宜野湾市の森川公園の続きです。
森の川を見た後に、すぐ横の「西森御嶽」へ行きました。
広場の奥に「西森御嶽」[にしむいうたき]の石門が見えて来ました。
門の奥は、深い森が続いているようです。
門の入口付近が石で囲まれ、一段高くなっていますが、参拝するエリアでしょうか。
濃い緑に覆われた石門には沖縄らしい風格を感じます。
石門に沿って左に進むと、塀の後方の森の中に石碑が見えて来ました。
小高い場所に自然石の石碑が見え、その下段には細長い木の標識に「市指定史跡 西森碑記」と書かれてあります。
最初の写真の一番左手にある白い案内板に近付いた辺りで、塀越しに撮った写真です。
■白い案内板にこの石碑の説明文がありました。
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宜野湾市指定史跡
西森碑記[にしもりひき]
平成3年8月1日 指定
この石碑は高さ120cm、幅30~60cm、厚さ10~22cmのニービヌフニ(微粒砂岩)でできている。
尚清王(在位1527年~1555年)の第七子を初代とする向氏[しょうじ]伊江家の人々が、この石碑の前にある石門と森の川の石積み工事を行い、その完成を記念して雍正[ようせい]3年(中国年号・1725年)に建立したものである。
碑文には、「森の川で沐浴していた天女と奥間大親[おくまうふや]とが出会い、一男一女が生まれた。男の子は察度と名付けられ、後に中山王に就いた。私たちの元祖尚宗賢伊江王子朝義の母は、宜野湾間切謝名村[ぎのわんまぎりじゃなむら]の野国掟[のぐにうつち]の娘で、名を城[ぐすく]の大按司志良礼[うふあんししられ]といい、尚清王の夫人である。私達子孫は毎年5月、西森および森の川の泉を拝んでいるが、野国掟[のぐにうつち]は奥間大親[おくまうふや]の末裔であるという伝説があるからであろう。
これらの事情により、私達は資金を寄せ、石工を集め、石を切り敷きつめ、泉を囲み、門を造った。また、西森の前にも長さ五丈四尺(約16.4m)の石垣を造り、門を開け出入りができるようにした。これらは先祖をしのび尊ぶためである。よって、ここに石碑を建立しその事を記す。
大清雍正[ようせい]3年9月吉日、向和憲垣花親方[うぇーかた]朝理・向良顕伊江按司[あじ]朝良、向和声西平親方朝叙」とある。
碑文の末尾の人物は三司官[さんしかん]の向和声を含めいずれも伊江家の子孫たちである。
平成4年3月
宜野湾市教育委員会
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石門の左端から少し後方に回り込み石塀の裏側を撮った写真です。
「西森碑記」の石碑の下の様子です。
黒い石に「奥間大観」「察度王」「天女羽衣」の文字が並び、その上に天女のシルエットが刻まれています。
石門の右手に小さな赤い花がたくさん咲いていました。
この場所は、天女の夫「奥間大観」の住居や、墓があったとも言われています。
「西森碑記」の案内板では、1725年(江戸時代中期)に造られとされるこの石門などの施設には、なぜか古めかしさを感じません。
美しい花を植え、天女の帰りを待つ「奥間大観」や、子供達の願いがこもっているのでしょうか。
ここにも戦争犠牲者の慰霊碑がありました。
島全体が戦場となり、多くの犠牲者を出した沖縄では各地で慰霊碑をよく見かけます。
悲惨な戦争を絶対に繰り返さないためにも歴史をよく学び、未来を考えることが大切です。
雨の日の沖縄観光は、各市町村の歴史資料館などで、歴史を学んではいかがでしょうか。
森の川を見た後に、すぐ横の「西森御嶽」へ行きました。
広場の奥に「西森御嶽」[にしむいうたき]の石門が見えて来ました。
門の奥は、深い森が続いているようです。
門の入口付近が石で囲まれ、一段高くなっていますが、参拝するエリアでしょうか。
濃い緑に覆われた石門には沖縄らしい風格を感じます。
石門に沿って左に進むと、塀の後方の森の中に石碑が見えて来ました。
小高い場所に自然石の石碑が見え、その下段には細長い木の標識に「市指定史跡 西森碑記」と書かれてあります。
最初の写真の一番左手にある白い案内板に近付いた辺りで、塀越しに撮った写真です。
■白い案内板にこの石碑の説明文がありました。
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宜野湾市指定史跡
西森碑記[にしもりひき]
平成3年8月1日 指定
この石碑は高さ120cm、幅30~60cm、厚さ10~22cmのニービヌフニ(微粒砂岩)でできている。
尚清王(在位1527年~1555年)の第七子を初代とする向氏[しょうじ]伊江家の人々が、この石碑の前にある石門と森の川の石積み工事を行い、その完成を記念して雍正[ようせい]3年(中国年号・1725年)に建立したものである。
碑文には、「森の川で沐浴していた天女と奥間大親[おくまうふや]とが出会い、一男一女が生まれた。男の子は察度と名付けられ、後に中山王に就いた。私たちの元祖尚宗賢伊江王子朝義の母は、宜野湾間切謝名村[ぎのわんまぎりじゃなむら]の野国掟[のぐにうつち]の娘で、名を城[ぐすく]の大按司志良礼[うふあんししられ]といい、尚清王の夫人である。私達子孫は毎年5月、西森および森の川の泉を拝んでいるが、野国掟[のぐにうつち]は奥間大親[おくまうふや]の末裔であるという伝説があるからであろう。
これらの事情により、私達は資金を寄せ、石工を集め、石を切り敷きつめ、泉を囲み、門を造った。また、西森の前にも長さ五丈四尺(約16.4m)の石垣を造り、門を開け出入りができるようにした。これらは先祖をしのび尊ぶためである。よって、ここに石碑を建立しその事を記す。
大清雍正[ようせい]3年9月吉日、向和憲垣花親方[うぇーかた]朝理・向良顕伊江按司[あじ]朝良、向和声西平親方朝叙」とある。
碑文の末尾の人物は三司官[さんしかん]の向和声を含めいずれも伊江家の子孫たちである。
平成4年3月
宜野湾市教育委員会
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石門の左端から少し後方に回り込み石塀の裏側を撮った写真です。
「西森碑記」の石碑の下の様子です。
黒い石に「奥間大観」「察度王」「天女羽衣」の文字が並び、その上に天女のシルエットが刻まれています。
石門の右手に小さな赤い花がたくさん咲いていました。
この場所は、天女の夫「奥間大観」の住居や、墓があったとも言われています。
「西森碑記」の案内板では、1725年(江戸時代中期)に造られとされるこの石門などの施設には、なぜか古めかしさを感じません。
美しい花を植え、天女の帰りを待つ「奥間大観」や、子供達の願いがこもっているのでしょうか。
ここにも戦争犠牲者の慰霊碑がありました。
島全体が戦場となり、多くの犠牲者を出した沖縄では各地で慰霊碑をよく見かけます。
悲惨な戦争を絶対に繰り返さないためにも歴史をよく学び、未来を考えることが大切です。
雨の日の沖縄観光は、各市町村の歴史資料館などで、歴史を学んではいかがでしょうか。