昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
何気ないものに意外な歴史を見つけるのも
旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

美しい石門の「西森御嶽」

2010年07月07日 | 沖縄の旅
宜野湾市の森川公園の続きです。

森の川を見た後に、すぐ横の「西森御嶽」へ行きました。



広場の奥に「西森御嶽」[にしむいうたき]の石門が見えて来ました。

門の奥は、深い森が続いているようです。



門の入口付近が石で囲まれ、一段高くなっていますが、参拝するエリアでしょうか。

濃い緑に覆われた石門には沖縄らしい風格を感じます。



石門に沿って左に進むと、塀の後方の森の中に石碑が見えて来ました。

小高い場所に自然石の石碑が見え、その下段には細長い木の標識に「市指定史跡 西森碑記」と書かれてあります。

最初の写真の一番左手にある白い案内板に近付いた辺りで、塀越しに撮った写真です。

■白い案内板にこの石碑の説明文がありました。
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宜野湾市指定史跡
 西森碑記[にしもりひき]
                               平成3年8月1日 指定
 この石碑は高さ120cm、幅30~60cm、厚さ10~22cmのニービヌフニ(微粒砂岩)でできている。
 尚清王(在位1527年~1555年)の第七子を初代とする向氏[しょうじ]伊江家の人々が、この石碑の前にある石門と森の川の石積み工事を行い、その完成を記念して雍正[ようせい]3年(中国年号・1725年)に建立したものである。
 碑文には、「森の川で沐浴していた天女と奥間大親[おくまうふや]とが出会い、一男一女が生まれた。男の子は察度と名付けられ、後に中山王に就いた。私たちの元祖尚宗賢伊江王子朝義の母は、宜野湾間切謝名村[ぎのわんまぎりじゃなむら]の野国掟[のぐにうつち]の娘で、名を城[ぐすく]の大按司志良礼[うふあんししられ]といい、尚清王の夫人である。私達子孫は毎年5月、西森および森の川の泉を拝んでいるが、野国掟[のぐにうつち]は奥間大親[おくまうふや]の末裔であるという伝説があるからであろう。
 これらの事情により、私達は資金を寄せ、石工を集め、石を切り敷きつめ、泉を囲み、門を造った。また、西森の前にも長さ五丈四尺(約16.4m)の石垣を造り、門を開け出入りができるようにした。これらは先祖をしのび尊ぶためである。よって、ここに石碑を建立しその事を記す。
 大清雍正[ようせい]3年9月吉日、向和憲垣花親方[うぇーかた]朝理・向良顕伊江按司[あじ]朝良、向和声西平親方朝叙」とある。
 碑文の末尾の人物は三司官[さんしかん]の向和声を含めいずれも伊江家の子孫たちである。
 平成4年3月
                                宜野湾市教育委員会
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石門の左端から少し後方に回り込み石塀の裏側を撮った写真です。



「西森碑記」の石碑の下の様子です。

黒い石に「奥間大観」「察度王」「天女羽衣」の文字が並び、その上に天女のシルエットが刻まれています。



石門の右手に小さな赤い花がたくさん咲いていました。

この場所は、天女の夫「奥間大観」の住居や、墓があったとも言われています。

「西森碑記」の案内板では、1725年(江戸時代中期)に造られとされるこの石門などの施設には、なぜか古めかしさを感じません。

美しい花を植え、天女の帰りを待つ「奥間大観」や、子供達の願いがこもっているのでしょうか。



ここにも戦争犠牲者の慰霊碑がありました。

島全体が戦場となり、多くの犠牲者を出した沖縄では各地で慰霊碑をよく見かけます。

悲惨な戦争を絶対に繰り返さないためにも歴史をよく学び、未来を考えることが大切です。

雨の日の沖縄観光は、各市町村の歴史資料館などで、歴史を学んではいかがでしょうか。

琉球のはごろも伝説の舞台「森の川」

2010年07月04日 | 沖縄の旅
浦添美術館から北東方向へ約4Km、米軍普天間飛行場の南西に隣接した宜野湾市の森川公園へ行きました。

森川公園には琉球三山分立時代の中山王察度の生誕にまつわる「はごろも伝説」があることを知り訪れたものです。



駐車場から進んで行くと右手に「森の川」、その左手奥に「西森御嶽」の石塀が見えます。

更に「西森御嶽」の左手には戦争戦没者の慰霊碑「森川之塔」がそびえていました。



石垣で整備された「森の川」です。

右手の道を進むと正面左奥に見える拝所へとつながっています。

深い森、草に覆われた石垣を見ていると普天間飛行場に隣接していることを忘れてしまいそうです。

■「森の川」の案内板があったので転記します。
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沖縄県名勝 宜野湾市 森の川
                     1967(昭和42)年4月11日指定
                     2000(平成12)年5月19日追加指定
名勝「森の川」は天女が降臨し沐浴したという「羽衣伝説」の舞台となったところです。「球陽」などの古文書によると、天女は奥間大観なるものと結婚し、一男一女を授かり、のちにその男子は中山王察度になったと記されています。
察度王は1372年に公式に初めて中国明と外交を開いた人物として知られています。
泉の東隣には村の聖地であるウガンヌカタがあり、そこに立つ石碑(西森碑記)に、泉は1725年に向氏伊江家の一族により、石積みで建造されたことと、そのいきさつが記されています。
この泉はまた真志喜の重要な泉で、子供が出生したときの産水、正月の若水をとる泉であり、地域の方々との結びつきが深く、大切な場所です。
 2003(平成17)年3月設置 沖縄県教育委員会 宜野湾市教育委員会
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森の川の入口に陶板に描かれた「森の川」の絵がありました。

地元の子供が描いた絵でしょうか。

中央の水場では、水を汲む人や、洗い物をするが描かれています。

左手奥には拝所で手を合わせる人も描かれています。



水場には飛び石があり、洗い物などをするのは3~4人が限度のようです。

沖縄の各地にある泉の施設では小さい方だと思いますが、何故か品の良さを感じます。



石垣の穴からきれいな湧水が流れ出ています。

水量が少ないようですが、隣接の広大な土地が飛行場になったためでしょうか。



入口付近から右手にある坂道です。

坂の上には白いユリが咲き始めていました。



ハブか?!

坂道の途中で、茶色い細長いものが目に飛び込んで来ました。

足を止め、よく見ると大きな豆のサヤのようでした。

ちょっと驚かされました。

50cmを超える長さで、ホウオウボクの豆のサヤだったのでしょうか。



道の突き当たりに石の壁で囲まれた拝所がありました。

水場の入口から左手奥に見えた場所です。

石の壁に小さな入口が見えます。



拝所の入口の前から水場を見下ろした写真です。

昔、天女が沐浴をしていたのはこの辺りでしょうか。

「はごろも伝説」では奥間大観が沐浴する天女を見つけ、「はごろも」を隠した上、親切のふりをして天女を家に連れ帰ったそうです。

その後、天女は妻になり、一男一女を授かったそうですが、女の子が家に隠していた「はごろも」を偶然見つけてしまい、天女は「はごろも」を着て天に帰ってしまいました。

同じような「はごろも伝説」は日本各地に伝わっています。

しかし、その後、男の子が成人して察度王となったストーリーは、森の川の「はごろも伝説」の特徴で、王の正統性を天女の血統としてアピールするものだったと思われます。

現代の感覚から見ると、一人で沐浴して天に帰れなくなった不用心な母。羽衣を隠し助けるふりをして天女を妻にしたずる賢い父。これらの話は、あまり自慢できるものではないようにも思われます。



拝所の中を石塀の上から撮ったものです。

水の神様が祀られているのでしょうか。



石塀の中は門のように四角に窪んだ場所があり、ここに向って祈るようです。

私も手を合わせて一礼、ごあいさつをして帰りました。



石塀に囲われた拝所の中から小さな入口方向を撮った写真です。

拝所の中は、意外に広く感じました。

昔ながらの石造りの施設や、周囲の緑に心が癒されました。

浦添市美術館、葛飾北斎の「琉球八景」 №2

2010年06月24日 | 沖縄の旅
5月8沖縄「浦添市美術館」の収蔵品展、葛飾北斎の「琉球八景」の続きで、残り4作をご紹介します。

前回も書きましたが、北斎が、「琉球八景」を描く時に参考にした「周煌」の絵を下段に並べていますので比較してご覧下さい。



この上下の絵は、「旬崖夕照[じゅんがいせきしょう]」で、那覇市の海岸にある「波上宮」です。

北斎が描き加えた舟の辺りは、埋め立てられていますが、最も分かりやすい場所です。

波上宮は、案内板によると1368年(室町時代)(三山時代の中山察度王統の頃)、薩摩の頼重上人が波上宮の別当寺波上山護国寺を開山したことが始まりとし、熊野神社の伊弉冊尊、速玉男尊、事解男尊を祀っています。



