平成3年 第13回日本国際凧揚げ大会を視察
翌年からは内灘町で国際大会を開催するとのことで静岡県清水市で毎年開催されていた「日本国際凧揚げ大会」を石川テレビと内灘町が視察することになり、平成4年が内 灘町制施工40周年の記念の年でもあり、凧揚げ行事を拡充させる意味もあったのだと思います。
小生は翌年の国際大会に向けて、各公民館に凧作りの指導を行って欲しい旨の内示を受けていたので、会場の雰囲気を知るために視察に同行させてもらった。
平成3年4月27日前夜祭会場の三保園ホテルに到着し、受付の様子を観察する。来場者の方々は知古の友人といったふうで実に和気藹々である。内灘でもこのような受け入れができるのか不安になる。
浴場で兵庫県の凧の会員の方が内灘闘争の時に警察官として内灘に派遣されていたと話され、凧には色々な職業の人がいるものだと感心することしきり。
前夜祭の挨拶が終わると同時にテーブルの周りの人達が料理に群がり、のんびり構えていた我々がテーブルに行くと料理は何一つ残されていなかった。凄まじいほどの食欲に驚かされた。岩本町長曰く「ゆっくりしていたから料理が残っていなかった」とこぼされた。内灘で開催する場合はもう少し料理を多くした方が良いと話されていたのが印象に残っている。
翌4月28日(日)三保海岸で開会式が行われ、各々が自慢の凧を飛翔させている。海岸は白砂青松で天女が衣を掛けたといわれる羽衣の松もある景勝地であり、霊峰富士の雄姿も眺められる絶好のロケーションである。大会の運営は「駿河凧の会」の会員の方が色々お世話をしている。
テントの中では子供の凧作り講習会を行っており、駿河凧の会会長ご夫妻が講習会のお世話をされていた。凧の下絵となるキャラクターのコピーを何種類も用意されていたので、内灘でも同様な手法で使用したいと お願いしたところ、快く下絵のコピーを何種類か頂くことができた。
この下絵が後日、子供の凧作りに活用し、今日に至るまで小生の講習会の原点になっているのである。
凧揚げ大会を開催する場合は、子供たちをいかに参加させるかと言うことで 子供が参加すると親や、祖父母が共に会場に来てくれるので、子供と一緒に凧作りをして、一緒に来た大人も凧揚げを楽しめるよう子供の講習会をしているとのことでした。 とても参考になることであった。
日本海内灘砂丘凧の会が発足
平成3年(1991年)7月27日(土)翌年の国際大会を控え、凧の活動を充実させる観点からも凧の会を発足させることになり、日本海凧揚げ大会の前夜祭を前に「日本海内灘砂丘凧の会」が発会した。
翌28日の北陸中日新聞の記事を転載します。
『内灘町の「日本海内灘砂丘凧の会」結成式は、このほど町文化会館で関係者多数が集まって開かれた。堀薫夫発起人代表の挨拶があり、会則を決め、新しい役員を選任した後、岩本秀雄町長がお祝いの言葉をのべた。
同町は、3年前町民夏祭りのイベントの一つとして「日本海凧揚げ大会」=石川テレビ放送、北陸中日新聞共催=をおこなった。これがなかなか好評で、いまでは、同まつりのメーン行事となっている。この大会をさらに盛り上げていこうと内灘町に初の「凧の会」を結成することにした。
第3回日本海凧揚げ大会に参加
平成3年(1991年)7月28日第3回日本海凧揚げ大会が内灘海水浴場横の特設会場にて開催され主催者発表では4千人の人出があったそうだ、旭ヶ丘公民館として昨年同様6畳の大凧と4畳の大凧で参加した。
この日は全国から多くの会員の方が参加されていたのですが、黒いいで立ちで凧を揚げているグループがあり、凧を揚げる時はラッパを吹聴して、とても勇ましく凧揚げに見入ってしまいました。それが浜松の凧のグループと分かったのは後のことでした。
内灘町に凧の会が発足したのであるが、大凧を製作しているのは小生の旭が丘の凧グループだけで、製作過程を把握しているのは小生以外にはいない状況なので、来年には国際大会を受け入れとなり、内灘町の各町会に大凧の製作指導を行わなければならない大役が待ち構えており、気持ちがなえそうになる思いであった
揚がらない凧の調整役
越中大門のM氏が小生を呼び一緒に会場内を歩き、凧がうまく揚がらない子供連れを見付け、手際よく凧を揚がるように調整している。
M氏は「これから凧揚げ大会をしていくためには子供とその親が凧揚げを楽しむよう、揚がらない凧を揚がるようにする人が必要だ。それを貴方がしなければ、凧揚げは長続きしないのだ」と教えられた。
それから会場内を揚がらない凧を探して巡回して、「アンニャ(貴方)ならこの凧をどう直す」、「右に回転するときは左の糸目を調整し」と何度も教えられた。「子供が時間をかけて作ったものが揚がらなかったら、二度と作らなくなる。それでも何とか揚がるように調整してやると子供は揚がった感触で、作った達成感を感じるものだ」と言われ、凧揚げ会場では揚がらない凧を見ると今でも、手を出したくなるのはその時の教えがあったからだと思っている。
また、自分たちが講習会をし、凧揚げをするときは全ての凧が揚がるようにするのが流儀でもあるのは、この時の教えがあったからだろう。
大凧製作の依頼が舞い込む
小松の商工会から大凧を作り、凧揚げをしたいとの協力依頼がきたが、他に指導するだけの力量もないので越中大門凧の会に相談すると協力して頂けることになり、小松からの依頼を受諾することにした。当時のことが書かれた新聞記事を転載する。
平成3年9月23日付け北国新聞より
『小松市の「明日の小松をデザインする会」は、22日、同市安宅海浜公園で、同会社主催の第1回大凧揚げ大会に出品する6畳の大凧の試し揚げを行い成功した。
骨組みは竹で、紙部分には雨などに強く建築材料で使われるタイベックスを使用した。かけはしウオーキングのシンボルマークのウオーキングシューズと虹(にじ)のイラストに加え、「夢 かけはし」のメッセージが入る。約1か月前から製作に取り掛かり、日本海内灘砂丘凧の会の協力を得ながら完成した。
明日の小松をデザインする会や日本海内灘砂丘凧の会会員十数名が協力してたこ揚げに挑戦し、苦心作は微風ながらも青空に高く舞い上がった。
10月6日は朝から雨で、それでも凧を広げて全員ずぶぬれになりながら凧揚げを行ったが、雨のため凧揚げは中止となった。