第一詩集。 102頁に25編を収める。装幀は、いつも軽快でそれでいて謎めいた絵を楽しませてくれる上田寛子。
「散歩」。ぐにゃりとした猫を抱いて散歩に出ると、いたる所に眼が落ちているのである。幾百という眼がざわついているのである。
池の中にも眼が浮いている
鳥の眼 犬の眼 とんぼの眼
ぐにゃりとした猫の眼を
まだ明けきれない朝の空をうつした池に
浮かして
話者は「私の眼はいつどこに/おけばいいのか」と問いかけながら散歩を終えるのだ。私(瀬崎)は、眼は持ち主だった者の記憶を映像として留めているのではないかと夢想している。人にはいつかは眼をどこかにおかなければならない日が来る。どこで記憶を振り捨てればいいのだろうか、と考えたりもする。
さて。この詩集に収められた作品はどれも何気ない口調で語られているのだが、その内容はどこか不気味なものを孕んでいる。それは他者を見つめる視線ばかりではなく、自己を見つめる場合にもそれが感じられる。さらに、対峙したものとの微妙な距離感があり、それを埋める皮肉なユーモア感がある。それによって耐えようとしているものが作者にはあるのかもしれない。
乳がんの検査に行って平田先生から気になる所見を伝えられる「南の島」でもそうだ。マンモグラフィの自分の乳房映像を「南の島の夜の航空写真のよう」などと思っているのだ。
もう一編、目が登場する作品を紹介しておく。「山里の家」。目刺しを焼いて義母と食べた夜、介護をするために長い廊下を走って行くと、「五匹の目刺しの十の目が点って」いたのだ。
帰りの廊下には
目刺しの目はなく
遠い日からの古い目が点っていました
まだ夫の目はありません
ここに並ぶには年季がいるようです
夫はどこでなにをしているのでしょうか
話者はこの家を出ていくことを考えている。そして誰もいなくなった家に、どこかへ行った夫の目が戻ってきてじっと点るのかもしれない。こうした怪異譚は必要としている人の所へやって来るのだろうか。
「散歩」。ぐにゃりとした猫を抱いて散歩に出ると、いたる所に眼が落ちているのである。幾百という眼がざわついているのである。
池の中にも眼が浮いている
鳥の眼 犬の眼 とんぼの眼
ぐにゃりとした猫の眼を
まだ明けきれない朝の空をうつした池に
浮かして
話者は「私の眼はいつどこに/おけばいいのか」と問いかけながら散歩を終えるのだ。私(瀬崎)は、眼は持ち主だった者の記憶を映像として留めているのではないかと夢想している。人にはいつかは眼をどこかにおかなければならない日が来る。どこで記憶を振り捨てればいいのだろうか、と考えたりもする。
さて。この詩集に収められた作品はどれも何気ない口調で語られているのだが、その内容はどこか不気味なものを孕んでいる。それは他者を見つめる視線ばかりではなく、自己を見つめる場合にもそれが感じられる。さらに、対峙したものとの微妙な距離感があり、それを埋める皮肉なユーモア感がある。それによって耐えようとしているものが作者にはあるのかもしれない。
乳がんの検査に行って平田先生から気になる所見を伝えられる「南の島」でもそうだ。マンモグラフィの自分の乳房映像を「南の島の夜の航空写真のよう」などと思っているのだ。
もう一編、目が登場する作品を紹介しておく。「山里の家」。目刺しを焼いて義母と食べた夜、介護をするために長い廊下を走って行くと、「五匹の目刺しの十の目が点って」いたのだ。
帰りの廊下には
目刺しの目はなく
遠い日からの古い目が点っていました
まだ夫の目はありません
ここに並ぶには年季がいるようです
夫はどこでなにをしているのでしょうか
話者はこの家を出ていくことを考えている。そして誰もいなくなった家に、どこかへ行った夫の目が戻ってきてじっと点るのかもしれない。こうした怪異譚は必要としている人の所へやって来るのだろうか。