彦四郎の中国生活

中国滞在記

翻訳業務の依頼―大学の学生寮―バスでの急ブレーキ!!と運転手の態度に唖然---

2017-02-21 11:18:15 | 滞在記

 2月14日(火)に大学の後期授業が始まってから大学に再び活気が戻ってきた。2万人を超える学生が在籍している閩江大学。全員の学生が寮で生活しているので、1時間目が始まる午前8時半前には、各寮から各教室楼に向かう学生たちの長い列ができる。午前中の授業が12時10分に終わると、寮や食堂に行く学生の列がこれまた長くできる。大学内には、2〜3階建ての超大型食堂が4箇所ある。食事代金は、3品ぐらいのおかずを注文してご飯をつけると8元(約130円)くらいとなる。

 大学の寮の建物数は、授業などを行う建物や大学諸部門の建物などの数より多い。6階建てでエレベーターがないので登り下りは大変だが、学生たちは若いだけに割と平気なようだ。電話で「食事」を大学近くの店に注文して持ってきてもらう時、4階〜6階あたりの学生は「上からひもにぶら下げたバケツにお金を入れて」降ろし、「弁当やお釣りをバケツで受け取り 吊り上げる」ことをしている光景をよく見る。(※寮の門限は午後11時となっている)

 洗濯物が干される情景は、特に女子寮棟の場合は色とりどりでカラフルだ。男子寮の場合は地味な色なので、男女どちらの寮なのかが洗濯物を見るとすぐわかる。寮は通常4人〜6人部屋となっている。中国の場合は、中学生の頃から学校の寮で生活し週末に自宅に帰っていたという学生も多い。小学校から寮生活をしていましたという学生も少なくない。高校などの場合、約半数の学生が寮生活をしているようだ。だから大学を卒業して同じ都市に就職した場合でも、部屋の家賃を節約するため、部屋をシェアーして2人で借りるというようなことは、慣れたことらしい。会社が、会社の寮(4人部屋くらい)を準備している場合も多いようだ。

 閩江大学の学生数は今後も増え続けるようで、北門の近くには新しい授業棟が作られている。今年の9月からは、ここで「情報学部(コンピューター学部)」が授業を始めるようだ。

 2月18日(土)、大学職員の鄭さんより「日本からのEMS郵便が届いたようです。午前10時45分〜午後12時50分の間にEMS便集配所まで取りに行ってください」との連絡があったので、急いでアパート近くから大学方面行のバスに乗った。途中の信号手前で、バスが激しい急ブレーキをかけた。立っていたおばあさんが倒れたまま3〜4mあまりバス内を運転席の方に悲鳴をあげながら滑るように転ばされた。一瞬の出来事だった。私や乗客たちは心配な様子でおばあさんの方に行った。幸い頭などの打撲はないようだ。そして、学生の一人が「この席にどうぞ」とおばあさんを座らせた。

 急ブレーキをかけたバスの運転手は振り向きもしなかった。おばあさんに対する「わび」はもちろん、一言の声掛けもせず、完全な黙殺という様子だった。まあ、中国の公共バスの運転手は、態度は横柄で、職業倫理感に欠ける人が圧倒的に多いが、この出来事には開いた口がふさがらなかった。ひどいなぁという感じ。これも中国か----。

 一週間ほど前に連絡があった福建師範大学大学院日本語研究科の康偉猛(こう いもう)さんと この日の夕方に会うことになった。師範大学からわりと近い海鮮料理店に行く。康さんは、大学院生だが結婚していて、娘が二人(5才と2才)いる。妻と娘たちは、福州から新幹線で1時間ほど南の都市「泉州」で暮らしている。彼は、昨年度の前期、私が師範大学で担当した「日本近現代文学」と「日本古典文法」の授業を数名の大学院生とともに聴講していた。

 この日、康さんの経歴を聞くと、「私は福建省漳州市にある閩南師範大学外国語学部英語学科を卒業して、企業に数年間就職しました。その間に結婚し子供もできました。日本語や日本に興味をもっていたので、仕事をしながら福建師範大学大学院の日本語研究科の入学を目指し、3回目の試験で合格できました」とのこと。現在33才。

 1年ほど前に、彼の故郷に近い泉州市内に拠点(事務所)をおき、翻訳会社を設立して営業を始めているようで、ようやく仕事が増え始めてきたという。会社の名前は「汤尼康翻译有限公司」。康さんはこの会社の総経理(社長)。主に日本語、英語、中国語、韓国語の翻訳を業務内容としているようだ。この会社での翻訳業務の仕事をしている翻訳者は十数名いるらしい。

