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江の島を歩く

2014-02-06 11:03:35 | 歴史散策
江島神社の節分祭が開かれた機会に江の島をぐるっと一回りした。
        
竜宮城をあしらった小田急片瀬江ノ島駅を出て、江の島に向かう歩道を歩いて行くと、平成作品の大きな「龍燈」一対が迎えてくれる。江島神社鎮座1450年記念で、永々の繁栄を祈念して建てられた。
 
弁天橋を渡る。右手にはるか彼方、うっすらと富士山が顔を出している。朝から気温が高く各地で霧の影響がでている気候では残念だが富士は望めないだろう。
弁天橋を渡ると、参道には向かわず、東側のバス停付近にある公園に行く。
公園にはゆめ国体開催を記念記念して、弁天像と世界女性群像噴水池が造られている。
        
                     
このほか、「日本近代動物学発祥の地」記念碑が置かれている。

モース記念碑・「日本近代動物学発祥の地」
大森貝塚の発見で有名なエドワード・S・モースは、1877(明治10)7月から8月末まで、江ノ島に日本最初の臨海実験所を開き、シャミセンガイなどの研究をしていた。
         

青銅鳥居
1821(文政4)年再建。「江島大明神」の額が掲げられている。以前は「大弁財天」が掲げられていた。
柱には吉原の松葉屋など遊郭の名前や花魁(おいらん)代々山という名も刻まれている。その他多くの江戸町人の名も連ねている。
 
この鳥居から、瑞心門前の朱塗りの鳥居までが江島神社の門前町で、旅館、土産物屋、食堂などが並んでいる。
『島の玄関に立つ青銅の鳥居をくぐる。ずらりと並ぶ土産物屋の間を進むと右手に旅館「岩本楼」が現れた。「ほら、弁天小僧が育ったところだよ」。年配の男性が連れの女性に説明している。』
この文章は、3日前の夕刊に掲載された「街プレーバック・江の島」という特集記事の文章を引用したものだ。
『弁天小僧のせりふを実感する島』という見出しも付いている。
江の島と云えば弁天小僧。このブログにも何処かに書き添えておきたいと思っていたのだが、今回も偶然にも新聞記事に「江の島」が載ったことで、書くきっかけを与えてくれた。このブログの合間、合間にもその記事の内容を引用してみたい。

岩本楼(岩本院跡)
頼朝の家来・佐々木四郎高綱を先祖に持つ佐々木氏が小田原北条氏の時代に、江ノ島一山の総別当となり、弁財天に属する三坊すなわち上中下三坊の内、岩本院の経営とお岩屋および奥津宮を管理していた。
参拝者から多くの収入を得ており、江戸時代には勅使、将軍、大名などの宿泊として栄えた。
     
弁天小僧は、歌舞伎の「白波五人男」(河竹黙阿弥作)の登場人物。
私には歌舞伎というよりも、中村錦之助さん(勢ぞろい喧嘩若衆・1955)や美空ひばりさん(ひばり十八番 弁天小僧・1960)の弁天小僧がなじみがある。
『美しい武家の娘に化け、仲間と呉服屋をゆする。男と見破られて、もろ肌脱いで、「知らざあ言って聞かせやしょう」で始まるせりふは、岩本楼の前身の寺院、岩本院で年季勤めをする稚児だった生い立ちを語る。』
        
          知らざあ言って聞かせやしょう
          浜の真砂と五右衛門が歌に残せし盗人の種は尽きねえ七里ヶ浜、
          その白浪の夜働き以前を言やあ江ノ島で、年季勤めの稚児が淵
          百味講で散らす蒔き銭をあてに小皿の一文字
          百が二百と賽銭のくすね銭せえ段々に悪事はのぼる上の宮
          岩本院で講中の、枕捜しも度重なりお手長講と札付きに、
          とうとう島を追い出され、それから若衆の美人局
          ここやかしこの寺島で、小耳に聞いた爺さんの似ぬ声色でこゆすりたかり
          名せえゆかりの弁天小僧菊之助たぁ俺がことだぁ!
映画の一シーンが浮かんでくる。
旅館岩本楼は現在、普通の旅館であって、かつての坊舎の雰囲気を残すものはない。
              
朱塗りの鳥居をくぐり石段を上がる。
        
瑞心門
龍宮城を模して1986(昭和61)年造営された神門で、その両袖には鮮やかな色彩で唐獅子画や牡丹の天井画が描かれている。
        
福石
杉山検校が社殿に参籠したとき、この石につまずき、転んだその際に、竹筒に入っていた松葉が体を刺したところから、管鍼(くだばり)の妙術を考案し、将軍綱吉の持病をなおし、厚遇を賜った。
それからのち、この石のそばで物を拾うと福を授かるという。
福石の脇には現在江の島弁才天道標(市指定文化財)のひとつがたっている。これはもともとここにあったものではなく、島外から移設されたと思われる。
        