この上下の絵は、「長虹秋霽[ちょうこうしゅうせい] 」です。

かつて那覇市街が「浮島」と言われる島だった頃、崇元寺橋付近と、松山二丁目付近を結ぶ海中道路があったようです。

「秋霽」は、「あきばれ」とも読まれ、墨絵の作者「周煌」は秋晴れの日に見た海中道路を描いたものと思われます。

上下の絵には石で造られた海中道路の途中に7ヶ所のアーチが描かれていますが、舟の通行や水路としていたものと思われます。

以前、北斎の絵だけ見た時、富士山を描き加えているように見えましたが、元の墨絵にも富士山に似た山がありました。

北斎は、富士山に似た山の下に水平線を書き加えて上手く距離感を出し、異国風の舟や、海中道路を歩く人の姿を描き加えて詩情あふれる絵に仕上げているようです。



この上下の絵は、「城嶽霊泉[じょうがくれいせん]」と言われ、その場所は、前回掲載した「泉崎夜月」の那覇市泉崎から東方向に数百メートルの付近にある「城岳公園」(沖縄県那覇市楚辺) とされています。

緑豊かな「城岳[ぐすくだけ]」から流れ出る湧水が勢いよく流れ落ちていますが、清国の冊封副使「周煌」が下段の絵を描いた時代から約250年経ち、都市化した那覇では見られなくなったようです。

しかし、沖縄各地には今でも豊かな湧水が多く見られ、地域の人々の癒しのスポットとして親しまれています。

一昨年訪れた沖縄本島南部の湧水<名水百選「垣花桶川」と、長い石畳の坂道>なども心を癒してくれるスポットでした。

この絵にも遠くに富士山のような山が見えています。

下段の「周煌」の絵にも富士山に似た山が見えますが、上段の北斎が描いた山の存在感は別格です。

「富嶽三十六景」を完成させ、新たな境地を開いた北斎の描く富士は、小さくても力強さを感じさせてくれるようです。



この上下の絵は、「中島蕉園[なかしましようえん]」と言われ、その場所は、那覇市泉崎で、国際通りの西の突当り「那覇バスターミナル」付近とされています。

「蕉」とは「芭蕉[ばしょう]」つまりバナナのことだそうです。

ちなみに江戸時代前期の俳人「松尾芭蕉」も、言い変えると「松尾バナナ」になってしまいます。

「芭蕉」には沖縄の有名な織物「芭蕉布[ばしょうふ]」の原料「糸芭蕉」や、美しい花を咲かせる「花芭蕉」もあり、バナナを付ける「実芭蕉」もあります。

「中島蕉園」にはいったいどんな「芭蕉」が植えられていたのでしょうか。



2008年の正月に、兵庫県たつの市室津の「たつの市立室津海駅館」で見た「琉球使節行列図」の一部です。

朝鮮通信使の展示と合わせて、ガラスケースの中にこの長い絵も展示されていました。

たつの市室津には、 大名が泊る六軒の本陣があり、海路を進む琉球使節も瀬戸内海の室津にも停泊、珍しい琉球使節の行列に町の人々もさぞ感激したものと思われます。

室津の町並み見物で、「本陣 薩摩屋跡」の石碑も見つけましたが、ここに琉球使節も宿泊したのでしょうか。

葛飾北斎の絵の販売地域は分かりませんが、琉球使節は、九州から江戸までの道中、各地話題を巻き起こし、北斎の「琉球八景」も琉球ブームに沸く人々の人気を大いに集めたものと思われます。

■展示の絵の説明文です。
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琉球使節行列図(江戸時代)
           (高畠家文書たつの市教育委員会蔵)

 琉球使節とは、琉球国王が徳川将軍へあいさつのため派遣した使節で、将
軍の代替わりを祝う慶賀使と、琉球国王が就任を感謝する謝恩使の二つがあ
った。将軍への参府は「江戸上り」と呼ばれ、寛永11年(1634)から嘉永3
年(1850)まで18回行われた。薩摩藩は慶長14年(1609)に琉球国を属国と
していたこともあり、参勤を琉球使節の江戸上りと抱き合わせで行なった。
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「鞆の浦埋立て架橋計画」や、「崖の上のポニョ」の舞台とされて話題となっている福山市鞆町の臨済宗妙心寺派「萬年山小松寺」の本堂です。

このお寺には鞆で病死した琉球使節の楽師「向生」の墓があります。

地元福山市にも琉球使節の史跡がありました。



本堂の脇に「琉球司楽向生碑」と刻まれた追悼碑があり、その横に「幽岸曹源大禅定門 興世山親雲上姓向道享」「寛永二年十月十三日歿 享年二十二歳」と立て札がありました。

第14回目の琉球使節で、新将軍家斉への賀慶使だったようです。

180センチ以上の高さと思われるこの追悼碑を見つけ、墓を確認するのを忘れてしまいました。



本堂の中に琉球の赤い扁額「容顔如見」が掛けられています。

亡くなった琉球使節の楽師「向生」の祖父、父が七回忌の法要に訪れて奉納したものと伝えられています。

祖父や父が「まるで向生の顔を見るようだ」と、墓に向かった想いを即興で書いたのでしょうか。

北斎の「琉球八景」の背景となった「琉球使節」は各地に多くの歴史を遺しているようです。

浦添市美術館、葛飾北斎の「琉球八景」 №1

2010年06月17日 | 沖縄の旅
5月8沖縄旅行初日、「浦添市美術館」の続きです。

収蔵品展で、葛飾北斎の描いた「琉球八景」の展示を見ました。

数年前に「琉球八景」を知り、機会があれば是非見たいと思っていました。



葛飾北斎が、「琉球八景」を描くきっかけとなった「琉球使節」が、描かれています。

「江戸上り行列図」(沖縄県立博物館蔵)の一部で、琉球王国から江戸幕府への使節が江戸の町を歩く様子が描かれています。
(長い一列の絵の一部を二段に編集しました)

中国風の装束と、音楽で異国情緒あふれる行列に、大勢の民衆が見物したようです。

琉球から江戸へ約2,000Kmの長旅をする琉球使節は、新将軍への祝い、琉球王の新任の時に送られていたようで、江戸時代初期から幕末まで18回、明治新政府へ1回送られています。

