鴨川からの帰り道、道の駅で見つけたよもぎ餅。
手作りで大きさが不ぞろいなのがウリ。爽やかなヨモギの香りたっぷり 。
3月から5月にかけて、よもぎの若芽が出る時期だ。
山里に分け入らなくても、普段の生活圏でも手軽に手に入る。
万葉集に出てくる草摘みはヨモギ摘みのこと。
いたずらをした時にすえられるお灸のモグサもヨモギの葉だ。
お灸されたことはないけど・・・。っつうか、モグサを見たことがないけど。。
ヨモギの香りはシネオール、ベーターカリオフィレン、リヨンなどなど多くの揮発性の成分からなる。
キク科ヨモギ属の「和製のハーブ」。漢方でも使用され漢方名は「艾葉(がいよう)」。
栄養価の高さや効能から“万能薬”とも言われている。
昔の知恵で、「よもぎの葉を揉んで、血が出た部分に当てると血が止まる」と言われるのは、ヨモギ
のビタミンKの作用。
フランスの人々の国民食
オーバカナール 高輪
住所 東京都港区高輪4-10-8 京急第7ビル 1F
03-5798-7070
もともとは東京原宿のフランス会館にあった これぞフランスという雰囲気のカフェ。
aux bacchanales(オー・バカナル)。
たぶん、カフェの名前の由来はレ・バカナル。
ぼくがバカなんじゃなくて、バッカス祭のこと。お酒の神様だ。
フランスのカフェでメニューに多い料理はステーキ。
日本の居酒屋のメニューに「マグロ」とか「ニシン」とか魚の名前が書かれているように、フランスでは肉の部位が書かれている。
星付きの高級レストランには入ったことがないけど、庶民のお店のガロニ(添え野菜)はフライドポテト(ポムフリ)。
ステーキとフライドポテトの組み合わせ(ステーキ・フリット)はフランス人の国民食のひとつかも。
赤ワインにピッタリ(ランチじゃなくて夕飯だからっす)。
九份含め台北という街は、特別に美しいわけではない。街歩きに向いているかといえば、そうとも思えない。緑や花が多いわけではないし、歴史的な建物が多いわけでもない。
九份に関していえば、宮崎駿のアニメのイメージを膨らませたというあの老街の赤い提灯の列がなかったら、町中の夜市のたたずまいと変わらなくなる。
九份の気候は、想像以上に厳しい。夏場の日差しはきつく湿度は高い。老街に近いホテルは日本のビジネスホテルのように狭く、窓からの眺めが格別にいいわけでもない。それにもかかわらず宿泊費は高い。九份のホテルで独特なのは、エアコンに加えて除湿器が常時稼働していることだろうか。
それほど湿気が多く、雨が降りやすい。
老街の夜が早いのは、日本の鎌倉などの観光地とおんなじで、地元の人たちのプライベートの時間を大切にするためなのだろうか。瑞芳から台北までの台鐵鉄道が夜遅くまで動いているのだから、もう少し店を閉める時間を遅らせてもよさそうなものだが、そういうわけにはいかないのだろうか。
九份の朝は遅かった。とっくに日が昇っても、わずかにローカルの年配の方たちが散歩するぐらいで、家々が朝食の支度にとりかかる気配も、新聞配達などの動きもまったくない。
夜の顔とはまた別の、しっとりと落ち着いた古い町の顔がそこにある。
台湾で、中華のつまみを食べたながらビールを飲むというのはやや難しそう。
それなりの高い店に行けばお酒は置いてある。ただし、台湾でお酒を飲んで盛り上がっている仕事帰りのサラリーマンなんていない。居酒屋で騒いでいるのは、すべてが日本人観光客。
夜市のテーブル席でビールを飲もうとすれば、地元の人たちのようにコンビニで仕入れて持ち込むしかなく、ぼくのようなお一人様の小心者にはとてつもなくハードルが高い。
九份の老舗茶芸館はビールだけにして、お一人様でも気楽に入れた老街からはずれた軽便路沿いにあるお店。覚えた日本語で挨拶などしてくれる。
ビールと葱油鶏と空心菜の炒め物を頼むと、
「ビールによく合う」
とかチョイスを褒めてくれた。
コップに少しだけ味見をさせてもらった台湾地酒「小米酒」。濁り酒だ。
透明な瓶にはラベルも張ってないから、自家製どぶろくなんだろう。小米(粟/あわ)から作られるフルーティな甘いお酒。コンビニとか空港では見かけたことがない。
買って帰ろうと思ったけど、どぶろくだ。発酵がすぐに進んでしまいそう。
周渝民主演の映画「愛你一萬年」のロケ地として知られ、今やテレビ番組や雑誌でも数多く取り上げられている有名地。ここに絵を描き始めたのは、香港九龍出身の黄永阜氏(こう えいふ、ホアン・ヨンフー、1924年1月16日 - )。若いころ国民党軍に志願し、高雄、屏東で暮らした後、台中の春安社区の眷村へ。
第2次世界大戦後、蒋介石率いる国民党軍が台湾に進駐し、統治を始めた際に60万人の外省人たちが暮らした。住居は新しく都市の郊外に建てられた、小さな急ごしらえの平屋の集合住宅だ。それらは老朽化し、衛生面でも問題があり、住人も減少し、治安が悪くったという理由で、20年数前から多くは取り壊され、国宅(国の補助により建てられた低価格マンション)などに建て替えられつつある。
人々からは「彩虹爺爺(虹のお爺さん)」と呼ばれている永阜氏は、2008年8月から壁画アートを手掛けるようになり、人物、水牛、小鳥に飛行機、パンダのほかおめでたい言葉や風刺も。2010年9月にはその活動が「搶救彩虹村」として拡大。その結果、彩虹村は取り壊しを免れ「彩虹芸術公園」として保存されるようになり、クチコミや市政府の観光案内サイトで推薦されネットでの人気が急上昇した。現在も午前3時に起床して作品を描き続けているらしい。
思っていたよりは規模は小さいけど、たしかにインスタ映えスポット。記念撮影に興じる大勢の観光客でごった返す。
セルフィースティックを使っているアジア系の若者たち。長い棒があるから、その前を遮って歩くこともできない。他の観光客やせっかくの壁画アートにぶつかりそうになることも。写真を撮影した後も、興奮して盛り上がっているため、周囲への気配りが出来ない人たちが多い。
が、しかし、彩虹爺爺はそんな観光客の様子をにこにこしながら見つめているのかもしれない。