彦四郎の中国生活

中国滞在記

友あり、遠方より来たる❷—「池の水 人の心に似たりけり---」―人は迷い続ける存在と説く法然

2017-02-09 09:33:26 | 滞在記

 長野県から来た新谷孫一郎君が、ぜひ行きたいところがあるというので 京都市北区にある「神光院(しんこういん)」という寺に向かった。五山の送り火の一つ"船形"が点される船山(妙見山)の麓にその寺はあった。「西加茂の弘法さん(空海)」と呼ばれている寺のようで、東寺・仁和寺と並ぶ「京都三大弘法」の一つらしい。空海(弘法大師)が90日間の修行滞在をした寺らしいが、私も初めて行く寺だ。ここに、幕末時期から明治初期にかけて生きた「苦難の人生を生き抜いた女流歌人―大田垣蓮華月(おおたがき れんげつ)」という人が住んだ庵と墓があるらしい。

 寺内の庵に行き、線香をあげロウソクを点す。時は1868年、江戸城総攻撃に向かう西郷隆盛たちの軍勢が京の三条大橋を通りかかるとき、一人の女性が隆盛に何かを渡そうと歩みよる。一片の短歌だった。「あだみかた 勝つも負くるも 哀れなり 同じ御国の 人と思へば」という短歌だった。隆盛は この歌に いたく心を動かされたという。

 寺の人に「墓はどこにありますか?」と聞く。「ここから500mほど山の方に歩くと西方寺という寺がありますので、その寺の山裾(すそ)にあります」とのこと。蓮月の墓は小さな鞍馬石に「大田垣蓮月墓」と一行だけ刻まれていた。幕末の人「富岡鉄斎」の筆らしい。蕾が見え 今も花を咲かせているらしい桜の老木に寄り添うように墓があった。この連月は「連月焼き」という小さな茶碗などに短歌を自筆したものを売り出し、「やさしく色っぽい文字」茶碗の風情が京で大人気をよんだ人でもあるようだ。

 墓から戻る道すがら、「西方寺」の小さな山門の掲示板に目をやると「池の水 人の心に 似たりけり にごりすむこと さだめなければ」という法然の和歌があった。この和歌の説明には次のように記されていた。

             ―私たちは 迷い続けるのだろうか―

 おだやかな気持ちでいられたり、時には人をうらやんだり 澄んでは濁る池のように、私たちの心は定まらず揺れ動いています。法然上人は、それは「煩悩」の仕業によるものであり、思い切ろうにも思うようにならない、と示されています。私たちは弱く、いたらぬ存在「凡夫」。

 この短歌は、「我がこころ 池の水にこそ 似たりけれ 濁りすむこと さだめなければ」というのが、実際に法然が書いたものらしい。いずれにしても、心に響く一句の短歌だ。「法然さん、あなたもそうだったんですか。」となにか少し安心させられる。

 「法然」は、平安末期(1133年)から鎌倉初期(1212年)の人で、浄土宗の開祖。はじめ 比叡山延暦寺(最澄開祖の天台宗)で学ぶが、とても厳しい修行(千日回路など)を経て悟りを得るという宗教・教義のありかたではないものを求め始め 普通の人たちの心が救済される宗教のありかたを求め下山する。

 比叡山山麓の浄土寺地区にある黒谷などに庵をもち、「南無阿弥陀仏」と念仏を一心に日々唱えれば死後は平等に往生できるとする専修念仏の教えを広め始める。このため、比叡山延暦寺側の弾圧(僧兵なども使った)を受ける。しかし、法然を慕う僧侶や民衆が全国的に増えていった。弟子のひとりだった「親鸞」は、「法然上人の教えを受けられたことは、私の一生で最も幸せなことであった」と記している。

 なにか、60才という年齢を越えて 人生というものや 人というものについて しみじみと思うことが多くなると、宗教という世界が 身近にも感じられてきた。美空ひばりが歌った(詠った)『愛燦燦』(あい さんさん)の「---人は哀しい 哀しいものですね それでも過去たちは やさしく睫毛に憩う 人生って 不思議なものですね」の歌詞も浮かんできたりする。

 大田垣連月の史跡を跡にして、「次はどこに行こうか?」などと二人で相談する。近くの「京見峠」を案内することにした。途中、鷹峯地区にある「源光庵」に立ち寄った。この寺は、禅宗の寺。「そうだ京都に行こう。」などポスターでも有名だが、特に秋の紅葉の季節になると、「丸い窓(悟りの窓)」と「四角の窓(迷いの窓)」から見える紅葉が見事。

 山に入り、「京見峠」に着く。京都の街が一望できた。遠く若狭の小浜や高浜の海から、丹波の美山や京北を通って京の都に至るこの「第二の鯖街道」は、この京見峠に至って初めて京の都を望むことができる。

 午後5時ころに、今晩の二人の宿「旅館・幾松」に着く。この旅館は、幕末から明治にかけて活躍した「維新三傑」の一人「桂小五郎(木戸)[長州藩]」の愛妾・幾松(※のちに木戸の妻となる)の住居跡地。桂小五郎はここに潜伏し、新撰組から逃れていたようだ。旅館の前には高瀬川が流れている(御池高瀬川を少し上がる)が、この地は「佐久間象山」が1864年(文治元年)に暗殺され、「大村益次郎」が1869年(明治2年)に暗殺された場所。案内板と石碑があった。

 夜、二人で祇園の「侘助」や「山口大亭」などに行って、夕食をとりながら酒を飲み、午後11時ころに宿に戻る。翌朝7時ころに目覚め、宿の朝食をとった。午前8時半頃、新谷君は長野に向かって帰っていった。まあ、15年ぶりくらいの再会だった。「友あり 遠方より来たる。」の一日だった。

 一旦、自宅に戻り、その日(7日・火曜日)の午後 立命館大学の大学院事務室に行く。立命館大学大学院への林さんと李君の進学にあたり、ものすごく世話になった「言語教育情報研究科担当」の岩崎さんや他の事務局の人たちに、中国からのお土産を渡しながら お礼の挨拶を交わす。また、私の「立命館大学大学院言語教育情報研究科研修員」の更新手続きをお願いした。その後、「求論館」という大学院生専用の個別学習スペースがある建物でレポート作成をしていた林さんに会い、最近の様子などについて 近くの喫茶店で話した。

 帰路のバス停の横にある花屋さん。もうすぐバレンタインデーだか、その日に「花」を女性に贈りましょうというポスターが飾られていた。日本では、チョコレートを男性に贈る慣わしだが、他の国では この日に男性から女性に花を贈るのが一般的だ。中国でも この日は バレンタインデー用の花を持つ男性をよく見かける。