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歴史散策まち歩きの記録
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佃・月島を歩く

2014-02-22 15:31:09 | 東京散策
江戸の人口は、家康入府以降急速に増加し、食料確保が問題となった。
主食である穀類や野菜については不自由なかったが、魚については、投網、四ッ手、釣りの旧式な漁法では、江戸市民が食する量を確保できなかった。
そこで、家康が関西の佃島の漁師を呼ぶがよいと命じたという。
大坂の佃島の漁師とは、信長の本能寺の変に際し、急遽領国に戻る折りに、摂津国西成郡佃島で難渋した。その際に当地の漁師と縁が出来たといわれる。
家康に呼ばれた森孫右衛門一族らは、数隻の漁船で行う、大規模な底網漁の一種・地獄網と呼ばれる大量漁獲法を持っていたため、江戸の漁師とは比較にならない漁獲高を上げ、これによって幕府献上の余りを市中に売買することを可能にして、その後日本橋に魚河岸が出来る原点ともなる。
かくして寛永年間(1624~45)に入り、隅田川の河口にあった干潟を拝領した。ここを埋め立て島をつくる。その干潟が故郷の佃村にそっくりだということで、旧村の名をとって、「佃島」とした。
それは、家康入府して四半世紀以降の出来事で、日本橋に幕府承認の魚河岸が出来たのは、半世紀後のことだった。
           
上の地図は、明治時代のもので、陸側には「京橋區」と、今はない区名が記されている。
佃島の上に浮かぶ石川島は、佃島と連続して、江戸中期に埋立て工事が行われた。幕府船手頭・石川氏の所領となり、石川島となる。幕末、1853(嘉永6)年に水戸藩の造船所が設けられ、明治には官営石川島造船局製造所となった。その後民営に移管し、現在は石川島播磨重工業の工場となる。地図上にも造船所が記されている。

        
            
佃島渡船場跡  住所:湊3-18
今回は、直接電車で島には入らずに、手前の新富町駅(東京メトロ有楽町線)で下車して、陸側の渡し跡に寄った。
1645(生保2)年、佃島の対岸・船松町(佃大橋西詰付近)との間に通ったのが佃の渡し。1876(明治9)年には、渡し銭がひとり5厘であった。1926(大正15)年東京市の運営に移り、翌年には無償の曳船渡船となる。その際に記念として石碑が建てられた。
1955(昭和30)年には1日70往復にもなり、1万人前後の人に利用されていたが、1964(昭和39)の佃大橋の完成により300年の歴史を閉じた。
        

        

        
                   隅田川の川べりでドラマの撮影が行われていた

佃大橋  住所: 月島1-1~湊3-18
全長220m、幅25mの佃大橋で佃島へ渡る。
        

森稲荷神社  住所:中央区佃1-4-4
1645(正保元)年に摂津から移り住んだ森一族が、森家邸宅内に稲荷神を奉祀したことがはじまり。
      

佃小橋
住吉神社の参道の手前に、朱塗りの橋がある。
隅田川からの入江となった佃堀に架かる赤い橋である。橋の下には、祭りで使用する大幟の柱、抱が埋められていて、掘り起こすなと書かれた白い立札が目につく。
高層ビルとレトロな朱塗りの佃小橋の新旧が混在する、いい風景だ。
        

        

住吉神社  住所: 佃1-1-14
摂津の佃村の漁師が徳川家康の命に従って江戸へ下った後、大阪の住吉神社から分祀され1646(正保3)年、現在地に遷座した。社前が迴船の港であったことから、迴船問屋筋の信仰が厚い。
境内には、五世川柳水谷緑亭の碑、鰹塚などが建てられている。写楽終焉の地でもある。
港からの参道になっていたのだろうか、川べりに鳥居が建っている。それは、地元大坂を意識しているかのように、西を向いて建っている。
        

        

細い路地と昭和以前の建物
 

      

佃煮の老舗御三家
佃煮発祥のここには、佃煮屋御三家と呼ばれる老舗がある。ひとつは創業1837(天保8)年と最も古い『天安』、同じく天保年間(1830~44)の創業が『丸久』と『佃源 田中屋』。田中屋の初代店主が〝佃煮〟の名付け親といわれている。
佃源田中屋:中央区佃1-3-13
         
天安:中央区佃1-3-14
        
丸久:中央区佃1-20-4
        
佃島の漁師は、獲った小魚類を塩辛く煮込んだ保存食を考える。そのころの保存食は、醤油が生まれていないため、塩辛や薄い塩水で煮て乾燥させた、塩辛いだけのイリコのようなものだったと思われる。
それからおよそ200年後、1561(永禄4)年に下総の野田(千葉県野田市)で、企業的な醤油の生産が開始される。その醤油が当地に渡ってきて、醤油煮に変わり、煮込んだ保存食が、佃島でつくられたことから「佃煮」と名付けられた。

