この6月5日(土)に福井県の南越前町に帰省。翌日6日の故郷の河野地区の漁港、今庄地区の水田。5月中旬までに田植えされた稲が少し伸びていた。緑に包まれる故郷の「山と海と里」の景色。
今から150年ほど前の1864年から65年にかけて、関東の水戸藩士らによる天狗党動乱が勃発した。この動乱やそれに関連したものによる死者は2万人あまりに及んだ。水戸藩内が「水戸天狗党」と「諸生党」に対立二分され、それぞれが報復のために幼い子供も含めた家族たちの実に多くを捕え殺害した。藩内での血で血を洗う報復・私刑を含めた膨大な死者、この様相は1868年の戊辰戦争まで続き、おそらく日本の幕末史において、最も悲惨な出来事、その陰鬱な悲惨さにおいては幕末最大の悲劇であった。その水戸天狗党動乱壊滅の地の遺構が南越前町や木ノ芽峠を越えた敦賀市には今も残されている。6月6日、京都への帰り道、この天狗党動乱の地を巡った。
南越前町の今庄宿場町は、古代の昔から、越後(新潟)まで続く北陸路の二大難所の一つだった「木ノ芽峠」
の麓にある。もう一つの北陸路の難所は越後の「親知ラス子知ラズ」。紫式部も木曽義仲も親鸞も道元、新田義貞や織田信長もこの木ノ芽を越えた。近世の1570年後半になり、栃ノ木峠越えのルート(北国街道)が新たに作られた。でも、木ノ芽峠越、栃ノ木峠越のいずれのルートも峠を越えると麓の板取宿から今庄宿に至る。
今庄宿場町は、江戸時代から明治時代には造り酒屋(酒造)が15軒もあり旅籠の数は55軒。現在も酒を造る酒造会社は4軒ある。参勤交代の時の本陣や脇本陣、問屋などが軒を連ねていた。北陸路の中でも重要な宿場町であった。今もその面影がよく残るので、今年2021年5月には、国の文化審議会において「重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)」に指定された。
水戸天狗党の軍勢約800人がこの宿場町に至ったのは1864年の12月9日だった。毎年12月に入ると豪雪地域の今庄周辺は積雪がみられるようになる。水戸天狗党は1864年3月に水戸の筑波山にて挙兵、その多くは水戸藩士たちだったが、その後にさまざまな階層の人も含め最盛期には1500人余りが「尊王攘夷」の旗のもと筑波山に集まった。幕府軍や水戸藩内の「諸生党」派、近隣の藩兵に包囲され、筑波山とその周囲で闘うこと6カ月あまり。戦いに利あらずと、1000人余りが11月1日に筑波山を下り、中山道を京都に向かった。京都御所にいる天皇に直接訴えることや在京している水戸学(尊王)中興の藩主・水戸斉昭(第九代)の子である一ツ橋慶喜に「尊王攘夷」の決行を訴えるためであった。
美濃(岐阜)まで進軍したが、その前途に美濃大垣藩や彦根藩(藩主だった大老の井伊直弼が水戸藩士らによって暗殺されている―1860年桜田門外の変)の藩兵らが立ちはだかった。形勢不利とみた水戸天狗党軍は、一路進路を変更し、美濃からすでに冠雪のある蠅帽子峠(標高約900m)の難所を越えて越前大野に至る。さらに山岳沿いに越前池田を経て山越え、峠越えをして12月9日に越前の今庄に至った。
今庄宿の人々は、「天狗党迫る」の報に、宿場には人っ子一人いなくなった。宿場の人々はすべて近隣に避難したのである。JR北陸線の「今庄駅」駅舎内には、この天狗党が今庄に来た時のようすが描かれた絵も掲示されていいる。無人となった今庄の宿場町の家々にて天狗党の一行は、疲労困憊の体をしばし休息させるため滞留、宿泊。
今庄宿場町の一軒、"うだつ"がよく目立つ造りとなっている京藤甚五郎家住宅。ここは今、無料で一般公開がされている。家の前に、「天狗党—明治維新を待てなかった志士たち—」の大きな説明看板が置かれていた。幕末期、この家は造り酒屋であった。家の中に入ると、拝観者を当番で担当する人が一人いた。
家の中を見学するが、なかなか立派な屋敷の家だ。何部屋もの座敷や庭がある。
家の中には天狗党関連の資料が展示されていた。
「大混乱諸事記水戸浪人止宿」と題された京藤甚五郎家文書や「浪士名籍」などもおかれていた。この資料によると、水戸浪士たちが風呂釜に酒を入れて沸かして入浴したことなども記されている。幕府や諸藩の軍が包囲網を縮める中、雪中行軍での疲労困憊も重なり、800人の水戸天狗党は危機存亡を迎えていたためか、党員たちは半ば自暴自棄的な精神状況に陥っていた感もある。
水戸天狗党の一人が、この家の柱に切りつけた刀の傷痕も大きく残っていた。この柱には、「浪士たちは雪中行軍の中、疲労困憊し、久しぶりの休息で、自分たちの志が達成できない苛立ちの念で振り下ろした刀痕」との説明書きがあった。
昼近くになっていたので、今庄宿の「てまり」という甘味処の店に立ち寄って団子を注文した。この店も伝統的建物の町屋風な家。座敷にあがりしばしの休憩。裏の庭や家の格子が美しい。格子のそばには盆栽の青もみじが置かれていた。すごい美的センスのある光景だった。
ここ今庄は古代からの人々が行き交う歴史の舞台だった。宿場町の背後の丘のような山(270m)には「燧(ひうち)ケ城」址がのこる。平氏の源氏の源平のころに、ここに木曽義仲が城を築いた。1183年、この城で10万の平家軍を迎え撃ったが城は落城。その後、南北朝時代のi新田義貞軍と足利軍との戦いや戦国末期の織田信長軍と一向一揆軍との戦いでもこの燧ケ城は戦場となる。城址には石垣跡も少し残る。春先にはカタクリの群生地に花が咲く。低地のブナ林もある。
松尾芭蕉がこの城址に登り、「義仲の 寝覚(ねざめ)の山か 月かなし」と詠んだ歌碑が城址にある。
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