南九州旅行2日目、鹿児島県曽於市大隅町「道の駅 おおすみ弥五郎伝説の里」の巨大な「弥五郎どん」を見物した後、大隅半島の東、志布志[しぶし]市の「山宮[やまみや]神社」へ行きました。
「山宮神社」は、天智天皇と、その皇妃、皇子、皇女などを祭神とし、境内の大楠にも天智天皇お手植えの伝説が伝わる実に興味深い神社です。
「山宮神社」前の広場から見た風景です。
大きなクスノキの左手にも中国原産「広葉杉」と案内された針葉樹の大木がそびえており、神社の長い歴史を演出しているようです。
鳥居脇の木道を歩き、「志布志の大クス」に近づくと、巨大さへの驚きと共に、なぜかなつかしい感情が込み上げてきたのを思い出します。
「環境省全国巨樹・巨木林データベース」によると、日本の巨樹第1位は、鹿児島県姶良市蒲生町の「蒲生の大クス」<目通り24.22m>で、「志布志の大クス」<目通り17.1m>は第14位とされています。
「蒲生の大クス」は、2006年秋の鹿児島旅行で訪れ、このブログにも掲載しましたが、その圧倒的な大さは今でも忘れられません。
■「志布志の大クス」の前にあった案内板です。
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国指定天然記念物
志布志の大クス
天然記念物指定 昭和十六年十一月十三日
この大クスは天智天皇の御手植と伝えられており、我が国の大クスの中でも樹形正しく樹勢盛んなことで知られ日本一と称されています。
樹 令 約一、三〇〇年
樹 高 二三・六メートル
絶後り 三二・二五メートル
目通り 一七・一メートル
樹上植物 一八科二四種
ふるき葉をふるいおとしてもえさかる
楠の大樹をうちあおぐかな 暁鳥敏
いく年も雨や嵐にもまれけむ
雄々しくもあるか千枝の大楠 水取川猪肋
志布志町教育委員会
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■写真の向かって左手の大木、「広葉杉」の案内板です。
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樹名 広葉杉(杉科)
樹齢 三百年(推定)
樹高 223m 目通り 3.26m 根回り4.5m
原産地 中国中部(広東省)他南部地方
由来 江戸時代庭園樹として移入され主に南九州の有名神社などに植樹された。
特性 材名は淡泊色で白蟻などの虫害に強い
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山宮神社の鳥居前から見た風景です。
左手の手水舎から鳥居へ進み、赤い柱の神門をくぐると、その先に赤い柱の拝殿が見えてきます。
大クスの周囲や、鳥居から神門の先までの参道には木道が整備され、大切な大クスの根が保護されているようです。
鳥居の横、東側から見た「志布志の大クス」です。
太い支柱が幹を支え、切断された枝の切り口が二ヶ所見えるものの、全体としては強い勢いのある姿です。
境内入口の案内板によると、和銅2年(709年)創建の山宮神社の大クスに天智天皇(626~672年)御手植の伝説が残っていると書かれています。
九州南端に近いこの地に天智天皇が行幸され、崩御から37年後の創建とされる山宮神社の場所になぜお手植えの楠の木があるのか余りに理解できない伝説にとまどいます。
20歳頃、蘇我本宗家を滅ぼす乙巳の変(622年)を主導した後も、常に政権の中枢にあり、大化の改新、白村江の戦い、大津京への遷都など激動の時代を生きた天智天皇の46年間の人生にここ志布志で過ごした一コマが本当にあったのでしょうか。
■境内入口付近に「志布志の大クス」の詳細な案内板がありました。
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国指定天然記念物 志布志の大クス
指定日 昭和16年ll月13日
所在地 志布志町安楽1519番地2
管理者 山宮神社
山宮神社境内にそびえるこの大クスは、樹齢が古いこと、樹姿が正しいこと、樹勢が旺盛であることにより、植物学上の貴重な標本として、昭和16年に天然記念物として国の文化財指定を受けています。
山宮神社は和銅2年(709年)の創建と伝えられ、祭神は天智天皇を含む六神であり、この大クスも天智天皇の御手植との伝説を残しています。又、明治26年に境内南側にあった対の大クスが枯死した時、その根元より中世の墳墓と思われる造物が出土していることは、この巨木の年齢推定にも参考になる事と考えられます。
幹形は、不整で凹凸が多く、根は浮き上がった様に見えます。幹内部は大きな空洞で大人が10人以上入れる広さとなっています。
大クスは永年にわたり台風等の被害を受けてきました。特に昭和24年のデラ台風襲来の際は、西に伸びた大枝が折れる損傷を受け、大きく開いた穴を軽量コンクリートで塞ぐ処置が施されました。しかし、後に、この部分から下方が樹根まで枯死してしまい、主幹も傾いたようです。さらに、この傾斜を防ぐため支柱の設置も行われましたが、歳月と共に軽量コンクリートの断裂や、樹皮の支柱への食い込み等も見られ、また腐朽箇所周囲の回復も進展が見られませんでした。
志布志町では、平成11年に樹木医の診断を受けましたが、その結果、樹勢回復に悪影響となる様々な問題が明らかになりました。
このため、町では、文化庁の指導の下に、植物学者・樹木医・神社や地元の代表者等で構成された「志布志の大クス保護対策検討委員会」を設置し、平成14年度から3年間、国・県の補助を受けて、大クスの保護増殖事業並びに保存修理事業を実施しました。この事業では、樹木治療だけではなく、周辺の土壌改良・参拝者による踏庄の防止対策・排水対策等の工事も行いました。
