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与えているより与えられている方が大きい―「OKバジ」のネパール支援

2008-08-07 10:23:32 | 多文化共生
(以下、JanJanニュースから転載)
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与えているより与えられている方が大きい―「OKバジ」のネパール支援
渡辺容子2008/08/02
元英語教師で、単身ネパールに住んで現地の支援活動をしている「OKバジ」こと垣見一雅さんのお話を聞きました。垣見さんが住み着いたのはカトマンズから東に250km離れたパルパ県のドリマラ村。ここを拠点に活動が開始されました。

与えているより与えられている方が大きい―「OKバジ」のネパール支援 | 垣見一雅さん

 7月19日、東京杉並のゆうゆう荻窪東館にて、「OKバジ」こと垣見一雅さんのお話がありました。垣見さん(69歳)は元英語教師、1993年より単身ネパールに住み、現地の支援活動を行っています。垣見さんの許可を得て、当日のお話と「いきいきフォーラム2010」発行のブックレット「与えているより、与えられている方が大きい」より、記事をまとめました。

始まりは恩返し

 始まりは1988年にエベレストを見に行ったことからです。すっかり気に入って、毎年見に行くようになりました。1990年、アンナプルナのベースキャンプで雪崩に遭いました。運よく私は助かったのですが、15m後ろにいた私の荷物を担いでくれていたポーターさんが行方不明になり、7ヶ月後に遺体で見つかって、非常に申し訳ないという思いになりました。その後、一緒に雪崩にあった友人のに住み始め、そのままネパールに住み着き、1994年、今度はバスが谷に転落し、肋骨を6本折るという大怪我をしました。その時また大勢のネパールの人にお世話になり、恩返ししたいという気持ちになりました。

 始めに住み着いたのはカトマンズから東に250km離れたパルパ県のドリマラ村です。ここを拠点に東パルパ地方を村人に問題を聞いて歩き回りました。ここを15年支援し、自立したので、今は他のに行っています。 

学校に通うための支援

 15年前は学校に行っている子どもたちは50%でした。自分たちは学校に行かずとも生きてきたよ、という親の無理解のせいです。NGOなどが入ってそれでは貧困から抜けられないと教えていって少しずつ変わってきました。奥の方の村では、普段はネパール語が通じているのですが、話し合いとなるとネパール語がわからないのかというほど、人の意見を聞いておらず、それぞれが勝手に言いたいことを言っています。教育がないということは言葉も理解できないということなのです。人の意見を聞いたり、相手に伝えるために順序だてて話せるようになるのも教育の力なのです。

 5年生までは1時間以内のところに学校がありますが、6年生になると、学校が遠くなり、1時間半、2時間かかるので、行けなくなって、ある程度お金に余裕のある家は下宿させますが、そうでない家の子はインドに働きに行ってしまいます。6年生から8年生が中学校に当たります。9年生、10年生になると学校に行ける子どもはもっと少なくなります。

 10000円あれば、月に2%の利息がついて200円できます。これで2人の子に奨学金が出せます。お金をあげると父親は酒、母親は米を買ってしまうので、年1200円を2回に分けて、600円分ずつ現物支給で渡しています。制服、ゴムぞうり、ノートなどです。ノートが10円か20円、鉛筆は4円、ボールペンは10円です。東パルパ地方に250人ほど奨学生がいます。

 きょうだいの中で男の子にお金をかけるので、上の学校に通う女の子は非常に少ないです。女性のためのプログラムを組んで女性リーダーを育てようとしています。必ず村に戻って女性の地位向上のために働くことを条件にしていますが、町に出るとカトマンズの人と結婚してしまうことが多く、村の人と結婚しろとも言えず、むずかしいです。しかしネパール全体としてそういう女性が増えればいいということでやっています。