佃島渡船碑:佃1-2-10
佃島と対岸の佃大橋西詰め付近との渡し。
『夜遅くなって島へ帰りそびれた人は、島人が「えど」と呼んだ対岸から「時やァいッ・・・・・・」と、島の船頭さんに迎え船の催促をしたらしい。昔は、急を要することを「時の用」』と言ったから、夜更けて船頭を呼ぶ声にもそんな含みがあって、「時やァいッ・・・・・・」に、なったのかも知れない。』(柳家小満ん著「江戸東京落語散歩」より)
        

北條秀司の句碑:佃1-2-10
『雪降れば 佃は古き 江戸の島』
劇作家・北条秀司は新派俳優・花柳章太郎と連れだって佃を歩いたという。
                

佃水門
中央区の佃・月島・勝どきと晴海の間を流れる朝潮運河が隅田川(派川)から春海運河と接続する地点に1963(昭和38)年に設置された。下流側の朝潮水門とともに朝潮運河とその周辺を高潮や津波の被害から守っている。
こちらはローラーゲート式で、有効幅員11.4メートル×2連、上部には「高潮から都民の生命・財産を守ります」のスローガンが書かれていると云うが、隅田川側に書かれているのだろう。
                         

石川島灯台跡:佃1-11
佃島渡船碑を過ぎ、その先まっすぐ歩いて水門前の橋を渡ると、突き当りに昔風の建造物が見える。
石川島の灯台は1866(慶応2)年、石川島人足寄場奉行清水純崎が、隅田河口や品川沖航行の船舶のため油絞りの益金(えききん・利益)を割き、人足の手で寄場南端に常夜灯を築かせたもので六角二層の堂々たる灯台であった。
人足寄場とは、江戸幕府の設置した軽罪人・虞犯者(ぐはんしゃ=罪を犯す恐れのある者)の自立支援施設である。
石川島の人足寄場は、犯罪者の更生を主な目的とした収容施設を作ることを1790(寛政2)年に火付盗賊改方長谷川平蔵宣以(のぶため)が老中松平定信に提案し、設置された。正式には「加役人足寄場(かやくがたにんそくよせば)」という。
人足寄場の設置以前には、無宿の隔離及び更生政策として佐渡金山への水替人足の制度があった。しかし、水替人足は非常に厳しい労役を強いられるものであり、更生というより懲罰という側面が強かった。
収容定員は300~400人程度。生活指導や職業訓練による自立支援・再犯防止のためのプログラムが行われ、約3年間収容した。【水替人足=鉱山に溜まった排水を外部に排出する仕事に従事した人足(労働者)】
 

佃島公園:佃1-7
佃公園は、石川島公園と連続しており、中央大橋がその境目となる。
上流の中央大橋から、下流の佃大橋の隅田川沿いが佃公園である。
公園には、モニュメントの「みどりの風」、中央大橋下に位置するタイル壁画、石川島灯台跡の復元や佃堀があり、下町と高層ビルの交差する空間である。
                   

於咲稲荷波除稲荷:中央区佃1-8-4
佃堀沿いを50m程歩くと 右手に鳥居が見える。
鳥居を共有して、於咲稲荷神社と波除稲荷神社が鎮座している。
鳥居脇に、長径50cm前後の楕円形の石3個の力石が置かれている。材質は安山岩で、どれにも「さし石」の刻銘がある。力石を「さし石」と呼び、持ち上げることを「さす」とか「あげる」と呼んでいる。
佃島では漁業に従事する若い衆などが、関東大震災のころまで、力競べとして石を持ち上げることが盛んに行われていた。
   

佃天台地蔵尊:佃1-9-6
於咲稲荷波除稲荷前にある露地の中に祀られている。こちらは、裏口のようで、反対側の路地口には地蔵尊の赤い幟旗がたっている。
赤い旗の脇の細い通路には、屋根付の小さな門がある。この路地を入り、銀杏の大木の隣に現れる地蔵尊。それは黒い板の石に線でその姿が彫られている。線刻のめずらしい地蔵像である。
なぜこのような露地の中の祀られているのか、由来など確かな説明が書かれていない。
江戸中期の正徳~元文年間(1711~40)に、地蔵菩薩を厚く信仰した上野寛永寺崇徳院宮法親王が、自ら地蔵尊像を描いて江戸府内の寺院に地蔵尊造立を促したという言い伝えと、地蔵比丘といわれた妙運大和尚がこの宮が描いた地蔵尊を写して全国の信者に八萬四千体石地蔵尊建立を発願したという話がある。
佃の天台子育地蔵尊には、天台地蔵比丘妙運の刻銘があり、拝写された地蔵の姿そのものではないかといわれている。
『現在の町名で佃一丁目の路地内には、お地蔵様が祀られており、朝昼晩、お線香の絶えることがない。ちょっと立ち寄っては、孫なり子供なり、父なり母なり、お年寄りなりの、無事幸せを願って、こまめに手を合わせるからである。佃島に行って、最も美しく心を洗われる場所が、ここのような気がする。どこの路地かは、大銀杏の梢を目当てにすればよい。』(柳家小満ん著「江戸東京落語散歩」より)