この図は、琉球大学の開学60周年記念事業「江戸上」探検隊の案内パンフレットから借用したものです。



浦添美術館「収蔵展」のパンフレットで、葛飾北斎が描いた「琉球八景」の一つ「長虹秋霽[ちょうこうしゅうせい]」の一部が掲載されていました。

北斎が、「琉球八景」を描いたのは1832年(天保3)で、その年第16回目の琉球使節を迎えた後で、江戸の町は、琉球使節への関心が盛り上がっていたようです。

北斎が、世界的に有名な「富嶽三十六景」を完成させたのが、その前年の1831年です。

大胆な構図で描く風景画の新境地を開いた北斎の絵は、信仰の山「富士山」を描いたこともあり、この時代大いにもてはやされたようです。

「琉球八景」は、北斎が「富嶽三十六景」で勢いのある時に描かれたようです。

「琉球使節」の行列を見た江戸の人々が、この絵により更に琉球への憧れをかき立てられたものと思われます。

数年前、この絵を見て北斎が、琉球に行って描いたのではないかと思いました。

しかし、調べてみると江戸幕府が発刊した中国の書物「琉球国志略」に挿入されている「球陽八景図」を参考にしたことがわかりました。

「琉球国志略」は、1755年に清国(中国)が琉球に送った冊封副使「周煌」が書いたもので、滞在した那覇の風景八か所を描いたようです。

以下に、「北斎」の絵と、参考にした「周煌」の絵を上下に並べて紹介します。



上段の絵は、葛飾北斎が描いた浮世絵版画「琉球八景」の一つ「泉崎夜月」です。

下段の墨絵は、「周煌」の「泉崎夜月」です。

「琉球八景」は、那覇市内にあり、この絵の泉崎の地名は、沖縄県庁のすぐ西に残っています。

北斎は、「泉崎夜月」の名称から元絵にない月を描き、夜の雰囲気を出したようです。

浦添美術館で見た北斎の絵と比べて極めて見劣りのする画像ですが、興味のある方は是非実物を観賞し、感動を味わって頂きたいと思います。

「周煌」が書いた墨絵「球陽八景図」は、本の左右2ページに描かれた画像を結合していますので、中央に切れ目が残ってしまいました。



上段の絵は、北斎の「臨海湖聲[りんかいこせい]」です。

下段の絵は、「周煌」の「臨海潮聲」で、北斎は「潮」を「湖」にアレンジしています。

この場所は、那覇市西町にある「三重城」で、那覇港の防衛や、貿易船のために築かれた施設だったようです。

このブログでも<那覇港の城塞「三重城」>で「三重城」を紹介しています。



この上下の絵は、「粂村竹籬[くめむらちくり]」です。

「粂村」は、現在の那覇市久米付近で、中国系の人々が居住していた町です。

現在、日中友好で造られた中国庭園「福州園」があります。



この上下の絵は、「龍洞松涛[りゅうどうしょうとう]」です。

何と!! 北斎は、大胆にも雪景色にアレンジしています。

この場所は、那覇市の「奥武山公園」付近で、海に突き出した山には昔あった「龍洞寺」が見えます。

残り四点の絵は、次回とします。

浦添市美術館の「琉球交易港図屏風」

2010年06月07日 | 沖縄の旅
5月8~10日、二年ぶりに沖縄旅行へ行ってきました。

「浦添市美術館」のホームページで、葛飾北斎の「琉球八景」や、「琉球交易港図屏風」の展示があると知り「琉球漆器」の観賞と合わせて初めて訪れたものです。



駐車場から歩いて行く途中で見えた「浦添市美術館」の建物です。

たくさんの塔がそびえ、ヨーロッパや、イスラムの雰囲気を感じます。

かつて異国との交易で栄えた沖縄の伝統を意識して造られたのでしょうか。

早々と梅雨入りした沖縄の初日は、幸いにも曇りでした。



「浦添市美術館」の玄関は、建物の間を通り、階段を上がって行きます。

階段の上に高い塔がそびえ、アプローチの景色はとても素敵です。

玄関は、一階とされており、撮影場所の頭上には一階の渡り廊下が架かっています。



階段の右手に美しい花芭蕉が咲いていました。

5月の沖縄本島は、初めてで、この花芭蕉も初めて見ました。

沖縄本島の3日間は、花芭蕉の他、月桃[ゲットウ]や、テッポウユリの白い花が各所で見られ、梅雨の沖縄の魅力とも言えます。



「浦添市美術館」のパンフレットにあった建物の一階配置図です。

向って左から渡り廊下をくぐり、「1 受付案内」と書かれた上が玄関です。

常設展示は左上5-1~5の部屋、企画展示は4-1~3の部屋です。

建物は、地階、二階がありましたが、展示は一階だけのようです。



「浦添市美術館」の入場券です。

たくさんの塔を一望する建物の写真と、周囲の図柄は、琉球漆器のものでしょうか。

この写真を上段の平面図で見ると、中央のスリムな塔は6-4(右端)、左手の塔は受付案内のある右下のブロックと思われます。



「浦添市美術館」の玄関に貼り出されていた企画展のポスターです。

いよいよ期待していた展示が見られると心がはやりました。

下に「観覧料 無料」とありますが、企画展の料金が無料の意味のようです。

しかし、充実した展示内容で、観覧料 一般 150円は恐縮する安さです。



頂いた「浦添市美術館」のパンフレットにあった「琉球交易港図屏風」(部分)で、六曲の屏風で、内側の四曲の部分が載っています。

かつて琉球王朝は、中国の明・清帝国の冊封体制下にもあり、数年毎に「進貢使」を派遣、皇帝に献上品を奉げ、多くの下賜品を持ち帰っていました。(江戸幕府-薩摩藩の支配下でもあった)

この図は、「進貢使」が中国から帰国して賑わう那覇港の様子を描いたものです。

真っ先にこの屏風がある廊下に面した長い展示場所に行きましたが、見上げる高さの迫力ある屏風絵でした。

同様の屏風絵は、沖縄県立博物館や、京都大学、滋賀大学の博物館にも残されているようです。

このブログで2008年08月に掲載した<那覇港の城塞「三重城」>に「沖縄貿易図屏風」(滋賀大学蔵)の一部がありますが、ほぼ同じ絵のようです。



管内で頂いた資料に載っていた「琉球交易港図屏風」六曲一隻(19世紀)の内、向って左三曲です。

中央上の船は、「接貢」の旗が掲げられ、「進貢使」を中国に迎えに行き帰国した「進貢船」のようです。

この3本マストの船には、「接貢」の旗の他、白地に赤い日ノ丸の旗、黒地に白く北斗七星のような図が描かれており、未だ謎です。

その船の下には懸命に競うハーリー舟や、丸に十字の薩摩の旗を掲げる船も見えます。



「琉球交易港図屏風」六曲一隻(19世紀)の内、向って右三曲です。

向って左下の船には「旨捧帰国」の旗が掲げられ、「進貢使」を中国に送って行き、帰国した「進貢船」のようです。

左下隅には三重城の先端が見え、中央やや下には波上宮も見えています。

右上には首里城が描かれ、右下には馬に乗る人、日傘をさす人などが活き活きと描かれています。



名護市の「ホテルゆがふいんおきなわ」の二階レストランの入口に「進貢船」の模型が展示されていました。

実物は、全長約40mあるようですが、この模型は1mを超える程度の大きさで、黄色い旗には屏風絵にもあった「旨捧帰国」の文字が見えます。

「浦添市美術館」の屏風が撮影禁止だっただけに、とても有難い展示でした。

又、沖縄海洋博公園の海洋文化館にも大きな模型が展示されていますが、やはり撮影禁止でした。



模型「進貢船」の先端です。

龍の顔でしょうか、シーサーの顔にも見えます。

船体に描かれた白い目と共に、船の安全を祈るおまじないと思われます。



「進貢船」の模型を後ろから見た写真です。

船体の後部には大きな鳥が翼を広げ、太陽も描かれていました。

マストの上には日の丸の旗も見えます。(間違いでした→黄色に赤丸の旗で、日章旗ではありません、コメントを頂き、気が付きました-2011/2/28追記)

写真を撮っていたらレストランの女性から親切な申し出があり、船の横で妻と並んだ記念写真を撮って頂きました。

名護市「ホテルゆがふいんおきなわ」に2泊し、このレストランでのバイキングの朝食も満足でした。

大変、お世話になりました。
 

沖縄の稲作発祥伝説の地「受水・走水」

2008年10月06日 | 沖縄の旅
沖縄で初めて稲作が行われた伝説の地「受水走水」に行きました。
今回の沖縄旅行では、昔からの沖縄の泉を数ヶ所訪れる計画でしたが、その中でも「受水走水」は、期待していた場所です。
アマミキヨの伝説や、稲作が始まった地ということで、歴史的には興味をそそられる場所です。



車を路上駐車して畑の間の小道を入って行きました。
青いネットが張られていますが、畑で何か野菜の収穫期になっているのでしょうか?