 1990年にビネンドラ国王一家が全員殺されて、国王は国民に政治を任せるということで議会政治が始まり、15年続きましたが、その政党がたいしたことができず、マオイストが登場しました。今年の5月28日に王制を廃止し、民主共和国に移行しました。今まで政治が国民を向いていなかったので、これからが楽しみです。外国の支援が入って40年になりますが、草の根まで届いておらず、「これが日本の支援だ」というものは一つも見たことがありません。どこかで消えてしまうのです。

障害者と病人への支援
 
 村を回っていると、貧しくて医者に行けない障害者と病人が悲惨な状況で暮らしています。国全体のことはわかりませんが、東パルパ地方で困っていないのは1割位でしょう。病気になると致命的です。医者にかかるためにお金を借りると利息が3%から4%かかり、土地を売らなければならなくなります。医者も、「かわいそうだけど、家族全部がだめになってしまうから(病人を犠牲にしても)仕方がない」と言っています。だから村人たちは手術すれば治るとわかっていても、そのまま放置し、あとは死を待つだけということになります。「世界の子供たちを護る会」の援助で、この15年に手術のできない子ども40~50人にカトマンズまで連れて行って手術を受けさせ、病人700人ほどを助けることができました。

ネパールから日本に帰ってくると

 「OKバジ」というあだ名ですが、「バジ」はネパール語で「おじいさん」です。「OK」はネパール語ができなかった時に、「OK」「OK」と言っていたので、ついたのでしょう。毎年帰国していますが、日本人は表情がなく、能面みたいですね。若い人たちが携帯をやっている姿を見ると、機械になったみたいで、小さい時からコミュニケーションがなくなっているんだなと思います。ネパールの友だちが毎日駅に行っては、通勤客が改札口を通る時に次々に定期券を機械にかざしているところを見て、「おもしろい」「ロボットみたいだ」と言っています。

 僕は「セクハラ」という言葉を知らなかったんです。電車に乗ったら友だちに「両手を上にあげてろ」と言われました。痴漢と間違われないためなんですね。ネパールでは村の子どもを抱くのは普通ですから、日本でもかわいい子どもがいるとつい抱こうとしてしまったのですが、「よせ。今はそんな時代じゃない」と友だちに言われました。ネパールではみんなが「ナマステ」とあいさつしますが、こっちでは変に声をかけると変な人と疑われそうです。コミュニケーションが非常にむずかしくなっていると思います。

 ネパールでは140円で5kgの米が買えるので、僕は日本に帰ってくると、2駅歩いて節約し、朝夕で10kgの米の代金を浮かせます。日本に60日帰国している間に400kgの米が買えることになります。

 カトマンズではどこの建物にもNGOが入っていると言っても過言ではないような状態で、あっちもこっちも開発だらけです。もういらないのに、悪く言えば「ひっかかっちゃう」のだと思います。カトマンズはもうほとんど困っておらず、地方との貧困の差は広がるばかりです。

 村にはテレビも新聞もないので、村の人たちは日本がどんな国なのかも知らず、周りがどんなに裕福かも知りません。知らないことは幸せです。カトマンズではテレビもあるし、外国から来る人もいるので、「ああいうのがほしい」と物欲に悩まされています。村よりも気持の上で貧困だと思います。村の人たちはいまだに1時間かけて水汲みに行ったりしていますが、貧しいけれども幸せです。

 「ネパール人の気質は?」と聞かれると、「イノセント」「ナイーヴ」という言葉が思い浮かびます。ネパールに20年住んでいる人で「Beautiful」と言った人もいます。日本語で話しかけてくるネパール人にひっかかった人も多いようですが、田舎の人たちは純朴です。悲惨なのは病気の時だけです。病気の子どもを見れば何かお手伝いできないかと思います。

 昔は英語しかできなかったせいもあって村の人たちから聞こえてきたのは「Request(要望)」でした。今、もっと奥の村に入ると「Cries(叫び)」が聞こえてきます。僕は電気と道路には興味がありません。病気の人を支援しているグループはないので、それをやっています。「切りがないでしょ」といった人がいますが、命が一つ助かることが大事だと思ってやっています。

