Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

良きサマリア人であるイエズス・キリストは、憐れな罪びとをその憐れな状態から救い出そうとする。私たちは憐れな罪びとであることを認めてくいあらためて、憐みを乞わなければなければならない。

2022年10月15日 | お説教・霊的講話

2022年8月28日(主日)聖霊降臨後第十二主日のミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父説教(大阪)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、聖霊降臨後第十二主日のミサを捧げています。

今日8月28日は、聖アウグスティヌスの祝日でもあります。
良きサマリア人の例えの話を、聖アウグスティヌスの解釈によって一緒に黙想致しましょう。

【良きサマリア人:イエズス・キリスト】

聖アウグスティヌスによれば、このエルサレムからエリコに行く途中に強盗に襲われた、そして半死半生になってもう息絶え絶えになっていたこの人は、人類の象りだと言われています。強盗は悪魔であって、私たちに罪を犯させて、そして聖寵の衣を剥ぎ、天主の命を奪っていきました。道でぐったり倒れている人類に対して、ユダヤ教の司祭も、レヴィ人も、何もすることができませんでした。何もしないばかりか、通ってその男を見ると、見ないふりをして、道を避けて、別の方に行ってしまいました。近寄りもしませんでした。全くの無力であるということを示しています。

しかし、イエズス・キリストは、人類を救う為に旅を、天から地上への旅をされていました。
イエズス様はユダヤ人から悪口を言われていました。「彼はサマリア人だ」と。
サマリア人とうのは、ユダヤ人にとって最大の悪口でした。何故かというと、ユダヤ教を信じていない、エルサレムでの神殿で礼拝しない、破門されている。
イエズス様はそのような悪口を言われていましたが、自分はサマリア人ではない、とは言いませんでした。そのような悪口を逆手に取ったかのように、良いサマリア人を例えに出します。

このサマリア人は、この死にかけてぐったりしている人を憐れに思い、近付いて、ブドウ酒で傷口を洗って、そして油を注いで癒して、そして宿屋に連れて行って、自分で看病します。その次には翌日には、宿屋の主にお金を渡して、高額のお金を渡して、看病するように、と言います。

まさにこれは、イエズス・キリストの象りでした。
イエズス・キリストが御自分の御血を以って罪を赦し、そして聖霊の賜物を以って罪を癒し、教会に秘跡を与えて、ミサ聖祭を与えて、私たちを癒すように、罪を癒すようにとお願いしたのでした。

【主の憐み】

日本のカトリック教会によると、日本語のミサが、今度は待降節から変わると聞きました。それによると、「キリエ・エレイソン」「主よ、憐れみ給え」と言うところを、「主よ、いつくしみを 主よ、いつくしみをわたしたちに」と変える、とのことです。「憐れみ」という言葉がなくなります。何故そのように変えなければならない必要があったのか、私には理解できません。

「憐れむ」というのは、言葉をよく理解すると「憐れな人を、その憐れな状態から救い出そうとする」ということです。ですから、惨めで、もう悲惨で、どうしようもない、ということを認めて、それに近付いて行って、そしてそこから救い出してあげたい、それが憐れみです。この苦しむ人と同じ、私も苦しんで、この苦しむ人が苦しまないように、その苦しみから救い出してあげたい。それが、憐れみです。

「憐れんでください」とこい願うことができるのは、自分が憐れな状態にいると言うことを認めているからです。私たちの憐れな状態とは、私たちが罪を犯したということです。罪人であると言うことを認めていることです。罪人である私たちを憐れんでくださいということです。この意味での「憐れみ」は、古語ではありません。古語の「もののあはれ」とは別の意味です。

ところで、現代人は自分を罪人であると言うことを認めようとしません。自分を憐れな惨めだとは思わず、自分が愛されることを当然の人権だと思っています。罪人でも天国に行く権利があるし、救われて当然だ、と錯覚しています。ですから天主の前で跪くことを拒否します。ですから、「主よ、憐れみ給え」と言うことができないのです。その代わりに、当然のこととして「慈しみを、私たちに」と要求するのです。

「慈しみ」というと、かわいらしいお花を慈しむとか、子犬が可愛いから慈しむとか、子供が可愛いらしいから慈しむとか、愛すべきかわいいものに愛を注ぐ心を意味します。慈しむ対象は、愛らしいものです。聖ヨゼフは「天主の聖母なる汚れなき童貞と結ばれたるいつくしみあり」と言われるように「いつくしみ」には「敬って大切に世話をする」という意味さえあります。

みじめで、悲惨で、手も付けられないような悪い状態を「いつくしむ」とは普通はいいません。そうではなく、悪い状態をかわいそうに思って「憐れむ」と言います。「あわれむ」と「いつくしむ」は、文語と口語の違いではありません。意味の違いです。

