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サバ神社巡り

2013-12-07 15:58:11 | 歴史散策
かなり以前のことだが、通勤時に車のナビに様々な「サバ神社」が表示していることに気づき、「なんだ、これは。」と驚いたことがあった。そしてバラバラではあるがサバ神社12社に参ったことがあった。
今回、あらためて『12サバ巡り』として、1日で巡ることとした。
サバ神社とは、神奈川県中部の境川中流域、横浜市瀬谷区・泉区、大和市南部、藤沢市北部にかけて12社ある、「サバ」と読む社名を持つ(あるいは過去に持っていた)神社である。


今回、12社のうち、西俣野の左馬大明神社と石川の佐波神社は最寄駅からバスを利用し、残る10サバは小田急線の湘南台駅からテクで通してサバ巡りをした。12月初旬の暖かな日であった。

最初の左馬大明神社には小田急線湘南台駅東口より、神中バス・湘27ドリームハイツ行に乗って西俣野BSで下車、すぐ。
左馬大明神社   藤沢市西俣野837辺り
この神社は神奈川県神社庁には登録されていない。新編相模風土記稿には、高座郡大庭庄西俣野村、神禮寺持とある。




次の佐波神社は小田急線六会日大前駅西口より、神中バス循環バスで4号西BSで下車、西方向へ徒歩6分。
佐波神社   藤沢市石川141
由緒
祭神は源義朝公で、1611(慶長16)年頃創立。一説によると戦国時代末期石川に勢力のあった石川六人衆によって勧請されたと伝えられる。社名については初め左馬頭神社、次に鯖神社と称したが、水害にあったとき再度、佐波神社と改めた。
石川六人衆とは入内嶋、西山、田代、伊沢、佐川、市川氏だが、六人衆がなぜ義朝を祭神としたのかは不明。






ここからは、小田急線湘南台駅より徒歩で進む。今田鯖神社には10分ほどで到着。
鯖神社   藤沢市湘南台七丁目201
由緒
1702(元禄15)年当地井上瀬兵衛発起より「鯖大明神」造立。1826(文政9)年改築。1873(明治6)年村社列格。
地元では「今田鯖神社」と称して、保存会が小冊子を発行している。



 
次は境川を渡り、藤沢市より横浜市泉区にはいる。
途中、道筋には石仏が祀られている。


中には双体道祖神らしき石仏もあった(右)


道端に祀られている石仏群が泉区には沢山あるようなので、改めて訪れたい。
20分少々で旧字名鍋屋の鯖神社に着く。

鯖神社   横浜市泉区下飯田町1389
由緒
勧請年代は不詳であるが、伝承では飯田郷の地頭、飯田五郎家義が勧請したといい、小田原北條の時代に下飯田を治めた川上藤兵衛も武運長久の祈願をしたという。
また1590(天正18)年に下飯田の領主になった筧助兵衛(かけいすけひょうえ)為春は、地域の鎮守として信仰し、社殿の修復をしたという。
1873(明治6)年に下飯田村の村社に列せられた。
社殿右手前の銀杏は横浜市の名木古木に指定されている。
またこの近くの神社の近くには鎌倉古道のひとつである「上の道」または「西の道」が通っている。




次の鯖神社には25分ほどかかる。
鯖神社   横浜市泉区和泉町705
由緒
慶長年間(1596~1615)に当地の郷士、清水、鈴木の両氏が勧請したと伝承されている。1689(元禄2)年に氏子住民の浄財で社殿の修復が行われたと記された棟札が保存されているが、1836(天保7)年に神祇管領卜部朝臣良長(じんぎかんれいうらべあそんよしなが)が京都から参向奉弊し「鯖大明神」の額を奉納した旨を記した棟札も保存されている。








再び、境川を渡って藤沢市に。境川は美しい木製の渡戸橋を渡る。

先代の橋の一部が先ほどの鯖神社に保存されている(右)


30分ほどで七ツ木神社に到着。
七ツ木神社   藤沢市高倉1128
由緒
文禄年中(1592~96)渋谷義重崇敬厚かりしと伝う。1826(文政9)年再建。新編相模風土記稿に七ツ木郷鯖神社と記せるは当社なり。往古より鯖神社と称せるを明治初年七ツ木神社と改称す。1873(明治6)年村社列格。