 この日、「翻訳業務」についての仕事の依頼をされた。日本語に翻訳した文書が日本語として正しいかどうかのチェックや訂正の仕事。仕事に応じた金額などの具体的な提示がされた。

 

 

 


中国における「宗祠(しゅうし):宗族」―金正男暗殺事件の報道―

2017-02-20 10:00:03 | 滞在記

 2月16日(木)、早朝の7時ころアパートの下から煙が立ち上ってきた。バンバンという餅つきのような音も聞こえてくる。なんだろう?と窓を開けて下を見ると、下にある「趙氏宗祠」で料理の準備を始めたところだった。

 中国における「宗祠(しゅうし)」とは、同じ祖先をもつ(父系)同族集団が祖先を祀る「祠(ほこら)」がある所である。同族集団の「姓」は同じ。「宗族」とも呼ばれる。その歴史は古い。1950年代の初めから1970年代末までは、毛沢東を首班とする中国共産党政権下のもと、「宗族」は批判・解体の対象となった。しかし、1980年代後半以降、「宗族」が復活してきたと言われている。私のアパートの下にある「趙氏宗祠」でも、毎月のように宗族たちが集まって食事・宴席をしている。今朝20日(月)も、早朝から 食事の準備(雨の中、大きなテントを張って) が始まっていた。午前8時頃、戦闘が始まったのかと思わされる、ものすごく激しい爆竹の音が鳴り始めた。

 1月30日の春節期間のインターネット記事。浙江省のある村での「宗族」が集まった記事。この宗族の祠は「柱状節理」の中にあるようだ。500人が集まったと書かれている。みんなが集まれば、1000人あまりの宗族メンバーがこの宗族にはあるようだ。この一族もそうだが、若い人もよく参加するようだ。例えば、就職や資金や生活の相互援助など 社会生活全般にわたって、「社会や国は信用できない、一族・家族・友達・義兄弟が相互扶助をして支え合い生きるのが---」という中国伝統の人々の考えは根強いものがある中国社会。

 この「宗族と宗祠」は、中国の華中や華南に多いようだ。特に、広東省や福建省などの華南地方が多い。世界各地に広がる「華僑系中国人」のルーツも この「宗族」にある。

 2月13日(月)の夜にマレーシァの首都クアラルンプールの国際空港で起きた「金正男氏暗殺事件」。たった5秒あまりでの猛毒ガス犯行時間。金正男氏の長男をはじめとする家族は保護されたようだが。あらためて、北朝鮮の「金王朝支配」の実態に戦慄を覚える。

      ―正男氏報道「トップに置かず見出しは1行」 中国政府が規制―

 事件が起きた翌日14日の朝、日本のテレビを受信すると、この事件が大きく報道されていた。しかし、中国のインターネットなどを見ても この事件記事を見つけることができなかった。大学に行くためのバスの中のテレビのニュース番組でもこの報道を見ることはなかった。なぜだろう。報道規制をしているようだと思った。

 この事件について、中国政府は即刻に報道規制を当初したようだ。15日、中国の新聞やインターネット諸機関に対して通知を出したが、その内容は、①国営メディアの記事を転載すること。②情報源はマレーシアの報道を引用すること。③ネットではトップに置かず、見出しは1行。上から10行目以降に置くこと。―などと細かく規制された。過去のニュースと結びつけた推測や現地からの生中継も禁じられ、コメント欄も閉鎖を命じられたという。

 核やミサイルの問題で中国国内でも北朝鮮への批判的な見方が強まっているが、外交政策を担う指導部に批判が向かわないように国内世論を考慮しているとみられる。

      ―当局の「沈黙」を異例の批判=金正男氏殺害の対応で論評―中国国営紙―

 中国共産党機関紙・人民日報系の「環球時報」17日、北朝鮮の金正男氏殺害に関連し、中国当局のメディア対応を批判する論評を掲載した。韓国の報道の論調が国際的な影響を持つ中で、中国当局は「敏感な問題」に適切な説明をせず、「事なかれ主義」的だと指摘。「何の情報も発信せず、沈黙する傍観者」になっている。沈黙を保つことで当局者は「責任を負うリスクを下げている。こうした状況は中国の利益を損なう」と批判した。国営紙が当局の報道対応を非難するのは異例だ。