今、地元の安楽小学校では、児童の手によってこの巨木の実生苗が育てられており、子供達と共に成長しています。約1000年にわたって、地域を見守り続けたこの巨木が、地域の宝として、いつまでも大切に保護されていくことを祈りたいものです。
推定樹齢 800~1300年 斡周り 17.1m
樹 高 23.6m 根廻り 32.3m
平成17年2月
志布志市教育委員会
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神門をくぐり、社殿を背に西側から見た大クスです。
上段の案内板に「幹内部は大きな空洞で大人が10人以上入れる広さ」とあり、根元の中央付近と、向かって左手にも大きな穴が見られ、根の中央が洞窟のようになっているようです。
又、幹のやや左手に樹皮が無く、表面が黒くなっているのは、案内板にある「昭和24年のデラ台風襲来の際は、西に伸びた大枝が折れる損傷を受け、大きく開いた穴」の部分と思われます。
台風の多い南九州で、南の海岸から2~3Kmの場所にそびえる「志布志の大クス」は、山に囲まれた「蒲生の大クス」以上に、台風の猛威による様々な傷跡が刻み込まれていました。
神門の南側に明治26年に枯れてしまったとされる大クスの跡がありました。
かつては、大クスが鳥居の両脇にそびえていたようです。
上段の案内板に明治26年に枯死したこの大クスの根元から「中世の墳墓と思われる造物が出土」とあり、天智天皇お手植え伝説の信憑性は少しあやしくなってきました。。
■案内板に枯れた大クス跡と、「玉上げ祭」の様子が案内されていました。
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この霊域は、往古の昔より、天智天皇に由緒ある御神木と崇められし大クスが生息していたが、明治二六年に枯死した、其の跡地なり。
大昔より.毎年「旧暦時代は五月九日午の日」、現在は二月の第二土曜と第二日曜日の両日に当山宮神社と安楽神山社に於いて、春の太祭が行なられている。当社の祭りが前日で、翌日御輿が安楽神社に御下向のまえ、この霊域に向いタマゲマツリ(玉上げ祭)か行なわれる。
祭式はまず神殿にて、神官が御幣を持ち「花花袖の花」と唱え、左右交互に三回舞う、楽所(楽役の神官も同時に舞いながらあとの句「幾世の花もつもりあるらん」と唱える。そして、神官は盆に盛った白餅を捧げ楽所は太鼓の撥を捧げる。
次に、ここの霊域で同様の舞をする。神官玉玉袖の玉」と唱え、楽所は後の句「幾世の玉もつもりあるらん」と唱える。
最後に神官は右記の白餅に「霊餅は霊餅」と唱え、集える付近の童たちに与えてタマゲマツリ(玉上げ祭)が終わる。
それより御輿が猿田彦神の先導で行列を従え安楽神社に御下向される。
(尚この霊域の委細等は当神社社務所でお聞き下さい)
山宮神社
志布志文化財愛護会
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「山宮神社」社殿正面の風景で、建物正面の左右に案内板が見えます。
案内板では「山宮神社」の祭神は、天智天皇とその親族6柱で、創建された時期は、天智天皇の第4皇女である「元明天皇(661~721年)」が即位した翌年の和銅二年(709)のことだったようです。
天智天皇が崩御され、第1皇子の「大友皇子」が天智天皇の弟「大海人皇子(天武天皇)」により大津京で滅ぼされた「壬申の乱」以来、天智天皇・大友皇子に関係した人々を追悼し、祀ることが許された最初の頃の出来事だったのかも知れません。
天武天皇崩御の後、天皇となったのはその皇后「持統天皇」(天智天皇の第2皇女(鸕野讃良皇女)・元明天皇の異母姉)で、「元明天皇」は、天武・持統の皇子「草壁皇子(662~689年)」の正妃となったようです。
持統天皇の即位は、息子の草壁皇子が早世し、孫の成長までの在位でしたが、やっと孫の文武天皇(草壁皇子・元明天皇の皇子)に譲位したものの、その文武天皇も若くして崩御、その母「元明天皇」が即位した時期が「山宮神社」の創建でした。
「元明天皇」は、もはや天武天皇・持統天皇にはばかることなく父「天智天皇」や、壬申の乱で滅ぼされた兄「大友皇子」をはじめとする人々の追悼と、祭祀が可能となった時期だったのかもしれません。
又、「元明天皇」は、夫「草壁皇子」や、息子「文武天皇」の早世から、死後を懸念して崩御した父「天智天皇」や、大津京で滅ぼされた皇后「倭姫」、皇太子「大友皇子」の慰霊には異論の無い時期でもあったのかも知れません。
■向かって左の案内板に書かれていた「神社の御祭神」です。()内は補足です。
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山宮神社祭神
天智天皇 (626~672年、在位668~672年)
大友皇子 (648~672年、天智天皇の皇子)
持統天皇 (645~703年、在位690~697年 天智天皇の皇女=天武天皇の皇后 )
倭 姫 (天智天皇の皇后)
玉依姫 (天智天皇の妃、薩摩国頴娃[えい]の豪族の娘)
乙 姫 (天智天皇の皇女(生母 玉依姫)
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■向かって右の案内板には「御由緒」が書かれていました。
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山宮神社御由緒
当神社の創建は元明天皇の和銅二年と伝えられ、大同二年(八〇七)山口大明神・若宮神社・鎮母神社・安楽神社・蒲葵御前社を合祀し山口六社大明神として現在地に祀られた。安和元年(九六八)神領五百首町歩、最盛時には御祭百二十四度と記録にありその後新納・肝付・島津氏等の武将により社領の寄進、社殿の造営修理が行われ、藩政時代には、その規模の大きさは当国随一と称された。明治にいたり郷社山宮神社となり、当地方の宗廟として郷民の強い崇敬を受けている。
