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「平塚宿」伝説の女性たち

2013-02-19 15:00:00 | 東海道宿場町
平塚の伝説的な4人の女性たち
平塚で語られている女性は、古い順に、平政子・大磯の虎・お菊・お初の4名が挙げられる。

平塚の地名となった女性・平政子
         

                  
                     平塚4丁目の要法寺の西に「平塚の碑」

『新編相模国風土記稿』にも収録されており、「平塚の塚」の云い伝えである。
それは、857(平安元)年、東国に下向していた桓武天皇3代の孫、高見王の娘・政子(真砂子)がこの地で没し、その棺を埋めて塚を作った。
それが幾星霜を経てその塚の上が平らになったことから、「平らの塚」が「平塚」となったことが「平塚」の地名の起源とも云われている。
しかし、これはあくまでも云い伝え・伝説であり、「平塚」の起源ではないと云うことが有力なようだ。
が、政子の系図や位牌をつくったり、おまけには政子没年千百年忌をも催したそうで、政子が実在したかの真偽に関係者の間では喧々諤々の熱い戦いがあるようだ。
なお、平塚市のHPには、地名の起源については何も触れていないようであり、現在も謎のようだ。
                
                   東国に下向する政子

大磯の虎
大磯の虎は『曽我物語』に登場するヒロインで、お虎さん、虎女(とらじょ)、虎御前とも云われる。
                      
『曽我物語』は曽我十郎・五郎の兄弟が、父の仇である工藤祐経(くどうすけつね)を討つ日本三大仇討ちとして知られる物語であるが、そこに、虎は曽我十郎の恋人として登場し、『吾妻鏡』にも出てくることから実在した女性とされる。
『曽我物語』によると、虎は平塚宿の遊女夜叉王と宮内判官家長の間に生まれた娘であり、父没後は、母と一緒に暮らし、平塚宿で遊んでいたが、容姿が良いので大磯の菊鶴という遊女に乞われて養女になったという。
と云うことで、大磯の虎は平塚生まれ(1175年)の平塚育ちの女性である。
虎が17歳の時、20歳の曽我十郎と出会い、恋仲になるが、その後、十郎は敵討ちを果たした後に討死してしまう。そのため、虎は19歳で出家し、諸国を廻る修行を行い、64歳(1238年)で亡くなったとされる。
歌川広重が描いた大磯宿の浮世絵 「大磯虎ケ雨」は、 虎御前が流した涙が雨となったという故事からで、梅雨時のしとしと雨を「虎ヶ雨」と云い、俳句の季語にもなっている。
なお、日本三大仇討ちは、あとは「赤穂浪士の討ち入り」、荒木又衛門が登場する「鍵屋の辻の決闘」がある。
             
                       歌川広重 「大磯虎ケ雨」 

「番町皿屋敷」のモデルお菊
お菊は平塚宿役人間壁源右衛門の娘で、江戸の旗本青山主膳方に行儀見習い奉公に出ていた。ある日、お菊は自らの不注意で主人愛玩の南京絵皿10枚組のうち1枚を割ってしまい手討ちにされ井戸に投げ込まれた。遺骸は引き揚げられ平塚に戻されたが、お菊が投げ込まれた井戸にはお菊のれ霊魂が留まり幽霊となって夜な夜な現れた所謂、怪談「番町皿屋敷」のモデルである。
それは、1740(元文5)年のこと。
遺骸は平塚宿内の晴雲寺に葬られたが、1952(昭和27)の区画整理で現在の立野町に移転することとなった。その際、お菊の墓を移動しようとすると不吉なことが度々起こった。そこで、工事関係者がお菊の墓があった場所にお菊塚を新たに建立し弔ったところ工事がスムーズに進むようになったという。
それが紅谷町公園の「お菊塚」である。紅谷町公園は平塚駅のすぐ近くにある。
しかし、この事件を伝える当時の資料は残されておらず、これに類似した話は北は岩手県、南は鹿児島県まで全国に存在すると云う。
  
   紅谷公園の「お菊塚」

          晴雲寺

 

歌舞伎「鏡山お初」のモデル
お初は平塚宿の百姓松田久兵衛の娘で、荻野山中藩の江戸屋敷の中臈(ちゅうろう:将軍・御台所の身辺世話役、この中から側室が選ばれていた)岡本みつの下に奉公中、主人みつが同輩の沢野から侮辱を受け自害したので、直ちに沢野を訪ね、刺殺して仇を討った烈女とされている。そして、この事件が後に歌舞伎「加賀見山旧錦絵(かがみやまこきょうのにしきえ)」のモデルになったと云う。
要法寺西側の廃寺となった広蔵寺の墓地にある「安室貞心信女、明和六年(1769)十月九日」の刻銘のある墓がお初の墓と云われている。また、主人の岡本みつも平塚宿出身であったと云われる。
荻野山中藩とは小田原藩大久保氏の支藩であり、相模国愛甲郡・足柄上郡・高座郡のほかに駿河国駿東郡・富士郡、伊豆国君沢郡・田方郡などに1万3000石を領した。
                             


                                 【別ブログを閉鎖・編集し掲載:2011.09.06散策】


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