      ―中国外務省の事件に関する会見発表―「金正男確认身死中方回应对中朝关影响」―

 中国外交部の報道官が会見をした記事。「金正男氏の死亡を確認した。中国と北朝鮮との関係への影響について対応中だ」というような意味になるのだろうか。とても短いコメントだが、今においても中国メディア(テレビ・新聞・インターネットなど)は、この事件に関する報道は控えている様子がみられる。

 

 

 


福州は春の季節となっていた―中国に戻ってのこの一週間、「冬・春・初夏」の気温―

2017-02-19 20:07:56 | 滞在記

 2月11日(土)、中国に旅立つ日の昼食に「天婦羅」を作ってくれた。フキノトウやタラの芽などの春の山菜の天婦羅とサンマを焼いてくれていた。そして、2月3日の節分の日用に買ってくれていた「豆撒き」を一週間遅れだが、「鬼は外、福は内」をして、空港行バス乗り場まで送ってもらう。バス乗り場は、粉雪が吹雪いていた。

 関西国際空港は、春節期間の日本旅行を終えて中国に帰国する人たちの長蛇の列ができていた。午後7時30分発の「厦門(アモイ)航空・福州行」に搭乗。

 3時間15分ほどで福州の空港に到着した。現地時間は午後9時45分(日本時間午後10時45分)。空港には亜熱帯植物のジオラマが展示されていた。10時半頃福州市内行きの空港バスに乗車、1時間ほどで市内に到着。アパートのある団地の入り口には、元宵節の赤い提灯が飾られていた。結局、アパートには、翌日12日(日)の午前0時半に着くこととなった。5時間ほど眠り、朝、NHKニュースを見ていたら中国の「元宵節(小正月)」のニュースが流れていた。11日は 中国の春節を締めくくる「小正月」だったのだ。朝から「爆竹」のバンバンバンバンという音が部屋からもよく聞こえていた。

 小正月の12日、中国の福州はまだ冬の気温だった。朝は4度くらいと寒い。日中も12度くらいの気温だった。。

 いよいよ2月13日(月)から、大学の後期(2学期)が始まった。授業は全学的に14日(火)から始まることとなっていた。このため、12日・13日には大学の研究室に行き授業準備に いろいろと頭を使う。まだ寒さは残っていたが、季節的には 福州は春が始まっていた。13日頃から、朝はストーブが必要なほど寒いが、日中は15度以上の気温となってきた。大学内のブーゲンビリアが この季節でも ピンク色に咲いている。

 大学構内の植物は、「春」を告げる花々が咲き始めていた。コブシの白や紫の花、レンゲの花、スミレの花、そして桃の花も開花し始めていた。この時期でもハイビスカスの花が少し咲き残っている。

 ツツジの花も咲いている。スイートピーの花が咲き、菜の花も5分咲きといったところだろうか。日本の京都と比べると季節が1か月間ほど 早く訪れているようだ。

 13日(月)の夕方、大学の北門のバス停付近には、遠い故郷から大学に戻って来た学生たちの姿がたくさん見られた。14日(火)から授業が始まった。2月16日(木)と17日(金)は、日中に気温が急上昇し、初夏のような気温で27度まで上がったので、女子学生たちの日傘がたくさん見られた。中国に戻ってのこの一週間、「冬・春・初夏」の気温が目まぐるしく変化した。ずっと熱があり、体もだるく、体調がすぐれない一週間だったが、ようやく18日(土)になって熱が下がって平熱となった。とても長く長く長く感じた、そして疲れもあった一週間だった。

 

 

 

 

 

 

 

 


今日、中国の福州に戻ります―中国:遼寧省「大連」のこと

2017-02-11 07:55:41 | 滞在記

 2月9日(木)、前日の8日に日本に帰国した亀田さん(遼寧師範大学教員)と京都市内で会った。遼寧師範大学がある遼寧省の大連は、中国東北部(旧満州)の都市の中では、最も日本企業が多い街である。かなりたくさんの日本人が住んでいるらしい。半年ぶりの再会となるかと思うが、積もる話に あっという間に2時間が過ぎた。

  遼寧省は冬は寒さがとても厳しいので、大学の冬休みは 中国南部の大学より長いようだ。

 亀田さんが、「ちょっとした土産です。」と渡してくれた雑誌(マガジン)。なんとこれは、大連に住む日本人向けに作られた雑誌だった。毎月発行されている月刊誌のようで、2016年11月号と12月号の2冊だった。日本人にとって必要な、さまざまな情報(※例えば、「日本人向け病院」「街のイベント」「サークル紹介」「求人広告情報」「日本に帰国した場合の就職斡旋情報」「日本料理店やクラブ情報」「春節時の日本人イベント紹介」「県人会情報」「日本の各大学の同窓会情報」などなど--)

