Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

アルスの聖司祭、聖ジャン・マリ・ヴィアンネー:試練

2008年09月23日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、
 今年、2008年は、ルルドの聖母の御出現150周年です。聖ピオ十世会アジア管区では、来る10月にルルドに巡礼をすることを計画しています。ルルドからパリへの帰路に私たちはヌヴェール、アルス、ラ・サレットなどに立ち寄って巡礼を続ける予定です。

 そこで、アルスの聖司祭、聖ジャン・マリ・ヴィアンネーについて『農村の改革者・聖ヴィアンネー』戸塚 文卿 著(中央出版社)より幾つか抜粋を引用して、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介致します。

アルスの聖司祭、聖ジャン・マリ・ヴィアンネー、我らのために祈り給え!
アルスの聖司祭、聖ジャン・マリ・ヴィアンネー、日本に聖なる司祭を与え給え!
アルスの聖司祭、聖ジャン・マリ・ヴィアンネー、日本に多くの聖なる司祭を与え給え!

アルスの聖司祭、聖ジャン・マリ・ヴィアンネー


試練

 苦しまずには、どんな善も行なわれることができない。人の子はあざけられ、うったえられ、十字架にのぼって世を贖いたもうた。人々のために偉大なる功績をたてた世々の聖人たちは、みな主の御足跡を追って、主に似たものとなったのである。アルスの聖司祭(Saint Curé d'Ars)も、またこれを知っていた。彼は自分の羊の霊魂の救いのために、激しく身をむちうち、また断食し、また、夜眠らなかった。しかし、彼の愛し奉る主は、彼をなおよく御身にあやからせるために、もっとつらく、もっと苦しいなやみを彼に送りたもうた。

 一つの地方に、あるいは一つの社会に、久しい間はびこっている悪習を、矯正し、または、愛好する悪徳を攻撃しようと欲する者は、反抗をさけることができない。ヴィアンネー師も、またこれを期待するところがあった。実に師の成功は恐ろしい試練の結んだ実であったのである。

 まず最初の数ヶ月というものは、村民は聖堂に集まるごとに、絶えまない叱責、強迫、呪いを、説教壇上の師の口から聞いた。会衆がいくら不満な様子をしても、退屈な様子をしても、説教者は少しもたじろがなかった。

「あなたがたにものを言う時には、私はけっしてあくことがないのです。」と彼は彼らに告げた。
「どうだね、神父さんの説教は長いかね?」と、ある時、司教がひとりの老農夫に訊ねた。
とても長いのです。そしていつも地獄のことばかりです。神父さんはいつも両手をうって、《子供たちよ、おまえたちは救われない》と言うか、さもなくば、自分で自分の胸をうつのです。まあ、なんという胃の腑を持っている神父さんでしょう。」と彼は答えた。

 村民たちのつぶやきは、ただ説教のことばかりではなかった。「神父さんは、あまりに厳しい」これが彼に関する定評だった。告解をしても罪のゆるしをくれない。子供の初聖体も延ばされてしまう。

「きっと、うちの子だからなんだろう!」と邪推する母親もあった。

 日曜日に働きたい百姓、居酒屋でさわぎたい男たち、ダンスとその後の楽しみとが好きな若者と娘、彼らはみなヴィアンネー師の敵となった。

 こんな連中のみではなかった。ほんとうに熱心な、よい信者たちも、師の指導をあまり厳格すぎると考えた。師は自分の理想を、すべて師の指導をあおぐ人々の理想としたのだ。師は彼らの心から被造物に対する最もかすかな執着をも滅ぼしつくそうとした。そして、彼らをして克己、制欲の機会を一つものがさせなかった。彼らをもっともけわしい道に導いた。

 師に対する不平は、単につぶやきにのみとどまらなかった。師を憎む人たちは、ついに恐ろしい讒言と迫害との手段にでた。アルス村でも、まず最初に、師の招きに応じて、師のもとに集まった者は、前にもしるしたように、純真な少女たちであった。自己のいやしい楽しみの相手を失った若者たちは、師に復讐をしようとしても、公然と師に反抗することができないので、かげにまわって聞くにたえぬ風説を言いふらした。師は少女たちを不正の愛情をもって愛している。師がやせて、顔色の悪いのは、少女たちを司祭館にひき入れて、毎夜ふしだらな生活をいとなんでいるからだ。

