彦四郎の中国生活

中国滞在記

コロナ禍下、留学生たちにとって初めての日帰り旅行—丹波篠山、日本の原風景に案内する

2021-07-20 07:27:12 | 滞在記

 5月16日から続いていた近畿地方の長ーい梅雨がようやくあけた7月17日(土)、神戸の女子大学に交換留学生としてきている閩江大学の3回生たち3人を丹波篠山に案内した。彼女たちが憧れる京都を案内したいところだが、学生たちの一人の父親が、コロナ感染を危惧していて、兵庫県内からの移動を厳禁しているため、「じゃあ、兵庫県内で高速道路を使えば比較的に神戸からも近く、日本の田舎の風景もたくさん見られる丹波篠山に行こう」ということになった。

 彼女たちはこの8月20日に日本を離れ中国に帰国する予定だ。本来は昨年の9月下旬に来日予定だったが、日本でのコロナ感染問題で留学生たちは来日できず、ようやく11月下旬に来日、2週間の隔離(大学の寮での)を経て、大学の授業に参加できた。その後、日本では相次ぐ緊急事態宣言や蔓延防止措置の連続で、なかなか他府県へは行くことができなかった。唯一、この7カ月間で行ったのは兵庫県の姫路。この時、姫路城天守閣は改修作業中で、中には入れず、外から天守閣を見て、早々に神戸に戻ったとのこと。せっかく日本に留学したのに、ほとんどどこにも行けないのは、ちょっと かわいそうだ‥。

 いつもは、大学近くの女子寮と大学の往復。コロナ禍下で、大学の授業も70%はオンラインだったとのこと。2月~4月上旬までの2カ月間余りの春休み期間中も、ほぼ寮の部屋という生活だったようだ。

 17日の前日に、丹波篠山のどこに行こうかとネットで検索していたら、「日本の原風景がよく残る"集落丸山"」のことが書かれてあった。ちょうどレストランもあるようなので、ここでの昼食を予約した。そして、京都から神戸の寮、神戸の寮から丹波篠山までの、目まぐるしく変化する高速道路を利用しての道筋を頭に入れて(私の車にカーナビはなし)17日を迎えた。

 朝の7時過ぎに京都の自宅を出発、途中で道に迷いながらもなんとか寮に9時半頃に着いた。それからなんとか、変化しまくる各高速道路を乗り換えながら丹波篠山市の中心地の丹波篠山城に11時ころに着いた。丹波篠山市の市街地の周辺は、緑の濃い水田と丹波黒豆の畑が延々と一面に広がっていた。留学生たちはこの光景に感動していた。

 丹波篠山市の中心地から車で20分ほどの谷川筋の奥にところに丸山集落はあった。集落の軒数は12軒と少ないが、そのほとんどが茅葺(かやぶき)屋根の形をした伝統的な田舎の民家だった。民家の周囲は谷地田の水田だった。

 昔、日本のどこにでもあった懐かしい「日本の原風景」がここには残されていた。集落内を流れる黒岡川の小さな流れ。この奥には川の水源となる保沢池があるようだ。

 この集落にはフランス料理のレストランと蕎麦(そば)料理店の2軒がある。留学生の一人が蕎麦アレルギーがあるため、フランス料理店を予約していた。2時間ほどをかけてコース料理が出された。ここの集落で、のんびりと3時間あまりを過ごすことになった。ここ集落 丸山は次のようなところだった。

 —「集落 丸山」―兵庫県篠山市「集落丸山」に見る農泊の成功法則より―消滅寸前の集落を救った古民家宿泊ビジネス(以下、その記事より)

 「消滅集落」という言葉をご存じだろうか?高齢化や転居などで住民がゼロになってしまった集落のことを指す。過疎化に悩む地方では、農村や漁村の限界集落化が猛スピードで進んでいる。こうした限界集落では、里山の景観は放置され、農地の維持などは望むべくもない。そんな窮状を救うものとして「農泊」が注目されている。ここは約10年前から「農泊」を手がけ、農村再生を見事に成功させた兵庫県篠山市の「古民家の宿 集落丸山」の成功とその奥にあるものを見て行く。新緑の丸山集落。里山の中に古民家が絶妙のバランスで配置されている。日本の原風景とも言える美しさだ。