先ほどの神社同様 両部鳥居という特徴ある鳥居が迎えてくれる

ここの神社も双体道祖神らしき石仏が祀られている


境川沿いの道を遡ると、田んぼの脇に石祠が祀られている。

三度、境川を渡り環状4号線にさしかかる。信号機は「左馬神社入口」名。


七ツ木神社から30分近く、旧字名中宮の左馬神社に到着。

左馬神社   横浜市泉区和泉町3253
由緒
伝承では源氏隆盛の頃の勧請という。昔から「相模七サバ」の一社と崇められた社で、新編相模風土記稿にも「鯖明神社」と記している。1625(寛永2)年に三河松平氏の分家・能見松平(のみまつだいらけ)の勝左衛門昌吉が和泉村の領主になった時に村の鎮守として再興、また能見松平家累代の祈願所とした。また代々の領主は氏子と共に社の護持や社殿の修復に尽力しており、1816(文化13)年、1835(天保6)年の棟札が残されている。1873(明治6)年に和泉村の「村社」に列せられた。





 
今度は、境川の支流である和泉川沿いを遡ること20分余り。
佐婆神社   横浜市泉区和泉町4811
由緒
勧請年代は不詳であるが、伝承では、寛文年中(1661~72)に伊予河野氏の後裔、石川治右衛門が当地に往来した時、一統の守護神として奉斎したのが創祀という。また1878(明治11)年に当地に伝わる伝承類をまとめた「和泉往来」の文書には「慶長年中(1596~1615)の勧請という」とある。
おそらく当社も境川の両岸に祀られている境の神としての性格を持つ古い社と思われる。当地字名の「神田(かみだ)」は当社の「神饌田(しんせんでん)」があったからという。1835(天保6)年に社殿修復をした時の棟札が残されている。境内の「たぶのき」は推定樹齢380年で、横浜市の名木古木に指定されている。
通称「へっついさま」といわれ、むかし社殿がへっつい(竈)のように土塁に囲われていたからだといわれている。
199(平成11)年に湘南台まで延伸した相鉄いずみ野線の線路が、社殿の背後を高架で通っているため、神社の環境は著しく変わった。






環状4号線を渡って、25分ほど。
飯田神社   横浜市泉区上飯田町2517
由緒
勧請年代は不詳であるが、社伝に「1239(延応元)年に飯田三郎能信(よしのぶ)、当時の地頭に復するや篤き奉幣(ほうへい)の儀あり猶知行平山源太郎の崇敬特に深かりし社なり」と伝え、1800(寛政12)年、式部権大輔菅原長量(ながかず)が「飯田大明神」と刻まれた銅製の神号額を奉納、また1816(文化13)年に神祇管領占部朝臣良長が当社に幣帛(へいはく・神前に奉献するものの総称のこと)を献上して祝詞を奏上している。
新編相模風土記稿に「飯田明神社、鯖明神とも唱ふ、村の鎮守なり、稲荷、山王を合祀す、村持。」と記され、鯖明神とあるように昔から境川沿いに多く祀られているサバ神社の一社で、「相模七鯖」のひとつに数えられている。
1873(明治6)年に村社に列した。








四度目の境川渡り、境川沿いに社があることを体感。川を渡ると大津家の長屋門が見えてくる。
         
大津家の長屋門は、桁行き11間(およそ20m)、梁行き2間半(4.5m)、屋根は寄棟造りで妻側を切り上げた鉄板葺き(建築当時は茅葺き)。建築年代は江戸時代末期と考えられる。長屋門は家格の象徴として村役人層の屋敷に設けられていた。大和市の重要文化財(有形文化財)に指定。


20分弱で次の左馬神社に。
左馬神社  大和市下和田1110
由緒
『新編相模国風土記稿』には「鯖明神社、村内鎮守とす。1670(寛文10)年の棟札あり。眞福寺持、 鐘楼・鐘は1670(寛文10)年造」とある。
1789(寛政元)年銘の常夜燈には「鯖大明神」と記されている。
『新編相模国風土記稿』に記述がある眞福寺は鯖宮山と号する真言宗の寺で、かつては左馬神社と深いつながりがあったようだが、大正末期に廃寺となり、詳しいことはわかっていない。左馬頭義朝を祭神とし七サバ参りの一社にあたる。










