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江島神社節分祭2014

2014-02-04 14:34:41 | 散策

江島神社節分祭2014

節分とは、季節の分かれ目。本来ならば、四季それぞれにあるはずであるが、一年の初めは春であり、それで春の節分2月3日がメジャーとなった。
では、何故、節分に豆を撒くか、これには諸説あり、そのひとつに、
むかし鞍馬山の近くに鬼が現れ、村人たちを困らせていた。その時に神のお告げで鬼を追い払うのに豆を使ったという言い伝えがあって、平安時代から豆を撒くようになったといわれる。
しかもその豆(魔目)は煎ったものでなければならなかった。生であると「魔」から「目」が出ると、縁起が悪いとされて、煎った豆(魔滅)で「魔」を「滅」っする。つまりは、邪気を除き、福を迎えるためということのようだ。




江島神社の豆まきは合間に歌謡ショーが入って今回は、6回行われた。
福豆の袋の中には景品(福物)が書かれたカードが入っている。テレビやデジカメから地元の特産品や袋菓子が当たるようだ。
撒く豆の量も半端ない量で、景品も舞台前に貼られた提供者の数からいっても多いと思われる。
        
開催にあたって、神社側から諸注意が述べられている。
なにせ、神社は江の島の山の中に建てられおり、限られた平地の通路で豆まきが施工させるため会場の東側は階段となっていて危険がいっぱいある。

参道を使用した撒豆会場 この広さで千人が参加すると予想

その警備は、藤沢警察と警備会社ご合同で行われている。
        
撒き手は1回に20人ほどで、本殿で神事を行って、銘々枡を持って舞台に上がってくる。その上に舞台上にはこれほどの豆が用意されている。
        

        
福豆には、江島神社の家紋「三つ鱗」が記されている。この三つ鱗は執権北条氏の家紋でもある。
『「太平記」には初代執権・北条時政が江の島に参籠(さんろう・神社などに一定期間籠って祈願すること)
して、子孫の繁栄を祈った時に、龍(大蛇)が現れ三つの鱗を落とせり、時政祈願成就と喜び、その三鱗を授かり家紋となす』と龍宮(わだつみのみや)の解説に書かれてある。
一方、江島神社の家紋が何故三鱗なのかは神社の由来にも書かれていない。
江島神社の三鱗家紋はどこから来たのか調べたが、北条氏の誰かが奉納してのではという文章をあったが、それは逆だったのではなかろうか。
ただ、江島神社の祀られている弁才天の信仰と龍神は密接な結びつきがあると云うので、古くから江島神社の家紋として使用されていたのではなかろうかと解釈する。
一方、鎌倉関係のブログを見ると、『そもそも、北条氏が使用していた三鱗家紋は、源頼朝の命によって旗に記された「北条のマーク」で、頼朝が「誰の旗か、あるいは、あの軍は敵か味方か」がわかればよい程度のものであって、三角形の種類を気にして使用されていたとは考えにくい。』と、ある。
単に、単純な最小の形三角形を家紋にしただけでは、との見方もあるようだ。
        
最初の福男は、地元の実力者である。
合間には、歌謡ショーが。
        
初回は、アンジェリカさん。鎌倉出身で、ご町内にはみのもんたさんも住んでいるとか。 
肩書きは、タレント、シンガーソングライター、それにNHKの海外旅番組のレポーターとナレーターをしている。
        
アンジェリカとは、ギリシャ語で天使という意味だと彼女のブログに書かれていた。馴染みがない方もいるだろうが、道端アンジェリカさんとは別人。暴れん坊将軍で小役で登場しているという。また、ふるくは、横浜ドリームランドのイメージガールを務めたこともあるようだ。
            

次の歌手は、ムードコーラスのグループ・森雄二とサザンクロス。
        
サザンクロスと聞いても分らぬかもしれないが、「足手まとい」を歌った最初のグループといわれれば分るかと。左手の女性はメンバーではないようだ。
        
進行、司会役の本田修一さん。よかにせどんグループのリーダーである。
地元に事務所があるようで、藤沢音楽祭など地元で活躍しているのかなという感じ。
テレビ埼玉の歌と旅のバラエティー情報番組「アンジェリカとよかにせどんの旅物語」というレギュラー番組を持っているようだ。
最後まで居なかったのだが、安倍理葎子(旧名:安倍律子)さんも特別出演すると案内にはあった。

2回目以降は年男、年女を中心としたメンバーのようだ。
初穂料15千円を奉納すれば豆まきに参加できるようだ。
        
    
福豆の取り合いはすさまじく、主催者側が危険を感じると、ストップの笛が吹かれる。
2度目の撒豆には4~5回の笛が吹かれ、しかも危険場所は固定していたようで何度も同じ場所の参拝客が注意されていた。
そんな危険個所にいなくても足と頭が左右にずれた体系に持っていかれ、2回だけの参加なのに押し合いへしあいで、しばらくは背中が痛かった。
皆さん景品が欲しいのだろう。
という私は、袋菓子ひとつをゲット。『福』は大きな福をどさっと頂くよりも、小さな福を続けて頂き2014年が良い年であっったと願いたい。

『 福は内 福は内 』


その江島神社の由来は、
社伝によると、552(欽明天皇13年)に、天皇の勅命で、島の洞窟(岩屋)に神様を祀ったのが、江島神社の始まりであることが記されている。この年は、日本書紀によると、仏教が公に伝わった年、「仏教公伝」の年に当たる。ということで、この時代は、伝来の仏教と固有の新教が共に大切にされていたようだ。
当時は、御窟(おんいわや)を本宮、奥津宮を本宮御旅所、中津宮を上の宮、辺津宮を下の宮と呼んでいた。
一時は御窟に籠る修験者や、行を練る僧たちが神の功徳を仰いでいた。
その後、仏教との習合で江島は金亀山与願寺と号した。鎌倉時代には、源頼朝が鳥居を奉納し、執権北条時政は北条家の家紋である、龍の三つ鱗を授けた。また蒙古軍を撃ち退けた折には、御礼として御宇多天皇が、江島大明神の勅額を奉納されている。 このように朝廷や武将を始め、庶民の信仰も篤かった。
江戸時代には、江島弁財天への信仰が集まり、 江ノ島詣の人々で大変な賑わいを見せました。
特に、女人禁制の大山詣と対比され、男は大山詣、女は江ノ島詣とか、その両方をセットにした旅が江戸庶民の娯楽のひとつとなり、講を組んでの旅が盛り上がっていた。 
         

関連 : 江の島を歩く



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