一見して、どれが福石なのだろう。
辺津宮の拝殿で、今日1日の安全祈願をする。賽銭箱が巾着袋の形をしていて、何故なのかと首をかしげる。

辺津宮
江の島三神社のひとつ。
江島神社は、辺津宮、中津宮、奥津宮の3社からなる。社伝によると欽明天皇13年(552)、勅により島の南側の竜窟に祠をたてて3女神を奉祀したのが始まりといわれている。
この年は、日本書紀によると、仏教が公に伝わった年、「仏教公伝」の年に当たる。ということで、この時代は、伝来の仏教と古来からの神教が共に大切にされていた。
当時は、御窟(おんいわや)を本宮、奥津宮を本宮御旅所、中津宮を上の宮、辺津宮を下の宮と呼んでいた。
その後、1182(寿永元)年源頼朝が文覚上人に命じて諸社殿を建立、弁財天を勧請し、参籠祈願してから江ノ島弁財天として有名になり日本三弁天のひとつとなった。現在の3社殿は江戸時代の再建。
        
奉安殿(裸弁財天、八臂弁財天)
弁財天は七福神の紅一点としても人々の信仰を集めている。
鎌倉時代には先勝祈願として八臂(はっぴ・8本の腕)像、江戸時代からは芸能、音曲上達祈願で二臂像と信仰目的が変わってきた。
 
八坂神社
江島神社の末社で、須佐之男命を祭神とし、向拝つきの社殿は1844(弘化元)年の建造。例年7月7日に神輿に御霊移しが行われる。それから14日までが、天王祭で有名な唐人囃、竜神囃などの音が響き、神輿の海中渡御などがあり、島を上げての祭となる。
八坂神社と腰越小動(こゆるぎ)神社の相方の神は夫婦神で年に一度会いに行かれるという。

撒豆会場となる辺津宮の参道を通り、石段を下る。「みどりの公園」の先で海に開けた展望台がある。
片瀬の海岸とヨットハーバーが望める。
        
石段を上がり、中津宮の境内に入って行く。
弁天小僧のせりふ「悪事はのぼる上の宮」の上の宮(中津宮)である。

不老門再建祈念碑(再造記)  江の島2-3-21
昔、中津宮の社前に東京忍池弁財天の門と同様な桜門があり、そこには当初「妙音弁財天裸像」(鎌倉時代後期から室町時代前期の作)が安置されていた。その後、この桜門は、長い年月の間に天災や風雨を受け、破壊された姿をさらしていたが、1861(文久元)年相州津久井郡勝瀬村の富豪・岡部政右衛門が私費を投じて再建を果たした。しかし、門は明治政府の神仏分離令によって、1873(明治6)年に三重の塔などとともに取り除かれてしまい、今はこの記念碑のみとなっている。
              
中津宮
イチキシマヒメノミコトを祀っている。慈覚大師が853(仁寿3)年に創建し、1689(元禄2)年に再建。
芝居小屋の中村座、市村座や商人たちが奉納した石燈籠など、当時の江ノ島詣の盛況が伺える。
        
中宮殿を出て坂を上り切った場所に片野写真館がある。新聞によると「江の島ふぉとみゅうじあむ」を併設していて、昭和初期から戦後にかけての写真を展示しているとあり、見学したいと思っていたのだが、開いていなかった。時間が早いのかなと、もう一度お昼近くに寄ったが開いていなかった。月曜休館なのだろう。
        
展望灯台が右手に、灯台が新しくなってからは一度も上がっていない。今回もパス。古きを訪ねる江の島巡りである。

展望灯台
以前の灯台は、中古品であって、その前身は「よみうり落下傘塔」といって、1940(昭和15)年、読売新聞社が東京都世田谷区二子玉川に建設した。主たる目的は出征兵士などの訓練用の使用であった。しかし、民間施設のため、兵士以外の人による利用もあったといわれる。
終戦から2年後、観光都市への脱皮を図ろうとしていた藤沢市によって、江の島植物園の整備事業が着手され、江の島のシンボルとして展望塔が計画。
そこで落下傘塔の転用が決まり、「平和塔」という名称で2002(平成14)年まで活躍した。
                
江の島大師の先、左手には。
一遍成就水
1282(弘安5)年、一遍は鎌倉から片瀬に移り江ノ島に参詣した折り、飲料水に窮する島民を助けるために掘り当てた井戸と伝えられている。上人自筆の「一遍成就水」の額が江島神社に残されている。
        