この良きサマリア人であるイエズス様は、罪を犯したがために惨めで憐れな人類に近付いて助けました。主は、悲惨な罪の状態を「いつくしむ」のではなく、みじめな罪の状態を「憐れむ」のです。

【罪と罪人】

ですからイエズス・キリストにとって、私たちは二つのことが区別されなければなりません。
一つは、私たちが「罪人」である、ということです。もう一つは、私たちの「罪」です。

イエズス・キリストは「罪人である私たちを、憐れんで下さる」方です。
ところで「罪人である私たちを憐れむ」ということは、この罪を捨てさせて「罪から救い出す、最も悲惨な罪の状態から救い出す」ということです。つまり「罪」を悪として忌み憎む、ということです。

つい最近、日本キリスト教団出版局からだされた「LGTBとキリスト教」という本を手する機会がありました。その本の中には菊地大司教様のコラム「その尊厳ゆえに尊重し、心を配るべき」が載っていました。

★★★★★★★★★★★★

菊地大司教様は次のように書かれておられます。
"2019 年 11 月に来日されたローマ教皇フランシスコは、2013 年に就任されて以来、「誰ひとりとして排除されない世界」を実現することを、優先課題とされています。東京ドームでのミサで教皇は、「わたしたちは、すべてのいのちを守り、あかしするよう招かれています」と述べて、自らの根幹にある価値観を明示し、「実際に目前にあるいのちを抱擁し、受け入れる態度です。そこにあるもろさ、さもしさをそっくりそのまま、そして少なからず見られる、矛盾やくだらなさをもすべてそのまま引き受けるのです。わたしたちは、この教えを推し進める共同体となるよう招かれています」と、すべてを包括する共同体であれと呼びかけられました。"(ママ)

大司教様はさらにこうも書かれていました。
"倫理の原則を前面に掲げ裁くことで、教会から排除されている性的マイノリティの存在にも目を向ける教皇は、「その人の性的指向にかかわらず、その尊厳ゆえに尊重し、軽蔑することなく受け入れるべきで、「不当に差別せず、いうまでもなくいかなる攻撃や暴力もあってはならず、心を配るべき」だと呼びかけています。"(ママ)

つまり大司教様は、原則を前面に掲げ裁くことで、教会から排除されているマイノリティの存在にも目を向けるべきであること、その人の指向にかかわらず、その尊厳ゆえに尊重し、軽蔑することなく受け入れるべきこと、不当に差別をせずに心を配るべきだと、言われています。

★★★★★★★★★★★★

しかし残念なことには、それを読むと、「罪人」ということと、「罪」ということの区別はありませんでした。罪が「罪である」とは言われていません。罪を恒常的に犯している状態を、すべてをそっくりそのまま肯定的に受け取らなければならない、そしてそれをそうすることが当然であるかのように書かれています。

ですから、それを読む人は錯覚してしまいます。自然に反する「罪」であっても、尊厳あるものとして尊重する、心を配って大切にする、愛すべきものとして「いつくしむ」べきである、と。「同性愛というのは、聖パウロは『そのような人は、天の国を継がない』と言っている。しかし、今はもうそうではなくなったのだろうか?」

【イエズス・キリストの福音「くいあらためよ」】

もちろんカトリック教会は誰ひとりとして排除しません。誰ひとりとして排除せずに、罪を痛悔することを求めています。何故ならこれこそが福音だからです。洗者聖ヨハネはこう叫びました。「くいあらためよ、天の国は近づいた」と。私たちの主イエズスも教えをのべはじめていわれたことはこれです。「くいあらためよ、天の国は近づいた」と。悔い改める、とは自分を罪人だと認めて、あわれみを乞うことです。

しかし、もしも罪を肯定的に受け入れるのならば、「くいあらためよ」という福音とは異なっています。
もしも罪を捨てなくても罪を犯し続けても尊厳があるものして尊重するのならば、「くいあらためよ」ではありません。
もしも罪人だったけれども悔い改めたので憐れんでくださいと祈る代わりに、罪はそのままでも尊厳がある尊重すべき存在なので、憐れな存在ではないので、「あわれみ給え」ではなく「いつくしんでください」と祈るのならば、主の福音を裏切っていることになります。

しかし同性愛の人や、あるいはそのような罪を犯すような人々は、非常に苦しんでいます。そのような生活から抜け出した時に、本当に幸せになった、と言っている方がたくさんおられます。このようなことは、マスコミでは言われませんが本当のことです。そのような人たちのことを本当に愛するのであれば、私たちはこのような人たちを、そのような状態からなるべく救い出してあげるようにしなければなりません。これが本当の愛徳です。それこそが、本当の主の憐れみです。

イエズス様は、憐れみの業を教会に任せました。罪を憎んで、罪人を愛するように。もちろん愛というのは秩序があって、まず自分の近しい人たちから愛を表していかなければなりません。しかし、もしも生きるか死ぬか、というような状態の時には、もちろんどのような人であっても、私たちはこれを助けるように、愛徳を実行する務めがあります。