 以上が、この記事の冒頭の文章だった。

 今からおよそ250年前の江戸時代、丹波篠山の城下町に流れ込む黒岡川の上流域にある山間地での「水守り」として移り住んだ人々が作った丸山集落は、できた当時から12軒だけの小さくてのんびりした 集落のままだ。何かが特別にあるわけでもない集落だが、「なつかしさの中にも 何か新しさも感じる 日本の暮らし」がこの集落にはあった。

 1960年代の昭和後期になってから、集落の外に働きに出る人が増え、2009年には、集落内12軒のうち7軒が空き家となる。人が暮らす家は5軒に減少した。この丸山集落は、日本の原風景がのこされた地区として、ちょっとは知られている集落ではあったようだ。(「知る人ぞ知る」程度の)  いわゆる「限界集落」から、「消滅集落」へとなりそうな集落だった。

 それから10年が経過したした今、ここは農村再生の成功例として注目される集落へと変化してきた。その再生のポイントが「農泊」であり、集落内に新しくできた「レストランと蕎麦店」、そして「水田の再生」(田植えや収穫時には、集落外の人たちが農作業をする)だった。再生組織としては、「集落外のNPO法人」と「集落の人全員」との共同プロジェクトだった。

 集落には今、空き家だった古民家を改修した宿が二軒ある。食事は宿では提供せず、レストランか蕎麦店で食べるというシステムだ。宿の維持管理や接客は、集落の人たちがあたる。最近では海外からの宿泊客も泊まるようになってきているようだ。年間に800人(レストランや蕎麦店だけの利用客+宿泊客)の人がこの集落を訪れる。この集落の光景だけを見に訪れる人を含めれば、何千人もの人になるのかと思う。

 梅雨明けの晴天のこの日の気温は35度ちかく、午後2時半に丸山集落を出発し、凉を求めに篠見四十八滝に向かった。滝までの道々に田園風景が広がる。この滝群は丹波篠山市街から北東方向にあるようだった。この春先には、このあたりの山城(「細工所城」「籾井城」「八上城」など)に登っていたが、この篠見四十八滝に来るのは初めてだった。麓から山道を登りいくつかの滝を見る。留学生たちは歓声をあげていた。(※この篠見の滝はそれほど有名ではない。かっては修験者たちの修行の滝群だった。)

 丹波篠山市街に戻り、大正ロマン館や篠山城などを巡る。篠山城天守台から見る市街と丹波篠山盆地の景色が美しい。天守台下の堀越しには赤い瓦屋根の篠山小学校の木造校舎。丹波富士とも呼ばれる高城山には、八上城の山城がある。午後5時に丹波篠山市街を出発し一路、来た道を神戸に向かう。カーナビがないので、道を間違えないよう緊張しながら1時間と少しで、六甲山トンネルに至り、神戸市街に到着。

 留学生がこの8カ月間暮らしている女子大学の寮に着く。さあ、これからの京都までの帰り道も、カーナビなし、ほぼ"感"で、名神高速道路までたどり着く。京都府の名神山崎ICに着くと夕闇が迫っていた。自宅近くの石清水八幡宮一の宮の朱門の屋根の上の空が美しかった。「茜空(あかねぞら)」を久しぶりに見た。午後8時自宅に戻れた。カーナビなしでの複雑な経路の連続した運転からのストレスのためか、手の甲にストレス性湿疹が激しくできていた。

 7月7日、鴨沂高校との国際交流会にオンライン参加をしていたベトナムからの留学生たち2人は、7月14日に帰国予定だったが、ベトナムでのコロナ感染拡大を受けて、在日ベトナム大使館から「帰国時期を遅らせるように」との連絡があり、8月上旬に帰国することとなったようだ。8月20日に帰国予定の中国人留学生たちは、中国の空港到着後に2週間の隔離ホテル暮らしを経て、その後、閩江大学の寮にて隔離1週間。そして、9月上旬からの大学前期授業を受けることとなる。このため、彼女たちの故郷である四川省や貴州省に戻ることはできない。12月には、中国の大学の大学院試験を3人とも受けるため、故郷に久しぶりに帰れるのは来年の1月となるようだ。

 広島大学へ交換留学生として昨年12月から来日している閩江大学の学生たちとは、コロナ禍下、まだ会うことができずのままだ。

 

 

 

 

 

 


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