小道を進むと、道は一段高くなっていきます。

■道の突当りに「受水・走水」の案内板があり、転記します。
案内板の冒頭には沖縄南東部の聖地を廻る「東御廻い[あがりうまーい]」のマークがあります。
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受水 走水[うきんじゅ はいんじゅ]
(神明・ホリスマスカキ君ガ御水御イベ)
ここは沖縄の稲作発祥の地として伝えられている。
『琉球国由来記』(1713年編)によれば昔、阿摩美久(アマミキヨ)がギライカナイ(海の彼方の理想国)から稲の種子を持ってきて玉城親田、高マシノシカマノ田に植えはじめた。又、伝説によると昔、稲穂をくわえた鶴が暴風雨にあって新原村の「カラウカハ」という所に落ちて死んだ。種子は発芽してアマミツによって受水走水の水田(御穂田)に移植されたという。
 この地は東御廻いの拝所として霊域になっていて、旧正月の初午の日には、田植えの行事「親田御願」が行われている。
  昭和52年7月21日指定
  玉城村教育委員会
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道の突当りの左側に小さな水田がありました。
案内板の説明にもあった沖縄最初の水田「御穂田[みふーだ]」と思われます。

その先に小さな岩場と、二つの石碑が見えます。
沖縄では歴史的な場所の多くには拝所があり、このような石が置かれているのを見かけます。
向って左は「御穂田[みふーだ]」に関わるお祈りをこの石に向かってするのでしょうか。



この小さな水田は、佐賀県唐津市の「菜畑遺跡」にある縄文時代晩期の水田遺構です。
「御穂田」を見てふと思い出し、掲載しました。

この復元された水田は、畳3枚程度と「御穂田」と比べても小さなものでした。
「菜畑遺跡」にある4枚の水田の横には「御穂田」と同様に水路があり、灌漑技術が未熟だった縄文時代に小川の流れを利用して造られたものと推察されます。

この沖縄では地質が琉球石灰岩のため水田を造るには大変な苦労だったものと思われます。



道の突当りの右側の一段低い場所にも小さな水田があります。
旧正月の初午の日には、田植えの行事が行われる「親田御願[うえーだぬうがん]」と思われます。

田んぼの畦にクワズイモか、里芋のような葉が見えます。
沖縄では田で育てる「田芋」と呼ぶ里芋があると聞いたことがあり、「田芋」かも知れませんが、私にはクワズイモと見分けがつきません。



T字路を右に進むと行き止まりになっています。
向って左に拝所のような石が置かれています。

石の後ろには、きれいな水が湧き出る泉があります。
こちらが二つある泉の一つ「走水[はいんじゅ]」と思われます。

湧水の水量が多い上、細い溝を流れるため、流れが速く「走水」の名はこの早さに由来するのではないかと思いながら見ました。



T字路を左に進むと岩の間から水が湧き出る場所があります。
向って右の石碑のある岩の裏から水が湧き出ていたようです。

こちらの泉が、案内板にある「受水[うきんじゅ]」と思われます。


岩の隙間の穴の奥から水が湧いていました。
水田に湧き水が流れ込み、水田が水を受ける様子から「受水[うきんじゅ]」と呼ばれるようになったのかもしれないなどと勝手な想像をしながら見ていました。

見物前の期待が大きすぎたせいか、いま一つ感動の少ない史跡でしたが、水田の歴史を少し実感できたようです。

名水百選「垣花桶川」と、長い石畳の坂道

2008年09月30日 | 沖縄の旅
「仲村渠樋川」[なかんだかりひーじゃー]の次に、沖縄県唯一の全国名水百選「垣花樋川」[かきのはなひーじゃー]に行きました。
「垣花樋川」は、沖縄県南城市玉城字垣花にあり、「仲村渠樋川」のすぐ近くにあります。



写真は、「垣花樋川」[かきのはなひーじゃー]の入り口で、道路から直角に下り道が始まっています。
この入口の向って右側に2~3台駐車可能な駐車場があり、利用させて頂きました。
この道を進むと長い下り坂が続いています。



アスファルト舗装の下り道を少し進むと石畳道になります。

更に更に進むと道端に大きい平らな石が置かれています。
横の案内板には「イーユクイイシヌヒライサー(上休み石の平石)」と書かれていました。
丘の上にある垣花集落の人達が、生活用水を汲んで長い坂道を登る途中、休憩で座った石のようです。

石畳道の上には金属製の水道管が見えます。
下の「垣花樋川」の湧水を簡易水道で使っていると聞き、ポンプで水を汲み上げているとも考えましたが、100mもある坂道の高低差で、本当に下の水源地から水が登って行くのか不思議にも思えます。



さらに下っていくと、二つ目の平らな石が置かれていました。
案内板には「ナカユクイイシ(中休み石)」と書かれ、ここでも人々が休憩したようです。

石は、草で覆われ、周りに小さな赤い花が咲いていました。



うっそうとした長い坂道を進むと、突然視界が広がります。
「垣花桶川」と、丘の下に美しい海の景色が見えてきました。

道が二手に分かれ、向って左上の道に進むとブロック造りの小屋があり、その先には「イナグンカー」(女の川)といわれる湧水があるようです。
この小屋は簡易水道のポンプ室かも知れません。

向って右の道を進むと再び道が分かれて、左に進むと「イキガンカー」(男の川)、右に下ると「ンマミシガー」(馬浴川)があります。

■案内板があり、転記します。
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垣花樋川[かきのはなひーじゃー](俗称 シチャンカー)
 天然の美しい川や泉を保全して後生に伝えるという目的で推薦され、昭和60年に環境庁の全国名水百選に選ばれた。百選の中でも最初は全国31件が選ばれこれに入選した。垣花樋川は集落の南側にあって、石畳の急な坂道を100メートルほど降りて行くと、左側のうっそうと繁った林の中腹岩根から湧水が湧き出ている。
 かっては左側上のイナグンカー(女の川)は女が使い、右側下のイキガンカー(男の川)は男が使っていた。その下流の浅い水たまりはンマミシガー(馬浴川)、全体をまとめてシチャンカー(下の川)と呼ばれ、樋川から流れた水は下の田をうるおし、稲作が盛んであった。垣花村の人々はトチャンカーで水浴び、洗濯、野菜洗い、水汲みをするためカービラ(川の坂)を行き来した。石畳道の途中には女たちが一息入れたナカユクイイシ(中休み石)、イーユクイイシヌヒライサー(上休み石の平石)が残っている。
 現在は、簡易水道として地域の飲料水等の生活用水や、農業用水として利用されている。
 平成18年1月 南城市玉城字垣花
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二つ目の分かれ道を左に進むと、道の先に「イキガンカー」(男の川)が見えてきます。
道の途中にはベンチが二つ置かれています。

斜面のあちこちから水が湧き、水の流れる音が聞こえてきました。



左上を見上げると、最初に見えたブロックの小屋があり、その横から勢いよく水が落ちていました。
「イナグンカー」(女の川)から湧いた水のようです。

「仲村渠樋川」もそうでしたが、男女で使う水汲み場が違っていたようです。
トイレが男女別なら分かりますが・・・。



右下に見える池が、「ンマミシガー」(馬浴川)です。
向って左上の「イキガンカー」(男の川)や、「イナグンカー」(女の川)から水が流れ込んでいます。



「イキガンカー」(男の川)です。
四方をコンクリートで囲われて、下の水溜めは浅いものでした。

向って右上に石を四角に組んだ拝所があり、その後ろによく分かりませんが「サキシマスオウノキ」に似た板根のある大きな木がありました。



「イキガンカー」(男の川)では勢いよく水が流れ出ていました。

溝の突き当りに水源の穴があり、その周囲に「クワズイモ」の大きな葉が生い茂っています。
穴の奥をのぞいて見ましたが神秘の闇でした。


大木が「イキガンカー」の周囲にそびえています。
その生命力に圧倒されます。



上から見下ろした「ンマミシガー」(馬浴川)です。
水の透明さがよく分かります。

「ンマミシガー」(馬浴川)には赤い小さな魚がおよいでいました。


「ンマミシガー」(馬浴川)の先に畑があり、地元の農家のご夫婦が農作業に精を出していました。
うす曇でしたが、美しい海が広がり「仲村渠樋川」[なかんだかりひーじゃー]で楽園のような安らぎのひと時でした。

帰りの長い上り坂を、昔の水汲みの人々と同じように「ナカユクイイシ(中休み)」や、「イーユクイイシヌヒライサー(上休み石の平石)」で一休みしながら帰りました。

南城市玉城の共同生活用水場「仲村渠樋川」

2008年09月26日 | 沖縄の旅
沖縄県南城市玉城字仲村渠にある仲村渠樋川[なかんだかりひーじゃー]という湧水が出る昔ながらの共同生活用水場を見に行きました。



