能登(七尾市、珠洲市)は、金沢を中心とする加賀(金沢市・小松市)に比べて保守的であり、人柄は誠実で信義に厚い。奈良朝以前から大陸文化や仏教文化の門戸としての役目を果たした。
なお、江戸時代、加賀に独自の文化が生まれ育たなかったのは、加賀藩の町人や農民に対する圧政によるものらしい。前田家の上下関係の厳しさ、秩序を重視する姿勢が、「保守的」「控え目」「忍耐強い」という県民性を作り上げたようだ。
能登半島の浜辺には今も職人による小規模な塩田がある。
能登の塩作りの歴史は少なくとも5世紀までさかのぼる。8世紀ごろに揚げ浜式として知られる新しい製塩法開発され、海から海水を運び、塩田にまき水分を蒸発させ、次に、濃くなった塩水を特殊な構造の釜で煮詰める。
もっと効率的な製塩方法が日本の他の地方では導入されたが、能登半島では揚げ浜式製法がしぶとく存続。能登半島の海岸は岩場が多く、潮の干満差が非常に小さい上、気候は高湿で日照時間が短い。こういった条件は、潮の自然な干満を利用して塩田に海水を引き込む新しい製塩法には適さなかったことによる。
江戸時代、耕作に適した土地が非常に少ない能登では、十分な土地がないために年貢米や日々の食糧に事欠く農民に一定の金利で米を貸し付け、農民は塩で返済した。
加賀藩は塩の取引を独占し、参勤交代制で江戸へ行く旅費の4分の1を、塩の販売による収入でまかなった。
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