「山ふたつ」という案内の石柱が眼につく。何だろうと思っていたら、案内板があった。
山ふたつ
ここが江の島をちょうど二分する境となっていることから俗に「山ふたつ」といわれる。
断層に沿って浸食された海食洞が崩落したことで、「山ふたつ」が出来たと云われる。
 
木食上人行場窟
山ふたつの谷底に、木食上人行場窟と呼ばれる洞窟がある。そのほぼ中央に、高さ1m、幅80cmに扁平石組み合わせて石廊を築き、その上に石造阿弥陀如来の立像が安置されている。
木食とは、五穀(米、麦、アワ、キビ、豆)を絶ち、木の実で生活すること。この修行を木食行といい、木食行をする僧を木食上人といった。
         
次は、今回一番の目的の庚申塔である。奥津宮に至る道の左側に建っている。
群猿庚申塔
多数の猿がその本尊である山王神をたたえ、祝っている大変珍しい庚申塔である。
総高143cn、塔身高86cm、幅42cm、江戸時代後期のものとされる。
基壇は岩座のように造られ、塔身の基座には蛇が巻き付いているように造られているのは、弁財天信仰に因んだものである。四面には合計36匹の神猿がそれぞれ異なった姿態で、その本尊である山王神に奉賽しているという珍しい構図である。市重要文化財に指定。

通常の庚申塔には、1~3猿が彫られている。36匹の猿に3猿がいるのかな?と探したものの「キカザル」きり見つけることが出来なかった
頼朝寄進の奥津宮鳥居
『吾妻鏡』によると、1182(寿永元・養和2)年、源頼朝は奥州藤原秀衡調伏のため、高尾の文覚上人に命じて岩屋に弁財天を勧請し、参詣の際に鳥居を寄進したとある。
左右に見える石灯籠(常夜燈)は、文政12年(1829)、大百味講中建立とある。
        
亀石
鎌倉四名石のひとつで、別名を「蔵六石」という。
1806(文化3)年に弁秀堂なる人物が金光明最王経の写経を納めたときに、亀甲模様を呈する亀甲石を奉納したものである。
                
奥津宮
タギリヒメノミコトを祀る奥津宮は「御旅所」といい、岩屋のご本尊は夏にここへ避暑のために移ってくる。
        
        
八方にらみの亀
神門の天井に「八方睨みの亀」が描かれている。江戸時代の粋人、酒井抱一の力作で、どこから見てもこちらを睨んでいるように見える不思議な絵である。
   
龍宮
江の島は、涌出以来龍の住むところとなり、龍神様のご信仰は弁財天信仰と習合せられ、共に密接な結びつきから、江ノ島縁起をはじめ、多くの伝説が残されている。
        
岩屋道石灯籠
天保4年、八王子の護摩講中建立。
 
ここで歴史散策とは関係ないが、江の島の人気スポットなので立ち寄ることにした。
竜宮の前で、二股に分かれる道を左手に進んで行く。人気は待ったくなく、猫1匹が昼寝をしていた。
龍恋の鐘
江の島に古くから伝わる「天女と五頭龍」伝説に因んでつくられた恋人の丘「龍恋の鐘」。
この鐘を鳴らしたふたりは決して別れないといわれており、多くの恋人同士が訪れ、愛を誓う人気のスポットになっている。
また鐘を囲む柵には、「ふたりの愛に鍵をかける」という意味で、ふたりの名前を書いた南京錠が一杯だ。
 
 
予備知識もなく観光スポットと思って訪れたが、この地は、江の島ができる伝説の場所だと案内板で知った。
その「天女と五頭龍」伝説とは、

昔むかし、鎌倉の深沢山中の底なし沼に五つの頭をもつ悪龍が住みつき、村人を苦しめていた。子供をいけにえに取られることから、この地を「子死越」と呼んで恐れられていた。
ある時、子死越前方の海上に密雲が何日もわたってたてこめたが、天地が激しく揺れ動いた後、天女が現れ、雲が晴れると、今まで何もなかった海上にひとつの島ができていた。これが現在の江の島とか。
天女の美しさに魅せられた五頭龍は、結婚を申し込むのだが、悪行が止むまではと断られた。
その後、心を改め結婚できたと云われている。
この伝説の天女が江の島に祀られている弁才天と云われ、五頭龍が瀧口明神社として鎌倉市腰越に祀られている。
この鐘は藤沢市観光教会が設置した。
参道に戻り、階段を下りていく前方が開けた。
龍灯の石灯籠・稚児ヶ淵句碑
稚児ヶ淵の上に建つ。灯台の役目を果たしていた。
 