西側から石畳の坂道を下ると「仲村渠樋川」が見えてきます。
手前の石垣の上に拝所があります。

「仲村渠樋川」は、向かって左側の斜面に湧水を溜める施設、その前面に水を利用する施設が造られています。

石畳の道や、広く枝を張った広場の大木になんとなくすがすがしさを感じます。



東側から「仲村渠樋川」の広場や、西側の石畳の道を見た景色です。
広場全体に木陰をつくるおおきな木の下は、風もあってとてもさわやかでした。

■向って左側の広場の端に案内板があり、転記します。
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仲村渠樋川[なかんだかりひーじゃー](国指定重要文化財)
 仲村渠樋川は、仲村渠集落の共同用水施設で、沖縄の伝統的な石造井泉[せきぞうせいせん]を代表するものである。
 古くはうふがーと呼ばれ、水場に木製の樋[とい]をすえた程度の施設だったようだが、大正元年(1912)から翌年にかけて、津堅島[つけんじま]の石工により琉球石灰岩などを用いて造り替えられた。その施設はいきががー(男性用水場)、いなぐがー(女性用水場)、広場、拝所[はいしょ]、共同風呂、かーびら(石畳)によって構成され、敷地北側からの湧水を貯水槽に貯え、水場へ流して使用されていた。昭和30年代に簡易水道が敷設[ふせつ]されるまでは、飲用、洗濯、野菜洗い、水浴びなどの生活用水として利用されていたが、最近は主に農業用水に利用されている。
 しかし、先の沖縄戦で共同風呂周辺は破壊され、土で埋められたため、昭和39年に広場にはモルタルが塗られ仮の改修がなされた。更に平成16年に実施された復元工事により、大正2年(1913)当時の樋川の状態に復元され敷地全体の景観が整えられた。同時にいきががーの芋洗い場[いもあらいば]や広場の石敷き、共同風呂も復元整備がなされた。共同風呂については、主に発掘調査により発見された出土品(北側の石柱二本・石壁の一部、水槽、洗い場床、五右衛門風呂[ごえもんぶろ]の一部)や近辺の類例などをもとに復元がなされた。また法面保護のため、共同風呂北側および広場東側に擁壁[ようへき]工事が施[ほどこ]され整備された。
  玉城村教育委員会
  平成17年3月31日設置
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案内板に「仲村渠樋川」の施設案内図がありました。
周囲の灰色部分は、一般の道路で、図の下にある石畳の広場は確か5m程度は低い場所だったと記憶しています。

向って左に「拝所」、緑色の斜面の下には「いきががー」(男性用水場)、その右に「いなぐがー」(女性用水場)、右には赤瓦の屋根の共同風呂が配置されています。



案内板に「いきががーと広場北側(昭和27年撮影)」と書かれた昔のモノクロ写真がありました。

パンツ姿の男性が水浴をしています。



地面から一段低くなった場所が、「いきががー」(男性用水場)です。
向って左の壁は、水槽ですが、水は流れ出ていませんでした。

仲村渠樋川[ナカンダカリヒージャー]の読み方や、意味がよく分らないので、調べてみました。
「仲村渠」は、地名で、樋川は湧水を利用する施設の名称です。
「仲村渠」の「渠」は溝・人工水路の意味があるようです。
しかし、この読み方だけは想像すらできません。



水の出口は、栓で塞がれていました。
でかい浴槽の栓のような形で、初めて見るものです。
この栓を上に引き抜くと壁の穴から勢いよく出るものと思われます。



一段低くなった「いきががー」(男性用水場)に入り、振り向いた景色です。

石段が左右二ヶ所にあり、石段の間に水が溜っている場所は、芋洗い場[いもあらいば]です。



「いきががー」と、共同風呂の間に造られている「いなぐがー」(女性用水場)です。
すぐ横の「いきががー」(男性用水場)には3つある水の出口が、こちらでは1つしかありません。

向って左から流れ出ている水は、水槽からあふれ出る水の出口のようです。



「仲村渠樋川」を正面から撮った写真です。
向って右の建物が共同風呂ですが、オープンです。
中央の石垣の裏が「いなぐがー」(女性用水場)です。



共同風呂の中の様子です。
案内板の説明にあった「五衛門風呂」のようですが、人が入れる大きさではありません。
お湯を沸かして体を洗ったものと思われます。

ここなら風呂に水を汲む作業が、楽ですね。



東側の道の上から「仲村渠樋川」を見た景色です。


仲村渠樋川の東側の坂道を上り、ほんの少し東に小さな展望場がありました。



堤防のある海岸は、「志喜屋漁港」や、「アドチ島」のようです。
天気も良く、公園から見下ろす海の景色は、とても素敵でした。

シーサーのいる「知名埼灯台」と、「テダ御川」

2008年09月21日 | 沖縄の旅
「クラジ石」を見物した後、近くの海辺にある「テダ御川」を見に行きました。



331号線から「わちばる太郎」の看板を海の方角に入り、少し進むと左に別れる道があります。
「テダ御川[うっかー]」の案内板が立っていました。

直進した先には「海鮮グルメ レストラン わちばる太郎」のお店が見えています。



写真は、案内板を拡大したものです。
「テダ御川[てだうっかー]」と、「東御廻り[あがりうまーい]」といわれる行事についての説明や、案内地図がありました。

「東御廻り」は、首里城の「園比屋武御嶽[すぬひゃんうたき]」から沖縄本島南東部の「玉城グスク[たまぐすくぐすく]」まで、聖地14ヵ所を巡る行事です。
案内地図に赤い字で書かれてある「テダ御川」は、6番目の聖地で、「佐敷グスク[さしきぐすく]」からここ「テダ御川」を経て、次は最高の聖地「斎場御嶽[せーふぁうたき]」へ続くようです。

「東御廻り」は、かって国王の行事だったものが、現在では一般の人々の行事になっているようです。



知名埼付近の地図です。
国道331号線を東に入り、①の分岐点から点線で表示されている道をたどり、②「知名埼灯台」から③「テダ御川」まで徒歩のコースでした。



墓地の間を進み、しばらく草むらに囲まれた山道を進んで行きます。
墓場の道が折れている場所に案内表示がないため、とても不安になりました。

灯台が見え始める手前のカーブにやっと道案内があるだけで、途中何度も引き返そうかと思うような道のりでした。



草むらの中の道を上りつめ、道が西へ折れると景色が広がり、「知名埼灯台」が見えてきます。
高台に吹き上げてくる心地よい風と、このすばらしい景色にしばしの間、感動していました。



この灯台の玄関には赤瓦の屋根があり、その上にシーサーがいます。
サンゴ礁の海から聞こえる潮騒の中で、屋根に座るシーサーを見ていると、改めて沖縄に来ている実感が湧いてきます。



灯台の周囲は垣根で、正面に小さな門があります。
灯台には楕円形のドアが取り付けられ、まるで船や、潜水艦のようです。

ところで、この灯台に電線が引き込まれていません。気になって調べてみました。

沖縄の海を守る「第十一管区海上保安本部」のサイトに「沖縄の海の道しるべ 沖縄本島地区」のページに沖縄の灯台(航路標識)が紹介されていました。

知名埼灯台の電源は、自然エネルギー(太陽電池)とあり、その他の灯台の多くも同様でした。
灯台の小さな丸い屋上に太陽電池のパネルが取り付けられているのでしょうか。

大きな灯台の電源は、購入電力がありましたが、エネルギー問題や、Co2削減対策が進んでいることが分かり少し安心しました。




灯台を過ぎると道は急な下り道になり、長い階段がありました。
階段の下には美しいサンゴ礁の海が広がっています。



長い階段を降りるとコンクリートの道が造られていました。
突当りに「テダ御川」の石碑が見えています。

■「テダ御川」の石碑の左側に石に彫られた案内板がありましたので転記します。
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知念村指定文化財第四号
昭和五十七年三月三十一日指定
テダ御川
国王が久高島渡島のとき飲料水の補給をし、また、知名崎通過の際海上無事を祈った霊泉だといわれている。
園比屋武御嶽から始まる「東り廻い」の巡拝地でもある。
昭和八年頃までは清水が湧き出る泉であったが、後方の知名城の山から国会議事堂の建築にも使用されたトラバーチン(石材)が産出し、一帯は採石場となった。そのため知名城の山は崩壊し現在では湧水も涸れてしまっている。
平成二年三月一日知念村教育委員会
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「テダ御川」の石碑です。
石碑の上に岩にコンクリートを塗りつけて「うてだうか 水神 1969年●●」と文字が刻まれていました。
しかし、●●部分の文字は読めませんでした。



