彦四郎の中国生活

中国滞在記

ソロ山城巡り(ぼっち登山)❹丹波篠山「細工所城」②丹波の荒木鬼、明智軍に頑強なる抵抗戦を戦う

2020-12-10 20:45:08 | 滞在記

 麓の登山口からゆっくりと城域を眺めながら、休み休みしてようやく本郭(本丸曲輪)に登り着く。景色はかなり展望がきく。主郭(本丸)曲輪は思ったよりも広く、多くの兵士がここに何カ月間も籠城をしていたのだろう。

 眼下に「細工所荘」が見え、西方には篠山街道(京街道)が通り、篠山の町方面が見渡せる。そして、戦国時代にこの地方で最も大規模な山城で丹波三大山城の一つ「八上城(やがみじょう)」のある高城山(標高462m・丹波富士と称される)が見える。その山の頂上には、八上城の本丸跡もよく見える。ここ荒木城の本丸は404m。(上記写真、左より④⑤⑥は八上城関連)  明智軍の5〜6年間にわたる丹波侵攻(攻略)の中で、「丹波最大の籠城戦・古戦場」となったのが八上城だった。

 その八上城の支城や砦は約50余りあったとされるが、八上城東方の篠山街道沿いの中心的な支城がここ「細工所(荒木)城」と「籾井城」だった。明智軍はその一つ一つの支城や砦を陥落させ、八上城への1年半の包囲攻城戦を行ったのだった。「籾井城」や「細工所城」のある福住荘や細工所荘は、丹波地方の中心的な位置にあり、当時の交通の十字路的要衝地だった。篠山街道は京街道と呼ばれ、東に行くと亀岡を経て京都へ。西に行くと篠山や氷上郡のある春日(黒井城がある)。そして、南に行くと摂津(大阪)、北に行くと船井郡(園部や須知、瑞穂)、さらに綾部や福知山に通じる。要衝の地にある山城だったことが来てみて実感する。

 かなり広い主郭の大きな木々はすでに紅葉が終わりほとんどが落葉して落ち葉が敷き詰められていた。主郭につながっている東郭や西郭を巡る。

 東郭の突端に立つと、園部・瑞穂・綾部・福知山方面の丹波の山々がパノラマのように展望できた。西郭の突端からは春日方面の山々が。山々を背景にデジカメで久しぶりに「ぼっち写真」を撮ってみた。この主郭、西郭、東郭の周囲の斜面はおそらく70度以上はあるかと思われる絶壁の切岸に囲まれていた。攻め手の側は、私が先ほど登って来た険峻な大手道を登るしか攻め口はない。地形そのものが天然の要害となっている難攻不落的な山城で、長期籠城での唯一の弱点は水の補給かと思われた。陽が少し低くなり始めた午後4時頃、下山の支度にかかる。曲輪には美味しそうなキノコが朽ちかけた古木にたくさんあった。

 急峻な大手道を下り始める。上から下る際にその道の急斜面さがより迫って来る。鎖や工事縄を手にし、杖で支えながらしばらく山道を下って行った。壮絶な戦場となった城址のある山を麓から見上げる。麓の田んぼは刈り入れのあとの稲から"ひこばえ"ができて少しだけ稲穂をつけている。そんな田んぼが一面に広がっている晩秋の丹波篠山街道。

 城址を訪れた人たちもしばし疲れた体や足腰を休めることができる休憩所が地元の人たちによってつくられてあった。地元の人たちのこの城と歴史への愛着を感じる。「荒木城跡」「本能寺の変の謎は丹波篠山にあり」などの幟が。幟には八上城城主の波多野秀治、明智光秀、そして光秀の母であるお牧の方(八上城にて磔「はりつけ」にて殺されたとの伝説あり)が描かれていた。

 「荒木城(細工所城)」の説明看板が設置されていた。以下その内容を記す。

 荒木城は戦国時代に丹波地方で活躍した荒木氏綱によって天文年間(1532~1555)に築かれた山城であり、細工所城とも呼ばれる。氏綱は多紀郡一帯を支配していた八上城主波多野氏の家臣の一人であった。氏綱は武勇の武将として知られ、荒木鬼として恐れられていたという。

 織田信長の命によって行われた明智光秀の丹波攻めの際には、明智軍を何度も撃退したとされる。しかしながら、天正五年(1577)に始まった二度目の丹波攻めの際、氏綱は八上城を守る東の砦として、荒木城で明智軍を迎え討ったが、激戦の末落城し、光秀に降伏した。その後、明智軍は八上城を包囲し、一年以上の戦いの末、天正七年(1579)に落城させ、多紀郡一帯を支配していた波多野氏は滅亡した。波多野氏の滅亡後、氏綱は光秀にその武勇を買われ、家臣になるよう請われたが、病身を理由に断ったという。しかし、氏綱の子らは光秀に仕え、本能寺の変や山崎合戦にも参加したといわれている。

 荒木城は標高約400m、比高約170mの山上、約200mの範囲に郭が築かれており、尾根を削った切岸や堀切の跡が今でも残っている。荒木城跡は戦国時代の多紀郡東部の守りの要として大変重要な位置にあり、八上城を取り巻くその他の山城群とともに旧多紀郡、現篠山市の戦国時代を物語る貴重な遺跡である。 平成27年1月 設置者 細工所自治会 監修 篠山市教育委員会