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■境内入口付近にあった案内板に「山宮神社の概要」が書かれていました。
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山宮神社 所在地 志布志町安楽1519-2
管理者 山宮神社
山宮神社の概要
社伝によると和銅2年(709)の創建と伝えられ、大同2年(807)6月に6社(田之浦山宮神社=天智天皇・山口社<安楽山宮神社>=大友皇子・鎮母神社=倭姫・安楽神社=玉依姫・若宮神社=持統天皇・批椰神社=乙姫)を合祀して山口大社大明神と称していた。明治維新後、山宮神社と改められた。祭神は上記六座で、神鏡が御神体である。
奉納された多数の懸け仏から、鎌倉時代にはすでにこの地方の尊崇を集めていたようで、このことは明治時代枯死した入口左側にあったもう一つの大楠の根元から出土した古墳の副葬品に中国宋代の蔵骨品等があることからも判る。さらに藩制時代には志布志郷の宗廟として郷民の氏神信仰の中心となった。
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鹿児島県志布志市志布志町安楽の「山宮神社」と、関係すると思われる場所を印した地図です。
案内板では、「山宮神社」創建から約百年後の大同2年(807)、「田之浦山宮神社」や、天智天皇にちなむ他の五社もこの地に遷宮され、合祀されたとあり、神社・祭神を整理してみました。
・田之浦山宮神社=天智天皇
・山口社<安楽山宮神社>=大友皇子
・鎮母神社=倭姫(地図では該当場所がありませんでした)
・安楽神社=玉依姫
・若宮神社=持統天皇
・批椰神社(蒲葵御前社)=乙姫
しかし、慰霊とも考えられる天智天皇・倭姫・大友皇子はともかくとして、持統天皇までがなぜこの地に祀られているのでしょうか。
ここが終焉の地ならまだしも三人は大津京で崩御されており、しかも持統天皇がこの地に祀られる特別な理由があるとは思われません。
ふと、江戸幕府に気を使った各地の大名が家康を祀る東照宮を創建したことが浮かんできました。
この地の有力豪族が、同じような発想で一連の神社を創建したとすれば、何とか理解できそうです。
「山宮神社」の北東に「御在所岳」があり、天智天皇が登られて「開聞岳」を望まれたとされる伝説があり、地形図に印してみました。
「日本の神々 神社と聖地」(谷川健一編・白水社発行)に天智天皇巡幸伝説の記述では、「薩摩の頴娃[えい]開聞の地に行幸の途中、安楽の浜に着き御在所岳に登って開聞岳を望まれた」とあります。
しかも、「御在所岳」に天智天皇を祀ったとし、その麓にある「田之浦山宮神社」にはその後に遷宮されていたものと推察されます。
又、「天智帝の妃倭姫を祭神とする鎮母神社があり、これが現在の安楽神社である」とし、不明だった「鎮母神社」の場所は、安楽神社の地で、「玉依姫」と同じ場所に祀られていたようです。
地形図に赤い破線で結んだ「御在所岳」と、「開聞岳」の間の地形を調べてみましたが、高い山もなく、「御在所岳」から直線で約70Kmの「開聞岳」は好天ならハッキリと望めるものと思われます。
ちなみに広島県福山市の我が家から約100Km離れた徳島県の「剣山」の稜線がハッキリと見える日があります。
■日本の神々 神社と聖地1より「山宮神社・安楽神社」の一節です
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天智帝巡幸伝説によれば、天皇は薩摩の頴娃[えい]開聞の地に行幸の途中、安楽の浜に着き御在所岳に登って開聞岳を望まれたといい、この御在所岳の山上に山宮をたてて帝を祀った。
また周辺に帝ゆかりの神を祀る神社があったので、それらを集めて大同二年(八〇七)に安楽の地に山口六社大明神を建てたという。それが山宮神社で、祭神はしたがって六座、天智天皇・倭姫・玉依姫・大友皇子・持統天皇・乙姫である。
この山口六社の一つに天智帝の妃倭姫を祭神とする鎮母神社があり、これが現在の安楽神社である。
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拝殿前の風景です。
参道の両側の石像は、一般的に神門の左右に安置される随身像と思われ、拝殿前に向かい合って坐る随身像を見るのは初めてです。
向かって左が阿形[あぎょう]、左が口を閉じた吽形[うんぎょう]ですが、一般的とは逆に置かれています。
何となく南国のおおらかな土地柄を感じられます。
社殿を左(南)から見た風景です。
右手に拝殿、左手に一段高い本殿、その間に白い幣殿があります。
天智天皇が、ここ志布志に立ち寄り、薩摩の頴娃開聞の地に行幸された経緯が気になり調べていると「鹿児島県神社庁」の志布志市の2・3ページに「鎮母神社」を除く5社の記述があり、次第に謎が解けてきました。
鹿児島県神社庁の「安楽神社」のページによると御祭神は、倭姫、玉依姫の2柱で、「天智天皇の大后倭姫が大津の宮で崩御された後、天皇大后に供奉した臣等が、和銅年間此所に姫の霊を勧請して霊社を創建した」とあり、大后倭姫に供奉した臣等が「元明天皇」の世になり創建したことがうかがわれます。
又、同ページには「天皇が頴娃へ御滞留中、二の后玉依姫は妊娠され、翌年当所にて女子が御降誕、乙姫と名付けられた。玉依姫は故郷の頴娃へ帰られたが、姫の崩御の後、和銅年間此所に霊社を建立した」とあり、開聞岳の麓「頴娃[えい]」の地は、妃とされた「玉依姫」の住む地でした。
