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今、日本のカトリック教会では罪のない新しいキリスト教を作ろうとしている

2008年09月24日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 今、日本のカトリック教会では罪のないキリスト教を、新しいキリスト教を作ろうとしているようです。

 罪とは何でしょうか? 聖トマス・アクィナスはこう説明します。罪を罪とするその最も重大な要素は、天主から離反すること(aversio a Deo)である、と。そして罪を構成する材料として、被造物へと背いて、無秩序に被造物に執着すること(per conversionem ad creaturam)であると。

 イエズス・キリストは天主への愛と従順をもって、十字架による苦しみを捧げました。天主であるイエズス・キリストのこの愛と従順こそが、全人類の天主からの離反の悪を溢れるほど満足させました。しかし、被造物に対する無秩序な執着、その無茶苦茶さは、意志的に受ける苦しみによらなければ償われることはできない、これこそが、イエズス・キリストが、天主御父に対して私たちの代わりに捧げて下さった罪の償いです。ここから私たちの罪の償い(satisfactio)の全ての価値が由来するのです。(神学大全第3部、第1問第2項、第48問第2項および第4項)

 そして、私たちはミサ聖祭において、贖い主なるイエズス・キリストの「天主の正義を満足させること」を私たち自身のものとして捧げることが出来るようになるのです。何故なら、ミサ聖祭は本当の意味の償いの価値を持ついけにえだからです。イエズス・キリストの十字架に、天主の愛と憐れみと正義が同時に現れるのです。私たちもイエズス・キリストの十字架に、贖いに、参与しなければならないのです。

 ピオ12世教皇様はこう言っています。

「天主の贖いの奥義は、まず、その本性によって愛の奥義です。天のおん父に対するキリストの正義を果たす愛の奥義です。この正義に対して、愛と従順の心をもってお捧げになった十字架の犠牲は、人類の罪のために為されるべきであった溢れるばかりの無限の贖いを提示しています。「キリストは、愛と従順によって苦しみを受け、天主に対して、人類のすべての罪の償いとして要求されていたもの以上を天主にささげる」(神学大全Ⅲ・q・48a・2)。贖いの奥義はさらにすべての人間に対する至聖三位と天主なる贖い主の憐れみ深い愛の奥義です。私たちは罪を贖うために天主の正義を満足させることはできなかったのですが、ご自分のいとも尊き御血を流した結実である、測り知れない功徳の豊かさによって、天主と人との間の友好の契約を回復し、まったく完成することが出来たのです。天主と人間の間の友好の契約は、アダムの嘆かわしい罪によって、地上の楽園で最初に破られ、それに続いて選民の無数の罪によって犯されてきました。天主なる贖い主(キリスト)は私たちに対する燃える愛から、私たちの正当かつ完全な仲介者として、人類の義務および負債と天主の権利とを完全に調停なさいました。キリストは、天主の正義とその慈悲の間の絶妙な和解を成し遂げられた方なのです。ここにこそ、まさしく、私たちの救霊の奥義の絶対的超越性があるのです。」
(ピオ12世、1956年5月15日回勅『ハウリエーティス・アクヮスHaurietis aquas』)



 しかし、新しいキリスト教は、イエズス・キリストの贖いの業が天主の正義の業であったことを否定します。


マシア神父はそのブログでこう言います。

 たとえば、「キリストの十字架の死によって私たちは購われた」というとき、「あがない」ということばは、「つぐない」とか「罰」とか「払い戻し」とか「買戻し」というイメージを思い起こすことがあります。戦争終結後、捕虜を賠償金と引き替えに返還する(買い戻す)ということもその一例です。しかし、聖書では「あがない」という言葉の背景にあるのは、「解き放つ」という意味です。あがないは、買い戻しの支払いではなく、解き放つことであり、罪を滅ぼし、人を神と和解させることです。

【コメント:贖うとは redemere の訳で、red- 再び emere 買う、を語源とし、買い戻すという意味である。】

 ギリシア・ローマ文化の影響を受けた者の中には、あがないを「買い戻し」という狭い意味に解釈する者も多かったです。中には「キリストは自分の血で支払って、悪魔からわれわれを買い戻した」などと、冒とくとも言える意見を述べる偏った説教さえ現われてきました。こんな考えはキリスト教に反するばかりでなく、恐ろしいあやまちです。【ソノママ】