稚児ヶ淵
稚児ヶ淵の名は、鎌倉相承院の稚児白菊が、自休という建長寺広徳院の僧に思い慕われ、断りきれずに思い余って、この淵に投身したことに由来している。
自休も「白菊の 花のなさけの 深き海に ともに入り江の 島ぞうれしき」と詠んであとを追った。
稚児ヶ淵は、江の島南西端の幅50mほどの隆起海食台。
大島、伊豆半島、富士山が一望でき、1979(昭和54)年かながわ景勝50選のひとつに選ばれた。磯釣りのスポットとしても知られる。
 
この日は、海が荒れていて稚児ヶ淵にはストップがかかっていて、降りることが出来なかった。
新聞の写真には、稚児ヶ淵と大きな富士山がバックに写っている。こんなに大きな富士山が眺めれれるのだろうかと期待してきたのだが、富士山どころか、稚児ヶ淵にさえ降りられないことは残念である。

        
岩屋
江の島南西部の海食崖基部の断層線に沿って侵蝕が進んだ海蝕洞群の総称。
古来、金窟、龍窟、蓬莱洞、神窟、本宮岩屋、龍穴、神洞などさまざまな名で呼ばれており、宗教的な修行の場、あるいは聖地として崇められてきた。一時は御窟に籠る修験者や、行を練る僧たちが神の功徳を仰いでいた。
弘法大師が訪れた際には弁財天がその姿を現し、また源頼朝が戦勝祈願に訪れたとも云われている。
富士山風穴をはじめ、関東各地の洞穴と奥で繋がっているという伝説がある。
1971(昭和46)年)3月に崩落事故が起き、以来立ち入り禁止措置がとられていたが、藤沢市の手で安全化改修工事が行われ、1993(平成5)年第一岩屋と第二岩屋が有料の観光施設として公開された。
        

再び、辺津宮まで戻る。
往きと違って、西側の道を辿る。

朱塗りの橋の手前に鉄の門扉が片側だけ開いていて、下る石段がある。下乃坊墓地といい、杉山検校の墓所がある。

杉山検校の墓 
本名を杉山和一という江戸時代の鍼師。
徳川五代将軍綱吉の病気を治して総検校の地位を獲得した。その時使った管鍼術は江ノ島の弁財天から授かったと伝えられている。【福石】
このお礼に江ノ島に三重塔を建てたり、江戸から江ノ島弁財天への道標を建てた。
杉山検校は伊勢の出で、1610(慶長15)年出生。幼い頃失明し、江ノ島弁才天に篭り、管鍼の術を創案したといわれる。
1694(元禄7)年本所の私邸で没し、弥勒寺に埋葬される。ここの墓所は翌年に次の総検校三島世一が分骨し、建立したと云われる。
なお杉山検校が寄進したという江ノ島弁才天道標は現在48基のうち11基が現存する。
        
三重塔跡
三重塔跡は大鳥居をくぐり、楼門手前の急な坂を上がってすぐ右にある。
そこは平坦地になっていて現在は「市民の家」(藤沢市立片瀬小学校江ノ島分校跡)が建っている。
そこには塔跡をしのばせるものは何もない。
1868(明治元年)の神仏分離令により、僧侶は皆神主となり、廃仏毀釈により、三重塔と共に、竜宮門や全ての堂宇が取り壊され、仏像・仏具のほとんどが廃棄される。
        
         

江の島には、このほか、日露戦争の満州軍総参謀長官、陸軍大臣、内務大臣、台湾総督など偉業のある、児玉源太郎大将の偉徳を偲んで大正10年に建立された児玉神社が祀られている。
拝殿前の台湾の人たちが寄進した狛犬は、口の中にある玉がころころと動かせる珍しいものである。

児玉神社
 

江の島は参道の土産物店の多さに感違いしていたが、島そのものが江の島神社、そのものだと云うことを気がついた江の島散策であった。但し東側の海縁は東京オリンピックの開催以降ヨットハーバーに化けてはいる。


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1 コメント

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江の島 (iina)
2015-03-10 10:18:59
江の島の要所を隅々まで廻られたのですね。^^

岩屋と富士山を一緒に見れると思わなかったのに、5日に出掛けて撮って参りました。浮世絵のように撮るには、さらに遠くから望遠で撮影する必要があるようです。
http://blog.goo.ne.jp/iinna/e/eb39d0578085267dda508102f9df6377

しかし、葛飾北斎の「神奈川沖浪裏」のような富士山を体験できました。
http://blog.goo.ne.jp/iinna/e/a3f684e71942dfe2ecbfb38a39b3b8e6

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