次のサバ神社までの距離が一番遠い。しかも車の往来が激しくセンターラインがない車道を進む、35分余りである。
左馬神社   大和市上和田1168
由緒
桃園天皇の1764(宝暦14年)、徳川九代将軍家重の代に当村の名主渡辺兵左衛門・小川清右門がこの地に宮を建立したと伝えられる。左馬頭義朝の霊を勧遷し村民の精神修養道場となるや漸次庶民の崇敬の的となる。
1816(文化13)年、上和田信法寺十四世住職の憧挙上人が氏子の賛同を得て、五穀豊穣の祈願をなしたところ其の御神徳の偉大さに武家・一般庶民に深い感銘を与え、以来五穀豊穣はもとより家内安穏の守護神として広く庶民の崇敬をえて来た。
古くより相模の七鯖神社のひとつに数えられ、境川流域を挟んで位置しており、神社名も鯖大明神(1764(宝暦14年)・左馬大明神(1816(文化13)年)・和田左馬大明神(1866(慶応2年)と変遷し、1909(明治42年)に現在の左馬神社となり村社に列せられる。








上和田の左馬神社北を走る中原街道で五度目の境川を渡り、最後の左馬神社に20分余りで到着。
左馬社   横浜市瀬谷区橋戸三丁目20-1
由緒
瀬谷左馬社の創建年代は不詳である。
当社近くの境内の岸に古宮と呼ぶ森があり、往昔その社を源家縁りの人等が当地に移し、源義朝公を斎ったものと伝えられる。
その昔、境川流域の村々では、疫病が流行すると境川の東西に点在する神社をまわり、厄除けをする民俗信仰である「七サバ参り」が盛んであった。 当左馬社も「七サバ神社」と呼ばれるうちのひとつであり、祭神は左馬頭源義朝である。
隣接の真言宗西福寺が、この左馬社の別当職であったので、当時の神仏混淆の姿が今日に残り、神社の境内にある吊鐘は区内唯一のもので、厄除け、虫除けに鐘をついて祈願したとのことである。






境川の中流域に、点在して源義朝(みなもとのよしとも・左馬頭:サマノカミ、サバノカミ)、或いは源満仲(和泉川沿い3社)を祀る神社が何故12社もサバ神社の名であるのだろうか。江戸時代にはもう1社、東俣野(現在の横浜市戸塚区の俣野と東俣野をあわせた地域)に在ったといわれている。
これらの神社の中で、飯田神社(上飯田)、鯖社(下飯田)、左馬神社(中の宮:和泉)の3社の創建は特段に古く、鎌倉時代中期には在ったと言われている。
その時代にこの地を治めていたのは源氏に縁が深い飯田氏である。そこでサバ神社の創建に飯田氏が関わっていたのではないかとの説がある。
また、何故和泉川沿いの3社だけが源満仲を祀っているかだが、和泉地区に信濃国出身の泉小次郎親衡(ちかひら)という人物が、鎌倉北条氏を倒すために、居住していた。そこで、この地域の人たちは何故か信濃源氏に思い入れがあり、その心意現象が伝承されて、同じ源氏の祖でも信濃源氏に近い源満仲を祭神としたのであろうということだ。
その他サバ神社には諸説あるようだが、下和田付近の伝承を紹介しておく。
「大雨による洪水が発生した後、水が引くと、木に沢山の鯖が引っ掛っていた」ことがあり、それから鯖を祀ったと云われ、サバ神社となったのではと。


江戸時代末期から大正年間にかけて7サバ巡りという、1日に7カ所のサバ神社を参る風習があった。子供の疱瘡、麻疹、百日咳に御利益があるとされたと云う。
「相模七サバ」と呼ばれていたのは、上和田、下和田、高倉、今田、下飯田、上飯田、瀬谷のサバ神社である。
今回、1日に7サバを上回る12サバ巡りを行ったが、それにはどんな御利益が現れるか楽しみだ。


                                            参考資料:神奈川県神社庁
                                                   横浜市泉区
                                                   下和田左馬神社


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