彦四郎の中国生活

中国滞在記

近江・比叡山山麓の門前町「坂本」❷明智光秀とその一族たちが眠る「西教寺」―私の父母・祖父母も

2020-03-06 16:58:04 | 滞在記

 2月24日の午後、坂本に行った時に西教寺にも行きたいと思っていたが、夕刻が近づき始めたのでこの日は諦めた。そして3日後の27日の午後、再び坂本の町に行くこととなった。京阪電鉄「比叡山坂本駅」近くの観光案内所で電動自転車をレンタル、初めて電動自転車というものに乗ったが、かなりの坂でも乗りやすいのに驚いた。西教寺は駅から徒歩で行けば30分くらいの山際にある寺院だ。

 ここには明智光秀とその一族の墓があり、菩提寺となっていて、彼らが眠っている。そして、私の母や祖父母、そして父の骨も納骨しているので、私の一族もここに眠っている。私もいずれここに納骨されることになるだろう。こんな因縁もあって、小さい頃から明智光秀とその一族にたいして親近感を抱いていたように思う。

 西教寺は天台宗の総本山の一つである。天台宗はもともとは最澄が平安時代に比叡山に開いた仏教の宗派だが、現在(1945年以降)は3つの天台宗宗派(①延暦寺[山門]②三井寺[寺門]③西教寺[盛門])があるようだ。西教寺が開山されたのは669年の飛鳥時代、その後すたれ、1486年に再興されたと寺歴の看板には説明されていた。明智光秀も一軍を率いて参戦した1571年の「織田信長軍による比叡山焼き討ち」によってこの寺も多くが焼失される。そして、その後 坂本城を築いて城主となりこの地方一帯の領主ともなった明智光秀らの逐力もあり再び再興されることとなる。

 寺の山門を入ると「文学ゆかりの地」の看板が。三浦綾子の小説『細川ガラシャ夫人』の中に、ここ西教寺に光秀や妻・熙子(ひろこ)、そして娘たちの家族や一族がこの寺を訪れているようすが描かれているようだ。(三女・玉子(たまこ)が後のガラシャ) 領地をもつ城持ち武将にと栄達した光秀。このころは光秀や家族にとってしばしの平穏なひと時だつたのかもしれない。

 参道が山に向かって真っすぐに続く。その参道に沿って多くの宿坊(里坊)が並ぶ。6歳の時の61年前、私たち(父・祖父母・弟と私)の5人が母の納骨で西教寺に宿泊した宿坊はどこだったのだろうかと探してみた。そしてようやく見つけた。「禅明坊」という名前の宿坊だった。この宿坊の坊境内に入り、玄関先をみると「越前国」と書かれていた。古くから越前国の人達がこの西教寺に参拝・宿泊の際にはこの宿坊を宿としたのだった。ちなみに、今の福井県は昔「若狭国」と「越前国」との二つの国があった。越前・越中・越後の「越」とは「福井県の敦賀と今庄の間の木の芽峠の山塊を"越える"」の意。

 3月8日から始まる「びわ湖大津 光秀大博覧会」のメイン会場が、この禅明坊の建物となるようだった。この日、会場設営の大工さんたちが準備作業をしていた。そして、比叡山坂本駅に近い滋賀院門跡と大津市歴史博物館も会場となるようだ。

 参道を歩き「勅使門」へ。勅使門の背後に高くそびえる石垣や白い塀や瓦屋根はまるで城郭のようにもみえる。

 唐門のある建物の境内に入る。りっぱな唐門から琵琶湖が見えてきた。唐門の扉には3羽の鳥の彫刻がおかれていた。

 境内の石段を登り本堂付近に向かう。山際に「坂本城主明智光秀日向守とその一族の墓」と書かれた立て札があった。墓群がある。近くには、本能寺の変が起きる2~3年前に亡くなった光秀の糟糠(そうこう)の妻・熙子の小さな墓が。その墓の基壇には明智一族の桔梗(ききょう)の紋が見られた。光秀も彼の娘たちも、一族みんなでここに何度も熙子の霊をともないに来たことだろう。

 また、妻・熙子の実家の一族である美濃の妻木一族の墓(本能寺の変・丹波合戦・天王山合戦・坂本城攻防戦などで亡くなった)も近くにあった。

 明智光秀辞世の句なるものが石碑に刻まれていた。これは江戸時代の1693年に書かれた『明智軍記』に掲載されているもののようだ。「順逆無二門 大道徹心源 五十五年夢 覚来帰一元」(大意:修行の道には順縁と逆縁の二つがある。しかし、これは二つに非ず、実は一つの門である。即ち、順境も逆境も実は一つで、窮極のところ、人間の心の源に達する大道である。而してわが五十五年の人生の夢も醒めてみれば、全て一元に帰するものだ。)

  他に、「戦国武将に仕えた人達の墓」もあった。

 比叡山坂本駅近くの観光案内所にて電動自転車を返却、西教寺と光秀・熙子にまつわることが特集されていたパンフレットをもらった。