 ※「荒木城」の落城は、「水の補給」ができなくなり、ついにやむなく降伏をしたと言われている。

 室町時代の応仁の乱(1467年—77年)以降、日本は「戦国時代」に入る。その時代は約100年間あまり続いた。当時の都・京都のすぐ北方の丹波山地にある丹波国は何百もある平地を有する小さな山間の地ごとに土豪が割拠し、山城や館を造営した。土豪(その地の領主)はより大きな勢力(国人)のもとに同盟をつくり、室町将軍家や管領の細川家の内紛、台頭してきた三好家への帰趨を巡って、国人間の争いは絶えなかった。「昨日の友は明日の敵」、そんな時代が約100年近く続いた。足利将軍家(室町幕府)にとっても、時の権力者たちにとっても「丹波は治めがたき地」でもあった。

 1560年代に入ると、丹波国は、氷上郡の黒井城を本拠地とする赤井氏、多紀郡の八上城を本拠地とする波多野氏、船井郡の八木城を本拠地とする内藤氏の三大勢力にそれぞれの国人や土豪たちが帰属していた。そして、1568年に織田信長が「天下布武」を掲げて畿内に侵攻。1570年代に入り、最初、信長は細川藤孝に丹波平定を命じたが、藤孝はその任に能わず、信長は新たに明智光秀に丹波平定戦を命じた。かくして1573年ころより光秀は丹波攻略にとりかかり、1575年に明智軍による大規模な軍勢をもっての丹波第一次侵攻が開始された。そのことにより、昨日までの敵だった赤井氏・内藤氏は「反信長」のもとに連携、明智軍との攻防戦が開始された。しかし、一旦は明智軍の傘下に入っていた波多野氏が「反信長勢力」となることにより、明智軍は総崩れとなり敗退する。

 そして2年後の1577年に、明智軍による第二次侵攻が始まった。(※明智軍の第一次侵攻の以前から協力した国人も少数ながらいた。つまり、明智軍=信長軍に一族の命運を賭けた国人たちだ。その筆頭が船井郡の宍戸氏と桑田郡の川勝氏。他に桑田郡の並河氏や宇野氏などがあった。一方、桑田郡の宇津氏などは最後の最後まで「反信長」として戦い、1579年に宇津城が陥落し滅びた。) 「一所懸命」(いっしょけんめい)という言葉があるが、「一所(※小さな所領地)を懸命に死守する」とはまさに、この日本の歴史上の戦国時代の特に(とりわけ)京都に隣接するここ丹波の山間地において100年近く繰り広げられていたことだとつくづく思う。だからこそ、小さな山城を訪れ、その遺構を見ながら、その「一所懸命」さを感じながら「ソロ山城めぐり(ぼっち登山)」をこの15年間あまり続けてきた。

 「丹波国」は6つの郡によって構成されていた。今の京都府と兵庫県にまたがる。①「桑田郡(現在の亀岡市、京都市右京区京北町、南丹市美山町の広大な地域)」②「船井郡(現在の京丹波町、南丹市八木町・園部町・日吉町)」③「何鹿郡[いかるがぐん](現在の綾部市)」④「天田郡(現在の福知山市)」の4郡が現在の京都府。⑤「多紀郡(現在の丹波篠山市)」⑥「氷上郡(現在の丹波市)」の2郡が兵庫県。ちなみに、現在の南丹市(八木・園部・日吉・美山)だけでも約90余りの城址がある。その半数近い数の土豪が小さい谷間に割拠し山城や館を築き、より勢力の大きい国人に従っていた。

 12月2日のこの日、「八上城」にも登ろうと当初考えていて、午前9時頃に京都の自宅を出たのだが、冬の始まりとなったこの日、夕暮れも早くなり、2つの険峻な山城に登ったこともあり、「八上」の方は、またの機会にすることにした。京街道(篠山街道)を東に亀岡方面に向かう。福住荘の山々が夕日に照らされて晩秋の紅葉が燃えていた。この光景は1570年代の450年前も同じようなものだったのだろう‥。

 この15年間余り、1000ほどの山城に一人で登ったことになるのだが、鹿や猪や狐、猿の群れなどの哺乳類動物に遭遇したことは何度もあった。しかし、熊に遭遇したことは幸いまだ一度もない。12月9日付の朝日新聞に「隣人になったクマ」という見出し記事が掲載されていた。現在、日本に生息している鹿は約270万頭、イノシシは約90万頭、そしてツキノワグマは数万頭と推定されている。いずれも最近はかなり増加しているようだ。そして、人里に出ることはほとんどなかった熊が、最近は、山間の農村人口の減少などで里山が放置され、野生動物が人里近くに下りて来ることが増えてきているようである。

 今年の5月下旬に、妻の実家のそばにある「塔城」という小高い山城に、妻の兄とともに登って城址を探してした時、義兄が「これはここに熊がいて、木をかきむしった時にできた跡だ」と話していた。上記の写真の左から③④の写真。城址のすぐ下には人家がある。200mほどしか人家と離れていない場所に熊は来ていた。このような木の跡はたまに山城で目にすることはある。

 

 

 

 


コメントを投稿