126頁に43編を収める。
素直な言葉で等身大の世界が描かれているようで、読む者はその描かれた世界を疑うこともなく受け取ることができる。語られる事柄は、母の死であったり、小児麻痺で知能の発達が止まったままの姉の闘病であったりする。作品は、そのような辛い事柄を生身の状態で差し出してくる。
そこには「お喋りしているわたしたちの背後で/死はひっそり待っている/熟れた実が木から落ちるのを」(「ある日の会話」最終連)と言ってしまうだけの強さもあるのだろう。
しかし、それはやはり辛いことだ。
やがて 夜が明ける
ふたたび今日がやって来て戸を叩く
わたしは石棺の陰に潜んで
新しい今日が弾んだ声で
庭を掃き 食器を洗えばいいのよ
と囁くのを聞く
(「今日」最終連)
辛い事柄を必死に日常へ取り込み埋没させることでやり過ごそうとしているようだ。
4章には、自分を表すことのできない姉が不治の病に罹り最期を迎える様を、それを看取る話者の気持ちを絡めながら、散文形で描く。他者の感想などは不要のせかいがそこにはある。
素直な言葉で等身大の世界が描かれているようで、読む者はその描かれた世界を疑うこともなく受け取ることができる。語られる事柄は、母の死であったり、小児麻痺で知能の発達が止まったままの姉の闘病であったりする。作品は、そのような辛い事柄を生身の状態で差し出してくる。
そこには「お喋りしているわたしたちの背後で/死はひっそり待っている/熟れた実が木から落ちるのを」(「ある日の会話」最終連)と言ってしまうだけの強さもあるのだろう。
しかし、それはやはり辛いことだ。
やがて 夜が明ける
ふたたび今日がやって来て戸を叩く
わたしは石棺の陰に潜んで
新しい今日が弾んだ声で
庭を掃き 食器を洗えばいいのよ
と囁くのを聞く
(「今日」最終連)
辛い事柄を必死に日常へ取り込み埋没させることでやり過ごそうとしているようだ。
4章には、自分を表すことのできない姉が不治の病に罹り最期を迎える様を、それを看取る話者の気持ちを絡めながら、散文形で描く。他者の感想などは不要のせかいがそこにはある。