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被昇天とは一体何なのか?一体これは新しい教えなのか?それとも昔からあるのか?一体どんな教えなのか?私たちにとってどんな関係があるのか?

2022年10月10日 | お説教・霊的講話

2022年8月15日(月)童貞聖マリアの被昇天の大祝日のミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父説教(大阪)

聖父と聖子聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、今日はマリア様の被昇天の祝日です。

このミサが終わって、いつものように感謝の祈りをした後に、簡単なおやつを頂いて、聖母行列を致しましょう。

天使たち、天国の聖人たち、三位一体の喜びに、天国の喜びに合わせて、私たちもマリア様をこの地上で褒め称えることができれば、どれほど天国は、マリア様はお喜びになるかと思います。また私たちに祝福の雨を降らして下さると信じております。

日差しが強い太陽が輝いています。私たちはこの周りを回って最後にまたここに戻ってきます。この御聖堂で、マリア様に対する奉献をしたいと思っています。もしも体の調子が良くなくて、あるいは歩くのが少し難しいという方でも、御聖堂の中で留まって下さい。最後に皆さんと一緒にマリア様への奉献をすることができればと思っています。皆様の参加を期待しております。

愛する兄弟姉妹の皆様、
今日はマリア様の被昇天なので、その被昇天のお祝いを致しましょう。

被昇天とは一体何なのか?一体これは新しい教えなのか?それとも昔からあるのか?一体どんな教えなのか?

私たちにとってどんな関係があるのか?

ぜひ今日はそれを知って下さい。そうすることによって私たちは、どれほど天主から愛されているか、ということをますます理解することに致しましょう。

被昇天とは一体何なのでしょうか?

被昇天というのは、マリア様が、マリア様の御体と御霊魂がその離れた瞬間、マリア様の肉体はそのまま腐敗を見ることなく、イエズス様がすぐにこの御体を天に、霊魂と共に天に上げられた、持ち上げて下さった、ということです。私たちはそのようなことが最後の審判の時に、この世の終わりに起こりますけれども、マリア様については既にそれが行なわれた、ということです。これは教会の古代からずっと言われてきた伝えられてきた教えです。色々な文献が残っています。

例えば、その中でも有名なのは、教皇ハドリアノ一世が、シャルル・マーニュ皇帝に、マリア様の被昇天について語った手紙です。

あるいは昔から東方でも西方でも、マリア様の被昇天を祝うミサがあって、典礼があって、マリア様の大祝日の内の一つとして必ず数えられていた、ということがあります。これは典礼があったから私たちがそのようなことを信じたのではなくて、昔からそのような信仰があった、そのように伝えられていたので、私たちは教会はそのような典礼を作って、マリア様を讃美したのです。

例えば東方では、ダマスコの聖ヨハネ教会博士はこんなことを言っています。
「天主の御子は、御自分がお生まれになる時に、クリスマスの時に、マリア様の御体を傷付けようとすることは望まなかった。なぜかというと、人類の傷を回復させようとして来られた方が、マリア様を傷付けることがあってはならなかったから。だからイエズス・キリストがお生まれになる時には、聖母は童貞であることを常に守り、そして何の苦しみもなく、ちょうど御復活されたイエズス様が、壁を通り抜けて部屋の中に入ってきたように、マリア様の胎内から何の痛みもなく生まれてきた。そのような御子が、どうして母親の腐敗を許すことができるだろうか。御子が、御自分の母の体をすぐに天上に上げたのは、非常にふさわしい。」

あるいは、「天主の御子が地上で生まれる時に、その宮殿となったマリア様の御体、生ける御聖櫃となったその御体であるから、マリア様が最後にはその御体を以って天の最高の宮殿に上げられるのは、最もふさわしいことであった。天主の聖霊の浄配であるマリア様が、天の宮殿の、天主のすぐ近くに上げられるのは全くふさわしいことであった。」

その他、ダマスコの聖ヨハネは色々な理由を挙げて、マリア様が天に上げられるのは、あまりにもふさわしかった、罪の為に死が入り、罪の為に苦しみが入ったのであるが、しかしマリア様は罪を知らない御方であった。肉体の腐敗を知らないのがふさわしいことであった、など多くの理由を挙げて、マリア様の被昇天がどうしてもあるべきであった、として私たちに説明しています、説教しています。

たった一人ではありません。教会の博士たち、あるいは聖人たちが口を揃えて、マリア様の被昇天のふさわしさを説明しています。

確かに、マリア様は第二のエワとして、第二のアダム、新しいアダムのすぐ傍におられることが、とても相応しい方でした。第一のアダム、第一のエワは、二人で、善と悪の知識の木の実を盗んで、罪を犯して、楽園から二人共追放された身でした。

しかし新しいアダムと新しいエワは、十字架の木によって、そしてイエズス・キリストという御胎内の実を十字架の木に付けることによって、その罪の償いをして、盗んだものを返した方々です。遂には天国の楽園に二人とも入れられるのはあまりにも当然でした。

今日書簡では黙示録が読まれましたが、黙示録の十二章の直前、つまり、太陽を着た婦人のその直前には、聖ヨハネが天の契約の櫃を見る、ということが書かれています。契約の櫃と太陽を着た婦人は全く一つのものでした。天に現れたしるしでした。福音書も、新しい新約の契約の櫃であるマリア様が聖エリザベトを訪問したことが述べられています。マリア様は、天にある新しい契約の櫃として、天に上げられて、前兆が実現されるべきでした。

では最後に、一体なぜ被昇天があったのでしょうか?
それは私たちに一体、どのような意味があるのでしょうか?

マリア様が第二のエワとして、そして私たちの母として、天の最も高い所に上げられたというのは、つまり私たちの同胞が、人類が、人間の内の一人が、私たちと同じ人間が、天主の力によって、全能と憐れみによって、最も高い所に上げられた、ということです。そしてこの方はマリア様は、私たちの永遠の救いの為に、イエズス様と共に特別に働いた方である、ということです。イエズス・キリストと非常に密接に関係したが為に、罪がなかったにもかかわらず、恐ろしい苦しみをも耐え忍んだ私たちの母が最も高き所におられる、ということです。

このマリア様はしかも、私たちを子供として与えられました。マリア様は私たちのことを、イエズス・キリストと同じ愛を以って愛しておられます。なぜかというと、十字架の上で御子イエズスからそのように任されたからです。ヨハネを通して、私たちも子供として受けるようにと命じられたからです。最も力のある、最も憐れみのある、天の元后が、天と地の元后が、私たちの母として、最も高いところから私たちのことを見守って下さり、そして私たちの為に祈っておられる、ということです。

なぜ、マリア様の被昇天が私たちに先立ってあったかというと、私たちを助ける為でした。天国に導く方として、取り次ぎをする方がいらっしゃる為でした。天主の全能と、憐れみの業でした。

愛する兄弟姉妹の皆様、8月15日はいつも、私たちにとって特別の御恵みの日です。

全カトリック教会は、時を超えたキリストの神秘体の一部として、マリア様の被昇天を讃美致しましょう。私たちが讃美すればするほど、マリア様に対する信心が多ければ多いほど、ピオ十二世は、私たちの聖徳、あるいは教会での御恵みがますますいや増す、と教えておられます。ですから特にマリア様に御恵みを乞い求めましょう。

聖父と聖子聖霊との御名によりて、アーメン。


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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