 みなさんもぜひネパールに行って、1人が1つの村にはいって自分の得意なことをやってみてください。2人で1村でもいいです。1か月位、どこかの村に住んでみれば幸せをもらえると思います。ボランティアをやるつもりでも、されて帰ってくることになります。不便さは人との関係の素晴らしさで相殺されてしまいます。村の生活では、ものすごい天の川が見える。オタマジャクシを見つけたり、菜の花と桃の花が一緒に咲いているのを見たり、その菜の花畑を小さな子供たちが見え隠れしながら歩いている姿を見たり、それだけで僕は幸せなんです。

在外インド人、母国でのMBA取得増える

2008-08-07 10:22:55 | 多文化共生
(以下、インド新聞から転載)
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在外インド人、母国でのMBA取得増える

インド経営大学院(Indian Institutes of Management:IIM)は、実業界での成功を目指すインドの若者にとって、夢の目標であるが、「IIMブランドといえども、在外インド人学生獲得のために努力を重ねてきた」とエコノミック・タイムズ紙が報じた。

昨年のIIMバンガロール校大学院プログラムの在外インド人学生はわずか1名だったが、本年度は5名が入学した。IIMアーメダバード校での在外インド人学生数は昨年の6名から11名へ、IIMコルカタでは昨年の9名から14名へと、それぞれ増えている。

IIMアーメダバード校ディレクターのSameer Barua氏は、「インドは先進諸国のレベルに追いつき、すばらしい経済発展を遂げている。多くの在外インド人が仕事を求めて帰国し、大勢の外国人が勤務地としてインドを選んでいる。また、さまざまな多国籍企業からIIMに寄せられる国内外の好条件の求人も、在外インド人学生にとっても魅力。今後、海外からUターンする学生数は増加するだろう」と述べた。

ロンドンスクール・オブ・エコノミクスで学士号(経済学)を取得後、ロンドンのドイツ銀行やHSBCで投資銀行業務を行ってきたVarun Bhandariさんは、「IIMでMBAを取得すれば、インド人としてエリートの仲間入りができるうえ、海外と比べ費用が格安である」と語る。IIMバンガロール校入学のために帰国することは、賢明な選択だという。

IIMコルカタ校の大学院プログラム授業料は、国内在住者の場合は60-70万ルピー(約153-179万円)、在外インド人学生の場合は160万ルピー(約409万円)である。

07/30/2008(ニューデリー発)

英語が母語だというシンガポール

2008-08-07 10:22:29 | 多文化共生
(以下、英語教育ニュースから転載)
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英語が母語だというシンガポール

シンガポール市内は狭いので、多文化を短時間で体験できる。MRTのブギス駅(地図[1])で降りて少し歩くとスルタン・モスク(地図[2])がある。高い塔がミナレットで1日5回、アザーン(祈りの告知)を流す。その時間に居合わせると異国情緒に浸れる。周りを見るだけだが、観光客も敷地内に入ることができる。礼拝堂で何度も立ったりひざまずいたりしてお祈りをしている信者を見ることもある。イスラム教は偶像を認めない。信者は像に向かって祈るのではなく、メッカの方向に祈る。そのモスクの周辺は、イスラム文化に満ちた界隈だ。

イスラムを満喫したら、ブギスの駅に戻り、北の方に歩いて行くとリトル・インディアがある。カレーのにおいが立ちこめる。通りには装飾用の金細工屋が軒を並べる。インド系の人はこんなに金で飾るのが好きなのかと驚く。サリーやパンジャビドレスの店もある。ヒンドゥー教の祈りに欠かせないジャスミンの花輪が街をいっそう華やかにしている。

その街の外れに、スリ・ヴィラカリマン寺院(地図[3])がある。屋根の上に所狭しとばかりに極彩色の神が並べられている。シヴァがいる、カーリーがいる、神聖な動物である象もいる。そこだけでなく、塀の上にもずらっと並んでいる。一神教とは異なり、多神教の神々はそれぞれが個性を持っている。見ているだけで、神話の世界が浮かんでくる。