 まあ、私が住む福州は日本人が180人くらいだが、日本人がかなり多く住む「大連」「北京」「上海」「天津」あたりでは、日本人が生活するには いろいろな日本人向けの場所があり 羨ましく思ったな。一度、今年度中に「大連」に行ってみたくなった。

 この日の夕方、四条大橋のたもとで、立命館大学大学院に留学している林さん・李君と待ち合わせをした。先斗町にある店に入って食事をした。この店には 懐かしい階段があった。明治・大正・昭和の3時代のレトロ雰囲気満載の店だった。値段も手ごろ。

 先斗町で食事後、近くの木屋町の高瀬川沿いにある居酒屋「おかめ」に行く。李君が、歌い始めたのは中国語の歌だった。私が「ええ!この店、中国の歌もあるんだな!!」と驚いていたら、この店の女将さんか「へえ!!中国語で歌ったお客さんは、この店は30年やってますけど 初めてですわ!!」と京都府の丹後弁で話していた。林さんも歌を歌った。

 学生たちと9時半ごろ「さようなら」をして、酒の後に食べたくなってしまう「一銭洋食」(祇園)の店に立ち寄った。ここもレトロ雰囲気満載だ。和装女性の蝋人形がなんともいえない雰囲気の店でもある。

 2月10日(金)、中国へ送る荷物の準備等。夕方に、自宅近くの水田に行く。寒い寒風の中、夕日が美しい。水田の道端にある地蔵に、家族や友だち、親しい人たち そして私の 今年1年の平安・幸福をお願いする。亡くなった父母・祖父母にも ここで祈る。

 日本に帰国して1か月あまりの滞在だった。あっという間に時が過ぎてしまった。会いたい人や行きたい場所なども いろいろあったのが心残りだが---。

 2月11日(土)の今日、中国に戻ります。14日(月)から大学の後期(2学期)が始まる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


友あり、遠方より来たる❷—「池の水 人の心に似たりけり---」―人は迷い続ける存在と説く法然

2017-02-09 09:33:26 | 滞在記

 長野県から来た新谷孫一郎君が、ぜひ行きたいところがあるというので 京都市北区にある「神光院(しんこういん)」という寺に向かった。五山の送り火の一つ"船形"が点される船山(妙見山)の麓にその寺はあった。「西加茂の弘法さん(空海)」と呼ばれている寺のようで、東寺・仁和寺と並ぶ「京都三大弘法」の一つらしい。空海(弘法大師)が90日間の修行滞在をした寺らしいが、私も初めて行く寺だ。ここに、幕末時期から明治初期にかけて生きた「苦難の人生を生き抜いた女流歌人―大田垣蓮華月(おおたがき れんげつ)」という人が住んだ庵と墓があるらしい。

 寺内の庵に行き、線香をあげロウソクを点す。時は1868年、江戸城総攻撃に向かう西郷隆盛たちの軍勢が京の三条大橋を通りかかるとき、一人の女性が隆盛に何かを渡そうと歩みよる。一片の短歌だった。「あだみかた 勝つも負くるも 哀れなり 同じ御国の 人と思へば」という短歌だった。隆盛は この歌に いたく心を動かされたという。

 寺の人に「墓はどこにありますか?」と聞く。「ここから500mほど山の方に歩くと西方寺という寺がありますので、その寺の山裾(すそ)にあります」とのこと。蓮月の墓は小さな鞍馬石に「大田垣蓮月墓」と一行だけ刻まれていた。幕末の人「富岡鉄斎」の筆らしい。蕾が見え 今も花を咲かせているらしい桜の老木に寄り添うように墓があった。この連月は「連月焼き」という小さな茶碗などに短歌を自筆したものを売り出し、「やさしく色っぽい文字」茶碗の風情が京で大人気をよんだ人でもあるようだ。

 墓から戻る道すがら、「西方寺」の小さな山門の掲示板に目をやると「池の水 人の心に 似たりけり にごりすむこと さだめなければ」という法然の和歌があった。この和歌の説明には次のように記されていた。