「批椰神社」のページには二人の間に生まれた「乙姫」が安楽の地に取り残され、悲しさの余り海中に身を投じられ、志布志湾に浮かぶ枇榔[びろう]島に祀られた悲しい物語がありました。
「安楽神社」の地は、「天智天皇」が滞在され、「玉依姫」が「乙姫」を産み、皇后「倭姫」を祀る「鎮母神社」を創建した場所と分りました。
本殿の横にしめ縄で囲まれた不思議な場所がありました。
長い歴史のある「 山宮神社」には宝物や、興味深いお祭りが残されているようで、この施設もお祭りに関係するものと思われます。
鹿児島県神社庁「田之浦山宮神社」のページには天智天皇が志布志から「侍女玉依姫を尋ねて開聞へ発たれた」とあり、行幸の目的は、玉依姫に会うためとされています。
天皇の権威があれば玉依姫を都に呼ぶことが出来、唐・新羅との緊張関係が続いていた時代、半年近くを女性目的の行幸に費やすとは考えづらいことです。
「白村江の戦い」の敗戦後、大宰府を防衛するため大きな水城を造営し、都までの西日本各地に山城や、烽[とぶひ](狼煙台)が造られたとされる時代に、南九州の防衛も重要な課題だった可能性があります。
開聞岳の頂上から海上を監視し、発見した異常を大宰府や、都に知らせる狼煙が「御在所岳」で中継される防衛体制と考えたとしたら天皇の行幸の可能性も現実味を帯びてくるのかも知れません。
天智天皇が薩摩国頴娃への往復で「御在所岳」へ登られ、頂上へ宮の造営を指示されたとする伝承もこの仮説なら説明できるように思われます。
■境内入口付近にあった案内板です。
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国指定重要文化財 銅鏡唐草鴛鴦文様一面 [大正7年4月8日 指定]
日本の鋳鏡は三世紀~四世紀頃から、中国渡来の鏡を模した彷製鏡が造られており、奈良時代になると唐鏡の優れた作品にも劣らないものを模造するようになっている。しかし平安時代になり唐との交流が中断してしまうと、次第に優雅な純日本風の図柄を示すょうになり、やがて鎌倉時代にかけて草花に飛鳥を配した絵画的な作品を残し、我が国の鋳鏡技術の頂点を極めるのである。
国の重要文化財に指定されているこの銅鏡は、平安末期(1100年頃)藤原時代の作品と想定され直径24.4cmの中型で、和鏡の頂点を示す作品と見られているものである。外区に雲形と花を描き内区に唐草群と二羽の鴛鴦を配した文様は極細彫りで、日本的な簡潔さの中に優麗典雅な趣を持った名品である。
また山宮神社にはこの他にも、平安時代から江戸時代にかけての和鏡21面、中国の唐・宋・元・明代の鏡18面、朝鮮鏡4面、懸鏡(神仏習合により御正体として、鏡の表面に神像や仏像を線刻したり半肉彫りの鋳造を取りつけ、社寺に奉納、礼拝した)43面が宝蔵されている。
県指定無形文化財 山宮神社春祭りに伴う芸能(カギヒキ、正月踊)
管理者・安楽正月踊保存会 [昭和37年10月24日 指定]
山宮神社の春祭りは2月17日に行われ、翌2月18日御神輿が安楽神社に下り打植祭が行われ、これが終わると山宮神社に御神輿は帰るという一連の行事である。
これは、その年の豊作を祈願する祈念祭であり、社人によって伝承されでいる神舞と共に、極めて古い起源を持つ民俗行事である。
山宮神社の春祭りの主な行事は次の通りである。稲に似せた竹串を境内に植える「御田植行事」、神官が大楠の周りを回りながらハナとタマを供える「玉上祭(タマゲマツリ)」」田之浦山宮神社の御神霊を迎える「浜下り」等がある。
安楽神社では、境内を田に見立てて木鍬で耕す「田打」、牛面を被ってモガを引く「牛使い」、豊穣を祈って種籾を蒔く「種蒔」、田の清浄と害虫駆除を表し豊作豊漁を賭けてカシ木のカギ枝を引き合う「カギヒキ」、拝殿の中で神職がモロムギの穂を特って舞う「田植舞」、田之神夫婦と豊凶についての滑稽問答を交わす「田ノ神の参拝」、「手拍子(正月踊り)」等がある。
【正月踊り】<出端・お市従家女・一つとの・帖佐節・爺さん節・塩屋判官・坊様節・五尺・安久節>
古くはこの春祭りに、近郷近在から踊りを奉納に来ていたが、明治以降地元の青年によって受け継がれている。正月踊りは現在9つの踊りが残されているが、本来は、各地の夏祭(水神祭集)で踊られる風流系の踊りであった。
踊り服装は、下に股引きを着け、上からは黒の紋付き、博多帯を締め、頭は黒の御高祖頭巾で、三角の白布を後ろから前に結ぶ。水色の手甲に黒の脚絆、黒足袋、カップリ、左腰に手拭、右腰こサルノコ人形をぷら下ける珍しい服装である。
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神門や、「蒲生の大クス」を南から見た風景です。
気持ちよく掃除された境内を散策していると、南国のゆったりした時間が漂ってくるようで、もう一度訪れてみたい、親しみを感じる神社でした。
「天智天皇巡幸伝説」の謎は、少し解けてきましたが、この「大クス」に天智天皇お手植えか否かの謎も残っていました。
「鹿児島県神社庁」の安楽神社のページに「ここに仮殿を営み置かれ」とあり、天智天皇が滞在されたのは「安楽神社」の地で、やはり「山宮神社」での可能性は見当たりません。
又、枯死した大クスの根元から出土した中世の墳墓と思われる造物と合わせて、中世に植えられたクスの木と思われます。
もう一つ、志布志の地形図で、「御在所岳(標高530m)」の北数キロ、国道222号が大きく南にカーブした場所に「安楽川」と「大淀川」が約500mまで接近する珍しい場所があります。
「安楽川」は、南の志布志湾に注ぎ、「大淀川」は、都城を経由して宮崎市で太平洋に注いでいますが、狼煙では次の伝達先へ伝えられない場合に川の流れを利用して早く伝達する方法があったとしたら「御在所岳」の立地評価はもっと高くなると考えられます。