階段を登る途中から見た「テダ御川」です。
向って左の道の突当りに「テダ御川」の石碑が見えます。



長い階段をやっと上り、灯台近くで西側の断崖の下を見下ろすと養殖場に浮かぶ「クラジ石」が見えました。


知念半島「知名崎のクラジ石」

2008年09月20日 | 沖縄の旅
沖縄本島旅行の思い出です。
南城市佐敷から知念半島を時計回りに進んで行きました。


知念半島の北東部にある知名崎にさしかかった辺りで、海岸近くにキノコの形をした岩が見えました。

沖縄の海岸では所々で見かける形の岩ですが、気になって止まって見ることにしました。



車を止める場所を探して進むと、すぐにカーブにさしかかり、駐車場や、小さな展望台らしき施設が見えました。
「海鮮グルメ レストラン わちばる太郎」と書かれた看板が目印で、左折するとお店があるようです。



小さな駐車場に知念岬の観光案内地図がありました。
現在地は、地図の上部にある赤丸の所です。



上の案内地図を拡大してみました。
「クルマエビ養殖場」、「クラジ石」、「太陽御川」などが書かれています。
あのキノコの形をした岩は、「クラジ石」と呼ぶようです。



少しだけ高くなった展望台に上がるスロープから駐車場を振り返った景色です。



「クラジ石」を眺める石で造られた展望台です。
石の柵の上にはパノラマ写真の案内板があります。

正直な気持ち、この二つの岩を遠くから眺めるための駐車場や、展望台が造られていること自体に感動しました。



パノラマ写真の案内板の中央部分です。
コンクリートの堤防に囲まれた「クラジ石」のある水域は「クルマエビ養殖場」ようです。

「海鮮グルメ レストラン わちばる太郎」を調べたら、この養殖場、(有)板馬養殖センターが経営しているようです。
この養殖場では新鮮な車海老や、海ぶどうが養殖され、「わちばる太郎」で食べられるようです。



展望台からパノラマ写真と同じ場所を撮った写真です。

この岩が、琉球新報社の沖縄コンパクト事典で、紹介されていました。
「高倉の形に似ているところからクラジー(倉石)とよばれる。」とあり、「クラジ石」の名前の由来が判ってきました。

「高倉」については、このブログ<茅葺きの高床式建物「我部祖河の高倉」>でも紹介した昔の沖縄にあった高床式の倉庫です。



「クラジ石」の一つを拡大して見ました。
長い時代を経て波に削られた様子が分かります。

茅葺き屋根に草が生えた高倉によく似ています。
この周囲にたくさんの車海老がおよいでいるのでしょうか。

冨祖崎の「ハマジンチョウ群落」 半マングローブ植物??

2008年09月16日 | 沖縄の旅
沖縄県南城市佐敷字冨祖崎の「ハマジンチョウ群落」を見に行きました。

ハマジンチョウは、「浜沈丁」とも書き、ハマジンチョウ科ハマジンチョウ属の常緑低木です。
日本では三重県、九州、沖縄県などの河口付近の海岸に自生しているようです。



近くまで行くと標識がありました。
この辺りの土地は、埋め立ての土地のようです。



小さな公園のようになって、道路脇に車を止めて入口を入って行きました。



■案内板があり、説明文を転記します。
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沖縄県指定天然記念物
南城市富祖崎海岸のハマジンチョウ群落
昭和36年6月15日指定 所在地南城市字富祖崎
 ハマジンチョウは、九州南部から台湾、中国南部やインドシナなどの地域でみられます。ハマジンチョウの仲間は、日本では2種類だけが知られ、沖縄では海岸線沿いに点在して生育しています。木の高さは1mから2mで、初夏になるとうすい紫色の花を咲かせます。
 真謝川河口から富祖崎川河口にかけての海岸には、ハマジンチョウの群落がみられます。このようにハマジンチョウが多く育成している場所は、我が国では他に例がなくとても珍しいもので、その生態を研究する上でたいへん貴重です。また近くにはオヒルギやメヒルギ、シマシラキ、サキシマスオウノキ、サガリバナなどからなるマングローブ林もあり、海岸泥地に生える植物の様子を研究する場所としても重要な地域です。
富祖崎海岸一帯は、陸地からの土砂が海の中にゆっくりと積もってできました。現在陸地の部分も、かっては富祖崎海岸のような泥質海岸でした。現在見られるハマジンチョウ群落やマングローブ群落は、地域一帯の過去の環境や地史を解明する上でも貴重なものなのです。
なお、この地域で許可なく現状を変更し、もしくは保存に影響を及ぼす行為を行うことは法律で禁止されています。
平成5年3月 沖縄県教育委員会
平成19年3月一部修正 南城市教育委員会
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案内板の上段にあるハマジンチョウの花の写真がよく見えませんが、薄い紫色の地に紫色の斑点があるかわいい花のようです。

下段の図は、生息地の観察通路図です。
向って斜め右に延びる通路の幅広になっている部分が一段高い橋です。
入口と、案内板は、通路の左端の丸の部分です。
濃い緑色の部分がハマジンチョウ、黄色部分がヒイラギギク、黄緑部分が、メヒルギの生えている場所だそうです。



観察通路を進むとすぐに上り階段があり、ハマジンチョウの木が通路をふさいでいました。



一段高くなっている橋の上から振り返った景色です。
階段上り口の左右にハマジンチョウが見られますが、その周辺はメヒルギのマングローブが広がっています。

ハマジンチョウは、河口付近の(塩分濃度が低い)水辺に育つ植物ですが、「マングローブ植物」には含まれていません。
調べてみると「半マングローブ植物」の一種で、「マングローブ植物」が水辺に育つのに対して、陸地でも育つ植物だそうで、こんな種類があるとはちょっと驚きです。

「マングローブ植物」には、メヒルギ・オヒルギ・ヤエヤマヒルギ・ニッパヤシ・ヒルギモドキ・ヒルギダマシなどがあり、「半マングローブ植物」にはハマボウ・ハマジンチョウ・ハマナツメなどの種類があるそうです。



ハマジンチョウの枝の先にはたくさんの実が付いていました。
初夏まで花が咲くとも聞いていましたが、見つかりませんでした。



ハマジンチョウの実を枝の下から撮った写真です。



一段高くなった観察通路の橋です。



橋の上から下を見ると水辺になっています。
「富祖崎川」の河口に近いこの一帯は塩分濃度の低い、マングローブが育つ水辺がかろうじて保護されているようです。



向こうに見える海は、中城湾です。
細い帯状の砂浜が、北にある冨祖崎公園の方から南にのびていました。
自然にできた砂州のようです。

ハマジンチョウは、海岸の埋め立てなどで減少し、環境省から「絶滅危惧II類」とされているようです。

「佐敷城跡」の「月代の宮」に参拝

2008年09月10日 | 沖縄の旅
沖縄本島旅行の思い出の続きです。
大里城の次に南城市佐敷字佐敷の「佐敷城跡」へ行きました。

「佐敷城」は、14世紀頃、三山時代といわれた沖縄本島を統一した尚巴志[しょうはし]や、その父思紹が拠点としていたグスク(城)です。



「佐敷城跡」への道は、国道331号線から佐敷小学校の東側を南へ入った場所にあります。
国道331号線沿いに大きな鳥居がありました。
鳥居の向こうに見えるのは国道です。



「佐敷城跡」の広場です。
写真に向かって左から車で入ってきました。
右に見える建物は、「内原の殿」跡に建てられたほこらで、右から入り、左に祭壇がありました。

■「内原の殿」の案内板を転記します。
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内原の殿(ウチハルヌトゥン)
内原の殿は、上城の殿ともよばれ、女官たちの働いていた場所といわれており、もともとはカマド跡付近にあったと考えられています。
以前は粟石の柱で壁はありませんでしたが、昭和55年にコンクリートのほこらに建て替えられました。
南城市教育委員会
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広場に入り、すぐ右手の斜面に慰霊碑が建ち、その後方に「上グスクのカマド跡」がありました。

拝所のようにもなっており、沖縄の伝統的な信仰で、カマドの神様、ヒヌカン(火の神)をお祀りしているようです。

■案内板を転記します。
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上グスクのカマド跡
グスク時代のカマド跡といわれており、火の神を祭ったところと考えられています。
また、この辺りは女官たちの働いていた場所といわれています。そのようなところから、女官の詰め所といわれる内原の殿は、もとはこのカマド跡にあったともいわれています。
南城市教育委員会
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「佐敷城跡」には尚巴志一族を祀る神社「月代[つきしろ]の宮」が建てられており、正面に見える階段から「月代の宮」に登って行きます。

