加賀の旅人

郷土の凧と歴史の狭間に埋もれた凧の歴史を尋ねる旅人です。

平成5年の活動

2014年03月20日 | 内灘町の凧

ジレンマとの戦い、そして日本海内灘砂丘凧の会を退会へ

  平成5年が明け、内灘砂丘凧の会の新春凧揚げで新しい年がはじまった。
  昨年末の櫛比小学校の講習会で会社を休んだことで、小生の仕事が溜り残業や休日出勤で何とか急場をしのぐことが出来たが、凧の会の他の会員とのギャップにいら立ちを覚えてきていた。
 それと、平成10年には内灘の凧揚げも10回大会を迎える、昨年から国際大会を始めたばかりではあるが、凧を始めた経緯から考えると10年目は節目の年でもある。10年を迎えることについて会長ほか役員に話をしても現状のことしかないのである。
 小生を講習会の要員としか見ていないような気がして、凧の会に嫌気さら感じている自分がいやになる。
 ある時、県外の凧の先輩に自分の気持ちを相談すると、「凧を完全にやめてしまうか、今の凧の会から出て一人で凧を楽しむかのどちらかだね。自分でよく考えてみな!」とアドバイスされた。
 3月末ごろだと思うが、10年目には大きな凧を内灘海岸で飛翔させたいという思いが強くなり、このままではその夢をかなえることはできないと判断したので内灘砂丘凧の会を退会し、妻と2人で凧を楽しんで行く道を選択した。
 今年以降の「世界の凧の祭典」は日本の凧の会の会員として参加することとした。


石川県で初の24畳凧が揚がる
平成5年年8月末に我が家へ国立石川工業高等専門学校の紀友祭実行委員のメンバーの訪問があり、学校祭で大凧を作り飛翔させたいとのことだった。竹は学校の周りが竹林で毎年その竹を利用して出し物を製作しているとのことだった。それでは24畳の大凧を作るかと振ると大乗り気で24畳凧の製作が決定した。後日製作寸法図を渡し、竹の寸法を説明し、竹割が完了した時点で学校を訪問した。
何回かのレクチャーで大凧は組みあがった。糸目調整は越中大門のM氏にお願いして無事学校祭の展示に間に合った。
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平成5年(1993年)10月30日飛翔の日は無慈悲にも雨、それでも生徒たちはサッカー場に集結し飛翔させると言う血気盛んである。雨の降る中で凧を寝かせてスタンバイしていると今まで見学していた数人の先生が、背広のズボンを捲り上げ、裸足で凧の揚げ手の方に走り出した。「先生が入ったぞー」と生徒たちから歓声が上がり、GO!の合図で生徒が懸命に走ると凧の背面に溜まった雨水がまるでバケツをひっくり返したような勢いで凧の下から流れ出る。それと同時に凧はゆっくりと浮き上がるが、無風状態と雨に押されて走りこんだ分だけで着地した。それでも生徒たちと参加した先生は凧が浮き上がったことでずぶ濡れになりながらも喜んでいた。
結果を出せたことで嬉しかったのであろう、私たちもずぶ濡れの身体で喜びを噛みしめた。

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平成4年の活動

2014年03月20日 | 内灘町の凧

.各公民館に大凧の製作指導
 内灘町教育委員会より内灘町の16か所の公民館に大凧の製作を指導する資料を作成するよう依頼があったが、ようやく平成4年1月31日、仕事の出張先から草稿を教育委員会へFAXで送信することができた。
「問い合わせ先」を小生に変更することで、各町会への講習会の準備が整った。これが内灘町での6畳凧製作の資料となったのである。
凧資料として「6畳凧製作図」を別に掲載しました。

 講習会の日程は記録に残っていないのですが、凧作りで各公民館に製作指導として回ったような記憶があります。
また、糸目調整は内灘体育館で日曜日の午前の部と午後の部の2回実施した。この時、指導方法を巡り旭ヶ丘凧の会の中で仲間割れ状態になり、越中大門凧の会に事前に応援をお願いしてあったので、なんとか糸目調整の講習会を乗り切れた苦い思い出がある。これ以降、旭ヶ丘凧の会は解散することとなった。

