彦四郎の中国生活

中国滞在記

京都、青もみじを楽しむ❻—嵯峨野、嵐山②—天龍寺、野々宮神社

2021-06-10 20:03:45 | 滞在記

 常寂光院の近くに、『月刊京都』に掲載されていた"青もみじカフェ"の一つ「さがの楓カフェ」があった。あいにくこの日は休みの日なのか、コロナの緊急事態宣言下のため休業しているのか閉店していた。数本の楓が店の周囲にある、ちょっとしゃれた喫茶店という感じ。この喫茶店の前方には落柿舎(らくししゃ)がある。茅葺の草庵で、松尾芭蕉の門弟の一人、向井去来が暮らしたところ。芭蕉もここを訪れている。去来の墓は洛東の真如堂にあった。

 天龍寺に向かって、嵐山の渡月橋方面に歩く。白い野菊のような花が小倉池の近くに一面に広がっていた。沼地の畔には杜若(かきつばた)が咲く。竹林の道を通り抜けると天龍寺の北門に着いた。

 北門を入るとすぐに「百花苑」というエリア。芍薬(しゃくやく)の花がこの季節美しく咲く。

 鍾馗楊櫨木(しょうきうつぎ)や夏蠟梅(なつろうばい)、赤花蠟梅などの珍しい草木の花が咲いていた。春にはさぞかし美しかっただろう枝垂れ桜のの木々の緑。

 嵐山を借景とした天龍寺書院や大方丈の建物に面した広い庭と曹源池。緑が美しい。

 この天龍寺は禅宗の一派、臨済宗の大寺院。1339年、奈良県の吉野で亡くなった後醍醐天皇の菩提を弔うために、足利尊氏が夢窓(疎石)国師を開山として創建された。後醍醐天皇が幼年期に過ごした地でもある。この大寺院は八回の大火に見舞われている。1864年、「禁門の変(蛤御門の変)」の際、長州藩は国元から2000の兵を率いて、尊王攘夷を求めて京都御所に迫った。長州軍は山崎の天王山と伏見長州藩邸、そしてここ嵯峨の天龍寺に本営を3箇所置いた。天龍寺の本営には500の兵が配置され猛将として名高い来島又兵衛が軍を率いる。

 そして、京都御所の蛤御門周辺で会津藩や薩摩藩などの軍との戦闘が開始され長州軍は志ならずに全面敗走。薩摩軍の村田新八が率いる軍が天龍寺にも迫り、長州軍の敗残兵が籠る天龍寺を大砲で砲撃。このため天龍寺の伽藍(建物)はことごとく焼失。八回目の焼失となった。そして、明治時代の後期に再建されて現在に至っている。1994年に世界文化遺産に登録されている。この寺院が世界文化遺産に登録されたのは夢窓国師が造らせた室町時代初期の庭園と庭が特に評価されたことによる。

 法堂の天井には、1997年に加山又造画伯による「雲龍図」がある。天龍寺山門や総門を出て、再び竹林の道方面に戻り野々宮神社に向かう。

 嵐山の新緑が美しい。そして、野々宮神社の朱の色と青もみじのコントラストが美しかった。

 

 

 


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