佃の町は佃小橋を中心にコンパクトにまとまっていた。堀に船が数隻泊まっていたが漁師町の印象は消えている。
佃大橋通りの効果を潜って佃からもんじゃ焼の月島に入る。

もんじゃストリート(月島西仲通り商店街)
明治時代中期以降に広まった「もんじゃ焼き」。その起源は、安土桃山時代に千利休が作らせた小麦粉を主体とした和菓子「麩(ふ)の焼き」であるといわれている。
もんじゃストリートは、1番街から4番街まであって、75店ほどもんじゃ屋が店を構えている。歴史のある店は数店のようで、他の店は1980年代後半の「もんじゃブーム」でもんじゃ屋にくら替えしたケースが多い。古い建物を見るともんじゃ焼きとは関係ない屋号を見かける。「いちごみるくもんじゃ」などアレンジされたもんじゃを提供している店もあり、観光客で賑わっている。
 

 

 

月島交番:月島3-4-3
もんじゃストリートの2 番街と3 番街の境の十字路の角に交番はある。
警視庁で最も古い交番で、1921(大正10)年頃に設置された時は木造だったが、1926(大正15)年に現在の鉄筋コンクリートの建物に建て替えられた。2008(平成20)年までは実際の交番として使われ、現在は月島警察署・西仲通地域安全センターとして使用されている。
        

月島観音(月島開運観世音):月島3-4-5
もんじゃストリートの月島交番の先、右手のビルの中。1951(昭和26)年、地元の篤志家によって観世音菩薩と一光三尊如来を安置する小さな堂が路地の奥に建てられたのが始まり。2001(平成13)年、再開発によって建てられた現在のビル内の以前とほぼ同じ場所に移設された。  
信州善光寺別院本誓殿・月島開運観世音の名称が正式のようだ。開運・祈願成就のほか遺失物発見や病気平癒にご利益があるとされて、参拝者が多い。特に毎月27日の”びっくりセール”露天大会と呼ばれる縁日は賑わうそうだ。


柏山稲荷神社:月島3-16-4
由来は不詳。
どういう神社なのか?民家の前に鳥居がある感じで、本殿は居間ではないかと思うように、中から話声が聞こえてくる。不思議な神社である。
         

月島の渡し跡(わたし公園):月島3-24  
銀座の柳三世跡を通り過ぎて、二つ目の十字路を左折。 突き当りを右折し、左手に見える公園の一番奥。
「月島の渡し」は、月島一号地の埋立が完成して間もない1892(明治25)年、南飯田町(現、明石町14)から月島(現、月島3丁目)へ、手漕ぎの船で私設の有料渡船をはじめたことがはじまりとされる。1901(明治34)年、月島への交通の重要性を考慮した東京市が市営化を決め、翌年、汽船曳船二隻で交互運転を開始し、渡賃も無料となった。月島は東京の臨海工業地帯として発展し、1911(明治44)年には、乗客の増加に対応するために徹夜渡船が開始された。
その後、1940(昭和1)5年には勝鬨橋が架橋され、渡船の利用者は減少の一途をたどり、月島の渡しは廃止されることとなった。
        

        

                              

銀座の柳三世跡:月島3-32
「わたし児童公園」を出て右折して150mほど進むと丁字路があり、ここを左折して150m程進むと交差点がある。この交差点を右に曲がった西仲橋の手前に「銀座の柳三世」が植えられている。
江戸から明治、大正、昭和そして平成の今も中央区を象徴する「柳」。
「昔恋しい銀座の柳(東京行進曲)」などの流行歌で全国に知られるようになった「銀座の柳」は、1970(昭和45)年、銀座通りの改修工事で撤去されたが、1984(昭和59)年「銀座の柳二世」として復活した。
月島にある柳は「銀座の柳二世」の枝を育成した「銀座の柳三世」で「柳を愛する区民の会」が寄贈したもの。
        

月島川水門:月島3-25-11
月島川が隅田川に合流する地点にあり、1964(昭和39)年に完成した。
通常時は、船舶が通航するために開放しているが、高潮あるいは津波時には、周りの住吉水門、浜前水門などとともに閉鎖する。
        

朝潮橋・朝潮運河
東京都中央区佃・月島・勝どき・豊海町と晴海の間を流れ東京湾に注ぐ運河である。晴海運河から分かれ途中で月島川と新月島川(新月島運河)が注ぐ。ハゼが釣れることで知られる。
 

二度の降雪と三度目もあるのではと、中々Goが出せず、長いお休みとなった。
「佃・月島を歩く」は、当初築地も回る予定でコースを計画していたが、築地も様々な歴史があり、時間が足らないことが分った。
そこで、コース変更した。その矢先、TVで佃島を舞台にしたサスペンスの再放送ドラマがあった。散策の参考になるかなと、集中して観たが、「佃本町3丁目」とか、「佃南町」なんて実在しない地名が登場していて今一であった。唯一、実在する「朝潮橋」が登場している。それにしてもまたまた、おかしな偶然である。

この散策の続きは、隅田川を相生橋で渡り、深川に入った。

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