瀬崎祐の本棚

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詩集「遠景」 井戸川射子 (2022/06) 思潮社

2022-07-16 21:10:21 | 詩集
第2詩集。93頁に24編を収める。

親しみやすそうな口ぶりなのだが、実は容易には打ち明けてくれない秘密も抱えている、そんな雰囲気が漂う。つい騙されそうになる。そんな言葉感覚に魅せられる。

「水島」は、無人島の海水浴所の光景を描いている。まだ体が「ぐにゃぐにゃ」のあなたを岩場に置いて泳いでいる。

   海はにおいが強く
   どちらかといえば不快だった
   浮いているだけで
   ずっと楽しいというわけにはいかず
   岩で掠った傷から
   出てきた血を温かい海に溶かした

泳いできたわたしたちは赤い肌になり、「あなたもずいぶん/赤くなっていた」のだ。楽しいはずの家族行楽の思い出のひとこまでありながら、なぜか、わたしたちもあなたも顔を失っているような感触がある。

「あなたはまだ若い、知らない」では、砂漠で「たくさんの親子が/地面に潜っている」のだ。退屈した子どもたちが出ようとすると、親は「こんな子で、と言い訳」をしたりする。砂に埋まっている家族は、見えない砂の中で必死に何かを探していたのだろうか。家族であるために必要なものがそこに隠されているのだろうか。のどかなものと切羽詰まったものがせめぎ合っている。

詩集タイトルになっている遠景という作品はないのだが、その言葉はいくつかの作品にあらわれていた。「大きくなれば遠景にも配慮ができる」(「どれも潮のにおいを帯びて」)、「あちらは光る遠景」(「武庫川」)など。遠景は、話者が今のこの場所を確認するために必要な醒めた光景なのかもしれない。

「育ち喜ぶ草」では、わたしはフェンスに巻きつく草をこまめに取り除いている。草に「連なって滝みたい、と褒めると/そうやって何かに喩えるのはやめて/と強い声を出され」たりもするのだ。

   みんなも何かと見比べるために、
   わたしを見つめてはいない?
   と振り返ると草は静まり
   わたしの説明の手は行き場を失い
   そのまま細い草を
   引きちぎる動作をした

どの作品においても言葉の連なる位置をすこし斜めにずらせて、新しい風景が見えることを企んでいるようだ。
コメント
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