の罪、貪欲の罪、貪食の罪、悪口、冒瀆、不信仰、あるいはその他ありとあらゆる罪を犯してきました。天使がもしもたった一つの傲慢の思いで、天主にノー!と言ったが為に、永遠に不幸を受けることになってしまったのならば、私たちはどれほどこの不幸を受けるに相応しい者でしょうか。

アダムとエワは、たった一つの罪を犯した後に、その罪の結果があまりにも大きいことを、まさか、これほど愛されたので、まさかそれほどのことが起きないだろうと思っていたかもしれません。しかし、その結果、ものすごいことが起こったことが分かり、償いの生活を始めました。

アダムは、たった一度の罪で償いの生活を始めましたが、私たちは一体どうなのでしょうか。多くの罪を犯しましたけれども、まだ罪を犯し足りないかのように、ヘラヘラとしています。

マリア様はどうだったのでしょうか。

マリア様は、イエズス様と共に、私たちの罪の償いを捧げる「共贖者」として、全く罪の汚れがなく、苦しみを当然受けるということがなかったにも関わらず、天主から苦しみを与えられました。極めて大きな苦しみを与えられましたが、それをマリア様は、「我、主の婢女なり。仰せの如く我になれかし」と捧げられました。

マリア様ではなくて私たちこそが苦しみ、そして馬鹿にされ、軽蔑を受け、償いを果たさなければならないにも関わらず、私たちに代わって、私たちの受ける何十倍、何百倍もの苦しみを、主と共に苦しまれました。

罪のない方マリア様が、全く罪の汚れがない方であるにもかかわらず、私たちに代わって苦しみを捧げられた方であるからこそ、天の最も高い所に上げられました。イエズス・キリストのすぐ傍にまで上げられました。

マリア様のその被昇天の秘密はここにあります。罪の無さ、天主への従順、ご謙遜。

マリア様に捧げられた土曜日、ぜひマリア様の特別の御取り次ぎを乞い願いましょう。私たちは、マリア様の罪の汚れなさにはとても真似することができませんけれども、しかしマリア様の御取り次ぎで、「主の御旨を果たそう」という、その為に主から送られる十字架を御捧げする力が与えられますように、謙遜の力が、謙遜の徳が与えられますように、自分がどんな身分であるかということを、地位にあるかということを、よくわきまえ知ることができる御恵みを乞い求めましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


聖母はなぜ天の最も高い栄光を受けられたのか?聖母が今喜んでおられるその永遠の幸せというのは一体どのようなものなのか?

2022年10月07日 | お説教・霊的講話

2022年8月12日(金)童貞聖クララのミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

きたる8月15日は聖母被昇天の大祝日です。
私たちは今日から、聖母被昇天の祝日を準備致しましょう。

マリア様は、天の最も高い栄光を受けられました。天と地の元后。御霊魂が肉体を離れたその瞬間、肉体の腐敗をみることのないように、肉体も霊魂とそのまま天に高く上げられました。マリア様は今では御自分の肉体を以って天国の最も高い所に、天使たちよりもはるかに上に、聖人聖女たちをはるかに凌いで、私たちの主イエズス・キリストのすぐ隣に栄光を受けておられます。

一体、なぜそのような栄光をマリア様は受けられたのでしょうか?
一体、マリア様はなぜ、どのようなことをしたが為にそうなったのでしょうか?

一体マリア様の被昇天は私たちに何を教えているのでしょうか?

マリア様が今喜んでおられるその永遠の幸せというのは、一体どのようなものでしょうか?

今日そのマリア様の栄光を受けた秘密を一緒に黙想致しましょう。

【聖母はなぜ栄光を受けられたのか】

マリア様はその天の最も高きに上げられる功徳がありました。それはまず、マリア様がいつも、「我は主の婢女なり。仰せの如く我になれかし」と言い続けてきたからです。天使ガブリエルにお告げを受けた時に、はっきりとそう仰いました。しかしそれはただ一回だけのことではなくて、御生涯に渡って、いつも、仰っていた言葉でした。「私は主の婢女(はしため)である。主から造られた被造物であって、全く無に等しい、奴隷と同じものである。主の婢女。仰せの如く我になれかし。主の御旨がなされますように」と。

これは、別の言葉で言うと、マリア様の「ご謙遜」でした。マリア様はマニフィカトの時に、「私の霊魂は主を崇め、私の精神は主を崇め奉る。なぜなら主は、私の卑しさに目をとめられたから。見よ、今より後、人々は私のことを幸せな者と言うでしょう。」

なぜかというと、主がどれほど、なぜマリア様がこれほど幸せな方かというと、永遠の、最高の栄光を受けたかというと、主は聖母のご謙遜に目をとめられたからです。聖母のご謙遜とはつまり、ご自分が主のしもめであるということを、いつも自覚していたということです。

どういうことでしょうか?これは、マリア様が私たちの存在を、私たちが今ここに在る秘密を、私たちがどうしても変えることができない真理を、いつも知り、自覚していて、それの通りに生きておられたということです。

一体どういうことかというと、私たちは自分でこの世に出て来た、自分の力でこうやってこの世にいるのではないということです。私たちは、主によって生かされている、主によって在らしめられている、私たちが今ここにこうしているのも、自分が力んだからではなくて、そうではなくて、主が私たちを今ここに存在するように、こうして生きていることができるようにして下さっているから、そのおかげで私たちは今こうしているということです。

私たちが今受けている全ての良いものは、全て主から無償で与えられている、私たちは無だけれども、今在らしめられている、全ては主に依存している、ということです。私たちが持っている全てのものは主から与えられたものであって、私がそれを所有しているのでもなく、それを作り出したのでもない、ということをマリア様は理解していたのです。

マリア様は、天主のみが受けるべき持っているその栄光を、その権利を横取りしようとはしませんでした。自分のものだとは仰いませんでした。ただ、それを素直に認めて、「私は、全てを主から受けたので、主の婢女である。主の御旨を行なうが為に、ここに今生きているものである」ということをはっきりと認めて、それを実践されたということです。

【何の為に私たちは今、ここに生きているのか】

では一体、天主は何の為に私たちを無からここに今生活するようにして下さったのでしょうか?
私たちは何の為に生きているのでしょうか?
私たちは主から創造を受けて、一体どこに向かっているのでしょうか?