「御在所岳」の北約10Kmの国道222号沿いに、「御所谷」の地名が見え、気になるところです。
「山宮神社」は、天智天皇と、その皇妃、皇子、皇女などを祭神とし、境内の大楠にも天智天皇お手植えの伝説が伝わる実に興味深い神社です。
「山宮神社」前の広場から見た風景です。
大きなクスノキの左手にも中国原産「広葉杉」と案内された針葉樹の大木がそびえており、神社の長い歴史を演出しているようです。
鳥居脇の木道を歩き、「志布志の大クス」に近づくと、巨大さへの驚きと共に、なぜかなつかしい感情が込み上げてきたのを思い出します。
「環境省全国巨樹・巨木林データベース」によると、日本の巨樹第1位は、鹿児島県姶良市蒲生町の「蒲生の大クス」<目通り24.22m>で、「志布志の大クス」<目通り17.1m>は第14位とされています。
「蒲生の大クス」は、2006年秋の鹿児島旅行で訪れ、このブログにも掲載しましたが、その圧倒的な大さは今でも忘れられません。
■「志布志の大クス」の前にあった案内板です。
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国指定天然記念物
志布志の大クス
天然記念物指定 昭和十六年十一月十三日
この大クスは天智天皇の御手植と伝えられており、我が国の大クスの中でも樹形正しく樹勢盛んなことで知られ日本一と称されています。
樹 令 約一、三〇〇年
樹 高 二三・六メートル
絶後り 三二・二五メートル
目通り 一七・一メートル
樹上植物 一八科二四種
ふるき葉をふるいおとしてもえさかる
楠の大樹をうちあおぐかな 暁鳥敏
いく年も雨や嵐にもまれけむ
雄々しくもあるか千枝の大楠 水取川猪肋
志布志町教育委員会
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■写真の向かって左手の大木、「広葉杉」の案内板です。
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樹名 広葉杉(杉科)
樹齢 三百年(推定)
樹高 223m 目通り 3.26m 根回り4.5m
原産地 中国中部(広東省)他南部地方
由来 江戸時代庭園樹として移入され主に南九州の有名神社などに植樹された。
特性 材名は淡泊色で白蟻などの虫害に強い
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山宮神社の鳥居前から見た風景です。
左手の手水舎から鳥居へ進み、赤い柱の神門をくぐると、その先に赤い柱の拝殿が見えてきます。
大クスの周囲や、鳥居から神門の先までの参道には木道が整備され、大切な大クスの根が保護されているようです。
鳥居の横、東側から見た「志布志の大クス」です。
太い支柱が幹を支え、切断された枝の切り口が二ヶ所見えるものの、全体としては強い勢いのある姿です。
境内入口の案内板によると、和銅2年(709年)創建の山宮神社の大クスに天智天皇(626~672年)御手植の伝説が残っていると書かれています。
九州南端に近いこの地に天智天皇が行幸され、崩御から37年後の創建とされる山宮神社の場所になぜお手植えの楠の木があるのか余りに理解できない伝説にとまどいます。
20歳頃、蘇我本宗家を滅ぼす乙巳の変(622年)を主導した後も、常に政権の中枢にあり、大化の改新、白村江の戦い、大津京への遷都など激動の時代を生きた天智天皇の46年間の人生にここ志布志で過ごした一コマが本当にあったのでしょうか。
■境内入口付近に「志布志の大クス」の詳細な案内板がありました。
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国指定天然記念物 志布志の大クス
指定日 昭和16年ll月13日
所在地 志布志町安楽1519番地2
管理者 山宮神社
山宮神社境内にそびえるこの大クスは、樹齢が古いこと、樹姿が正しいこと、樹勢が旺盛であることにより、植物学上の貴重な標本として、昭和16年に天然記念物として国の文化財指定を受けています。
山宮神社は和銅2年(709年)の創建と伝えられ、祭神は天智天皇を含む六神であり、この大クスも天智天皇の御手植との伝説を残しています。又、明治26年に境内南側にあった対の大クスが枯死した時、その根元より中世の墳墓と思われる造物が出土していることは、この巨木の年齢推定にも参考になる事と考えられます。
幹形は、不整で凹凸が多く、根は浮き上がった様に見えます。幹内部は大きな空洞で大人が10人以上入れる広さとなっています。
大クスは永年にわたり台風等の被害を受けてきました。特に昭和24年のデラ台風襲来の際は、西に伸びた大枝が折れる損傷を受け、大きく開いた穴を軽量コンクリートで塞ぐ処置が施されました。しかし、後に、この部分から下方が樹根まで枯死してしまい、主幹も傾いたようです。さらに、この傾斜を防ぐため支柱の設置も行われましたが、歳月と共に軽量コンクリートの断裂や、樹皮の支柱への食い込み等も見られ、また腐朽箇所周囲の回復も進展が見られませんでした。
志布志町では、平成11年に樹木医の診断を受けましたが、その結果、樹勢回復に悪影響となる様々な問題が明らかになりました。
このため、町では、文化庁の指導の下に、植物学者・樹木医・神社や地元の代表者等で構成された「志布志の大クス保護対策検討委員会」を設置し、平成14年度から3年間、国・県の補助を受けて、大クスの保護増殖事業並びに保存修理事業を実施しました。この事業では、樹木治療だけではなく、周辺の土壌改良・参拝者による踏庄の防止対策・排水対策等の工事も行いました。
今、地元の安楽小学校では、児童の手によってこの巨木の実生苗が育てられており、子供達と共に成長しています。約1000年にわたって、地域を見守り続けたこの巨木が、地域の宝として、いつまでも大切に保護されていくことを祈りたいものです。