異文化を知る楽しみの1つに、自分が持っている固定観念が壊されて新しい考え方ができるようになることがある。イスラム圏では、赤い新月のマークを見ることがある。これは赤新月社であり、赤十字社に相当する。赤十字社は国際的でどこの国にもあるように思ってしまいがちだが、イスラム圏には赤十字社はない。赤十字社のシンボルには十字が使われ、その昔、キリスト教徒の集団である十字軍はイスラムに敵対したからである。

この地の英語教育について見てみる。シンガポールは、多民族・多文化の社会だったはずだ。しかし、今のシンガポールは英語一色である。そのことをナンヤン大学のDr. Chewは、次のように説明した:シンガポールの言語政策は、多言語政策→二言語政策→単一言語政策へと変化した。独立後の60年代から70年代にかけては、多民族国家を維持するために、複数ある言語をそのまま使う現状維持の政策であった。70年代から、多言語政策をやめ二言語政策に変えた。二言語とは、主に英語と北京官話を話せということで、その運動をSpeak Mandarin Campaignという。二言語政策は軌道に乗ったが、1998年のアジア経済危機が起こり、それ以降は、英語を第一言語とする単一言語政策になった。当時は、まだ英語の異種である'Singlish'を話す人が多かった。そのため、文科省に当たる官庁は、標準的な英語を普及させるために、"Speak Genuine English. Singlish is an enemy."とまで言ったそうである。その結果、シンガポール人にとって英語は第一言語となっている。

街角で多言語ぶりを見てみる。デパートに行って実演販売している人を見かけたら、そのパフォーマンスを見てみよう。客が中国系だと見ると中国語で実演をする。マレー系と見るとマレー語で話し、その他にはSinglishで話しかける。

今度は、二言語から単一言語政策への移行を見てみよう。街の本屋に行くと、親子が本を見ながら話しているのに出会うことがある。よく聞くと、親が Singlishで話し、子どもが標準英語で話している。その現象をDr. Chewは、「我々は一世代でSinglishから標準英語に移行した」と言う。

JICAで「キューバ展」-音楽・映画・農業・医療制度など紹介

2008-08-07 10:21:04 | 多文化共生
(以下、ヨコハマ経済新聞から転載)
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JICAで「キューバ展」-音楽・映画・農業・医療制度など紹介

 国際協力機構(JICA)横浜国際センター(横浜市中区新港)で8月2日より、キューバの現状を紹介する「キューバ展」が開催される。主催は横浜を拠点に中南米との交流活動を行うNPO法人「地球の心・日本」準備委員会。

 イベントではキューバのサルサダンスや音楽のパフォーマンスのほか、キューバの有機農業の現場や、原則無料という医療制度、教育の状況をパネルで紹介する。そのほか、キューバ国立芸術大学造形学部客員教授の大脇千鶴子さんによる絵画展や、キューバ国立芸術大学造形学部卒の上村昌弘さんによるキューバ写真展も開催。

 初日には横浜ラテンダンスコンクールの優勝チーム「SALSATERAS」によるパフォーマンスを行うほか、8月10日にはキューバ映画や革命の英雄チェ・ゲバラの娘で医師のアレイダ・ゲバラさんが今年来日した際の記録映像の上映、キューバ大使館関係者による講演を予定している。

 斉藤恭範さんは「キューバ音楽やダンスなどの文化は近年日本でも触れる機会が多いが、農業や医療、教育といった政策については紹介されることが少なかった。いろいろな側面からキューバを知ることでより交流を深めるきっかけになれば」と話す。

 開催時間は9時30分~18時。8月14日まで。初日は14時30分~17時30分にオープニングパーティーを開催。参加料はカンパ制で1,000円以上(バイキング軽食付き)。

JICA横浜(イベント情報)(2008-07-30)