昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
何気ないものに意外な歴史を見つけるのも
旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

出雲街道「根雨宿」の町並み

2007年11月12日 | 山陰地方の旅
鳥取県日野町の「金持神社」を後にして国道181号線を180号線の分岐する「根雨(ねう)」の町に立ち寄りました。
日野町は、人口4,136人、1,555世帯 の町です。


「旧出雲街道 根雨宿」の大きな看板があり、旧道が分岐していました。
旧出雲街道は、かっては松江藩主の参勤交代の道筋でした。
参勤交代の経路は、米子から根雨を通り、岡山県新庄村、真庭市勝山、津山に至る道で、参勤交代は兵庫県佐用から、姫路に出て行ったようです。。
又、一般的に別の経路では真庭市の勝山から旭川を下り、岡山市までの高瀬舟のルートもあったようです。

今年の4月17日、このブログに掲載した岡山県新庄村の「がいせん桜並木」を訪問して素晴らしい桜並木見物でしたが、根雨の隣の宿場になります。



国道181号線から分岐した細い旧道を進むと右手に石碑と、石仏が並んでいました。
かって新庄宿から根雨宿との間には出雲街道一番の難所「四十曲峠」がありました。いまではトンネルが出来て峠の道を通る人もほとんどいなくなっているようです。
向って右の石碑には「鳥獣供養塔」とあり、次の石碑には「南無妙法蓮華経?」「国土安全」「五穀○○」「○○○大士」とあります。
花がお供えされているところはお墓のようでもあり、石仏と合せて興味のあるところです。
昔、新庄宿から根雨宿にたどりつくまでに倒れた旅人も多くいたと考えられ、その供養で作られたものではないかと推察します。


昔この土地で「たたら製鉄」を経営して繁栄した「近藤家」の屋敷が旧出雲街道沿いにあります。
根雨の町並みを代表する建物の一つです。


「近藤家」の屋敷前に「備後屋」と表示されており、調べてみました。
「根雨近藤家の歴史」木村時夫著(早稲田大学名誉教授)によると近藤家の始祖伝兵衛は、鉄関係の商人で、江戸時代初期に備後(広島県東部)から転住してきたようです。
始祖伝兵衛から四代目の喜兵衛が製鉄業を創業し、製鉱所2ヵ所、錬鉄製造所4ヵ所まで発展させたようで、近藤家の最盛期になると日野郡内に61カ所の鉄山と、78ヵ所の製鉄工場に及んだようです。



屋敷の正面から南方向を見ると高い塀が続いています。
現在空家のようですが、かっては多くの人が働く活気のある屋敷だったことがうかがえます。
旧街道は、人通りがほとんどなく、さみしさを感じます。



「近藤家」の屋敷の向かいに「日野町公舎」とされる建物がありました。
「日野町公舎」の中は畳部屋で、自治会の集会などに利用されているようです。



「日野町公舎」の前に掲げられていた「案内板」です。


「日野町公舎」を少し前から撮った写真です。



「日野町公舎」から旧街道を約200m進み右折すると「日野町歴史民俗資料館」があります。
無人で、見学できませんでした。


「日野町公舎」の案内板です。


「日野町公舎」の前に変な石が展示されていました。
たたらの施設に使われていた「坊主石」だそうです。



「坊主石」の案内板です。

根雨には参勤交代の宿舎「本陣」や、オシドリ見物もあるようですが、次の機会に訪問したいと思っています。