 内灘町での「世界の凧の祭典」を実施でき、今まで継続出来たのは、講習会当日の「越中大門凧の会」のお力添えがあったことを忘れてはならないので記録として残しておきたい。

世界の凧の祭典が開催される
 平成4年(1992年)5月4日内灘町の文化会館で前夜祭が開催された。今までの「日本海凧揚げ大会」から「世界の凧の祭典」という全国大会になり大勢の参加者である。ホールはもとより1階ロビー、2階のロビーまでテーブル席が設営されていた。


 宿泊先の福祉会館では大広間にびっしりと布団が敷詰められ、まるで修学旅行の宿といった状況であった。後から聞いた話では、グループで参加した人達だけでなく個人参加者も大広間での宿泊であったようだ。また、宿舎は内灘町だけでは収容できずに金沢市にまで及んでいた。
 平成4年5月5日、大会当日は沢山の参加者とゴールデンウイークでもありギャラリーの数が半端ではなく主催者発表で5万人とのことであった。
 会場準備のため1週間以上前から、海岸清掃を始め、冬の風で出来た幾つもの砂山をショベルドーザーで地均し、駐車場の確保と凧揚げ場所の地均しと下方の準備も大変なものがあった。また、役場の職員の方は家族サービスもできず我々凧の仲間の凧揚げをお世話して頂き申し訳ない気持ちです。

 青森県や宮城県や、秋田県からも多くの参加があり、凧揚げが終了して「帰路も交通渋滞で大変であったが、来年も参加するよ」と何人もの凧友から電話を頂いた。こちらこそ感謝の一言であった。

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凧揚げに参加して頂いた方々へのおもてなしについて
 越中大門の凧の会のM氏曰く、「内灘は砂浜だけど、車を止めてすぐに凧揚げが出来る全国でも非常に立地条件がそろった良い場所であるが、連休の中、時間をかけ、金を使い、身体を使って凧揚げに来たのだから、存分に凧を揚げてもらうため、主催者は凧を揚げる良い場所を提供してあげなければ、来ていただいた人に申し訳がないのだ。
 自分もこれから他所に参加すると、凧が揚がれば帰り道は近く感じ、次回も参加しようとなる。揚がらなければ、こんな遠いところは二度と来ないとなるもんだ。」と教えられた。

 「時間をかけ、金を使い、身体を使って来たのだから、十分に凧揚げを満喫して帰っていただこう。」それが内灘の基本理念になっていきたいものだ。

門前町櫛比小学校での凧作り
平成4年11月20日 門前町櫛比小学校での大凧作り講習

 内灘砂丘凧の会に門前の小学校から凧作りの依頼があった。1畳の大凧を幾つか作りたい。竹は裏山にあるので準備できるとのこと。そして授業時間内で指導してほしいとの製作依頼であった。会員は皆、躊躇して参加の声を上げないので結果小生が講習に行くことになった。
 門前町までは有料道路の能登海浜道路を経由し、なお山道を抜けて海に出た場所にある。距離は約110㎞、約1時間30分の行程である。
 会社に有給休暇届を提出し、妻と2人で講習に出かけた。

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 小さな小学校で最初は凧の骨となる竹の削り方、紙の貼り方を指導した。
 今まで放課後に凧作りをしていたが、遅くなった日は子供たちにラーメンを食べさせて自宅まで送って行くことが何度かありましたと担当の先生から伺って、先生の熱の入れ方に感銘を受けました。また、竹の曲りを修正するとき小刀の切れ味が悪くなると、児童が自ら砥石で研いで使っているのを見ると、この子供たちの逞しさに感心していたら、「毎年授業で竹細工をしているので、小刀の扱いには慣れているのですよ」とのことだった。
 
 この日は凧の組み立てと、糸目調整まで完了し、30日に凧揚げをすることで帰宅した。


 11月30日凧揚げ会場となるのは、石川国体で使用したソフトボール場である。児童が作った大凧が4つと低学年の児童が作ったグニャグニャ凧が勢ぞろいし、順番に凧揚げを開始した。凧が揚がると皆が歓声を上げて喜び、私達も今までの苦労も報われたすがすがしい気持ちになった。特に子供たちに対する先生方の接し方、刃物や道具に対する指導等にはこちらが教えられた思いがする講習会であった。

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