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義経終焉の地・平泉

2014-10-14 18:04:56 | 歴史散策
北上川を望む高館(たかだち)には奥州藤原氏の居館である衣川館(ころもがわたち)が建っていた。
少年期を過ごし、再び平泉へ義兄・頼朝に追われ、落ち延びた義経の住いに与えられ、人生の終幕を過ごした場所と言われている。(近年では、奥州市の接待館遺跡が衣川館であると言う説がある。)
          

義経(通称・九郎)は源義朝の九男として生まれ、幼名を牛若丸と呼ばれた。父が平治の乱で敗死したことで鞍馬寺に預けられた。
京都鞍馬寺
牛若丸は鞍馬寺に6歳から遮那王と名のって過ごした。その間には武芸を習った鞍馬天狗が登場する。また、平泉に下る際に名残を惜しんで背を比べた、「義経公背比べ石」が残されている。
お供には、弁慶と金売吉次という奥州商人がいた。当時藤原氏は平氏軍に匹敵する10万騎の勢力があった。この時16歳であった。
鞍馬寺では、遮那王として義経堂に祀られている。
 
          (左)囲内に「義経公背比べ石」                         (右)義経堂

                    
          
頼朝が平氏打倒の兵をあげる(治承・寿永の乱)と馳せ参じる。義経25歳。
その後、一ノ谷、屋島、壇ノ浦合戦で平氏を破り進軍していった。
四国屋島寺
屋島の合戦では、有名な那須与一の「扇の的」や義経の「弓流し」の武勇がある。





屋島の合戦跡


平氏を討ち破り、鎌倉に凱旋していった。しかし、義経が官位を受けたことや平氏との戦いに於いで独断専行を行ったことに頼朝は怒り、鎌倉には招き入れなかった。義経27歳。
満福寺腰越状
完全に敵視した頼朝宛に、嘆願状(腰越状)を頼朝の信望が篤かった家臣宛てに差しだし、申し開きをしたが、鎌倉に入ることは許されなかった。
          

          

仕方がなく吉野等を巡り、一旦京(比叡山)に戻るが、再び藤原氏を頼って奥州平泉に旅立つ。義経29歳。
             

高館義経堂
四代泰衡の急襲にあい、この地で妻子とともに自害したと伝えられている。義経31歳。
殺害された妻・北の方と子・女児は金鶏山の麓にある千手堂の境内に祀られている。
北の方は頼朝の乳母の次女で、頼朝の命によって義経に嫁ぎ、義経の逃避行にも従った正室。伝承では郷御前と呼ばれていた。平泉では貴人の妻のことを北の方と呼ぶ。
千手堂には郷御前の守り本尊・不動明王と義経夫婦の位牌が祀られていた。
それから500年の後、義経が自害した地に仙台四代藩主・伊達綱村が、義経を偲んで義経堂(ぎけいどう)を建てた。中には義経の木造が安置されている。
          
 
             (左)義経木像                                (右)供養塔  

義経堂が出来て6年後に、松尾芭蕉が曾良を従えて「おくのほそ道」の道中にこの場を訪れた。実に、江戸を旅立ち44日目のことだった。
そして、有名な句である『夏草や 兵どもが 夢の跡』を詠んだ。 
          

高館からの眺望は平泉随一といわれ、東にとうとうと流れる北上川、束稲山(たばしねやま・別名東山)が眺められる。昔は桜の名所とされたが、現在はツツジだと言う。
8月16日には観光協会主催の「平泉大文字送り火」が催されている。今年は50回目となり先祖、戦没者並びに東日本大震災の犠牲者の霊を供養した。
また、西にめを転じると、前九年・後三年の役の戦いの場であり、弁慶立往生の故事でも知られる衣川が北上川に合流している。
          

 
       北上川の左手上あたりが衣川古戦場                      中央やや左に束稲山   

     

弁慶の墓
中尊寺月見坂の入口に弁慶松の下に弁慶の墓と言われる五輪塔が祀られている。
 

今年は、計画的ではなかったが、義経のゆかりの地・片瀬万福寺、京都鞍馬寺、そして平泉を訪れた。昨年も瀬戸内旅行で屋島を訪ねた縁もあり、義経のストーリーをまとめてみた。

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