聖アウグスティヌス、そしてマリア様に、良い御恵みを乞い求めましょう。私たちがぜひ、主の御助けによって、真の愛徳を実行することができますように。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。



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5 コメント

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「神のいつくしみの礼拝」についてご意見をお聞かせください (MICHAEL)
2022-10-15 22:26:52
聖ファスティナを通じて啓示された「神のいつくしみの礼拝」について小野田神父様のご意見をお聞かせください。

主は 「私は、正しい人のためよりも罪人のためにこそ気前が良い。彼らこそ(罪人達こそ)私の慈しみを必要としている」

「最も大きな罪を犯した人であっても私に憐れみを乞うならば私は彼に罰を与えることが出来ない。その代わりに私の限りない、そして計り知れない私の慈しみよって彼を義とする」 このように主ご自身が無限の計り知れない「私のいつくしみ」を求めよ、信頼せよ、礼拝せよ」と望まれておりますがどうしたらいいでしょうか?

主は「私のいつくしみを戸口を通りたくない人は、正義の戸口を通ることになる」とも言っておられます。つまり主のいつくしみ信頼したり、求めない人の死後は、厳しい主の正義の元に厳しく裁かれることになります。まさか神父様は後者を選択されるのでしょうか? 私は大罪人なので主の赦しといつくしみを求めたいと思います。

かのリジューの聖テレーズは、100年以上前に神のいつくしみ深い愛に生贄としてご自分をお捧げになりました。神の要求通り、罪人が神のいつくしみを求めることは悪いことなのでしょうか?
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Unknown (thomasonoda)
2022-10-15 22:37:28
アヴェ・マリア・インマクラータ!

聖ファウスティナの受けたメッセージは、英語ではDivine Mercy フランス語では Miséricorde Divine と訳されています。

この言葉は、正確には「いつくしみ」ではなく「憐れみ」という意味です。何故かは、記事に説明してあります。

シスター・ファウスティナの受けたメッセージは、ポーランド語のもともとの言葉を正しく理解する限り正統なものです。
返信する
Unknown (thomasonoda)
2022-10-15 22:41:21
聖テレジアの「天主のあわれみ深き愛にはんさいのいけにえとして自分自身を捧げる祈り」については、次のリンクの記事をご覧下さい。十年前の記事ですが、お許し下さい。

https://blog.goo.ne.jp/thomasonoda/e/4bdcd455a70a713a0609ac95996c16f3
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Unknown (MICHAEL)
2022-10-16 06:10:25
ポーランド語の本家のサイトを見ると「Miłosiernego」や「Miłosierdzia」と言う言葉が使われています。機械翻訳すると両方とも「慈悲」になります。少なくとも「いつくしみ」でも「憐れみ」でもないですね。「Miłosiernego」の方は「仏の心」「ブッダ」「仏のような」と意味でもあるようです。

では、具体的に「慈悲」とはなんぞや?と思い調べてみると困ったことに「慈悲」とは2つの言葉をまとめた用語であり、概念である。
それは「いつくしみ」と「あわれみ」である。生命に対し「楽」を与え、苦を取り除いてやることである。

一般的な日本語で言うと「目下の者に対するあわれみ、いつくしみ」の気持ちを表したものである。ただしキリスト教の優しさや憐憫(憐れみの気持ち)ではない。

改めて言葉の難しさ、翻訳の難しさを感じたところです。

結局、「神の慈悲の礼拝」とは、「神の憐れみ」と「神の慈しみ」の両方の概念なんだと考える方がいいのかもしれません。例えば、いつくしみの礼拝のチャプレットの言葉「 miej miłosierdzie dla nas i całego świata.」は「私たちと全世界を慈しんでください」または「私たちと全世界をあわれんでください」となります。本家のサイトの「Miłosiernego」「Miłosierdzia」「miłosierdzie」などの言葉の直訳は「慈悲」ですが結局「いつくしみ」と「あわれみ」の2つを合わせた言葉、あるいは概念だということが正解なのでしょう。

ところで聖女の手の中に御聖体が飛び込んできたりする話がありますがSSPXの主張と違うのはなぜなんでしょうか?
「司祭の手は特別である。司祭以外、ご聖体に触れていはいけない」といいますが聖ファウスティナの手の中で主は(御聖体に在す主は)休まれたりしてますし、ファチマでは天使が子供たちに御聖体を授け、カリスから御血を授けています。 聖スタニスラス・コストカに対しても天使が現れ御聖体を授けていますね。司祭以外の天使や信者(聖女)が御聖体に直接触れてもいいのでしょうか?
返信する
Unknown (thomasonoda)
2022-10-16 20:23:57
@thomasonoda アヴェ・マリア・インマクラータ!

機械翻訳は、正確ではありません。
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