推定樹齢 800~1300年 斡周り 17.1m
樹 高 23.6m 根廻り 32.3m
平成17年2月
志布志市教育委員会
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神門をくぐり、社殿を背に西側から見た大クスです。
上段の案内板に「幹内部は大きな空洞で大人が10人以上入れる広さ」とあり、根元の中央付近と、向かって左手にも大きな穴が見られ、根の中央が洞窟のようになっているようです。
又、幹のやや左手に樹皮が無く、表面が黒くなっているのは、案内板にある「昭和24年のデラ台風襲来の際は、西に伸びた大枝が折れる損傷を受け、大きく開いた穴」の部分と思われます。
台風の多い南九州で、南の海岸から2~3Kmの場所にそびえる「志布志の大クス」は、山に囲まれた「蒲生の大クス」以上に、台風の猛威による様々な傷跡が刻み込まれていました。
神門の南側に明治26年に枯れてしまったとされる大クスの跡がありました。
かつては、大クスが鳥居の両脇にそびえていたようです。
上段の案内板に明治26年に枯死したこの大クスの根元から「中世の墳墓と思われる造物が出土」とあり、天智天皇お手植え伝説の信憑性は少しあやしくなってきました。。
■案内板に枯れた大クス跡と、「玉上げ祭」の様子が案内されていました。
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この霊域は、往古の昔より、天智天皇に由緒ある御神木と崇められし大クスが生息していたが、明治二六年に枯死した、其の跡地なり。
大昔より.毎年「旧暦時代は五月九日午の日」、現在は二月の第二土曜と第二日曜日の両日に当山宮神社と安楽神山社に於いて、春の太祭が行なられている。当社の祭りが前日で、翌日御輿が安楽神社に御下向のまえ、この霊域に向いタマゲマツリ(玉上げ祭)か行なわれる。
祭式はまず神殿にて、神官が御幣を持ち「花花袖の花」と唱え、左右交互に三回舞う、楽所(楽役の神官も同時に舞いながらあとの句「幾世の花もつもりあるらん」と唱える。そして、神官は盆に盛った白餅を捧げ楽所は太鼓の撥を捧げる。
次に、ここの霊域で同様の舞をする。神官玉玉袖の玉」と唱え、楽所は後の句「幾世の玉もつもりあるらん」と唱える。
最後に神官は右記の白餅に「霊餅は霊餅」と唱え、集える付近の童たちに与えてタマゲマツリ(玉上げ祭)が終わる。
それより御輿が猿田彦神の先導で行列を従え安楽神社に御下向される。
(尚この霊域の委細等は当神社社務所でお聞き下さい)
山宮神社
志布志文化財愛護会
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「山宮神社」社殿正面の風景で、建物正面の左右に案内板が見えます。
案内板では「山宮神社」の祭神は、天智天皇とその親族6柱で、創建された時期は、天智天皇の第4皇女である「元明天皇(661~721年)」が即位した翌年の和銅二年(709)のことだったようです。
天智天皇が崩御され、第1皇子の「大友皇子」が天智天皇の弟「大海人皇子(天武天皇)」により大津京で滅ぼされた「壬申の乱」以来、天智天皇・大友皇子に関係した人々を追悼し、祀ることが許された最初の頃の出来事だったのかも知れません。
天武天皇崩御の後、天皇となったのはその皇后「持統天皇」(天智天皇の第2皇女(鸕野讃良皇女)・元明天皇の異母姉)で、「元明天皇」は、天武・持統の皇子「草壁皇子(662~689年)」の正妃となったようです。
持統天皇の即位は、息子の草壁皇子が早世し、孫の成長までの在位でしたが、やっと孫の文武天皇(草壁皇子・元明天皇の皇子)に譲位したものの、その文武天皇も若くして崩御、その母「元明天皇」が即位した時期が「山宮神社」の創建でした。
「元明天皇」は、もはや天武天皇・持統天皇にはばかることなく父「天智天皇」や、壬申の乱で滅ぼされた兄「大友皇子」をはじめとする人々の追悼と、祭祀が可能となった時期だったのかもしれません。
又、「元明天皇」は、夫「草壁皇子」や、息子「文武天皇」の早世から、死後を懸念して崩御した父「天智天皇」や、大津京で滅ぼされた皇后「倭姫」、皇太子「大友皇子」の慰霊には異論の無い時期でもあったのかも知れません。
■向かって左の案内板に書かれていた「神社の御祭神」です。()内は補足です。
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山宮神社祭神
天智天皇 (626~672年、在位668~672年)
大友皇子 (648~672年、天智天皇の皇子)
持統天皇 (645~703年、在位690~697年 天智天皇の皇女=天武天皇の皇后 )
倭 姫 (天智天皇の皇后)
玉依姫 (天智天皇の妃、薩摩国頴娃[えい]の豪族の娘)
乙 姫 (天智天皇の皇女(生母 玉依姫)
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■向かって右の案内板には「御由緒」が書かれていました。
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山宮神社御由緒
当神社の創建は元明天皇の和銅二年と伝えられ、大同二年(八〇七)山口大明神・若宮神社・鎮母神社・安楽神社・蒲葵御前社を合祀し山口六社大明神として現在地に祀られた。安和元年(九六八)神領五百首町歩、最盛時には御祭百二十四度と記録にありその後新納・肝付・島津氏等の武将により社領の寄進、社殿の造営修理が行われ、藩政時代には、その規模の大きさは当国随一と称された。明治にいたり郷社山宮神社となり、当地方の宗廟として郷民の強い崇敬を受けている。