 またこれほど誇張はしないが、「キリストの血が神の怒りをなだめた」と説明する人もいました。この言い方も適切とは一言いがたく【ソノママ】、誤解を招きます。

【コメント:しかし、聖パウロはこう言っている。
「しかしキリストは、将来の恵みの大司祭としてこられたのであって、人の手でつくられなかったもの、つまり世がつくったものではない、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、山羊と子牛の血を用いず、自分自身の血をもって、ただ一度だけで永久に至聖所にはいり、永遠のあがないをなしとげられた。山羊と牡牛の血、牝牛の灰などを、汚れた人々にそそいでその肉体をきよめるのなら、ましてや永遠の聖霊によって、汚れのないご自分を天主にささげられたキリストのおん血が、私たちの良心を死の業からきよめて、生きる天主に奉仕させ得ないことがあろうか。・・・ 前の契約(=旧約のこと)さえも、血を流さずに立てられたのではない。すなわちモイゼは、律法にしたがってすべての掟を全人民に告げてから、子牛と牡山羊の血と、水と、緋色の毛と、ヒソプとをとって、巻物とすべての民にそれをそそぎかけ、「これは、天主があなたたちと結ばれる契約の血である」といった。また同様に、幕屋と儀式用の器とに血をそそいだ。律法によれば、ほとんどすべてのものは、血できよめられるのであって、血を流すことなしに罪が赦されることはない。」】


 「つぐない」という言葉も、誤解のもとであり、罰と結びついてしまいます。今目でも、刑務所の苦痛や臨終の苦悶によって罪がつぐなわれるといわれる場合がありますが、それは、苦痛や苦悩こそつぐないにとってもっとも重要だ、と考えられてしまうからでしょう。その根底にあるのは、「報復を要求する正義」の考えであり、こうした正義の発する怒りをなだめなげればならない、とする見解です。

 このような考え方は、時にはキリスト教的と言われたりするのですが、実は、キリスト教のつぐない観念とはほど遠いです【ソノママ】。しかし残念ながら、中世的な慣習やものの考え方、特に北欧の考え方は、説教者や著述家に好ましくない影響を与えました。そして、「キリストの受難は神の怒りをなだめる罰である」とか、「苦痛や死は罰である」とか、さらに、「神は罪人に無限のつぐないを要求しているが、それを支払えるのはキリストの血のみである」といったまったく誤った考えが強調されるようになったのです。

【コメント:聖ピオ十世の公教要理によるとこうある。
イエズス・キリストは十字架上で何をされましたか。
イエズス・キリストは、十字架上で、敵のために赦しを乞い願い、聖母マリアを弟子ヨハネに母として与えヨハネを通して私たちにも聖マリアを母としてお与えになりました。さらに、御自分の死を犠牲としてささげ、天主に対する人間の罪のあがないを成就されました。

私たちの罪をあがなうためには、天使をおつかわしになるだけで充分ではなかったのですか。
私たちの罪を購うために天使をおつかわしになるだけでは充分ではなかったのです。それは、人間が罪によって天主に加えた侮辱は、ある意味で無限ですから、このつぐないを果すためには、無限の徳を有する御方が必要だったのです。

コメント:もしもマシア神父の言うことが本当だとすると、カトリック教会は2000年の間、マシア神父が登場するまで(?)、「つぐのい」について誤解してきたことになる。公教要理も公会議も間違い続けてきたことになる。

 もっと思い切った説明をしましょう。「十字架こそ救い」というひとことは誤解の元だと言わなければなりません。イエスは私たちの救い主であると言われているのは十字架で「死んだから」ではなく、十字架で「死んだにもかかわらず」です。十字架に死んだにもかかわらず、今尚生きているから私たちの希望の根拠です。


【コメント:聖パウロはこう言っている。
「ご自分のみ子を惜しまずに私たち全てのためにわたされた。Rom. 8,32: proprio Filio suo non pepercit, sed pro nobis omnibus tradidit illum. 」

 マシア神父の説くキリスト教は、私たちの知っている使徒から教えられたものではなく、天主に対する罪に対する天主の正義を満足させる贖いという概念のない、新しいキリスト教だ。】

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