             ―私たちは 迷い続けるのだろうか―

 おだやかな気持ちでいられたり、時には人をうらやんだり 澄んでは濁る池のように、私たちの心は定まらず揺れ動いています。法然上人は、それは「煩悩」の仕業によるものであり、思い切ろうにも思うようにならない、と示されています。私たちは弱く、いたらぬ存在「凡夫」。

 この短歌は、「我がこころ 池の水にこそ 似たりけれ 濁りすむこと さだめなければ」というのが、実際に法然が書いたものらしい。いずれにしても、心に響く一句の短歌だ。「法然さん、あなたもそうだったんですか。」となにか少し安心させられる。

 「法然」は、平安末期(1133年)から鎌倉初期(1212年)の人で、浄土宗の開祖。はじめ 比叡山延暦寺(最澄開祖の天台宗)で学ぶが、とても厳しい修行(千日回路など)を経て悟りを得るという宗教・教義のありかたではないものを求め始め 普通の人たちの心が救済される宗教のありかたを求め下山する。

 比叡山山麓の浄土寺地区にある黒谷などに庵をもち、「南無阿弥陀仏」と念仏を一心に日々唱えれば死後は平等に往生できるとする専修念仏の教えを広め始める。このため、比叡山延暦寺側の弾圧(僧兵なども使った)を受ける。しかし、法然を慕う僧侶や民衆が全国的に増えていった。弟子のひとりだった「親鸞」は、「法然上人の教えを受けられたことは、私の一生で最も幸せなことであった」と記している。

 なにか、60才という年齢を越えて 人生というものや 人というものについて しみじみと思うことが多くなると、宗教という世界が 身近にも感じられてきた。美空ひばりが歌った(詠った)『愛燦燦』(あい さんさん)の「---人は哀しい 哀しいものですね それでも過去たちは やさしく睫毛に憩う 人生って 不思議なものですね」の歌詞も浮かんできたりする。

 大田垣連月の史跡を跡にして、「次はどこに行こうか?」などと二人で相談する。近くの「京見峠」を案内することにした。途中、鷹峯地区にある「源光庵」に立ち寄った。この寺は、禅宗の寺。「そうだ京都に行こう。」などポスターでも有名だが、特に秋の紅葉の季節になると、「丸い窓(悟りの窓)」と「四角の窓(迷いの窓)」から見える紅葉が見事。

 山に入り、「京見峠」に着く。京都の街が一望できた。遠く若狭の小浜や高浜の海から、丹波の美山や京北を通って京の都に至るこの「第二の鯖街道」は、この京見峠に至って初めて京の都を望むことができる。

 午後5時ころに、今晩の二人の宿「旅館・幾松」に着く。この旅館は、幕末から明治にかけて活躍した「維新三傑」の一人「桂小五郎(木戸)[長州藩]」の愛妾・幾松(※のちに木戸の妻となる)の住居跡地。桂小五郎はここに潜伏し、新撰組から逃れていたようだ。旅館の前には高瀬川が流れている(御池高瀬川を少し上がる)が、この地は「佐久間象山」が1864年(文治元年)に暗殺され、「大村益次郎」が1869年(明治2年)に暗殺された場所。案内板と石碑があった。

 夜、二人で祇園の「侘助」や「山口大亭」などに行って、夕食をとりながら酒を飲み、午後11時ころに宿に戻る。翌朝7時ころに目覚め、宿の朝食をとった。午前8時半頃、新谷君は長野に向かって帰っていった。まあ、15年ぶりくらいの再会だった。「友あり 遠方より来たる。」の一日だった。

 一旦、自宅に戻り、その日(7日・火曜日)の午後 立命館大学の大学院事務室に行く。立命館大学大学院への林さんと李君の進学にあたり、ものすごく世話になった「言語教育情報研究科担当」の岩崎さんや他の事務局の人たちに、中国からのお土産を渡しながら お礼の挨拶を交わす。また、私の「立命館大学大学院言語教育情報研究科研修員」の更新手続きをお願いした。その後、「求論館」という大学院生専用の個別学習スペースがある建物でレポート作成をしていた林さんに会い、最近の様子などについて 近くの喫茶店で話した。

 帰路のバス停の横にある花屋さん。もうすぐバレンタインデーだか、その日に「花」を女性に贈りましょうというポスターが飾られていた。日本では、チョコレートを男性に贈る慣わしだが、他の国では この日に男性から女性に花を贈るのが一般的だ。中国でも この日は バレンタインデー用の花を持つ男性をよく見かける。