 師の名まえが、わいせつな歌の中に歌いこまれた。師を侮辱する無名の手紙が幾回となく司祭館に投げこまれた。司祭館の門の扉にはりつけられてあったことさえあった。あるいは、また、終夜、司祭館の外でブリキカンをたたいて、そうぞうしくさわぎたてられたこともあった。

 またもっとひどい評判を立てられた。司祭館の付近に住んでいた、ひとりの不幸な娘が、父なし子を宿してしまったことがあった。なんびとの扇動によったものか、この娘は十八ケ月の間、夜な夜な司祭館の窓の下に来て、その子の父はヴィアンネー師だと言って、きたなくののしりちらしたそうである。

 一八二三年にベレー教区が復活して、従来リヨン教区に属していたアルスは、ベレー教区にはいることになった。新しいドゥヴイ司教はヴィアンネー師を知らなかった。そして、師に関する無名の投書が頻繁として来るので、遂にあるほかの司祭を派遣して事実を調査させた。この調査の結果、師の日常に一点の非難すべき点もない事が明白にされたのはもちろんである。しかし、この出来事はどれほど、師の心を苦しめたかわからなかった。

もし、私がアルスに来る時に、ここでどれほど苦しまなければならないか、ということがわかっていたならば、私はそのために死んでしまったかもしれない。」と言ったことさえある。

 これらの悩みを、師はおおしく耐えしのんだ。天主の司祭としての名誉に関するこれらの讒言に、彼の胸ははりさけるばかりであったが、彼は自分の敵をゆるし、そうするだけでなく、彼らのある者が困窮におちいった時には、それを救ってやりもした。そればかりではない、彼は苦悩を愛したのである。

「私は今に私が棒で打ち叩かれてアルスを追われ、私の聖職を停止され、終身、牢屋にいれられる日が来ると思っていた。」

 師は後年、このように親しい人にもらしたが、それにもかかわらず、「愛して苦しむことは、もはや、苦しまないことである、これに反して、十字架をのがれるのは、ますますその重さを感じることなのだ。・・・十字架の愛を願わなければならない。すると、十字架は甘美なものとなる。私は四、五年間その経験をした。私は讒言された。私はその時、実に背負いきれないほどの十字架を持っていた。私は十字架を愛する御恵みを求めた。そうして、私は幸福になった。実にこれよりほかに幸福はない、と、私は自分に言うようになった。」とも言えるようになった。

 師は悪人に抗弁せず、また、自分に託せられた地より去ることもしなかった。彼が自分の事業を、祈祷と、涙と、断食と、不眠と、鮮血とで守っているかぎり、だれひとり彼がなした善を滅ばすことができる者は存在しない。彼は敵の罵声に包囲されながら、自分の部屋にはいるやいなや、地にひざまずいて自らを鞭打ち、あわれむべき罪人の改心のために、自分の無辜の肉身をつんざいていたのである。

 右にのべたような誹謗中傷に耳をかすものは、もちろん、村民の中でも、無知な、あるいはごく不良な一部分にかぎられていた。城の女主人デ・ガレ夫人も村長のマンディ氏も、その他、村のまじめな人びとは、みなこの司祭を尊敬した。

 デ・ガレ夫人に関しては、彼女はヴィアンネー師がアルスに来る前にも、慈悲ぶかく、信仰に富んだ老婦人であったそうであるが、常に家にひきこもって人とまじわらず、その信心は、ひとしきり以前に流行したジャンセニズム(これは主として「天主のおそれ」を説き、またカルヴァン主義に似るところがあった異端で、一六・七世紀にベルギーに源を発し、一八世紀にフランスで、暴威をほしいままにしたものである)の影響をうけてかたよりすぎ、厳格すぎていた。

 それが、ヴィアンネー師の指導のもとに、次第に、うるおいのある敬虔さに変わっていった。彼女は、毎朝、城を出てミサ聖祭にあずかりに来るようになった。しかも、馬車をやめて、徒歩で来たり、冗費を節約して、貧民を助け、めぐんだのであった。のちに彼女は午後にも、なお一回聖堂に参詣し、聖体を訪問するようになった。

