彦四郎の中国生活

中国滞在記

京都、青もみじを楽しむ❼—洛西①善峯寺、城郭のような石垣や塀と青もみじのコントラスト

2021-06-11 17:37:34 | 滞在記

 『月刊京都』―青もみじを楽しむ―の表紙に描かれた絵、京都洛西の丹波山系の一つの山の山頂付近にある善峯寺の青もみじと塀の光景だ。『月刊京都』のこの青もみじ特集号には、ここ京都洛西の青もみじの見事なところとして、他に大原野神社と粟生光明寺が掲載されていた。この5月9日(日)、この三箇所の寺社と勝持寺(花の寺) を訪れた。

 京都洛西の西ノ岡丘陵や丹波山系の山々には、洛西三十三霊場巡りと呼ばれる寺院がある。その三十三の寺院のうち、特に洛西三寺院にあげられるのか、善峯寺と光明寺と楊谷寺。

 善峯寺(よしみねでら)に来るのは3回目になるかと思う。確か15年ほど前にバイクで来たことがあるので、それ以来になるか。丹波山系の麓から延々と山道を車で登る。山々の頂上に近いところに善峯寺がある。山の斜面にある。かなりの規模の古刹ではある。東門を入りしばらく行くとすごい山門が見えてきた。なかなか立派でみごたえのある山門だ。これはすごーい‥。

 城郭を思わせる高石垣沿いの石段を登ると、観音堂と呼ばれる本堂が。さらに登って行くと遊龍の松と呼ばれる五葉松が。龍がくねっているような"はい松"で、その長さは50~60mはあるだろうか。樹齢は600年以上で、国の天然記念物に指定されている。鐘楼や多宝塔が見える。

 経堂と呼ばれる建物の中に、溥大士(ふだいし)という中国南北朝時代(500年代)の僧侶の大きな木造が。この経堂のそばの青もみじと枝垂れ桜の緑が見事。まるで二つの大木が一つの樹木から枝分かれしたように絡まっている。寺歴によると、この樹木は、江戸幕府の五代将軍綱吉の母である桂昌院が寄進したものとのこと。「春ははな 秋はもみじの むすび木は この世のしやわせ めでたかりけり」の桂昌院の和歌が詠まれた扇型の石碑がそばに。

 京都西陣の八百屋の娘として生まれ、その後に父が亡くなり、野菜を収めていた京都の公家の本庄氏の養女となったお玉。そして、その後、江戸城の大奥に奥女中として勤めることとなる。三代将軍家光に見染られ側室の一人となり、綱吉を生んだ。その公家の本庄氏が善峯寺の薬師如来への信仰が篤かったことから、桂昌院はこの寺の再建に大きな支援を行うこととなる。まあ、八百屋の商人の娘から将軍の生母となるという、この時代のシンデレラガール、玉の輿(こし)として有名な話だ。石碑の和歌にもその幸せ感が溢れている。まあ、彼女が寄進したと伝わる青もみじと枝垂れ桜が一体となった光景は見事だ。

 『月刊京都』の表紙に掲載されている阿弥陀堂に続く石段と青もみじ。塀と石垣と青もみじのコントラストがなかなか素晴らしい。白壁の塀の汚れが少なくもっと白ければ、さらに見事な光景になるのだが‥‥。

 この善峯寺の青もみじは、城郭のような石垣や塀とのコントラストがなかなかの見どころだ。神仏習合の習いで寺院の境内には稲荷社が。この稲荷社の鳥居の朱色と青もみじは映える。

 石垣沿いに牡丹の花が数輪咲いていた。白いアジサイも咲いている。京都市内が一望できるが、この日はいまにも雨が降りそうな曇り日で、ぼんやり霞んでいて、市内はあまりよく見えなかった。

 京都洛西 西山の善峯寺の創建は1029年の平安時代。室町時代には僧坊52に及んだが、1466年からの応仁の乱により、戦火はここ洛西の西山、西ノ岡一帯にも及び、善峯寺の伽藍や僧坊もその大半が焼失した。江戸時代に前出の桂昌院が寺の大檀那として、現存の多くの伽藍を復興させ、今日に至っている。当山の桂昌院廟には遺髪が納められている。

よし

 寺の休息所の建物に、「奇跡の落ちない運転手—受験生の守り神 、落ちないお守り」と書かれた新聞記事が拡大されて掲示板として立てられていた。1995年1月の阪神淡路大震災時、阪神高速高架でバスの前輪が落ちながらも、奇跡的にバスは宙吊りの状態で乗員・乗客は助かり、その運転手がここ善峯寺のお守りをもって乗車していたことから、入試合格や交通安全など「落ちないお守り」として評判になったようだ。 

 

 


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