階段横に「月代宮」と刻まれた石碑があります。

■写真に向かって右端に「佐敷城(グスク)」の案内板があり、転記します。
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佐敷グスク(上グスク)
佐敷グスクは、三山を統一した尚巴志とその父尚思紹の居城跡といわれています。1979年の発掘調査によって、青磁・白磁のお碗や皿、土器、石器、鉄釘や小銭などが出土しました。また、柱の穴
のあとや土留めの石積みも確認されましたが、沖縄各地のグスクに見られるような石垣はまだまだ発見されていません。
さかえる町 しぜんの町 きぼうの町 佐敷町教育委員会
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案内板に「佐敷城跡」の案内図がありました。
かっての「佐敷城」をイメージすることは出来ませんでした。



「月代の宮」の鳥居と、石段を登った先に拝殿が見えます。



「月代の宮」の拝殿です。
鉄製の欄干が錆びて、少しみすぼらしくなっています。

錆びる前に早く塗装しないと大変です。


「月代の宮」の拝殿の中から後方に本殿が見えます。
本殿は、以外に小さなものでした。



「月代の宮」の本殿です。
本土の神社と比較すると小さなものですが、御嶽[うたき]を基本とする沖縄の信仰で、この神社「月代の宮」がどのような人々によって造られ、維持されているのか興味のあるところです。



「月代の宮」の本殿の前に小さな石碑が置かれ、「御先神様 佐敷世之主 国の主」と刻まれています。
尚巴志一族の祖霊を讃える言葉でしょうか? なぜか深い信仰を感じます。



「月代宮」の本殿の裏に「上グスク之嶽」がありました。
後ろは道路になっており、神秘さが失われている感じです。

ここは、琉球王朝時代から聖地とされ、首里城から沖縄本島の東南部の聖地14ヵ所を巡る行事「東御廻り」の一か所とされているようです。
「東御廻り」は、かって国王の行事だったものが、一般の人々の行事になっているようです。

■上グスク之嶽の案内板を転記します。
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上グスク之嶽
排所巡礼「東御廻り[アガリウマーイ]」のコースの一つで、『琉球国由来記』には祭神としてステツカサノ御イベ・若ツカサノ御イベの二神が記されています。もともとこの場所にあったのかは、まだ分かっていま
せん。
佐敷町教育委員会
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「大里城跡」横の井戸「チチンガー」

2008年09月07日 | 沖縄の旅
「大里城跡」の見学を終え、「チチンガー」を見に行きました。



「大里城跡」の門の手前の四つ角付近に案内板が並んでいました。

向って右は、前回掲載の「大里城」の案内板です。
案内板のすぐ後ろに、共同井戸「チチンガー」があります。

■向って左の案内板にある「チチンガー」の説明文を転記します。
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大里村指定有形文化財(建造物)
チチンガー  平成2年3月15日指定
チチンガーは、島添大里グスクの城門近くの城壁外に設けられた降り井形態の井戸で西原集落の村の共同井戸として使用されていた。
築造年代は定かでないが、島添大里グスクとの関係から14世紀頃と推定される。井戸の湧水地点は地表から8メートル下にあり、取水地までは琉球石灰岩の岩盤を削って43段の階段が取り付けられている。取水地の岩盤部分は琉球石灰岩の面取り積みの石が積まれており島添大里グスクの城壁の一部ともみなされている。
伝承によれば、井戸が城壁外にあると清水湧きだし、場内に取り込まれると水が枯れたとのことである。
また場内のスクヤマヌウカー(御井)が枯れたので築造したとの伝えもある。
チチンガーは、島添大里グスクと密接に関わっているばかりでなく、当時の城と井戸との関係を理解する上でも貴重である。
 平成2年3月25日指定 大里村教育委員会
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南城市大里西原の案内地図も並んでいました。
「大里城跡」は、大里公園となっているようで、付近には「ミーグスク」や、「カニマン御嶽」があるようです。



案内地図にあった「チチンガー」の向かいにある公民館です。
建物の向って右部分にトイレがありました。
大里城の入り口付近に見学者への利用案内が掛けられていたので利用させて頂きました。



公民館の向かいの四つ角に野菜の無人販売所がありました。

キャベツが5コ並んでいます。
左の青い料金箱と、右に買物袋が置かれ、販売準備OKです。



四つ角から路地に入り、「チチンガー」を通り過ぎた道端にパパイヤの木が並んでいました。。

木にはたくさんの実が付いて、「取るな」と書いた看板が取り付けられています。
又、パパイヤの実全てに続き番号まで書かれてあります。
現行犯逮捕で、よそから持ってきたなどと言わせないためでしょうか?

「取られたくない!」と言う強い気持ちがひしひしと伝わってきます。



写真は、「チチンガー」のすぐ横にある拝所です。
糸満市字大里の「南山城跡」近くの泉「カデシガー(嘉手志川)」にも拝所がありました。
生活に欠かせない大切な水がいつまでも湧き続けるようにお祈りをするのでしょうか。

石で造られたアーチと、石垣にどのような意味が込められているのか興味のあるところです。



「チチンガー」の入口です。
ここから石段が43段続き、8mの地下に下りて行きます。

人が、階段で地下におり、水汲みするタイプの井戸は初めてです。

沖縄南部で、大きな勢力を持っていた「島添大里城」に大勢の人が集まることなど考慮すると、一度に多くの水を汲む必要から階段タイプの井戸が考えられたものと推察されます。

上記の「チチンガー」の説明文によると「・・・井戸が城壁外にあると清水湧きだし、場内に取り込まれると水が枯れた・・・」 とあります。
城に籠って防衛することを考えると井戸を城壁外にすることは考えられません。

しかし、沖縄全土が統一され、城の防御の重要度が低くなり、周囲の人々の生活を考慮して井戸を城外に移したのではないかと思います。



石段が最初に直角に曲がったところから下を見た写真です。

石段は、人がバケツ(昔は水桶・水甕)を持ってなんとかすれ違うことが出来る感じです。


一番下の水汲み場です。
ゴミが落ちないように屋根がついていますが、水汲みの作業にはとても邪魔な感じです。

人が、かがんで、柱の間から下の水を汲むのは少しきゅうくつそうです。



井戸の上から8m下を覗き込んだ写真です。
大里城にも咲いていた小さな赤い花が、ここにもたくさん咲いています。

水道のない時代、毎日使う水の全てをこの井戸から汲んで持ち帰る生活は、水道ができた現代では想像すら出来なくなってしまいました。
8mの石段と、家までの距離を重い水を持って帰る毎日は、実に大変だったと思われます。

地元のオジーの解説で「大里城跡」見学

2008年09月03日 | 沖縄の旅
朝、那覇のホテルを出発して南城市大里西原の大里城へ行きました。



沖縄が、三山時代と言われた14世紀頃の勢力分布を想像した地図です。
大里城は、別名「島添大里城」と言われ、南山エリア(黄色)の東部にあります。

「大里城」のすぐ南には、佐敷城があり、佐敷按司[あじ]だった尚巴志[しょうはし]が、三山を統一する過程で、最初に攻略したのがこの「大里城」と言われています。
尚巴志は、この「大里城」を拠点として中山「浦添城」を攻略、その後も重要な拠点としていたようです。



「大里城跡」近くの集落を過ぎると大里城跡の門がありました。
門の中央に大きな石が車止めに置かれているようです。

■門から十メートル手前にあった「大里城跡」の案内板を転記します。
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「大里城跡」
大里城跡は、大里村字西原の北側、標高約150メートルの琉球石灰岩の丘陵台地に形成されている。
北側から西側にかけて急峻な崖状をなし、崖を背に堅固な城壁と天然の地形を巧みに利用したグスクである。
この城跡は別称「島添大里グスク」とも呼ばれ、当主であった南山王・島添大里按司によって築城されたと「中山世鑑」の中に記されている。
また尚巴志が最初に攻略した城でもあり、後に三山統一のきっかけともなり歴史的に重要なところである。
城の規模は東西に長く延び、北側の最奥部の本丸跡を取り巻く形で南側、東側に広く連郭式の城壁が連なり、石積みは野面積みが大半である。
1991年の村内遺跡分布調査の際試掘した結果、本丸跡から褐袖陶器、中国青磁、グスク土器、青銅製の飾り金具、丸玉、鉄釘などが出土し14世紀から16世紀の資料となっている。
 平成4年1月 大里村
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門を入ると、草の生えたとても広い場所があります。
この辺りが、「大里城」の二の郭だったようです。

