平成5年が明け、内灘砂丘凧の会の新春凧揚げで新しい年がはじまった。
昨年末の櫛比小学校の講習会で会社を休んだことで、小生の仕事が溜り残業や休日出勤で何とか急場をしのぐことが出来たが、凧の会の他の会員とのギャップにいら立ちを覚えてきていた。
それと、平成10年には内灘の凧揚げも10回大会を迎える、昨年から国際大会を始めたばかりではあるが、凧を始めた経緯から考えると10年目は節目の年でもある。10年を迎えることについて会長ほか役員に話をしても現状のことしかないのである。
小生を講習会の要員としか見ていないような気がして、凧の会に嫌気さら感じている自分がいやになる。
ある時、県外の凧の先輩に自分の気持ちを相談すると、「凧を完全にやめてしまうか、今の凧の会から出て一人で凧を楽しむかのどちらかだね。自分でよく考えてみな!」とアドバイスされた。
3月末ごろだと思うが、10年目には大きな凧を内灘海岸で飛翔させたいという思いが強くなり、このままではその夢をかなえることはできないと判断したので内灘砂丘凧の会を退会し、妻と2人で凧を楽しんで行く道を選択した。
今年以降の「世界の凧の祭典」は日本の凧の会の会員として参加することとした。
石川県で初の24畳凧が揚がる
平成5年年8月末に我が家へ国立石川工業高等専門学校の紀友祭実行委員のメンバーの訪問があり、学校祭で大凧を作り飛翔させたいとのことだった。竹は学校の周りが竹林で毎年その竹を利用して出し物を製作しているとのことだった。それでは24畳の大凧を作るかと振ると大乗り気で24畳凧の製作が決定した。後日製作寸法図を渡し、竹の寸法を説明し、竹割が完了した時点で学校を訪問した。
何回かのレクチャーで大凧は組みあがった。糸目調整は越中大門のM氏にお願いして無事学校祭の展示に間に合った。
平成5年(1993年)10月30日飛翔の日は無慈悲にも雨、それでも生徒たちはサッカー場に集結し飛翔させると言う血気盛んである。雨の降る中で凧を寝かせてスタンバイしていると今まで見学していた数人の先生が、背広のズボンを捲り上げ、裸足で凧の揚げ手の方に走り出した。「先生が入ったぞー」と生徒たちから歓声が上がり、GO!の合図で生徒が懸命に走ると凧の背面に溜まった雨水がまるでバケツをひっくり返したような勢いで凧の下から流れ出る。それと同時に凧はゆっくりと浮き上がるが、無風状態と雨に押されて走りこんだ分だけで着地した。それでも生徒たちと参加した先生は凧が浮き上がったことでずぶ濡れになりながらも喜んでいた。
結果を出せたことで嬉しかったのであろう、私たちもずぶ濡れの身体で喜びを噛みしめた。