それは、マリア様の被昇天が私たちに教えてくれています。
私たちが今生きているのは、天国での永遠の幸せを受ける為である。三位一体の限りのない至福を私たちが分かち合って、永遠に喜ぶ為である。その為に私たちは無から創造された。その為に、私たちがその永遠の命に辿り着くことができる為に、私たちはこの地上での命を与えられた、ということです。

マリア様はよく知っていました。私たちの人生は、二つの部分に分けられる。

この人生の最初の部分は第一の部分は、有限です。マリア様はおそらく60年か70年、もしかしたらご健康で80年、この地上での生活を送られたかもしれません。イエズス様は33年、ある人は100年、ある人は健康が与えられて120歳。しかし、どのように長く生きたとしても、しかし終わりがあって、有限であって、第二の部分と比べると、あっという間の儚いものです。

なぜかというと、第二の部分は、私たちがその為に造られた、今生きている、マリア様が今それを味わい、楽しんでおられる第二の部分、私たちもその為に生きているその第二の部分は、終わりがないからです。無限であるからです。無限の天主の命の喜び、それを得る為に造られました。

ほんのちょっとした短い人生と、無限の永遠の命。

聖母の被昇天は、「さあ、子らよ、私の元にいらっしゃい。永遠の命の為に、おまえたちはこの地上で、涙に谷に生きているのだ。しかし、この涙の谷はあっという間に終わって、喜びが待っている。私と天使たちと諸聖人たちの喜びが待っている。さあ、ここに必ず辿り着きに来なさい」とお祈りして下さっています。

【聖母の受けた幸せとは】

では、マリア様が今喜んでおられるその永遠の幸せというのは、一体どのようなものでしょうか?
マリア様は私たちにどのようなものを与えようと、イエズス様に取り次いで下さろうとしているのでしょうか?

もしも私たちが、人生で一生忘れられないという、とても喜ばしい、嬉しい、楽しい時間があったとします。そしてもうこれほど嬉しい時はなかった、これほど喜びに満ちた時がなかった、皆と一緒に練習をして、競技で優勝したあの瞬間、あるいは一緒に山に登って見えた山頂からの美しい姿、それらの最も美しい幸せな瞬間を全部集めて、そして世界中で色々な人々が持っていた最も美しい喜びの幸せの瞬間を集めて、そして私たちが想像できる友情、あるいはお父さんとお母さんの子供への愛情、あるいは夫婦の愛情、あるいは想像できる全ての最も崇高な祖国への愛などを集めて、凝縮させて、それを何倍にもして、私たちにマリア様はそれを与えたとしたら、私たちはその喜びにとてもあまりにも喜びで耐え切ることができなくて、もう目からは涙がボロボロとこぼれて、「マリア様、本当にこんなに幸せをどうして私が受けることができるのでしょうか。マリア様、本当にこの全てのこの喜びを何と感謝したら良いでしょうか」と申し上げたとします。するとマリア様が、「これは、天国の喜びのまだほんの一滴に過ぎません。これは、もしも天国の喜びをすぐ与えると、きっとその為にそのまま死んでしまうかもしれない、心が破裂してしまうかもしれないので、それはまだほんの序の口、匂いだけだ。」

では、ちょっと味見をしたらどうなるのでしょうか?その味見も、私が先ほど申し上げたことの何十万倍、何百万倍、何千万倍の喜びと、天使たちの全ての喜びを集めたような喜びを私たちが垣間見たとしても、それでもまだ、天国の味見にしか過ぎない、ときっとマリア様は仰るに違いありません。

なぜかというと、天国の喜び、栄光というのは、「天主御自身」であるからです。天主御自身が私たちのものとなって、天主御自身が私たちの報いとなるからです。つまり無限の善、計り知れない富、永遠の喜び、私たちが今想像さえも、目にも、耳にも、頭にものぼることさえもできないものすごい計り知れない喜びの為に、私たちは生きている、ということを被昇天のマリア様は私たちに仰っています。その為に今、この地上での生活を、謙遜に、主のしもべとして、主の御旨を果たす為に生きているのだ、とマリア様は仰っています。

ですから、教会は私たちに、マリア様の被昇天をよく祝うように励ましています。心をいつも天に上げることができますように。イエズス様も私たちに、祈る時にはこう祈れと言いました。「天にまします我らの父よ、」心をいつも天に上げておくことができるように。

聖パウロも言っています、「あなたたちがキリストとともによみがえったのなら、上のことを求めよ。キリストはそこで、天主の右に座しておられる。あなたたちは、地上のことではなく、上のことを慕え。」
Si consurrexistis cum Christo: quae sursum sunt quaerite, ubi Christus est in dextera Dei sedens: quae sursum sunt sapite, non quae super terram

マリア様のいらっしゃる天のことを、天国のことを高く仰ぎ、そして慕い、そしてマリア様の栄光を讃美致しましょう。そしてマリア様のおられる所に私たちも、聖母の御助けによって辿り着くことができますように、お祈り致しましょう。

今日は聖クララの祝日です。聖女クララに、その特別の御恵みを乞い求めましょう。良い聖母被昇天を迎えることができますように、特に御取り次ぎを乞い求めましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
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