この郭の広さは沖縄のグスクの中でも特に広いように思えます。
兵を鍛えたり、戦いの前に多くの兵が集まる場所でもあったと思われますが、2~3千人は入れそうです。

広場の奥に建物が見えます。
建物の壁には大きな字で「城」と書かれ、床はステージのようになっていました。

写真に向かって右側に二本の大きな木があり、その間に「一の郭」に上って行く道があります。



二本の木の間を上っていく道です。
道の両脇には小さな赤い花がたくさん咲いていました。



坂道の途中から右に入る道があり、脇道の左側に拝所があります。
拝所の周りにも小さな赤い花が、いっぱい咲いていました。



坂道を上がると細長い広場があり、「島添大里城」の案内板がありました。
案内板を撮影して読んでいると、道の向こうから歩いて来た地元のオジーと出会いました。
挨拶をすると、とても気さくな人で、大里城について色々な話を聞かせて頂きました。

この広場の道を直進すると大里按司の墓があり、手前を右に上がると展望台に上る道があると教えてもらいました。
又、この一帯にはとてもたくさんの拝所があり、お祭りの日には集落の人達が手分けして拝んで歩いても半日近くかかることなど、地元の人ならではの解説でした。

大変、お世話になりました。

このオジー、朝10時頃にもかかわらず、色黒の顔に赤みが差し、アルコールの臭いがプンプンでした。
朝から泡盛で、上機嫌だったようです。

ちなみに写真に写っている手は、案内板の説明してくれていたオジーのものです。
手にも赤みが差しています。



上の写真にある案内板の一部、大里城の「想像復元図」です。
周辺を歩いてみた地形のイメージと、復元図がいま一つ一致しません。

復元図によれば、ここから北に首里城、浦添城、から勝連城まで望めるようです。

■「島添大里城」の案内板にある説明文を転記します。
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島添大里グスク 南城市史跡
史跡はおよそ東西200m、南北100m、面積が20,000㎡以上もあって、県内でも有数の規模を誇るグスクです。
グスクの北側、大地縁の断崖を背にして一の郭、そこから南東方向へ二の郭、三の郭と放射状に広がっています。グスクの中心部である一の郭は、一段高く基檀上に造成された正殿跡と、その前面に御庭と考えられる平場から構成されています。過去の調査によって建物の柱を支えるための基石が数箇所から確認され、島添按司の住居である正殿規模は約22m×13mもあり、幾度も改築が行われたと考えられています。
城内には一の郭を囲む城壁のほか、数箇所に城壁が残っており、さらに発掘調査によって、採石を免れた城壁の基礎部分が地中より確認されています。
出土遺跡には、土器やカムィヤキ・中国製陶磁器・東南アジア製陶磁器・日本製陶磁器・鉄器・石器・装飾品・古銭・自然遺物など多くの文物がみられ、往時の繁栄ぶりが窺えます。
平成15年2月2日指定
沖縄県南城市教育委員会
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細長い広場を左手に進むと、こんな拝所がありました。
この辺りが一の郭だったようです。

オジーに聞いた通り、この前を通り過ぎる道を直進して大里按司の墓を目指しました。
細い道が、突然急な下り道になり、危険を感じたので引き返してしまいました。



展望台に上る坂道の途中にあった拝所です。

オジーの話通り、拝所がたくさんあります。



展望台の施設です。
残念ながらあまり遠くの景色は見えませんでした。

坂道を歩き大汗をかいていましたが、心地の良い風で一息つきました。



展望台の施設の横にあった拝所です。

小さな屋根のある変わった施設が見えます。
「浦添ようどれ」でも見た「焚字炉[ふんじゅるー]」に似ています。

「焚字炉[ふんじゅるー]」についてはこのブログ2008-07-05掲載の「浦添ようどれ 一番庭」の見学№3 の最下段に説明しています。



大里城跡の調査で石垣が確認されたという地図を見て、その領域を赤い線で描いて見ました。

次回は、大里城の門の近くにある「チチンガー」の見学を掲載予定です。
オジーから「ミーグスク」のことも聞いていましたが、見学を忘れてしまい次回の楽しみとしています。

金屏風と交換された泉「嘉手志川(カデシガー)」

2008年08月28日 | 沖縄の旅
南山城跡のすぐそばに「嘉手志川(カデシガー)」という泉があります。
三山分立時代(14~15世紀)の伝説にも登場し、古くからこの一帯の人々の生活を潤す大切な水源となっていたようです。



向って右側の道は、南山城跡から県道を横切ってきた道で、左に折れると「嘉手志川(カデシガー)」があります。
たくさんの根を下ろしたガジュマルの木が広く枝を張って、やさしい木陰をつくっています。

カデシガーに下る道は、少し先にもありました。



坂道の向こうに見える水辺が「カデシガー」です。
この辺りでは最も低い場所になっているようです。



坂道の右手に「嘉手志川」と刻まれた石碑が立っていました。

石碑の台石にある銅板を見ると「手づくり郷土賞」と書かれてあり、国土交通大表彰を受賞した記念に平成3年3月に建立された石碑ようです。

国土交通省の「手づくり郷土(ふるさと)賞」のサイトをのぞいてみると、平成2年度「生活を支える自然の水 30選」の一か所として受賞していました。
その他に「街灯のある街角 30選」「花と緑の手づくりふるさと 30選」「ふるさとの坂道 30選」と全部で4部門があり、平成2年度には実に120カ所が「手づくり郷土賞」で表彰されていました。
現在も毎年数十か所が表彰され続けているようです。
国が膨大な借金で苦しみ、国の予算が深刻な不足と言われている割には、こんな予算が使われており、まだまだムダが多いようです。



「嘉手志川」の石碑の横にこんな小屋がありました。

小屋の下からパイプが出て、電気メーターがあることから、小屋の中にポンプがあり、どこかに水を送っているのかも知れません。(かっての簡易水道の設備だったのでしょうか?)



小屋の前に大きな木があり、根元には小さな穴と、コンクリートの台があります。
何やらお供えの台に見え、拝所のようにも見えます。

沖縄の信仰で、井戸や、泉などのそばにこのような場所があるのを見かけたことがあり、古くからの信仰の場所だったものと思われます。



坂道を下ったあたりの景色です。
向って右のコンクリートの下には、カデシガーの湧水が出ています。

その向こうの白い乗用車の前に下段の写真の石碑が見えます。



カデシガーの水辺のそばに古い石碑がありました。

石碑の表には「灌漑設備記念」と刻まれているようですが、「設」の字の部分が剥がれています。
石碑の裏には「起工 昭和五年午庚八月五日、竣工 昭和六年未辛一月十三日」とあり、満州事変のあった1931年に周辺整備が完成したようです。



下ってきた坂道が向こうに見えます。
「カデシガー」の水辺の周辺には木や、花が育ちとても気持ちの良い場所です。

この「カデシガー」には、三山分立時代の終り頃の伝説があります。
南山王「他魯毎王(たるみい)」が中山王「尚巴志(ショウハシ)」が持つ金屏風を欲しがり、「カデシガー」と交換したそうです。
民衆は、大切な泉を交換した南山王に失望し、遂に南山城は、「尚巴志」により陥落したと伝えられています。



2本目の坂道から県道や、「南山城跡」方向を見た景色です。
コンクリートの壁の上は、県道で、その向こうの林が、「南山城跡」です。



石垣と、コンクリートの屋根で囲われている場所から豊かな水が湧き出ています。

この湧水は、透水性が低い「島尻層群泥岩」の上を「琉球石灰岩層」が覆ってい、二つの地層の境界付近から水が湧くと言われています。



地下からきれいな水がこんこんと湧いています。

この泉は、干ばつの時でも枯れることがないと言われ、もう一つの伝説が残っています。
昔、干ばつが続き、人々は雨乞いをしたが、雨は降りませんでした。
ある日、老婆のもとへ、びしょ濡になった飼い犬が帰ってきたそうです。
不思議に思った老婆は、犬の後を付けて行くと、この場所にコンコンと水が湧く泉があったという話です。

人々は、泉の発見で、カデシ!、カデシ!と喜んだそうです。
その後、この泉は「カデシガー」※と呼ばれるようになったそうです。

※「カデシ」は沖縄の方言で、「すばらしい」「めでたい」の意味だそうです。[かりゆし(嘉例吉)と同じような言葉のようです]
又、沖縄の方言で、井戸や、泉のことを「カー・ガー」と言うようで、二つの言葉をあわせて「カデシガー」となったようです。