「写真は真を写す」。それでも、写真が芸術作品となりえるのは、フォトグラファーの感性によって写真に修整が施されるからと思われ。
例えば女性のポートレート。大きなお世話なのかもしれないが、露出オーバー気味にハイキー調で仕上げてあげると少なくともけなされることはない。はっきりと言ってはもらえないものの、撮影をせがまれるのは気に入ってもらえてるからなのだろう。。
花の写真もそう。一部に枯れた部分があれば、そこを塗りつぶして修正。。しかし、修正を重ねていると、何が何だか分からなくなってくる。理想を求めていくときりがないのだ。
妥協するぐらいなら、潔くありのままを撮った方がいいのかも。
・・・花の写真は、つくづく苦手だ。女性のポートレートとおんなじぐらい。
「何処(いづこ)を見ても若葉の緑は洪水のやうに漲り溢れて日の光に照される緑の色の強さは閉めた座敷の障子にまで反映するほどである。されば午後の縁先なぞに向ひ合つて話をする若い女の白い顔が電灯(でんき)の光に舞ふ舞姫(バレヱ)のやうに染め出される事がある。どんより曇つた日には緑の色は却て鮮かに澄渡つて、沈思につかれた人の神経には、軟い木の葉の緑の色からは一種云ひがたい優しい音響が発するやうな心持をさせる事さへあつた。」
永井荷風;花より雨に