 デ・ガレ夫人のほかに、身分のいやしい人びとのうちにも、また数名の敬けんな老婦人がいた。それから、例の師を慕って、その指導を喜んでうけるようになった少女たちの一団がいた。こうしていつのまにか、アルスの聖堂の中には、聖体の前に祈る人影がたえないようになってしまった。いつ行ってみても、必ず、ヴィアンネー師のほかに、何人かがそこにひざまずいていた。
このような人々は、知らず知らず、師の跡を追うて、神秘の道に進みつつあったのだ。主のみ前にとどまる長い時間に、彼らが主に語る言葉は少なくとも、彼らはここにあることに無上の幸福を感じ得たのである。

 アルスの農夫に、ルイ・シャッファンジョンという老人があった。ヴィアンネー師は、彼のことをこう物語った。

「この村に数年前に死んだひとりの男があった。彼は毎朝、畑に出かける前に、教会によって祈りをしたが、ある日、鍬を聖堂の入り口に置いたままで祈りに夢中になってしまった。近所で働いている百姓たちは、どうして彼が来ないのだろうと不恩義に思ったが、ふと思いついて、帰りに聖堂によってみた。はたして、その男はそこにいた。
「いったい、おまえは長いこと、なにをしていたのだ?」と聞くと、
「私は天主をみていました。それから天主も私を見ておいでになった。」と彼は答えた」と。

 師はこの話をたびたびくり返していたが、「彼は天主を見、天主は彼を見ておいでになった。子供たちよ、宗教はこのひと言につきている。」と、いつもつけ加えて村の人たちに教えた。しかり、老農夫が到達した観想の境地こそ宗教の真髄である。

 彼はいつのまにか、ヴィアンネー師の感化によって、旧約の老トビアを思わせるような信仰の人になっていたのだ。

 このような人はあったけれども、一般に、男子と青年とは師の苦心にもかかわらず、婦人たちのように、すべてがたびたび教会に祈りに来るというわけにはいかなかった。農業があまり忙しいからである。それでも、日曜日の夕べの務めのあとに、顕示された聖体の前で、祈祷に一時間を費やす者はまれでなかった。それから、夕べになって、教会の鐘の音がなり響くと、大勢の村びとたちは、三々五々、聖堂に群れ集まって、ヴィアンネー師と声を合わせて、夕の祈りをとなえるようになった。
ヴィアンネー師は、また時々近隣の司祭の手伝いにたのまれて、付近の村で説教したり、告白をきいたり、あるいは病人を訪問したりなどした。彼はいかに、自ら疲れていようが、またそれが夜であろうが、また、雨が降ろうが、風が吹こうが、決して司祭の義務、あるいは愛徳の務めを、ゆるがせにすることがなかった。

 師はアルス村に来てから数年ののちには、非衛生的な生活と、四六時中の精神の緊張と、また、おそらくはドムブ地方の湖沼より出る毒気とによって、慢性的に熟をわずらう体となった。一八二七年に、人々に無理にすすめられて某医師の診察をうけた時の医師の記載が残っている。

 その医師は師に、脂肪、あるいは牛乳入りのスープ、鶏肉、仔牛の肉、ビール、新鮮な、あるいは煮た果実、はちみつ、砂糖と牛乳とをまぜた紅茶、よく熟した多量の葡萄などをすすめている。

 師の平素の、しかも、そのあとまでも続けられた献立を知っているわれらは、この食事表を見て、微笑を禁じえない。

 ある時、それは秋の雨降りの日であった。病人に呼ばれて、他村まで行ったけれども、高熱に戦慄しているからだで、骨の髄まで雨にぬれて、病人の家についた時には、すわっていることもできず、病人のかたわらにあった寝台に横たわって、ようやくその告白をきいた。

「私は病人よりも、もっと病気だった。」と帰って来てから周囲の人にもらした。

 隣人に対する愛も、天主に対する愛と等しく、自己の犠牲を要求するものだ。彼は聖人であったから、また、それゆえに、超自然的のお人好しであったから、善のためには、いくらでも他人の依頼に応じたのである。

============
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ <= クリックで応援して下さい。兄弟姉妹の皆様の応援を感謝します!
============

【関連記事】

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。