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■境内入口付近にあった案内板に「山宮神社の概要」が書かれていました。
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山宮神社 所在地 志布志町安楽1519-2
管理者 山宮神社
山宮神社の概要
社伝によると和銅2年(709)の創建と伝えられ、大同2年(807)6月に6社(田之浦山宮神社=天智天皇・山口社<安楽山宮神社>=大友皇子・鎮母神社=倭姫・安楽神社=玉依姫・若宮神社=持統天皇・批椰神社=乙姫)を合祀して山口大社大明神と称していた。明治維新後、山宮神社と改められた。祭神は上記六座で、神鏡が御神体である。
奉納された多数の懸け仏から、鎌倉時代にはすでにこの地方の尊崇を集めていたようで、このことは明治時代枯死した入口左側にあったもう一つの大楠の根元から出土した古墳の副葬品に中国宋代の蔵骨品等があることからも判る。さらに藩制時代には志布志郷の宗廟として郷民の氏神信仰の中心となった。
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鹿児島県志布志市志布志町安楽の「山宮神社」と、関係すると思われる場所を印した地図です。
案内板では、「山宮神社」創建から約百年後の大同2年(807)、「田之浦山宮神社」や、天智天皇にちなむ他の五社もこの地に遷宮され、合祀されたとあり、神社・祭神を整理してみました。
・田之浦山宮神社=天智天皇
・山口社<安楽山宮神社>=大友皇子
・鎮母神社=倭姫(地図では該当場所がありませんでした)
・安楽神社=玉依姫
・若宮神社=持統天皇
・批椰神社(蒲葵御前社)=乙姫
しかし、慰霊とも考えられる天智天皇・倭姫・大友皇子はともかくとして、持統天皇までがなぜこの地に祀られているのでしょうか。
ここが終焉の地ならまだしも三人は大津京で崩御されており、しかも持統天皇がこの地に祀られる特別な理由があるとは思われません。
ふと、江戸幕府に気を使った各地の大名が家康を祀る東照宮を創建したことが浮かんできました。
この地の有力豪族が、同じような発想で一連の神社を創建したとすれば、何とか理解できそうです。
「山宮神社」の北東に「御在所岳」があり、天智天皇が登られて「開聞岳」を望まれたとされる伝説があり、地形図に印してみました。
「日本の神々 神社と聖地」(谷川健一編・白水社発行)に天智天皇巡幸伝説の記述では、「薩摩の頴娃[えい]開聞の地に行幸の途中、安楽の浜に着き御在所岳に登って開聞岳を望まれた」とあります。
しかも、「御在所岳」に天智天皇を祀ったとし、その麓にある「田之浦山宮神社」にはその後に遷宮されていたものと推察されます。
又、「天智帝の妃倭姫を祭神とする鎮母神社があり、これが現在の安楽神社である」とし、不明だった「鎮母神社」の場所は、安楽神社の地で、「玉依姫」と同じ場所に祀られていたようです。
地形図に赤い破線で結んだ「御在所岳」と、「開聞岳」の間の地形を調べてみましたが、高い山もなく、「御在所岳」から直線で約70Kmの「開聞岳」は好天ならハッキリと望めるものと思われます。
ちなみに広島県福山市の我が家から約100Km離れた徳島県の「剣山」の稜線がハッキリと見える日があります。
■日本の神々 神社と聖地1より「山宮神社・安楽神社」の一節です
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天智帝巡幸伝説によれば、天皇は薩摩の頴娃[えい]開聞の地に行幸の途中、安楽の浜に着き御在所岳に登って開聞岳を望まれたといい、この御在所岳の山上に山宮をたてて帝を祀った。
また周辺に帝ゆかりの神を祀る神社があったので、それらを集めて大同二年(八〇七)に安楽の地に山口六社大明神を建てたという。それが山宮神社で、祭神はしたがって六座、天智天皇・倭姫・玉依姫・大友皇子・持統天皇・乙姫である。
この山口六社の一つに天智帝の妃倭姫を祭神とする鎮母神社があり、これが現在の安楽神社である。
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拝殿前の風景です。
参道の両側の石像は、一般的に神門の左右に安置される随身像と思われ、拝殿前に向かい合って坐る随身像を見るのは初めてです。
向かって左が阿形[あぎょう]、左が口を閉じた吽形[うんぎょう]ですが、一般的とは逆に置かれています。
何となく南国のおおらかな土地柄を感じられます。
社殿を左(南)から見た風景です。
右手に拝殿、左手に一段高い本殿、その間に白い幣殿があります。
天智天皇が、ここ志布志に立ち寄り、薩摩の頴娃開聞の地に行幸された経緯が気になり調べていると「鹿児島県神社庁」の志布志市の2・3ページに「鎮母神社」を除く5社の記述があり、次第に謎が解けてきました。
鹿児島県神社庁の「安楽神社」のページによると御祭神は、倭姫、玉依姫の2柱で、「天智天皇の大后倭姫が大津の宮で崩御された後、天皇大后に供奉した臣等が、和銅年間此所に姫の霊を勧請して霊社を創建した」とあり、大后倭姫に供奉した臣等が「元明天皇」の世になり創建したことがうかがわれます。
又、同ページには「天皇が頴娃へ御滞留中、二の后玉依姫は妊娠され、翌年当所にて女子が御降誕、乙姫と名付けられた。玉依姫は故郷の頴娃へ帰られたが、姫の崩御の後、和銅年間此所に霊社を建立した」とあり、開聞岳の麓「頴娃[えい]」の地は、妃とされた「玉依姫」の住む地でした。
「批椰神社」のページには二人の間に生まれた「乙姫」が安楽の地に取り残され、悲しさの余り海中に身を投じられ、志布志湾に浮かぶ枇榔[びろう]島に祀られた悲しい物語がありました。
