tetujin's blog

映画の「ネタバレの場合があります。健康のため、読み過ぎにご注意ください。」

殯(もがり)の森

2007-12-13 20:01:55 | cinema

「行かないで。お願い。帰って来て・・・・・・」
真千子の悲痛な叫びが、心に突き刺さった。映画を観終わった後も、頭の中でこだましていた。脳裏にあのシーンが焼きついていた。
真千子の叫びは、幼くして黄泉の国へ旅立たなければならなかった彼女の子供への叫びでもあるのだろう。子供を亡くし、愛する人から裏切られた彼女は、認知症患者の介護を通じていつしか母性を取り戻し、そして深い森の中で冷たい雨に濡れて凍えたシゲキを裸で抱いた。生きるということはそんなことなのだろう。体の暖かさを実感すること。
なんの目的もなく、ただ、日に決まったように食事を繰り返し、時間に流されて逝くわが身が恥ずかしくなる。生きるということは暖かいことなのだ。我々に突きつけられた映像・・・・・・なんという重いメッセージなのだろう。我々はまわりから生かされている。これは住職の言葉を待つまでもなく、ずっしりぼくの心に響いて止まない。

認知症。年齢を重ねるにつれて記憶力が衰退していく中で、どうしようもない不安にかられてしまう。もう、自分は終わりなのかなと。しかしながら、認知症を患っても情感は残る。シゲキは、意思を失ったような顔つきのまま日常の笑いや怒り、不安、恐れを見せた。記憶能力の衰えさえ認識できないでいるから、湧き出る感情はすべてストレートだ。一見、幼児帰りと思えるようなシゲキの行動に、記憶力の低下に対して自覚があるわが身であればあるほどいらいらさせられるのだが、真千子は微笑んでシゲキを見つめている。まわりの誰をもを傷つけかねない認知症という病気に対し、病気を憎むのではなく個性として捉えること。それができれば幸せなのかもしれない。認知症の人との会話は苦手と思う心の中に、こんなに大きな「好き」があったのかと驚いてしまう。まるでマグマみたいに熱くてどろどろしていて恐ろしげだけど。

殯(もがり)の森。この言葉の意味は映画の最後で出てくるテロップで明かされる。この意味を知った時に、ぼくはなんとも言えない深い感動で再び包まれた。なんの情報もなくこの映画を観たことから、最後にその言葉の意味を知ったその感動はとてつもなく大きかった。調べるつもりならネットで簡単にしらべられるのだから、ここではあえてその意味を書くことはしない。その方がぼくと同じように深い感動を得ることができるはずだから・・・・・・。
33年前に亡くなった妻の墓を必至で掘るシゲキに、真千子は涙を浮かべて<ありがとう>とつぶやく。彼女もまた死を知ることから、生きている意味を悟ったのだ。そして、その感動が鳥肌が立つほどにぼくの心を揺らした。生きることは確かに暖かい。
この映画を思い出すたびに、何かを忘れてしまった気持ちにさせられる。けっして認知症が進行しているわけではなく。