「安楽神社」の地は、「天智天皇」が滞在され、「玉依姫」が「乙姫」を産み、皇后「倭姫」を祀る「鎮母神社」を創建した場所と分りました。
本殿の横にしめ縄で囲まれた不思議な場所がありました。
長い歴史のある「 山宮神社」には宝物や、興味深いお祭りが残されているようで、この施設もお祭りに関係するものと思われます。
鹿児島県神社庁「田之浦山宮神社」のページには天智天皇が志布志から「侍女玉依姫を尋ねて開聞へ発たれた」とあり、行幸の目的は、玉依姫に会うためとされています。
天皇の権威があれば玉依姫を都に呼ぶことが出来、唐・新羅との緊張関係が続いていた時代、半年近くを女性目的の行幸に費やすとは考えづらいことです。
「白村江の戦い」の敗戦後、大宰府を防衛するため大きな水城を造営し、都までの西日本各地に山城や、烽[とぶひ](狼煙台)が造られたとされる時代に、南九州の防衛も重要な課題だった可能性があります。
開聞岳の頂上から海上を監視し、発見した異常を大宰府や、都に知らせる狼煙が「御在所岳」で中継される防衛体制と考えたとしたら天皇の行幸の可能性も現実味を帯びてくるのかも知れません。
天智天皇が薩摩国頴娃への往復で「御在所岳」へ登られ、頂上へ宮の造営を指示されたとする伝承もこの仮説なら説明できるように思われます。
■境内入口付近にあった案内板です。
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国指定重要文化財 銅鏡唐草鴛鴦文様一面 [大正7年4月8日 指定]
日本の鋳鏡は三世紀~四世紀頃から、中国渡来の鏡を模した彷製鏡が造られており、奈良時代になると唐鏡の優れた作品にも劣らないものを模造するようになっている。しかし平安時代になり唐との交流が中断してしまうと、次第に優雅な純日本風の図柄を示すょうになり、やがて鎌倉時代にかけて草花に飛鳥を配した絵画的な作品を残し、我が国の鋳鏡技術の頂点を極めるのである。
国の重要文化財に指定されているこの銅鏡は、平安末期(1100年頃)藤原時代の作品と想定され直径24.4cmの中型で、和鏡の頂点を示す作品と見られているものである。外区に雲形と花を描き内区に唐草群と二羽の鴛鴦を配した文様は極細彫りで、日本的な簡潔さの中に優麗典雅な趣を持った名品である。
また山宮神社にはこの他にも、平安時代から江戸時代にかけての和鏡21面、中国の唐・宋・元・明代の鏡18面、朝鮮鏡4面、懸鏡(神仏習合により御正体として、鏡の表面に神像や仏像を線刻したり半肉彫りの鋳造を取りつけ、社寺に奉納、礼拝した)43面が宝蔵されている。
県指定無形文化財 山宮神社春祭りに伴う芸能(カギヒキ、正月踊)
管理者・安楽正月踊保存会 [昭和37年10月24日 指定]
山宮神社の春祭りは2月17日に行われ、翌2月18日御神輿が安楽神社に下り打植祭が行われ、これが終わると山宮神社に御神輿は帰るという一連の行事である。
これは、その年の豊作を祈願する祈念祭であり、社人によって伝承されでいる神舞と共に、極めて古い起源を持つ民俗行事である。
山宮神社の春祭りの主な行事は次の通りである。稲に似せた竹串を境内に植える「御田植行事」、神官が大楠の周りを回りながらハナとタマを供える「玉上祭(タマゲマツリ)」」田之浦山宮神社の御神霊を迎える「浜下り」等がある。
安楽神社では、境内を田に見立てて木鍬で耕す「田打」、牛面を被ってモガを引く「牛使い」、豊穣を祈って種籾を蒔く「種蒔」、田の清浄と害虫駆除を表し豊作豊漁を賭けてカシ木のカギ枝を引き合う「カギヒキ」、拝殿の中で神職がモロムギの穂を特って舞う「田植舞」、田之神夫婦と豊凶についての滑稽問答を交わす「田ノ神の参拝」、「手拍子(正月踊り)」等がある。
【正月踊り】<出端・お市従家女・一つとの・帖佐節・爺さん節・塩屋判官・坊様節・五尺・安久節>
古くはこの春祭りに、近郷近在から踊りを奉納に来ていたが、明治以降地元の青年によって受け継がれている。正月踊りは現在9つの踊りが残されているが、本来は、各地の夏祭(水神祭集)で踊られる風流系の踊りであった。
踊り服装は、下に股引きを着け、上からは黒の紋付き、博多帯を締め、頭は黒の御高祖頭巾で、三角の白布を後ろから前に結ぶ。水色の手甲に黒の脚絆、黒足袋、カップリ、左腰に手拭、右腰こサルノコ人形をぷら下ける珍しい服装である。
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神門や、「蒲生の大クス」を南から見た風景です。
気持ちよく掃除された境内を散策していると、南国のゆったりした時間が漂ってくるようで、もう一度訪れてみたい、親しみを感じる神社でした。
「天智天皇巡幸伝説」の謎は、少し解けてきましたが、この「大クス」に天智天皇お手植えか否かの謎も残っていました。
「鹿児島県神社庁」の安楽神社のページに「ここに仮殿を営み置かれ」とあり、天智天皇が滞在されたのは「安楽神社」の地で、やはり「山宮神社」での可能性は見当たりません。
又、枯死した大クスの根元から出土した中世の墳墓と思われる造物と合わせて、中世に植えられたクスの木と思われます。
もう一つ、志布志の地形図で、「御在所岳(標高530m)」の北数キロ、国道222号が大きく南にカーブした場所に「安楽川」と「大淀川」が約500mまで接近する珍しい場所があります。
「安楽川」は、南の志布志湾に注ぎ、「大淀川」は、都城を経由して宮崎市で太平洋に注いでいますが、狼煙では次の伝達先へ伝えられない場合に川の流れを利用して早く伝達する方法があったとしたら「御在所岳」の立地評価はもっと高くなると考えられます。
「御在所岳」の北約10Kmの国道222号沿いに、「御所谷」の地名が見え、気になるところです。